あれから10年経ちました。 続・使徒に憑かれた三号機の中のアスカを助けに言ったら僕がヴンダーの艦長になった件について 作:モーター戦車
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EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype
EPISODE:1 The Blazer
Epilogue Bpart
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式波・アスカ・ラングレーAAAヴンダー副長は、通常艦橋の副長席コンソールのメインモニタ上を流れる3Dホログラム動画を、片肘をつきつつぼんやりと眺めていた。
(ぱっと見はこちらのワンサイドゲーム。『轟天』使用は問題だし、派手に動かした結果、ずさんな改装で出たボロがざっと120箇所以上も出たけど、それは映像には出ない。ま、あとはヴィレ本部がなんとかするでしょ)
ヴンダー各センサー、VTOL各機ガンカメラ、エヴァ弐号機、八号機各センサーが記録した動画データや、各種センサーのリアルタイム情報記録の閲覧が終わった。
動画ウィンドウ脇の『AAAヴンダー オアフ島沖防空戦に於ける戦闘詳報』と名称が記された情報ファイルを指先でダブルタップして開き、一連の戦闘経緯についての報告、交戦した敵戦力および使用された敵兵器についての、ヴンダー各種センサーが捉えた各種計測データの書類情報にざっと目を通す。
最後に、新冷線砲発砲後に発生した現象について、艦長及び彼女自身、そして技術班長である赤木リツコ、それぞれの推論の文書データを添付し、その最終確認を終え、シートに座ったまま手を組んで頭上に伸ばしつつ、掌ごと上半身を上に伸ばして軽く体を左右にひねり、長時間座っている事によって身体に生じたコリをほぐした。
そして、通信士席で、彼女と同じ戦闘詳報ファイルを査読していた赤木リツコ博士の方を振り返る。
「どうリツコ? 内容的には問題ないと思うけれど」
「真空崩壊が発生した以上、新冷線砲が太陽系、ひいては銀河系をも崩壊させる破局の引き金を引いたことは紛れもない事実。
けれど、本来宇宙全体を相転移させるまで拡大を続けるはずの事象は、突如として終息してしまった。過去に類例のない、つまりはアダム由来でもリリス由来でもないタイプのATフィールド波帯の発生および時空歪曲も確認されている。
つまりは貴女たちの言うところの、ボルツマン・エフェクト仮説通りの結果となった以上、新冷線砲の使用と世界の破局はイコールにはならない。むしろ、既に建造・就役が完了しているであろうネルフのNHG級空中戦艦、アダムスの器たちに対抗しうるヴンダーの数少ない切り札たりうるとすら言えるわね」
ブラックのままのアイスコーヒーをストローで飲みながら、赤木リツコがモニタに目を落としたまま頷いた。笑みこそ浮かべているが、その表情には別の感情が複雑に入り混じっている。
ボルツマン・エフェクトとは、現状AAAヴンダー艦長である碇シンジと副長である式波・アスカ・ラングレーが唱えているリビドー・デストルドー余剰次元仮説に基づいた空間効果を指す。
これは、ビッグバン以来拡大を続けてきた宇宙そのものが、一個の生命であるという彼らの仮説に基づいたものだ。
宇宙の大規模構造である銀河フィラメントが、一種の神経回路として、「重力」「電磁気力(電磁力)」「強い力」「弱い力」の4つの基本的法則に基づいて機能することで、宇宙という生命体は活動している。
故に、宇宙および宇宙を構成する物質自体がATフィールドを保有し、宇宙生成および物体形成にこのATフィールドもまた強い作用をしているというものである。
先の新冷線砲発砲により発生したタキオン場とその凝集によって発生した『真の真空』は本来真空崩壊と呼ばれる、世界構造そのものを成り立たせているDブレーンの崩壊を引き起こし、それはよりエネルギー状態の低い真空状態への不可逆的相転移を引き起こし続けるはずであった。
しかし発生した真空崩壊は、拡大途中でまるで何かに押しつぶされるようにして拡大中途で消滅を遂げ、その際に未知の波体を有するATフィールドの反応をヴンダーのセンサーが捉えていた。
現象としては、意志ある生命しか持たないはずのATフィールドを空間そのものが発生させ、光速で拡大する真空崩壊の泡を抑え込み、ATフィールドによって縮退させ、押しつぶしたとしか説明できない事象だった。
これは艦長及び副長の唱えるリビドー・デストルドー余剰次元仮説を裏付けるものであった。
真空崩壊等、現在の宇宙の安定状態を崩壊に至らしめる要因への生命的防衛反応の発生を彼らはボルツマン・エフェクトと命名し、その発生を予言していたが、はからずもその予言が的中した形となる。
「とはいえ、ボルツマンエフェクトがどれほどのタキオン凝集を抑え込めるかは依然として未知のまま。破局に至りうる可能性を孕んだ兵器の引き金を引いた事実には変わりない。イズモ派閥残党に、ヤマト派閥暴走をアピールする格好の材料を与えたことに変わりはないわ。
当分はオアフ島防空戦については極秘にしたいところだけれど、退艦を希望した100名の中にイズモ派閥の内偵者が紛れていたのは確実。どう工作しようと情報が漏れると考えるのが妥当ね。
それに『轟天』は書類上存在しないはずの兵装、極秘裏に行われた第三次改装の産物。ミサト、当分胃が痛い思いをするんじゃないかしらね」
『それ、本人に通信が繋がってる状態で言う?』
ヴンダー艦橋正面上部大スクリーンに、長い黒髪の、40前とは思えない程に若々しい、顔立ちの整った美人が大写しとなった。顔を引き攣らせつつ、ジト目で式波副長とリツコを睨んでいる。とはいえ、片頬が引き攣りながらもかろうじて笑みを形作っているあたり、人類世界保障連合ヴィレ総司令、葛城ミサトは相当に複雑な心境であるようだった。
『44A300機以上撃墜、敵新型空間魚雷を鎧袖一触。
本来なら士気高揚目的で戦勝報道の一つもして戦果を喧伝したいところだけれど、そのために例の衝角を使ったのは洒落じゃすまないのよね。
オアフ島が潰滅するかも知れないので、しかたないから太陽系全部ふっとばしてお釣りどころか宇宙破滅の可能性があるシロモノぶっ放しました、よ?』
葛城ミサトの言葉に、式波・アスカ・ラングレーは眉をひそめる。
「撃たなかったらAAAヴンダー及びエヴァ2機喪失。あの状況で撃たなければ、戦略的敗北は必定の状況よね。だから私は艦長の決断を支持したし、ミサトの名代のリツコも承認した。それでも文句あるわけ?」
そんなアスカの言葉に、ミサトは応じるように渋面を消し、微笑んだ。
『いいえ、ただの家族への愚痴よ。面倒な仕事が増えたわねって。
もし私が艦長だったとしても撃ってたわ。
人類の未来、守ってくれてありがとう、アスカ。いつも面倒かけるわね』
ミサトの頬にほほえみと、声音に10年前の親しみが戻っていることに、アスカは内心安堵を覚える。アスカもまた微笑を浮かべた
「どういたしまして。こっちこそ、いつも尻拭いまかせちゃって、ごめん。
やれ『疫病神』だのなんだの陰口叩かれてる身の上で、艦長だの副長だのやれてるのはミサトのおかげだものね。感謝してる。ツカサくん、元気にしてる?」
ツカサとは、葛城ミサトの子供の名前だった。
加持ツカサ。第二次ニア・サードインパクト後に生まれた子供であり、父親は現クレーディト長官加持リョウジ。アスカの記憶が確かならば、今年で9才のはずだった。
なお命名にあたっては苦労があり、葛城ミサトと加持リョウジは当初息子に『シンジ』とつけると言って聞かず、碇シンジとアスカの二人で必死に説得して名前を変えさせたという経緯がある。
何しろ三号機事件で第一次ニア・サードインパクトを起こし、第二次ニア・サードインパクトへの道を開いた疫病神と認識されている人物の名前なのだ。
将来そのことで苛められる、艦長と同じ名前は紛らわしい、等理由を並べ3日がかりで説得、シンジのジを漢字とすると「司」となり、ツカサと読めることから、その名で渋々ミサトたちが妥協することとなったという経緯がある。
『元気も元気、元気すぎて苦労してるわよ。勉強しなさいって言っても訓練のほうが大事とかいって射撃練習場に行ったり、最近言うこと聞いてくれないのよねえー。ペンペン二世とは仲がいいんだけど、仲良すぎて散らかし魔だし……』
先程までの笑顔はどこへやら、またもやミサトは困惑と疲弊の渋面を浮かべる。そんなミサトの様子を見つめながら、リツコがどこか面白げな様子で言う。
「ツカサくん、もう9才だったわね。少し早い第二次反抗期といったところかしら。親がヴィレ総司令だから、色々とツカサくんなりに思うところがあるのかもね。身体の発育の早さに心がついていかなくて、色々乱れがちな時期なのよ。リョウちゃんは?」
「加持?」
ミサトの渋面に、さらに怒りの成分が添加された。口調が明らかに早口になる。
『あいつったら、下部組織のクレーディト長官なのいいことに現場出放題で、育児私に任せっきりじゃない?
