Bourder the Rainbow: あるいは不偏のトリックスター 作:fuki
*
本日二度目の退社は、普通に定時だった。
「なにしてんだろ、私」
事故に巻き込まれたものの奇跡的に無傷だった私は、しかし一度は病院に搬送され、精密検査を受けた。
警察から救急から、事故直後は興奮状態で痛みを感じない旨を説明され、体調不良で早退していたことを告げたら労災のための診断書のためにも行けと説得され、渋々病院に行ってみたら、まあ待たされる待たされる。
もちろん結果は健康体そのものだが、粉塵を吸い込んだということで、要るのか要らないのか咳止めと気管支の薬を処方され、その受け取りにもまた時間がかかり。
警察がやってきて、交通事故の被害者としての調書を取る日程を決められ。
労災なら会社にも連絡しなければ、と電話を入れたらまたも岸井さんに死ぬほど心配され、総務に話するために会社に舞い戻り。
そして、今に到る。
歩いているのはもちろん裏通りだ。
クルマに対する恐怖もあるが、それ以上に行かなきゃいけない場所があるからだ。
「気が重いなあ」
肩にかけたバッグを撫で、その形を認める。
なんで私のところにあるんだろう。
……気にするポイント、ここで合ってる?
もちろん論理的に考えるなら、昨日のプレオープンでこれを買った誰かが、あの時あのお店にいたんだろうけど。
それは、すぐ傍に倒れていた中年の可能性が高いんだろうけど。
私は事故に巻き込まれた怪我人から、どさくさで美術品を盗んだ犯罪者ってことになるんだろうけど。
そんな“論理的”、全然信じられない。
じゃあ、何なら信じられる?
「どうしたもんかな」
黙って持って帰っちゃえば、全部丸く収まるのに。
いや、もし誰も買ってなかったら、作家さんにお金が入らない。
なんて説明して返せば、お金を入れられる?
想像も出来ない。
あのお店が破壊されて、人が亡くなったことしか知らないんだぞ。
「……あの担々麺、もう食べられないのかな」
警察の話によれば、あの時お店にいた従業員は全員死亡したそうだ。
なにが起こってるんだろう。
岸井さんも担々麺は気に入ってたんだっけ。
荒川さんはどうだったのかな。
食事に誘った時は、割りと苦戦してたけど。
チェーン店だから、また出店するかもしれないけど。
行きたい?
「あ」
気付いた時には、そこにいた。
夕暮れの橙色の光に輝く、真っ白い建物の前に。
「どうしたもん……もないか」
細く息を吸い、ガラスドアを引き開ける。
「いらっしゃいま――あ!」
カウンターに座っていたオーナーは、私を見ると目を丸くして走ってきた。
「すみません、先ほどは――」
「――いえいえ、お待ちしていました!」
「え? あの」
オーナーは展示台の方へと私を案内する。
昨日のエプロンは、今日はしていない。前後が逆に見えるニットのセーターに、やっぱり前後が逆に見える芸術的なネックレスをしている。もしかして逆?
