なんだかんだ言って、鬼の一番の弱点は「アレ」ですよね。
(逃げ切れる。大丈夫だ)
廊下を走りながら、大翔はちらりと後ろを振り返った。
ドスドスッと太い足を動かして、牛頭鬼が後ろをぴったり追ってくる。
足を床につくたびに、校舎が震えるようだ。
図体の割に、牛頭鬼の足はかなり速かった。
だが、大翔もまだ全力ではない。
この程度なら逃げ切れる。
中庭から西棟へ抜けて、うろついていた鬼をかわして走った。
階段を上がり、3階から南廊下を渡って、東棟へ。
鬼達は大翔と牛頭鬼を見つけると、囃し立てるように追ってきた。
何匹になったか分からないが、かなりの数を引きつけた。
追い詰められていた子達も、抜け出せたはずだ。
校舎のスピーカーから大音量で、天国と地獄が鳴り響いている。
葵が放送室を去り際にかけていったらしい。
古い人なら、カステラ一番、電話は二番、とか言いそうだ。
―ピイイィイイイイィ!
校庭の方から、笛の音が聞こえてきた。
合図だ。
みんなが集まって校門のカギを開けられたら、鳴らす事に決めてあった。
(よし、俺も逃げないと)
大翔は速度を上げた。
階段を一気に駆け降り、1階に降りた。
他の鬼達の気配は遠くなったが、牛頭鬼だけは執念深いのか、まだ後ろについてくる。
昇降口を出ると、グラウンドが広がった。
あちこちに、みんなが戦った跡や、作った罠。
ボールが転がり、落とし穴が掘られ、鬼がネットで捕まり固定されている。
ずっと向こう、校門の前で、悠、葵、荒木先生、織美亜、狼王が手を振っている。
他の子達は、校門の外へ避難完了したようだ。
最後に大翔が出たら、門を閉めてカギをかける。
地獄の檻に、逆に鬼達を閉じ込めてやる。
ラストスパート。
大翔は全速力で走った。
このスピードなら、最速タイムでゴールできる。
どこまでだって走れる気がする。
オリンピック選手にだって負けやしない。
……はずだった。
がくっ、と体が揺れた。
ずっと動いていた足が、突然、カクンと折れ曲がった。
あ、と思った時には遅かった。
「ヒロトッ!」
バランスを崩して、大翔は前のめりにグラウンドに倒れ込んだ。
鼻の奥がつんとなる。
顔を打ちつけたらしい。
「大翔、逃げろ!」
「……荒木、先生……」
荒木先生の声だ。
立ち上がろうとしたが、足がもつれて、上手く動かなかった。
じんじんと痺れるような感覚。
走りすぎたのか、力が入らない。
もがいていると、体がふわっと浮き上がった。
ぐるんと天地が逆になった。
視界を埋めているのは、牛頭鬼の顔だった。
ドクロのような目の穴の中の瞳が、爛々と三日月形に輝いて大翔を見ている。
追いついた牛頭鬼に左足を掴まれて、逆さ吊りにされているのだと理解するのに、
しばらくかかった。
(……くそう。走ってる最中にこけるなんて、サイテーだ。練習中にも一度、やったんだ。
それでリレー、負けたんだ)
牛頭鬼の口元の牙が、にゅいっと伸びた。
獲物を捕まえた喜びに溢れている。
みんなが自分の名前を呼ぶ声がする。
100kmも遠くからに聞こえた。
ぶらり、ぶらり、と大翔の体は、振り子のように宙を揺れた。
鬼が、大翔を玩具にして遊んでいるのだ。
なすがまま宙を揺らされながら、大翔は両手で牛頭鬼の腕を叩き、顔も叩いた。
右足を振り上げ、脛を叩き込んだ。
牛頭鬼は蚊ほどにも感じていないようだ。
(くそう。くそう)
大翔の目の端に涙が溜まった。
(こんなところで食われたくない。まだ遊びたい。勉強したい。母さんに謝りたいのに)
ひとしきり揺らすと、牛頭鬼はぐったりとした大翔を高々とぶら下げた。
自分は上を向いて、口を開けた。
バカみたいな大口。
鋭い牙が、何本も何本も、凶悪に突き出している。
ゆっくりと、口が近づいてくる。
(くそう。くそう。結局、能力者に頼るのかよ)
「お母さん!」
―ブンッ
繰り出した右足の爪先が、牛頭鬼の鼻面を掠めた。
……掠っただけだった。
「グエエエエエエエエエエッ!」
牛頭鬼は絶叫した。
耳をつんざくような叫び声を上げると、苦しそうにのたうった。
「……なんだ?」
唖然としながら、大翔はもう一度、蹴りを繰り出した。
靴裏が、今度は牛頭鬼の右瞼に当たった。
当たったところの皮膚が、ジュウッと焼けるような音を立てた。
牛頭鬼はまた絶叫した。
たまらず大翔を放り出し、顔に手をやった。
大翔は地面に大の字に投げ出され、顔だけ上げて牛頭鬼を見つめた。
「……なんなんだ?」
さっきまで、ビクともしなかったのに。
靴が触れただけで、なんでこんなに怯んでるんだ?