で、たまに帰ってくるとツカサのこと甘やかすもんだから、たまに来て小遣い上げて子供甘やかす親戚みたいなヤツ? おかげですっかり父親のほうに懐いちゃって……あいつそういうの要領いいのよねぇ、こっちだって忙しいのに母親兼任してるんだから、あいつももっと育児に参加しろってーの、ほんっと加持のやつ……』
「リョウちゃんらしいやり方よね。昔父親と何があったか知らないけれど、たぶん自分の父親とは違うスタンスで父親をやりたいのね、リョウちゃん。まあ、仲が悪いよりはいいと思って、諦めるしか無いんじゃない? それに彼、多忙だもの」
リツコの言葉に、ミサトが怒りで顔を真赤にした。
『多忙なのは私も一緒だってーの! 億単位の人間の各生存圏代表者の愚痴聞いて、ただでさえ不足気味の物資をどうにかこうにか分配して、それでも足りないってヘイト買って、やれ生産がどうだ資源残量がどうだ封印柱在庫がどうだで毎日陳情書類の山山山、やってらんないわよ!』
(うわー、仕事のストレスに育児ストレスが両方爆発寸前かしらねこれ……)
ミサトの語気に思わずアスカは眉を潜めた。片頬がひきつる自分を自覚する。
元々が前線肌の実務家タイプの女性だ。それが、政治家として立ち振舞い、慣れもしない派閥間の角逐の仲裁、彼女と敵対する派閥との暗闘、残存人類への本音とかけ離れた内容の演説を以ての鼓舞等々、およそ彼女が好まない仕事ばかりやらされている。
その上、目下、9年前に生まれた子供の育児に悪戦苦闘で、彼女の亭主である加持リョウジは仕事を理由に家を離れがちとなれば、ストレスという爆薬を内部に溜め込むだけ溜め込んだ爆弾と成り果てていてもおかしくは無いのかも知れない。
そんなアスカの表情に気づいたのか、慌ててミサトが笑顔を取り繕った。カメラに向かってか、違う違うと言わんばかりに両手を振る。
『まあ母親なのいいことに、総司令だっていうのにそこそこ定時退勤させてもらってるから、そういう意味ではマシはマシなのよ?
総司令って言っても、実際のとこ決裁と責任取りが主要な仕事だし、ツカサとの時間も取れてるから、アスカは心配しないで。立場が立場だから、食事にも困らないで済んでるし、子連れ出勤制度もあったから、まだツカサが幼くて目が離せない時期は一緒にいてあげられたし。
時代を思えば、贅沢な立場なのも確かだから、あんまり文句も言えないわよねー」
(愚痴を言うのは一種の甘えと分かった上で、言う程度には生活にもメンタルにも余裕があるか。それなら大丈夫かしらね、ミサト)
ミサトの表情と態度からそれを気取り、アスカは少し安心を覚えた。
(母親やってくれるっていうわたしたちとの約束、今も守ってくれてるんだ。良かった)
内心でそう呟きつつ、ふと気になったことをアスカは問うた。
「そういえば、ペンペン二世、急に調子崩したりしてない? 回してもらった凍結細胞ベースに再調整して生まれたクローン体だし、もし変調があるようなら──」
『大丈夫大丈夫、ツカサと仲がいいって言ったでしょう? 元気そのものよ。
──本当にありがとう。あの時は、余計な気遣いなんてしなくていいって言っちゃって、悪かったわね。わかってないのは、私の方だった。
ペンペン、ずっとあなた達やツカサと楽しそうに過ごしてたけど、実はあの子もずっと孤独だったってことに、私、気づいてなかった。
当然よね。あの子はペンギンで、わたしたちは人間。仲良くできても、同族ではないもの。きっと番いがずっと欲しかったし、ずっと子供も欲しかった』
懐かしげに、そして哀しげに、葛城ミサトは目を細めた。
『ペンギンって、愛情深い生き物だったのね。知らなかった。種によっては、子供を喪ったとき、その喪失に耐えられなくて、他のペンギンの子供を奪おうとするって話、聞かされて驚いたわ。
──ペンペンも、そうだった。ヴンダーから送られてきた、まだ親の顔を見たこともない、あなた達が胚から培養した雛──ペンペン二世を見た時、見たことのない歓び方をしたし、わたしたちが餌を与えるのを拒んで、自分が食べた餌を直接ペンペン二世に与えもした。親のペンギンが食べて消化したものでないと、雛のペンギンはお腹が受け付けないのよね。
元々は実験体で、ペンペンも親に育てられたことなんてなくて、同族を見たわけでもなければ、長らく飼育されて処分される寸前だった子。なのに、本能なのかしらね、同族の雛の育て方を、ちゃんとあの子は知っていた』
ミサトがどこか遠くを見るような目で、何かを懐かしむような表情を浮かべた。自嘲のような、悲しみのような笑みが、その頬に浮かぶ。
『ペンギンの多くは愛情深い生物で、多くが妻と長く添い遂げる、なんて話も加持から聞かされたわ。ずっと一緒にいたのに、そんなことにも気づいてあげられなかった。
わかったつもりで何も分かってなかった。
あなた達がそのことを知って、ペンペンに子供が必要なんじゃないか、なんて提案にも、そんな時代じゃないって、頭ごなしに拒否さえした。切羽詰まってたとはいえ、嫌になるわよね。
でも、あの子がペンペン二世に与えた素直な愛情が、私に親として子供にどう接すればいいか、教えてくれた。私みたいな女が、親をやれるか、不安で仕方なかった。
でも、あの子は、老いて死ぬ前に、ただ素直に子供を愛して、尽くして、それで子供が育つことが幸せで、嬉しいって言うことを教えてくれた。だから、ツカサの親をやれてる。やれてるんだと思う』
「ミサトは昔から、親をやれてたわよ。処分される定めだったペンペンを助けもしたし、わたしたちのことを放っておくこともできなかった。シンジと私にとって、まともな人生と言えるものって、第3新東京市で、ミサトの家で暮らしてたときだけよ」
アスカは過去を振り返る。
選ばれず、捨てられ、居なくなることを恐れなくていい毎日。
昨日と変わらない今日、今日と変わらないだろう明日が来ることを無邪気に信じられていたあの頃。
自分の恋心に無自覚で、その感情の意味にも気づかないまま苛立って、苛立ち任せにどんくさいやつと彼のことを罵っていた。
そんな幸せな日々はもう終わってしまった。けれど、それは残照として胸の中に残っていて、その暖かさは胸の中に残っているし、そしてその暖かさは今も生きているし、それで分かることもあれば、行動できることもある。だから、終わってしまったとしても、それはきっと絶望ではないのだと、今は素直に思うことができた。
笑みこそすれ、目から哀しみの気配が失せない葛城ミサトに、アスカは微笑みながら言う。
「自信持って。ミサトのおかげでペンペンは幸せに生きて、きっと幸せに寿命を終えられた。ツカサ君もそう感じてた。あの子はペンペンと生まれたときから一緒に過ごしてた。こういう時代だから、彼にとってペンペンは最初の、そして貴重な友達だった。
私、あの日、彼から聞いたの。通信ごしだけどね。
ペンペンの死を看取った時、それがただの喪失じゃなくて、ペンペンに子供を託されたんだって思えたって、今度は僕が守る番だって言えたのも、ミサトが最初にペンペンを死の定めから救ったから。そしてミサトに人間としての生き方を教えてもらえた私が、友達を助けるためクローンの研究を始めた。その研究が、ペンペン二世を生んだ。それが今に繋がっている。因果は回る糸車、縁なのよ」
ミサトに同居を命令されてから、一緒に暮らしたのは半年程度だったろうか。たったそれだけの時間が、今も胸で温かいから、戦えているという実感が、アスカにはあった。自分が壊れずに、自分を人間もどきだと、人形だと見限らずに済んでいるのは、あの日々が私の心を致命的な破断から護ってくれているからなのだと、信じられる。
アスカは言葉を続けた。
「だから、大丈夫。ミサトの仕事や、わたしたちの戦いも、そういう形で沢山の人達を助けられている。ミサトの頑張りが、多分ミサトが知らないうちに、そういう思いをたくさん汲み上げて、救い上げることができている。だから、私達はミサトに人類を託したし、ツカサくんの──生き延びた人類の、親をやってほしかったし、親をやれてる。大変かもしれないけれど、それは多分、誇っていいやつ。誇ってほしいわよ。私だって、救われた口なんだから」
