Bourder the Rainbow: あるいは不偏のトリックスター 作:fuki
話が動き出すまで、気長に見守ってください。
刀鍛冶は単なる職人ではなく、霊感を受けた芸術家であり、その仕事場は聖なる場所であった。
彼らは毎日、神仏に祈り、身を清めてから仕事にかかった。いわゆる「その心魂気迫を打って錬鉄錬冶した」のである。
槌を振るい、水につけ、砥石で研く、その一つ一つの動作が厳粛な宗教的な行為であった。
日本の刀剣が鬼気迫る魔力をおびるのは、この刀鍛冶たちの霊魂が吹き込まれたのか、それとも彼が祈った神仏の霊気が宿ったからであるのか。
新渡戸稲造『武士道』岬龍一郎訳、PHP文庫、2005年
*
特別な理由はなかった。
夕暮れの会社帰り、時々選ぶ裏通りを歩き、なんとなく住宅地を眺めていた時、その建物に目がとまったのだ。
築十数年の民家に挟まれた、不自然に真っ白い建物。
ギャラリーだ。
道路と敷地をギリギリで隔てる外壁の中央にガラスドアがあり、薄暗がりの屋内が見えた。
絵じゃない。
なにか並んでいる。
小さな、黒いものが。
「ご覧になっていきます?」
自分が言われたと思わなかった。
私はいつの間にか、ガラスドアを押し開けて、店内に顔を突っ込んでいた。
そんな闖入者に、カウンターの人物が声をかけたのだ。
「ごめんなさい、不躾でした」
「いえいえ、今なら貸し切りですよ」
使い込まれているが清潔なエプロンをかけた人物は、片手でギャラリーを示した。
その通り、一部屋を大きく使った展示室には誰もいない。
ただ、ガラスドアから差し込む夕日が薄暗いフローリングに滲み、そこに私の影が長く横たわっているだけだ。
影だけが、先に入ってしまったように見える。
「さ、どうぞ」
胸元のバッジに書かれた、“オーナー”の肩書きが目に入る。
作者じゃないなら、立ち去っても気は引けないけど。
(どうしたもんかな)
寄っていく理由はない。
でも、断る理由もない。
私はオーナーに会釈をすると、肩にかけていたバッグを手に、ギャラリーへと足を踏み入れ――
「ああ」
――そこで分かった。
展示されていたものは、彫刻だった。
指先ほどの大きさから、握り拳大、漬物石と見まがうものまで。
サイズも形も多様なそれらが、白い展示台や床に転々と置かれている。
共通点は、黒いこと。
白い床に落ちた、持ち主のない影のように。
“穴”のように?
私は壁際の展示台に近付くと、小指サイズのそれを眺めながら歩を進める。人工物よりも下流の川に沈んだ小石に近いそれは、一つ一つ微妙にねじれ方が違い、さらに線が書いてあったり小さな穴が空いていたりと模様も違う。
しゃがみ込み、足元に置かれた漬物石も見てみる。こちらは形こそ同じなのに、全体を覆う模様がよりデザイン的で、表面積の差もあってか、それぞれまったく違う印象に見えた。
「手に取ってご覧下さい」
「え、触っていいんです?」
驚いて見上げると、いつの間にか傍にいたオーナーは、
「はい、そういう美術品ですので」
とにっこり頷いた。
私は立ち上がると、言われるがままに手を伸ばし、一つを取り上げた。
握り拳大の彫刻。
思ったより灰色に見えるそれは、真上から見ると四つの角を持つ緩やかな円形なのに、脚にあたる部分は三つしかない。だから上面と下面を繋ぐ平面はねじれている。
ギャラリーの照明の下で、ためつすがめつするが、見るほどに分からなくなる。
人工物というには不安定だけど、自然物というには幾何学的。
夜のキャンプ場で拾った、誰かが竈に使った石のような。
認識する言葉が思い付かない。
異形?
それだけでも十分おかしいのに。
陶器のように冷ややかな触り心地の表面に開いている、沢山の穴はなんだ。
表面をえぐったものと、中空まで貫通するほどに深いものが、集合恐怖が発生しない程度に、しかし奇妙な落ち着きのなさを覚える程度の密度で並んでいる。
不規則に、だが整然と。
黒い彫刻の、黒い穴。
「いかがですか?」
指先が白くなっていた。
力を緩め、顔をあげる。
息を吸い、吐く。
声を出さないと。
「これって、なんですか?」
「≪トリックスター≫、という作品群ですね」
群――これが全部?
「それって、北欧神話のロキとかのアレです?」
「すみません、私も陶彫という以外の設定はよく分かっていないんです。SNSでは何度かやりとりしているんですが」
トウチョウ?
「来週の土日は作家在廊日ですので、いらしては如何でしょう」
ザイロウビ?
「だいぶ間が空いてしまうのですが、『来週までは窯入れに集中したい』とのことでしたので」
カマイレ?
よく分からないけど、オーナーが作者じゃないことは分かった。
でも作者の説明があるとして、なにか分かるだろうか。ピラピラの服を着たロン毛の人がきて、抽象的な芸術論や創作論を語っても、私には愛想笑いしかできそうにない。
「えっと、申し訳ないですけど――」
と、彫刻を展示台に置こうとして、その切片に気付いた。
「――値札です? これ」
部屋と同じく白い展示台の端に、数字が書かれた小さな白いラベルが貼ってあるのだ。
「はい、そちらの≪トリックスター息子≫の金額となります」
「売り物なんですか?」
「ええ。当ギャラリーでは基本、お買い求めできるものだけを展示しております。前の会期では、そちらのサイズのものがよく売れたそうですね」
オーナーは指先サイズの彫刻を手で示した。そちらは桁が一つ違う。
「こっちも?」
と白いフローリングに置かれた漬物石大のものを指差す。こちらは逆方向に桁が変わりそうだ。
「そちらはどうでしょう、包み方は指示されていますがね」
オーナーは苦笑したが、私は口を開いた。売れる想定はしてるのか。
そして、まだ持ったままの、握り拳サイズの彫刻を見る。
穴だらけの黒い彫刻を。
「そっか、美術品か」
こんなよく分からないものでも、売り物なのだ。
冷たい表面を撫で、展示台に戻す。
「また来ます」
「こちら、お取り置きしておきますか?」
「いえ、大丈夫です」
手持ちが足りないと思われたかな。
展示台から離れてからバッグを肩にかけ、出口に向かう。
ガラスドアを開けた先は、もう夜だった。
「ありがとうございました、またどうぞ」
会釈し、ドアを閉める。
ガラスの向こうには、穴の点在する彫刻と、彫刻の点在するギャラリーのフラクタル。
私も穴の一つだったか。
まばたき。
すっかり様相の変わった裏通りに、足を踏み出す。
街灯が転々と光を落とす、真っ暗な道に。
「どうしたもんかな」
あの穴がまだ、私を見ているような気がする。