ふと、大翔は、自分の足を見下ろした。
(母さんが、俺のために、くれたシューズ)
鬼に対抗できるのは、能力者だけではない。
子を守る、親の存在なのだ。
「グオオオオオオオオオオオオオオォォン!」
牛頭鬼が吠えた。
右目を押さえたまま、額に青筋立てて、怒りまくりながらこちらへ歩いてくる。
大翔は、まだ足がもつれていた。
「どっせえええええええええええっっいっ!」
叫びながら横から飛び出してきたのは、章吾と有栖だった。
章吾は牛頭鬼の身体に、サイコキネシスで勢いを強めたタックルをぶちかました。
不意を打たれた牛頭鬼が、ぐらりとバランスを崩して倒れた。
土煙が上がった。
「――何、転んでやがんだ、バカッ!」
「心配したのよ、私!」
倒れたままの大翔を見下ろすと、腕を伸ばし、章吾と有栖は叫んだ。
「今のがリレーの本番だったら、うちのチームはビリだ、バカ!」
章吾は大翔の腕を掴むと、強引に引っ張って立ち上がらせた。
「走れバカ!」
「バカバカ言うなよ!」
「バカにバカって言って何が悪いバカ!」
「うるせーバカ!」
「バカバカしいわね、二人とも」
背中で牛頭鬼がまた吠えた。
弾けるように、三人は走り始めた。
グラウンド上のコースを走る。
毎朝やってた運動会の練習のように、一直線に駆け抜ける。
みんなの声援が響く中を走る。
腕を振って。
大きく足を振り上げて。
気がつけば。
鬼の事は、忘れていた。
(隣を章吾が走ってる。競走だ、負けるもんか。他の事なんて、どうでもよくなってた)
ゴール前には、大穴があった。
深い、地獄の底の底に繋がっている穴。
章吾が大翔を見て、大翔も章吾を見た。
二人で同じ事を考えた。
三人は一直線に穴に向けて走った。
後ろを牛頭鬼が吠えながら駆けてくる。
穴の縁で、三人は振り返った。
左右に分かれて、飛び退いた。
牛頭鬼が表情を変えた。
あっ、という感じのマヌケな顔だ。
慌ててブレーキかけて止まろうとするが甘い。
三人はぐいっと足を振り上げ、叫んだ。
「闇に染まりし者よ!」
「地獄へ……」
「帰れッッ!!」
牛頭鬼の足へ、勢いよく爪先を叩き込んだ。
牛頭鬼の巨体がぐらりと揺れた。
前のめりに倒れ込んでいく。
倒れる先には、底なしの穴。
「グオオオオオオオオオオオオオオォォン!」
牛頭鬼は絶叫しながら、穴の底へと落ちていった。
「今のうちに!」
「早く! 来るよーっ!」
「ほら、脱出しろ!」
悠、葵、荒木先生の声が響いた。
後ろを見ると、校舎の中から、たくさんの鬼がわさわさと湧いて出てきていた。
三人はよろよろと校門へ向けて走った。
「早く! 早く!」
「――オーケー! 閉じろっ!」
三人が校門を潜ると、待機していた他の子達が、すぐさま音を立てて校門を閉め、
荒木先生が素早く鎖を巻きつけた。
巨大な錠前を通し、ガチャンとカギをかける。
―キーン、コーン、カーン、コーン
途端、チャイムが鳴った。
スピーカーから、辺り一帯へ響き渡っていく。
皆、身構えたが、鬼はもう現れなかった。
代わりに――光が差した。
どんよりととぐろを巻いていた雲が、さらさらと消えていく。
血のように赤く濁っていた空が、夕暮れの色に変わった。
校門の向こうにいた鬼達の姿が、薄くなり始めた。
光の粒子のようになって、宙に消えていく。
辺りを覆い隠していた濃い霧が、風に吹き散らされるようにさあっと晴れた。
車の音が聞こえてきた。
道ゆく人達の話し声が聞こえてきた。
いつも通りの街並みの風景が広がっていた。
どこか遠くで、ゆうやけこやけが流れている。
「終わったな……」
荒木先生が呟いた。
17人の子供達は、校門の前に座り込んだまま、じっと学校の方を見つめていた。
道を行き交う人達が、なんだろう、という目でジロジロと彼らを見た。
大翔、章吾、有栖は、ぜえぜえ息を切らしていた。
もう走れない。
しばらく呼吸を整えた後、大翔と章吾は顔を見合わせ、同時に口を開いた。
……きっと他にももっと言う事があったんだとは思うが。
真っ先に出てきた言葉は、こんなだった。
「「俺の方が、早かったよな?」」
有栖は、ぶっと吹き出し、げらげら笑い始めた。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
どこかの家の夕食の匂いが漂ってきた。
ぐうっと腹が鳴った。
「「任務完了」」
そして、織美亜と狼王は、転移装置を使って、島に戻るのだった。
普通の人間は、本物の鬼から逃げる事しかできない。
だけど、エージェントは力があるから、鬼と渡り合う事ができる。
それが、一般人とエージェントの違いなのです。
次回は、新たなエージェントが仲間になります。