その言葉に、モニタの向こう側で葛城ミサトは微笑んだ。
『ありがとう。そして、ごめんね。もう10年も経つのに、私はあなた達をその船に閉じ込めてしまっている』
「しょうがないわよ。第9の使徒はトリガーとして贄にされたとはいえ、その情報は幽霊のように、私とシンジの脳に刻まれているもの。ユーロネルフのエヴァ弐号機の改装プランにも、使徒の血を機体に流し込み、弐号機を強制的に使徒化するものがあった。
つまり私もシンジも、やりようによってはインパクトのトリガーとして運用可能ということ。それに、最初のニアサードの引き金を引いたのが私達なのは事実だし、恨んでる連中も多い。全部片付くまでは、ヴンダーの中のほうが安全だもの」
さらに言葉を続けようとするアスカの言葉に、不意に赤木リツコの冷えた言葉が割り込んだ。
「──そうね。今の人類がどうにかなる前に片付けば、だけど」
『どういう意味?』
ミサトが、その言葉に怪訝そうな表情を浮かべた。アスカが目を伏せる。リツコは、義務的な、冷静かつ冷徹な表情のまま、ミサトの疑問に答える。
「戦闘艦橋のシンクロ運用時の脳波データを確認したの。私が艦橋側で計測したデータと、医療科で鈴原サクラ少尉が計測したデータを照合したのだけれど、シンクロ率上限を最低限に絞ったにも関わらず、多摩ヒデキ少尉以外は異様に高いシンクロ効率を示した。
特に、北上ミドリ少尉は異常ね。本人は黙して語らないけれど、相手が言葉を発するより先に、艦長や他の脳波と彼女の脳波が信じがたいほどに同調していた」
リツコの言葉に、ミサトが表情を陰らせた。彼女自身、察するものがあるのだろう。しかし、構うことなくリツコは続けた。
「N2セイリング中に至っては、言葉を発してこそいないものの、やはり艦長の脳波と異常な同調状態を示していた。艦長は、母親由来の因子を持って生まれた『仕組まれた子供』よ。だからこそエヴァとシンクロできた。彼女のそれはエヴァの稼働域にこそ達していないにせよ、恐らくは艦長と対話できるほどのシンクロを達成したと推定される──渚カヲル前ネルフ司令が残した言葉と符合すると見て良さそうね。私達人類が歩む2つの定め、そのいずれかに向けて、世界は急速に収束しつつある」
リツコの言葉に、アスカが頷く。
「カヲル野郎、言ってたわね。
知恵の実を食した人類に神が与えた選択は二つ。生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅し、その地位を奪い、知恵を失い、永遠に存在し続ける神の子と化すか──生体組織の置換。知恵の実を持つ脆い肉が、完全ではないとは言え、サードインパクトの発動によって僅かずつだけれど生命の実の肉に置換されつつある、か。
私達と同じ。全てのリリンがリリンもどきを経て『生命の実』の生命へと置き換わりつつある。L結界内部における、リリンの形象崩壊およびコア化は、その劇症の置換に過ぎないのよね、多分。封印柱内部にあってなお、一度サードインパクトの余波を浴びた以上は、私達エヴァパイロットほどではないにせよ、段階的に知恵の実由来の細胞の、死を前提とした新陳代謝による脆い生体活動ではなく、コアとコア組織を由来とした生体活動に置き換わってゆくことになる」
成長と変化を止め、マギプラスと思考調節を用いない限り眠ることすら叶わない、呪われた我が身を思いながら、アスカは言葉を続けた。
「そして、脳の可塑性と思考は、脳細胞のタンパク質構造を用いたアナログ式制御と、脳神経回路を走る電流によるハイブリッド式、シナプスの可塑性と生体活動由来である以上、その新陳代謝が思考活動の重要な因子となる。
完全に脳組織がコア及びコア由来物質に置換された場合、リリス由来──新陳代謝による思考活動はおそらく完全に停止するわ。
つまりは新たな使徒として、思考する能力を失い、寿命を迎えた太陽が巨星化し地球を焼き尽くすまで、この惑星をさまよい続けることになる。ゾンビみたいにね。
アヤナミシリーズやシキナミシリーズがエヴァとシンクロできるのは、サードインパクト以前の段階から『生命の実』の因子を体内に持つよう設計されていたから。だから、リリスやアダムス由来の意思無き生命、エヴァと思考を同調させ、我が身のように操ることができるわけで。
そして、今回上限を最低限まで絞ったにも関わらず、本来それらの『生命の実』の因子を持たないはずのリリンであるブリッジクルーが、異様なシンクロ効率と意思同調数値をはじき出した以上、その進展が、私達の想定よりも加速している、と考えて良さそうね。
滅びの子と定められ、栄光の王国に棲むことを許されず、太陽に灼かれるまで、あるいは灼かれてもなおこの世界の辺獄をさまよい続けることを定められた生命に成り果てる。ドーン・オブ・ザ・デッド。知恵の死はヒトとしての死に等しいものね。なるほど、カヲル野郎が『絶望のシナリオ』というわけだ」
アスカの言葉に、リツコが頷く。
「ええ、そういう意味ではもうゲームは負けたと言ってもいいのかも知れないわね。10年前のニアサードで、リリスとの盟約が限定的とは言え達成されてしまった。ならば、遅かれ早かれ私達は知恵なき獣と成り果てる。遅くて10年、いえ、今回のブリッジクルーのシンクロ数値を参照する限り、5年かも知れない。それはあくまでも現状維持が前提で、ネルフの行動如何によっては、加速することも充分考えられるわ」
リツコとアスカの言葉を聞いた葛城ミサトの眼光が、鋭さを取り戻した。
諦め絶望するという言葉は、彼女の胸の辞書にはないことを、式波・アスカ・ラングレーはよく知っている。
『負ける確率だけを語っても仕方ないわよ。勝率が1%未満としても、確率を上げる努力を死にものぐるいでしなければ、奇跡は起きない。可能性は?』
「ゼロではないわね」
リツコが頷く。
「綾波家。アヤナミシリーズおよびシキナミシリーズ量産前から存在した、エヴァとシンクロできる、生命の実の因子を宿した一族。
L結界内部を探索し、綾波家の伝承を書き残した古文書を収集し、調査を行ったレイの報告が正しければ、450年以上前、イエズス会来日とともに訪れた修道女が、綾波家の直接の祖先。
その後の豊臣政権・江戸幕府・明治政府初期のキリスト教弾圧から隠れながら現代まで血統をつないできた。まずゼーレの仕込みとみて間違いないわね。
『約束の日』、彼らの想定する神へのレジスタンスたる人類補完計画のため、彼らが長い年月をかけて用意してきた、供犠としての一族。その子孫が綾波ユイであり、そして彼女の息子である碇シンジ艦長。
重要なのは、綾波家の人間は、生命の実の因子持ちであるにも関わらず、寿命があったこと。それがゼーレの仕組んだことであるにせよ、生命の実の因子に侵食されることなく、知恵の実の因子と共存しながら、人間としての生態を保った。けれど、もうサンプルは残っていない。
碇ユイはダイレクトエントリー実験で初号機コア内部にて消失。分家筋の大井レイは、第二次ニアサードインパクトで贄として使われてしまった。ゼーレが大筋の計画に従い、彼らの望まない形で旧人類が生き残るのを防ぐため消費しつくした、と見るのが妥当かしらね。補完の未来に人類を収束させ、人類を肉体の枷から解き放つため」
リツコの言葉に、アスカは苦り切った表情を浮かべた。14才の頃でであれば、悪態とともに唾を吐き捨てる程度のことはしたかもしれない。
「この世界の本質は悪であり、悪である物質に支配されるがゆえに善なる魂は物質の悪に汚染され悪に染まる。故に人は脆い肉の檻から開放され、純粋な精神として真善の世界、イデアへとたどり着かねばならない、ってとこ? 思うのは勝手だけれど、他人まで巻き込まないでほしいわね。ま、生命の実の存在である使徒という競合存在と、使徒への勝利が人の精神の死と宿命づけられているが故に、絶望してトチ狂ったのかも知れないけれど」
『いずれにせよ、綾波家筋を当たるのは難しい状況ね。二度に渡るニアサードで、9割以上の人類が失われてしまった時、仮に他の分家が存在したとしても家が絶えている可能性が高い。それに生きていたとしても、インパクトによって生命の実の因子が不活化され、もはやサンプルとして用をなさなくなっている、か。真希波・マリ・イラストリアスは、例外過ぎてサンプルとは成し難い。厳しいわね』