私はバッグの膨らみを落ち着きなく撫でながら、しかし展示室の変化に気付く。
真っ白いギャラリーに開いていた、黒い穴が。
いや、展示されていた彫刻が、ほとんどなくなっているのだ。
「会期初日でだいぶ売れてしまいまして」
私の視線に気付いたか、オーナーが言った。
「でも、明日の朝には、第二弾が搬入されますよ」
あの行列もこの売れ行きも、作家は予測済みってことか。
じゃあ、もう誤魔化しようもない。
「あの、すみません、昨日のあの彫刻なんですけど――」
「――はい、ございます!」
「実は私が……え?」
満面の笑みを浮かべたオーナーは、展示台の一点を示した。
そこには、握り拳サイズの黒い彫刻が、ぽつんと置かれていた。
「え?」
「≪息子≫のサイズは売れ行きがよくて心配だったんですけど、これはなぜか残ったんです。運がいいですよ!」
そんなはずはない。
私はバッグに手を入れ、ずっと気にしていたものを取り出す。
「あれ?」
握り拳大の、コンクリート片。
「どうされました? あ、お友達ですか?」
なにそのリアクション。
私は彫刻とコンクリート片を見比べ、ややあって、後者をしまった。
驚くことでもないか。
だって、これは≪トリックスター≫。
“イタズラをしでかすヤツ”なんだから。
「その子、頂きます」
「ありがとうございます!」
オーナーは彫刻を手に取ると、そそくさとカウンターに向かった。
そして緩衝材のシートで彫刻を丁寧に包み、組み立てた化粧箱に収めていく。
私はその横で、氏名住所電話番号を記入しながら、
「美術品か」
口の中で呟き、意味するものを考える。
額縁の内にあり、ガラスケースの中にあり、ポールパーテーションの向こうにあるもの。
観察してる主体であるはずの自分が、どうしようもなく脇役であると意識させるもの。
「どうぞ!」
それが今、私の手の中にあった。
*
ブレザー姿の人物が、ギャラリー向かいのブロック塀からパッと身体を起こした。
私を見ている、みたいな。
気のせいかな。
まだ日の落ちていない街に戻ってきた私は、彫刻の入った紙袋を手に駅に向かって――
「待ってください!」
――とはいかなかった。
その人物は、大股で狭い裏通りを横断すると、私のすぐ前に立ち塞がった。
幅の広い襟に小豆色のブレザーが、会社のすぐ近くの高校の制服なのは分かる。でも私は通ってないし、知り合いもいないはず……だけど。
「あたし、
「はい……」
これ、私も名乗るところ?
「片淵千明です」
「じゃあ、千明さん」
あ、そっちで呼ぶんだ。
「知ってるんですよね、犯人」
「なんの?」
「クルマを運転してた人ですよ!」
私があの事故の被害者だって、知ってる?
「あ! もしかして、あの入口の方にいた子?」
「誤魔化さないでください!」
「ごめんね、えっと……友紀さん。私、クルマのことは知らないんです」
「ウソですよ!」
「ウソじゃないよ」
「だって言ってたじゃないですか! 『あなたがやったの?』って!」
え?
あー。
言った……わ。
「それで私のところに? あれは、その、なんていうか……」
ここで動揺したら、話がこんがらがってしまう。
「警察はなんて言ってたの? ニュースとかは?」
「あたし見ましたもん! 運転席!」
「ならあなたが一番――」
「――誰も乗ってなかったんですよ!」
え?
「どういうこと?」
「だから! 運転手がいなかったんです!」
荒げた声が裏通りに響き、消える。
私は言葉が継げない。
夕日の残照が失われ、急速に夜が近付いてくる。
「ただの事故じゃないってこと?」
「ほんとに知らないんですか?」
「うん、悪いけど」
穴の空いた風船のように、友紀さんの身体が揺れた。
私が思わず肩を掴むと、友紀さんは顔を上げたが、すぐに目を伏せた。
「私たち、狙われたんですか?」
「それは――」
今の“私たち”に、私は入ってない。
「――一緒にいた子?」
頷く。
「真墨はたぶん、脚をなくします」
それは。
それは聞きたくなかったな。
*
私は困憊する友紀さんを駅まで送った後、連絡先を交換して別れた。
すっかり夜となった街を車窓から眺めながら、私は紙袋から化粧箱を取り出す。
揺すると、かたかた、と軽い音がする。
まだ中にいるらしい。
「またコンクリートの欠片になってたり?」
返事はない。
苦笑。
いや、笑いごとじゃない。
なにが起きてる?
この子はあの時、本当にあそこにいたの?
なんのために?
「……疲れてるな」
あの“異形”は見間違いだ。
光とほこりのイルミネーションだ。
私が持ってたのは、ずっとコンクリート片だったんだ。
そうでしょ?
溜息。
電車はトンネルに入り、視界から街が消える。
代わりに現れたのは、二九歳の疲れたサラリーマンの顔。
私になにができる?
頭がいいわけでも、警察や病院にコネがあるでもなし。
仕事だって、お世辞にも上手くいってるとはいえない。
でも、あの子の顔が忘れられない。
「どうしたもんかな」
私は、あの子の物語を動かす脇役になれるのか?
今回でオープニングの終わりです。
第一話のお膳立てに基づき、次回からは登場人物が各々の物語を動かしていくことになります。
その脇に佇む≪トリックスター≫とはなんなのか。
第二話『ペインキラー』で、その一端が見えることでしょう。