顔の険しさを増したミサトに、リツコが応える。
「ただ、レイは足掻いているわね。少なくとも、捕虜にしたアヤナミシリーズの生体調整によって、知恵の実の生命としての旧生命の延命をあの子は考えている。実際、あの子が手掛けたアヤナミシリーズは低圧L結界環境にも、封印柱内環境にも適合し、本来の設計を遥かに超えて稼働し続けているし、成果ゼロでもないわね。もしもっと彼女に協力する科学者や、相応の予算、設備があれば、タイムリミットに間に合ったかも知れない」
『レイの成果は確かなものだけれど、人類数の絶望的減少の結果、研究者が致命的に減少し、結果として研究速度が鈍化、おそらくタイムリミットに間に合わない、か。キツイわね』
「そうね。正直デッドエンドと言っていい状況よ、私達」
俯くリツコをアスカは見つめる。そして、口を開いた。
「でも、シンジは諦めてないわよ」
アスカの言葉に、リツコが頭を振る。
「彼のそれは妄執よ。第二次ニアサードでリリス結界が発生した以上、大井レイは人の供犠としてカシウスにより消失したと断定できる。その犠牲が私達を生かしている、ということを認めたら、彼自身が動けなくなるだけだから、まだ助けられると信じる。その自己欺瞞によって、どうにか自分を稼働させている。
一種の発狂と言ってもいいかも知れないわね。本来なら艦長から更迭したほうがいいのかも知れないけれど、彼の能力の優秀さは折り紙付きで、恐らく代替は効かないわ。先の防空戦でも、彼が艦長を務めていなければ、私達は敗北していた」
俯いたリツコの表情は、複雑そのものと言ってよかった。碇シンジが彼女にとり良き弟子であることは事実であり、また学んだことの応用力も極めて高い。今回の爆雷戦一つとっても、師であるリツコの教えがなければ、着想に至らなかったことは疑いない。彼女にとり、疑いなく彼は愛弟子なのだ。
しかしリアリストでもある赤木リツコにとり、碇シンジの大井レイへの妄執は、危険なものとしか思われないのだろう。それは、彼の父親である、碇ゲンドウの碇ユイへの執着に近似しているように見える。
けれど、とアスカは思うのだ。
「単なる妄執じゃない。アイツには多分、アイツなりの根拠がある。
アイツが心のなかに、私には見えないブラックボックス──心が繋がった存在に対してすら見通すことの敵わない、おそらくはアイツ自身にすらも見えるかどうかわからない一種の思考と記憶の暗黒領域を作って長いけれど、それは断言できる。
それにアイツは碇ゲンドウとは違うわよ。AAAヴンダーの運用、私達だけでも良かったのに、旧ネルフ司令部のみんなを受け容れ、そして今度は500人の新人を受け容れた。
あいつも私も、ネルフにとっては最重要ターゲット。状態が状態だから扱いづらいとは言え、第9の使徒の因子を持っている」
リツコと画面向こうのミサトを見据えながら、アスカは静かに言葉を続けた。
「向こうがどのシナリオを使うにせよ、最後の儀式のトリガーとして私かシンジを使う可能性は否定できない。予防措置はしているけれど、それを使えば私達を用いたヴンダー運用は不可能になる。他の誰かが、ヴンダーを動かさなければならない。自分が居なくなっても、誰かに自分の夢を引き継いでほしい。それがどういう形であれ。アイツはそういう覚悟を決めた。だから、他人をヴンダーに引き入れた。彼らを、自分の後継者たりうる人びとを育てる覚悟を決めた。
私達に子供を作ることは許されない。リリンもどきの段階をとうに越えた使徒もどきの番が交配して子孫を作った場合、何が生まれるかわかったものじゃない。
それ自体が旧生命を滅ぼす新生命となる可能性もある」
一瞬、アスカは目を閉じた。それを強いられた現実に逆上し、全てを呪った10年前を思う。遠い昔のようであり、けれどその悲しさは今も胸に強く焼き付いている。
それは彼も同じで、だからこそ、ということが、アスカには誰よりも分かっていた。
「だから、子供の代わりに、技術と知恵を残すことに決めた。かれらがそれをどう使うにせよ、自分の想いと意思の形を残し、ヒトが生き残る可能性を少しでも上げたいと考えた。そういう決意よ。ジーン(遺伝子)で子孫を残すことが許されないなら、せめてミーム(意伝子)をヒトに残すという覚悟じゃないの。
大井さんへの拘りは、その一つの現れでしかない。
可能性がある限り、あいつはその全てを追求し、ゼロを観測するまで諦めない。そしてあいつは彼女の生還確率はゼロだと思っていないから、諦めてない。奇跡を信じず奇跡へ至る努力を諦めたものには、決して奇跡は起こらない。ミサトが教えたことよねこれ。
それに、二人共知ってるでしょ。アイツ、こうと決めたらてこでも譲らない頑固者だもの。そしてその頑固さが意思の強さとなり、10年を戦い抜く原動力となり、その御蔭でいまも人類は生き延び続けている。誰がどう思おうが構わないけれど、私はシンジのその意志に賭ける」
『10年添い遂げた女の言うことだけあるわね、アスカ。
自分に隠し事してるのが丸見えなのに、それでも相手を信じられるんだもの。
──本当に、大人になったのね、あなた達』
苦笑するミサトの言葉に、アスカも笑みを返す。
「10年の腐れ縁で、ずっと同じヴンダーにいたんだもの。お互い外にも出られない。散々喧嘩もしたし、怒りを通り越して憎んだこともあった。
とても沢山の喜怒哀楽をアイツと交わした。
だから、信じると言うか、アイツのことは私が一番理解してるのよ。アイツが諦めないのなら、私も諦めない。それだけ」
「好きなのね、彼のことが」
少しだけ笑みを浮かべたリツコの言葉に、しかしアスカは頭を振った。
「わからないわ。あんまり長いこと一緒に居て、お互い居て当たり前、みたいになってしまってて、お互いに必要でそうしてるのか、頭が繋がってるからやむなくそうしてるのかも、もうわからなくなっちゃった。
アイツ、八方美人だし、ま、私には勿体ないくらいいいやつだし。
だから、全部終わったら、自由にしてあげたいわよ。私はまあ、籠の鳥みたいなものだし、生まれもろくなもんじゃない。生まれてからこっち、ずっと戦うことばかり。其れ以外の景色をくれたのはミサトとアイツだけ。
仮に万一うまくいったとして、人類のことだもの、ハッピーエンドとはならないでしょ? なにかしらドンパチは起こるだろうし、今もミサトは政治の場で鉄火場やってる。そんなのにいつまでも、アイツを付き合わせるのは、気がひけるのよ。
自由の素敵さをアイツは教えてくれた。人としての楽しさもアイツが教えてくれた。だから、アイツの鳥かごになってしまってる自分が嫌だし、せめてアイツは自由にしてやりたいのよ。まだ叶わない夢だけど」
「添い遂げよう、とはおもわないのかしら?」
「まさか。戦いしか知らないシキナミシリーズなんて、アイツには似つかわしくないもの。それに、何もかもうまくいったとして、娑婆での生き方なんて私には想像できない。戦ってるほうが気楽なのよ。アイツ、無理してるけど、そういうのが好きなタイプじゃないし、無理して付き合わせる必要ないし。アイツのことを大事に思ってる子は私一人じゃないし、元々私は一人が楽だし。
ま、全部片付いた後、振ってやるだけよ。アイツ、顔には出さないけど、疲れてるもの。私が『嫌です』って言えば、そうですかで別れてくれるわよ」
『アスカ、本音で言ってる?』
ミサトの目が、詰問のそれになった。表情が少し険しくなる。
「わかんない。アイツが疲れてるように、私もそこそこ疲れてる。それだけよ。ずっとふたりで同じ場所だもの。一人で外の空気を吸いたい、そんな気分にもなるわ」
『信じてはいるけれど、近すぎて距離感がわからなくなってる。
まあ外野の言うことじゃないけれど、そんな考え方だと幸せになれないわよ、貴女』
彼女の言葉に、アスカは自虐気味に笑った。
「私には幸せは似合わないらしいから、それでいいのよ。
それに、幸せがわからないの。
幸せは数字にできないもの。楽しいや悲しいはホルモンの数値で計測可能かもしれないけれど、幸せって脳内物質だけで決まるものじゃないでしょ?
そういう不安定なものを理解する必要ないし、あてにもしたくない。だからわからないままでいいの。
そうね、こういう考え方だから、幸せが似合わないのかも知れないけれど」
『アスカ』
モニタ向こうの葛城ミサトが、まっすぐに、式波・アスカ・ラングレーを見た。
先程の詰問の表情は消え、柔らかな笑顔を浮かべていた。ヒトという種が家族に向ける、それは心からの親愛と、思いやりの笑みだった。
『あなたには言っておく。
散々愚痴を言ったけれど、でも、少なくとも、今、私は幸せよ。
加持が生きてくれた。加持の子供を授かって、産んで、育てることができた。
ペンペンに家族を作ってあげられた。ペンペンの死を看取ることができた。
ツカサとペンペン二世が仲良くしているのも嬉しいし、色々文句言いながら、日々大きくなっていくツカサを見守れるのが嬉しい。
私は今、幸せなの。
そして、私にその幸せをくれたのは、シンジくんと、あなたなのよ。
そのことを、忘れないで』
怪訝な表情を浮かべるアスカから目をそらさず、ミサトは告げた。
『幸せって、探しても見つからないの。それは、気づいたらなっているものだから。
でも、それは、気づかないうちに逃げてしまうものでもある。
いつかわかるわ、アスカ。だから、決めつけないで。あなたは私を幸せにできた。だから、あなたも幸せになれる。きっとね』
「どうかしらね。生まれてこのかた戦ってばかりだもの。気づく自信なんてない」
どこか諦めたような、少しくすんで乾いたアスカの微笑みを見ながら、葛城ミサトは言葉を連ねる。
『自信なんてなくてもいいのよ。私だってなかった。
いつの間にかなってるのよ。経験者は語るってヤツね。
幸せって、そういうものなの。それだけは、信じてちょうだい』
アスカにはわからない。もしかしたら、一生わからないかもしれない。
ミサトの言葉にどう答えていいか、彼女にはわからなかった。
けれど、葛城ミサトが、彼女の言う通り、本当に幸せであることだけは理解した。
故に、式波・アスカ・ラングレーはミサトの言葉に黙って微笑んだ。
自分自身のためではなく、葛城ミサトの幸福を喜んで。
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艦橋構造体下部、中央艦隊後方の通路脇にその部屋はあった。
『テラフォーミング実験室』と明朝体で記されたプレートが貼り付けられたドアの前に、北上ミドリは佇んでいる。
自室ベッドで休んでいる時、不意に艦内用スマホに届いたショートメッセージには、『預かりものがある。テラフォーミング実験室まで来て』とだけ記されていた。
彼女からの急な呼び出しに、しばし惑った後、結局彼女は応じることを選んだ。
しかし、ドアの前に来てなお、逡巡がある。
レーコ姉さんに瓜二つで、けれど表情も態度も別人の彼女。
レーコ姉さんを守りきれなかったことを、唯一謝罪してくれた彼女。
会って、何を話せばいいのか。
会って、何を聞けばいいのか。
10年前のことであれば、聞きたいことはいくらでも浮かんでくる。
けれど10年前の第二次ニアサードインパクトの真相については、現状多くが機密指定状態のままだ。
いくらブリッジクルーになったとはいえ、権限がない以上、真実についての情報は、私が満足できるほど得られるわけがない。
なのになんで来ちゃったんだろう、私。多分、イライラするだけなのに。
断ればよかったのに。
自分で自分の気持がわからないまま、解錠もノックもできず、ミドリはただドアの前で立ち尽くしていた。
しかし、不意に目の前のドアが開く。
蒸し暑い空気と湿気が、開いたドアの向こうから吹き付けてきた。
風の中には、強い、土の匂い。姉と歩いた野山の記憶が、不意に脳裏に蘇る。
そして、ドアの向こう。
目の前に、麦わら帽子をかぶった、姉と瓜二つの顔がある。
麦わら帽子、青みがかった白髪、汗の滲んだ額。姉と同じ赤いアルビノの瞳。
ごくわずかの微笑みを、目元と口元に浮かべていた。転覆した内火艇の連中用のバスタオルを運んできた時も、交戦の際の音声でも、プラグ内の戦闘中記録映像でも、彼女は声音も顔も無表情なままだったし、アヤナミシリーズは意図的に感情が未発達のまま抑制されているという話をヴィレの訓練施設での講義で聞いていたので、彼女もまた感情が抑制されたままの存在なのかも知れない、という思い込みがあったのだ。
汗じみた白いタンクトップ。ベージュのツナギを野良着代わりにして、ベルト代わりに袖の部分を腰に巻きつけ、縛るように前で結んでいる。穿いているのは黒いゴム長靴だった。
彼女──綾波レイは、右手の土に汚れた軍手を外すと、静かに右手を差し出してきた。
「急な呼び出しだったのに、来てくれてありがとう。北上ミドリさん。
あなたのことは鈴原君から聞いていたけれど、会う勇気が今まで持てなかった。
ごめんなさい。会う機会も、話す機会も何度も会ったのに、今まで話、できなくて」
「いいですよ、別に」
差し出された右手を見つめ、しかし自分は手を下げたまま、北上ミドリは目をそらした。綾波レイから、微笑みが消えた。
「どうせ会って話しても、艦長のこと問い詰めるだけだし、大尉さんも機密で話せないっしょ。じゃあいいですよ」
どこか口調が捨て鉢になる自分が、嫌になる。艦長や副長とは違う。この人は多分悪くないのに。姉さんを守れなかったことを、謝ってくれた人なのに。
綾波レイは、表情を消したまま、頷いた。
「そうね。艦長たちのことで、話をしても納得してもらえるとは思わない。
だから今日は、レーコさんのことで呼んだの」
「レーコ姉さんのことで?」
「そう。あの人からの、預かりものがあるの。
偶然だけれど、渡せるタイミングだったから。ついて来て」
身を翻し、ミドリに背を向け、綾波レイは歩き出した。
預かりもの。姉さんからの。10年前の。
離れていく背を逃したくなくて、北上ミドリは慌ててついて行き、部屋の中へ歩を踏み出した。
第三村を思わせる、蒸し暑い空気が頬を撫でる。
土の匂いが、さらに深くなった。
驚くほど照明が強かった。思わず目を細める。
まるで日差しじゃん、と北上ミドリは思う。
「ごめんなさい。あなたのぶんの帽子も用意しておくべきだった。
この部屋の照明は10万ルクスに設定してあるの。日本の真夏日程度の照度。
元々は火星のテラフォーミング実験用の施設で、本来撤去予定だったのを、わがままを言って残してもらったの」
「わがまま?」
問いながら、北上ミドリは四方を見渡す。
正方形の部屋だ。天井までの高さは7メートル程度、部屋は一辺30メートル程度はあるだろうか。
天井全体が発光しており、そこから放たれた強い光が、が格子状に敷かれた通路と、それら通路に区切られた数々の畑を照らしていた。
「ええ、わがまま。AAAヴンダーから生命種保存機構を撤去する際、本来この区画も撤去される予定だったの。元々はイズモ計画の人類移民先の第一候補だった、火星への移民実験を行うための、一種の実験場、バイオスフィアだったの。
でも、火星には地磁気がほとんど存在しないから、太陽風や宇宙線への防護策を講じる必要があった。それに、重力も弱すぎる」
通路と、構造を支えるための支柱などで区切られた、それぞれの畑でそれぞれに育つとうもろこしや、トマト、ナス、きゅうりなどの様子を見て回りながら、綾波レイは施設についての説明を続けた。
「そうなると、ヴンダーのアダムス組織を培養して地下都市を作るという話になるのだけれど、火星の土に大量に存在する過塩素酸塩の問題があった。
それに基本的に、地球の生命種は1G環境前提で進化してきた。
火星の重力は地球の3分の1程度。長期間暮らすとなると、居住生物のための重力制御が必須となる。地下都市で重力前提となるなら、月で良いのではないか、という話になったのだけれど、月も構成組織が原因か、内部からコア状物質が格子状に染み出して、地下都市開発が考えられない状態となってしまっている。他の惑星は論外であることが、イズモ計画中止、フォースインパクト阻止を主目的としたヤマト計画推進へヴィレが舵を切った理由。
ごめんなさい、無駄話が過ぎた。ここよ」
綾波レイが歩を止める。
北上ミドリは、綾波レイの視線の先を見た。
そこに広がっていたのは──
「すいか?」
「ええ、すいか畑。祭ばやしという品種。丁度、収穫の頃合いだったの」
6メートル四方程度の畑を、つると複雑に先端が分かれた葉、そして敷き藁が埋め尽くしている。所々に、大きな縞模様の、鮮やかなビリジアングリーンの地に、黒緑色の縞が等間隔で走った大きな丸い玉状の果実が転がっていた。
「藁は第三村から送ってもらったものなの。敷き藁をしないと、果実が傷んでしまうから。玉回しは私以外にも、赤木博士にも手伝ってもらっていたの。あの人も、植物のお世話、好きだから」
「はぁ……」
そういえば、基本的にヴンダーの食事は有機物循環・栄養添加で制作するペースト食がほとんどだったけど、たまにおかずにスライストマトがついたり、ピクルスや浅漬がついてくることがあったけど、ここで作ってたのね、などとミドリは考えた。
超がいくつもつくほどの巨大な戦艦、空飛ぶ科学の要塞のようなシロモノの中に、これだけ広い畑があるということに、妙な非現実感を彼女は覚えている
レーコ姉さんがこの景色を見たら、どう思うだろう。
そんな事を考えていると、綾波レイが大玉のスイカの一つに触れて様子を見ていた。25センチはあるだろうか。実の上のつるにつけられた、日付を記したラベルを見、そしてそのすいかを持ち上げて重さを見た後、
「これがいい」
ツナギのポケットから剪定ハサミを取り出し、そのすいかのつるを切り取り、綾波レイは大切そうにその果実を両手で持ち上げた。
そして、北上ミドリに差し出す。
「これ。あなたに」
ミドリは戸惑ったまま、両手ですいかを受け取った。
余程身が詰まっているのだろう。重い。9キロはあるだろうか。
本物のすいかなんて、何年ぶりに見ただろう。ニアサーの後は、配給のペースト食やオートミール、雑炊ばかり食べてきたし、ヴィレの訓練施設でも専ら食事はペースト食ばかりだった。飢えるよりはマシとは言え、味気なく食べごたえもないものばかり。
これくらいのすいかとなると、今では手に入れるのは余程の社会的地位が必要となる。闇で売れば、きっと相当の金になるだろう。
けれど、多分そういうことではないのだということが、ミドリには分かった。
「遅くなって、ごめんなさい。
ようやく、あなたにこれを、届けることができた。
10年かかってしまったけれど、これがあの人の望みだったから」
10年。
その言葉で、北上ミドリは理解した。
「レーコ姉さん、10年前、もしかして」
そのミドリの言葉を聞いた綾波レイは、とても懐かしそうな顔をした。
今ではないはるか昔、もう思い出になってしまった過去を見つめる目をしていた。
「今のクレーディトの長官、加持リョウジ長官と、私達と、あの人で、スイカ畑に行ったの。その頃はもう戦争の前だったし、あなたに持っていくお土産に、あの人は悩んでいた。それで、加持長官は、あの人に言ったの。丁度いい土産があるって。私達とあの人は、加持さんについて行って、スイカをもらって、みんなで食べたの。
あの人はとても喜んでいた。こんなに甘くて美味しいすいかははじめてだって。絶対にあなたが喜ぶって、何度も言っていた。
今はもうその畑はなくなって、すいかはあなたに渡せなかったけれど、種だけは残った。
だから、わがままをいって、ここを残して、増やしたの。広いからすいかだけ、というわけにはいかなかったけれど。
それに、すいかは連作すると病気になりやすくなるから、畑を変えながら栽培する必要もあった」
何か、熱いものが、胸にこみ上げるのを、北上ミドリは感じた。
この人は、10年前、レーコ姉さんと約束して。
でも、世界があんなことになってしまったから、その約束を守れなくて。
でも、その約束を果たしたくて、今まで、ずっと、姉さんが私に渡そうと思っていたすいかを、子孫という形で、この船の中で守り続けていたんだ。
ミドリは、彼女の顔を見た。
綾波レイの表情に、再び微笑みが戻っていた。約束を果たせた安堵からかも知れない。
優しさを少しだけ含んだその笑顔は、レーコ姉さんのそれとはちがう。
けれど顔は同じで、そして、その優しさも、たぶんきっと、よく似ていた。
「畑を変えながら種を増やして、育て方も加持リョウジさんに確認したの。最初の内は親つるや子つるの摘み方も、摘果の要領も、玉回しのタイミングもしらなかったから、実がうまく詰まらなかったり、甘くならなかったり、片面だけ白くなってしまったり、身が割れてしまったりして大変だった。
けれど、ようやく満足できる物ができるようになって、あなたに渡すことができた。あの人との約束を果たすことができた。友達との、大切な約束だったから。だから、ちゃんとあの時と同じ味のものを渡したかったの。仕事をしながらだから、ちゃんと育てられるようになるまで、こんなに時間がかかってしまった。ごめんなさい、もっと早く渡せなくて」
「いいよ」
ミドリは受け取ったスイカを、宝物であるかのように、大切そうに、落とさないよう抱きしめながら、顔を伏せた。
「いいよ。聞きたいこと色々あったけど、今日は大尉の言う通りにする。
今日は聞かない。余計なことは忘れる。今日は。今日だけはそうする。
だから、一つわがまま聞いて」
自分でも声が震える。カッコ悪い。ダサい。分かってる。
甘ったれた考えだ。ただの未練だ。そんなの分かってる。
でも。この人なら。この人なら分かってくれる。だから。
「何?」
問う声が、艦橋で聞いたときのそれよりも、やっぱり優しい。
北上ミドリは思う。
この人は姉さんじゃない。
姉さんじゃない。
姉さんじゃないけれど、この人なりに、10年、帰れなくなった姉さんの代わりに、その想いを引き継いで、私を思っていてくれたんだ。
だから、いい。今日だけはダサくていい。
ダサい。恥ずかしい。未練だ。
でも、この人は、あまりにも姉さんに似すぎていて、性格からなにから違うんだろうけれど、きっととても優しい人で、そういう優しさに私はずっと飢えていたんだ。
だから、今日だけ。今日だけだから。
「今日、今だけ。今だけでいいから、レーコ姉さんだと思わせてください」
「私はあの人じゃない。けれど、それがあなたの望みなら、それでいい。
あなたは、あの人に、どうして欲しいの」
「頭、抱っこしてもらっていい?」
少し身をかがめ、今はもう自分より少しだけ背が低くなってしまった、姉によく似た人の胸の前に、ミドリは頭を下げた。
「わかった」
声とともに、不器用に、ミドリの頭の後ろに手が回されるのが分かった。
綾波レイが北上ミドリの頭を抱き寄せ、胸に抱く。
汗ばんだタンクトップ生地の濡れた感触と、未成熟な、けれど柔らかな、綾波レイの胸の感触を、北上ミドリは顔で感じた。
汗の匂い。土の匂い。草の匂い。姉によく似た人の、姉によく似た体の匂い。
10年前まで当たり前だった、草と土と姉の匂い。
もう失われ、二度と嗅げない筈だった匂い。
もう、限界だった。
目から、何か熱いものが流れ出すのを、北上ミドリは感じた。
何かをいいたくて、けれど声にならず、しわがれて歪んだ声が自分の喉から漏れる。
この人は姉さんじゃない。
姉さんじゃない。姉さんじゃない。
わかってる。分かってるけど、この匂いはだめだ。
こんなにも草と土の匂いが溢れた場所で、姉さんそのものの匂いを嗅いだら、だめだ。
気が狂いそうな懐かしさ。郷愁。
当たり前だったことが失われた事実はわかってる。
でも、今だけは忘れる。
この人も、今だけは姉さんになってくれるって言った。
だから、もういい。今日は、もういい。
10年味わい続けた孤独と苦痛、寂しさ、その前の楽しかった日々が何もかも胸の中でないまぜになり、胸の奥底で、熱となって破裂した。
目から喉から、胸から、感情がほとばしり、決壊する。
「姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん──」
なんで私を置いていったの。
第三村は辛かったけど、姉さんさえいれば、きっと我慢できたのに。
サクラまで巻き添えにして、仇討ちのために乗った船なのに、なんで姉さんそっくりの人が居て、なんでその人はこんなに優しくて、姉さんの約束を、10年も守ろうと頑張って。
すいかなんてもう何年も食べてない、ちゃんとした美味しいものなんて本当にずっと食べてない、けれど姉さんと食べたすいかの味なんてもちろん覚えてて、私すいか大好きで、種も気にせず食べちゃうくらいだったのを、姉さんは覚えてて、だから、お土産にって。
死ぬ気じゃなかったんだ、ちゃんと帰ってくるつもりだったんだ。
だからこの人は守りたくて、多分一生懸命で、守れなくて、そのことに耐えられなくて、だから手紙を書いて。
そして姉さんとの約束も覚えてて、だから10年も律儀に、1からすいかの育て方調べて、育てて、努力して、私に渡せるよう、ずっと頑張ってて。
ようやく、姉さんと食べた味になったから、これなら私が喜ぶからって、きっと。
だから、この人は、今だけはレーコ姉さんなんだ。
10年前、お腹が空いた、美味しいの食べたいって我儘言ってた私の我儘に、どうやったら答えられるかって一生懸命考えて、だから私にすいかをお土産に持ち帰ろうって考えた姉さんの想いをずっと護ってくれたこのひとは、姉さんじゃないけど、姉さんなんだ。
だって姉さんの想いを分かって、姉さんの想いを果たしてくれた人で、こんなにも姉さんの匂いがして、本当は捨てられるはずだった草と土が生きられる場所をこの船の中に残してくれた人は、きっと草も土も大好きで、姉さんも草と土が大好きだったから。
だから、姉さんでいい。今だけは姉さんでいい。
私は大きくなってしまった。
姉さんはこんなに腕が細かったんだ。華奢だったんだ。気づかなかった。
そんなに私、大きくなっちゃったんだ。そんなに時間経っちゃったんだ。
でも、この匂いは姉さんで、この包み込むような優しさも姉さんで。
だから、この人は好きになれる。たぶん、好きになれる。
姉さんだから。私の姉さんと同じ想いを持っていてくれる人だから。
絵空事だと思っていたヴィレの理念。戦わせるために掲げていたお題目だと思っていた、あの言葉。
『この星に、再び緑を取り戻す』。
そんなの無理に決まってるって、ずっと思ってた。
もしかしたら上の連中はそうかもしれない。
でもこの人は違う。
私にだって分かる。この区画を維持するメリットは、AAAヴンダーにはない。
ここの状態を維持するために、ATフィールドなり重力・斥力制御なりで保護しなければ、土から作物から、なにからひっくり返ってしまうだろう。
今回の防空戦だって、戦術機動に入る必要なのにレフトハンガー人員避難が間に合わず、トラブルになりかけた。だから、ここを残す必要なんてない。
でも、この姉さんに似た人、今は姉さんはここを守った。
ここがないと、姉さんとの約束が守れないから。
それだけじゃない。
きっとこの部屋は、ヴィレがいつかたどり着きたい緑だ。
人の作った緑。農耕。畑。
それは自然ではないけれど、それでも、人と作物の共生関係であることには変わりない。
自然の緑も、畑の緑も、この人は多分好きになったんだ。
赤木博士、葛城総司令の名代でもあるというあの人が手伝っているのなら、上だって本当にあのお題目を信じてる人がいるんだってわかる。
ここの緑に価値を感じて、ここという道標があるから、赤くない、緑の地球を目指して戦っている人たちだって、信じられる。
姉さんの復讐のほうが、さっきまでは目的として強かった。
でも、今、姉さんの匂いに包まれながら、この緑と土の匂いを嗅いで、心の優先順位が変わったのを感じる。
この小さな世界。戦いのための船に、無駄と知りながら僅かに残ったこの緑が、たとえそれが非合理だとしても敢えて残したのだとしたら、それの理由はきっと挟持だ。
だから、この船に乗って戦えるし、いつかその地球にたどりついたら、姉さんに、この人に、私も少しは胸を張れるだろう。
そうして、北上ミドリは綾波レイの胸でずっと泣いていた。
全ての感情を涙とともに流し尽くして、ようやく嗚咽が止んだ時、彼女は一つだけ質問を発した。
「大尉、姉さんのこと、どう思ってた?」
「ともだち。
あの人はそういう人だった。自分そっくりな私に驚いていたし、コアサルベージで生まれたアヤナミシリーズの最初の一人と聞いてまた驚いていたけれど、そんなことはあの人にとってはどうでも良くて、だから私をともだちと呼んでくれた。
生まれもエヴァも関係ないの。
ともだちになりたいなら、ともだちって言えばいいの。
それを教えてくれたあの人は、私にとって、ともだち」
「そうだよ、ね」
わかってる。姉さんは、大井レーコは、人のことがよく分かる人だから。
だから、生まれ方なんて関係なくて、誰とだってすぐ友達になってしまう。
この船の誰をどう信じていいかもまだわからない。
でも、サクラとこの人だけは信じられる。
だって、この人は10年間、私だって忘れかけていた姉さんの約束を覚えていて、それを果たしてくれたんだから。今の今まで忘れていた、姉さんとスイカを食べたときの思い出を、思い出させてくれたんだから。
また、少しだけ北上ミドリの目に涙が浮かぶ。
10年の間に、荒れ果て、やさぐれた心に、姉だった人の匂いが染み込んで、少しだけ、人としての暖かさが蘇るのを感じた。
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多摩ヒデキ少尉が訪れた艦橋では、艦長が唯一人、自らの席で何かを演算していた。
この一週間で体力が回復したのか、寝食を忘れて(そもそも必要ない体らしいが)、先の戦闘を踏まえた新戦術や、光子爆雷の運用法などを研究しているらしい。
「あの、多摩ヒデキ、出頭しました」
やむなく艦長に声をかけ、敬礼すると、ようやく艦長は気づいたらしい。
「忙しい中、呼び出してしまってすまない。
退艦希望リストで、君だけ『保留』のままだったのが気になったし、君の質問にもまだ答えていなかったからね。気になったんだ」
その言葉が問いかけでないことに気づかないほど、流石に多摩は鈍ではなかった。
不精不精、応える。
「あ、はい。その……なんつうか、俺、このフネに要るのかなって……」
正直に、口にした。
先の戦闘では驚いたり気絶したりしているだけで、ろくに役に立てた気がしない。
空間魚雷索敵だって、行ったのは戦術長と戦術長補佐だ。
同期の北上ミドリ少尉は、なんだかんだと44Aの位置を報告し、曲がりなりにもオペレーティングに寄与していたにも関わらず、自分はほぼ何もできなかった。
無力感ばかりが胸に募る。
退艦したほうがいいんじゃないか、そう思いもした。
しかし、まだ艦長に発した問いの答えを聞いていなかったということもあるので、ひとまず保留にしていた。保留の理由だって、その程度のものだ。
自分が現状、つまらない役立たずであることを、思い知るばかりの初陣だったように思う。
しかし、艦長は頭を振った。
「君はこの艦に乗艦してまだ一週間。ましてあの戦闘は勤務初日だった。
初日は皆そういうものだし、まして君はまだ若い。僕より7、8才は若かったと記憶してる。
気にしなくていい。僕の初陣の時は、正直もっと酷かった」
そう言って、苦笑を浮かべる。
艦長の初陣?
たしか、第4の使徒に、いきなり訓練もなしにエヴァンゲリオン初号機で立ち向かい、結果は──撃破。
多摩は力なく頭を振った。
「艦長、未訓練なのに勝ったはずですよね」
「ああ、公式にはそうなってるけれど……実のところ、覚えてないんだ」
「覚えてない?」
「うん。訓練を全く受けてないから、まともに初号機を動かせなくてね。そのまま一度転んで、使徒に捕まって……第4の使徒にパイルで初号機の顔を抜かれて、その激痛の後は何も覚えて無いんだ。あとは暴走状態で初号機が勝手に倒した。無意識の意思の現れとかなんとかかんとかリツコさんには後で言われたけど、ともかく自力で勝ったとはとうてい言えない、みっともないデビューだったよ」
そう言って、見た目こそ14才なのに、ヴィレのジャケットと軍帽が奇妙に似合うだけの、艦長としての圧を確かにあのときは持っていたはずの人物は、まるで14才の少年のようにはにかんだ笑みを浮かべた。
「だいたいエヴァに乗る前だって、目の前に大怪我した女の子がいるし、戦わないと皆滅ぶって状況で、できるわけないできるわけないばかり連呼して……まあ、その大怪我した女の子を代わりにのせて戦わせるとかいう無茶苦茶な話になりだしたから、仕方なく乗ったんだ。自分が乗るのは嫌だったけど、大怪我した女の子が、体から血を流しているのに自分の代わりに戦って死ぬのは、もっと嫌だったから、乗った。
でも、正直怖くてたまらなかったし、何もできなかった。LCLに浸かってたから気づかなかったけど、多分漏らしてたんじゃないかな。ともかく、それくらい怖かった。
君はまだいいよ。少なくとも漏らしてない。
N2セイリングのGで気絶するのは、未経験だからしょうがない。その後すぐ気づいたし、まずは経験して慣れればいい。それに、ブリッジクルーに選ばれる程度には、訓練成績もいい。とくに火器管制と砲術関連の成績は、自慢してもいいんじゃないかな」
そんな艦長の言葉に、しかし多摩は首を横にふる。
「でも、どれだけ訓練の成績が良くても、いざって時に体が動かなくちゃしょうがないですよ……」
「第5の使徒相手だと無駄弾ばら撒いて無駄に視界悪くした挙げ句、救助した民間人がいるのに頭に血が昇って、残り稼働時間も少ないのに、プログナイフで突っ込んで死なばもろともした馬鹿なパイロットの自虐話でもしようか?」
「……」
多摩は黙る。第5の使徒も艦長が初号機で撃破したはずだった。
そんな彼の様子に、艦長は苦笑を浮かべた。
「それに、君にもいいところがある。
この10年の人類世界はお世辞にも楽とは言えないし、治安が良いとも言えない。
さらに一通り訓練を受けた。
年を考えれば、少しぐらいイキがってもいいぐらいの年だし、軍隊なんだから、『敵に引き金を引く』ことに疑問を浮かべないよう訓練で嫌になるほど教わったはずだ。
なのに、君は質問を僕に送ってきた。言い方は悪くなるけど……そうだね。とても『娑婆臭い』質問だったよ。そこが君のいいところだ」
「いや、よくはないでしょう。つい送っちまいましたけど、後で冷静に考えると、降りかかる火の粉なんだから、そのときはそう思っただけで……」
「思えたことが大事なんだ」
恥じるように俯く多摩ヒデキ少尉を、艦長は片目を黒い眼帯で隠した隻眼で、まっすぐに見つめた。
「ああだから敵は殺して当たり前、こうだから敵は殺して当たり前。
理由を作れば人間は引き金を引くのをためらわなくなる。
そうしてくうちに感覚が麻痺すれば、敵も味方も蕩尽して当たり前、と考えるようになる。コラテラル・ダメージなんて用語もある。
もちろんそれは必要だからこそ生まれた言葉で、殺し合いであるのならばそれは効率よく行われなければならない。けれど、犠牲を当然と考えるようになってしまったら、おしまいだ。
感覚が麻痺すると、人命を銃弾よろしく蕩尽して当たり前、ということになる。効果がないのに鉄条網と機関銃陣地にいたずらに兵隊を突っ込ませ、死体の山を築き上げた一次大戦のようなことになるよ。
まして、アヤナミシリーズとシキナミシリーズは人間の両親が居ない、戦闘用のデザイナーベイビー、エヴァを運用するために創られた生命だ。其れ以外のこともできるのに、それを強いられた生命でもある。弐号機パイロットが独自の術式で、可能ならばその点の認識ロックを解除して鹵獲を図っているのは、その点を危惧してのことでもある」
艦長の隻眼に、僅かに怒りが灯る。
「アヤナミシリーズとシキナミシリーズなら人間じゃない、殺して当然、なんてなられたら、副長も弐号機パイロットも消費されて当然ということになる。少なくともネルフ側はそういう認識で両シリーズを生産・運用している。僕がヴィレに居るのはそれが理由の一つだ。
人としての可能性を持った生命を、ただの道具として量産し蕩尽するというのは冒涜だ。看過できることじゃない。カルネアデスの板、冷たい方程式、やむなく殺人を侵す事はある。
僕らが44Aに容赦しないのも、僕らが負けたら後がない上に、恐らくは停戦・終戦交渉の余地もなく、降伏することすら許されないからだからだよ」
その言葉は多摩にも理解できた。
彼も、10年前に発生した災厄と、その後の地獄を知っている。
多摩ヒデキは他の生存圏、たとえば第三村よりはやや事情が良い地域で暮らしていた分、苦労は少なかったが、少なくともそのような地域でさえ最初の1、2年は地獄のような暮らしをしていた。日々の抑うつ、そして飢えを理由に殺し合いを始め、死体が路地に転がることも珍しくはなかった。そのように世界を変えてしまったネルフが許せない、という艦長の感情は、多摩にも理解できるものだった。まして、このひとは。
「先の仕組まれたニア・サードインパクトでは、9割以上の人類が消えた。僕は知らずに最初の引き金を引かされた。ただその時のことを後悔はしていない。副長を助けたという選択を。あの時副長を選ばなければ、この世界では恐らく第10の使徒に敗北していた。他にも勝てる世界はあるのかも知れない。とある人はそういう世界もあると言っていた。けれど、この世界では少なくとも副長が居なければヴンダーは飛ばず、僕と副長が揃わなければ第10使徒に敗北していたよ。
だから副長は贖罪の言霊を否定した。だからこの艦はAAAヴンダーであり、間違ってもNHG Bußeではない。そして、君の問いだが、副長の同位体を殺して平気なのか、という質問と僕は認識している。それで、違いないかな」
徐々に怒りの色合いを濃くしていく艦長の語気を受け止めながら、多摩はやや狼狽しつつ、頷いた。
「……はい。副長と艦長は、親しいように見えたので……」
「ああ、そのとおりだ。僕と彼女はもう10年このフネで暮らしている。
そして、殺して平気かと言われたら、答えは、もちろんNOだ。
平気なわけがない。
僕は三号機の時、父に戦えと命じられた。それが副長の死につながると僕は考えた。挙げ句がこのザマと来ている。10年前に必要ならば副長を殺せと命じられた。侵食タイプに完全汚染されたプラグ状態だ、戦えは殺せと同義だった。使徒殲滅が当時のネルフの方針だった。使徒の殺傷はプラグ破壊とイコールだったよ。あの時僕はプラグを肉眼で目視した。コア構造物がプラグ周囲に出現していた。手遅れとひと目で分かったし、今の僕なら殺していたかもしれない。そのころはまだ14才だったから、取った選択肢こそちがったけれどね」
碇シンジは、一度深く息を吸い、吐き出した。
その吐息に、この10年彼が味わった鬱屈と懊悩、怒りが全て溶け出しているような錯覚を、多摩ヒデキは覚えた。
「そのときの命令への怒りと傷はまだ癒えていない。そこに試すようにシキナミシリーズを再生産し、送り込まれる。彼女と同じ存在を。
弐号機パイロットの綾波レイが、アヤナミシリーズを鹵獲し、新たな人生を送れるようにするために、どれほど多くの努力をしたかを僕は知っている。
その上で、大半のアヤナミシリーズは殺さなければいけない。そのように調節され、大半は説得も洗脳も不能だ。故に殺すしか無い。
綾波が自分と同じ存在を殺さざるを得ないのがどれほど苦しいか、僕には想像もできなかった。まして治療さえできれば、アヤナミレイたちは概して聡明だ。捕虜として生きる道を選んだアヤナミレイたちは、皆新しい人生を選び、新しい名を得て、一生懸命に生きている。生きられるんだ。死にたがりに調整されているだけなんだ」
碇シンジは、目を細めた。まぶたが怒りに震えている。
「綾波のことだけでも絶対に許せない。
それに加えて、式波だ。お前があの時選べなかった選択肢を選べるか、選べなければ死ね、と踏み絵を踏まされた。だから、撃った。撃たざるを得なかった。僕は14才じゃない。24才で、そしてこの艦の乗員500人の生命を預かっている。ましてヴィレの戦力はひどく少なく、本艦はその最大戦力だ。本艦の撃沈は人類の敗亡を意味する。
一人を生かすために人類を犠牲にはできない。冷たい方程式だよ。
けれど、絶対に忘れないし、許さない。あいつは、僕にアスカを殺させようとした。そしてまたそれを試した。殺さざるを得ない状況で。だから、撃った。殺した。だから絶対に許さない。
平気じゃないんだ。引き金を引くのは、楽じゃない。その向こう側に居る存在の可能性を知りながら、それでも引かなきゃならない」
そこまで言い終えて、静かに碇シンジは、AAAヴンダー艦長は多摩ヒデキ少尉を見た。
「だから、君がそれに気づいて、素朴な質問をしてくれたのは、むしろ嬉しいんだ。
人殺しが当たり前だと思って引き金を引ける人材には、引き金を任せたくない。
一度戦場で暴力と殺人が常識になった兵士は、戦闘のない日常に戻るのに苦労するそうだ。所属していた組織によっては、金銭ではなく暴力と銃弾で支払うのが当たり前、と感じるようになるそうだけど……だからこそ、戦場だからこそ、引き金を引くのが当たり前の世界だからこそ、引かなくていい時に引かないことを決断できる人をこそ、僕は好ましく思う。
この船は生き残り、勝利しなければならない。今を生きる人びとのために。
けれど、僕と副長が運用し続ける限り、僕と副長さえ無力化すればヴンダーの撃沈ないしは鹵獲は容易、という状況になりかねない。
僕は、たとえ僕が死んでもこの船が戦い続けられるようにしたい。
もちろん死にたいわけじゃない。けれど、戦いだ。絶対に生き残れる保証はない。
だから、もし僕が何らかの理由で戦死した場合に『次』を用意しておく必要がある。
ヴンダーで戦い、ヴンダーの主砲と『衝角』を預けるに足りるひとびとを。
有人化はそのためであり、そして僕が君に期待しているのも、そのためだ。
楽な戦いにはならない。けれど、勝ちたい。そして、もしも引き金を誰かに預けなければならないときは、その引き金を引く重さの意味を知る人に預けたい」
そして、静かに艦長は、多摩ヒデキ少尉に敬礼した。
「改めて。AAAヴンダーへようこそ、多摩ヒデキ少尉。君は兵士ではなく、人としてこの船に乗った。だから、願わくば、その素朴な最初の疑問を決して忘れないでほしい。無論僕らは、この背に多くの人命を背負っている。撃つべき時は撃たねばならない。
けれど、引くべきでない時には、引かないことを選択する事ができる。それが、人間だ。
人間の条件だ。それを捨ててしまえば、ただの戦争機械、虐殺者に成り下がる。
君のあのときの質問を、僕は深甚に思う」
多摩ヒデキは、戸惑った。
そこまで考えた質問ではなかった。しかし、艦長の懊悩は、彼にもうっすらとだが理解できたし、その期待に答えたい、という心地にもなっていた。一人で背負えるたぐいの懊悩ではない。だからこそ、かれは500人の乗員を招いた。
何よりも勝つために。全員で背負い、全員で互いの人間を保証しあい、そして10年の闘争にいつか終止符を打つために。
おそらくはそうなんだ、と多摩ヒデキ少尉は理解した。
右手の指先を伸ばし、己の右こめかみに当て、艦長の隻眼を両目で見つめながら彼は敬礼した。
「多摩ヒデキ少尉、了解です。艦長のご期待に答えられるよう、乗員として、人間として、最善の努力をしようと思います」
会話が終わる。お互い、こめかみに添えた指先を離し、艦長は元の研究へと戻り、多摩ヒデキ少尉は自室に戻る。彼は帰室後、退艦希望名簿の項目を『保留』から『残留』へと書き換えた。
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EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype
EPISODE:1 The Blazer END
TO BE CONTINUED
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