アンダーライン×アンダーライン   作:氷の泥

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01 夜明けの夢子

 物心つく前、俺がまだ母親の乳に吸い付いていた頃のこと。サキュバスの住む世界に通じるゲート「異界の扉」が、東京都の上空に突然開いた。そしてその扉の向こう側から、後に「人間界」と呼ばれるようになる俺たちの世界に、何十万何百万という数のサキュバスがやって来た。

 異種との遭遇から一年が経ち、二年が経ち、加速度的に人間界に居を移すサキュバスの数が増えていったことで、当時の人間たちは、単純計算的な人口のパンクを懸念し初めたらしい。しかし、あわや宇宙移民の始まりか……とガンダムオタクたちが騒ぎ始めた頃には、人間界側からサキュバスの住む世界……「魔界」へ渡航する手軽な手段が確立され、結局二つの世界は、まるで一つの物であるかのように深く混ざり合うことになった。……らしい。

 というのも、俺はまだサキュバス関連の知識を理解・把握しきれていないのだ。俺を含んだいわゆる現代の若者世代は、サキュバスと人間の共存に向けて起こった当時の混乱によって、教育面で著しく割を食った世代として知られている。だからなのかは正直自分では分からないが、融革(ゆうかく)世代と呼ばれる俺たちの中にも、サキュバスについての知識がスマホに対する老人のレベルでストップしている人間もいたりする。

 俺は、そうはなりたくないと思った。だからサキュバスのことを正しく理解するために、大学で異界学の受講を選択している。

 異界学とは字のイメージ通り、主にサキュバスたちについての知識を学ぶ学問のことだ。大学入学当初の俺はそこで学ぶことによって、自分がこの異種共存世界のことを正しく理解できるようになれると信じていた。

 しかし初講義の日、俺はそこで、さっそく意外な事実を目の当たりにすることになる。……異界学の受講者には、サキュバスもいたのだ。それも結構な人数のサキュバスが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上三階の窓からパンツと月が見える。

 大学入学と同時に一人暮らしを初めて、一ヶ月が過ぎた。ゴキブリはまだ出現していない。もしも現れた時には、俺は人生で初めての覚悟を決めなければならないだろう。

 一人暮らしをするに当たって、男であることは幸いである、洗濯物を気の向くままに干せるし、住んでいるマンションがオートロックではないからといってどうということはない。その上防犯以外の観点でも、男だからこそ期待できることがある。

 俺は、「人の家の洗濯物を観察する存在」が、「泥棒」だけではないということを信じている。

 サキュバスとは人間の精力を糧に生きることが出来る、人間の女性そっくりな見た目をした生物のことだ。精力とは性欲その物のことを指すが、それをエネルギーとして最も効率よく吸収する手段が、性交と精飲らしい。ゆえに大抵のサキュバスはその種族名を聞いた男性の多くが望むように、性に奔放で積極的だ。

 しかし、人間にとってのセックスと違い、彼女らにとってのそれは食事とほとんど同義である。ゆえに彼女らの「欲求」は人間よりもずっと死活問題になり得る概念であるはずで、「夜な夜なサキュバスが家を訪れ、性交をねだってくる」ということが実際にあると、十年以上前から人間界でもっぱらの噂になっているのだ。

 インターネット上には、訪ねてきたサキュバスと一夜を共にした様を写真付きで報告している例もある。……が、サキュバスは俺のところには一向に現れない。町へ出ればそこかしこで見られるのに。こうして毎晩、ここには一人暮らしの男が住んでいますよとアピールしているのに。

「…………」

 そこそこ大きな蛾が飛んできて、俺のパンツに貼り付いた。部屋の電気を消して、何も見なかったつもりで寝ることにする。どうせ翌朝にはいなくなっているだろう。それともサキュバスも人間の女性と同じで、虫が苦手なオスのことを軽蔑するのだろうか。

 ベッドの中で目を閉じると、大学の講義で隣に座った女の顔がまぶたの裏に浮かんできた。疲れきったOLみたいな顔をした、ズレた眼鏡をよくそのまま放置しているその言わば同級生が、本人の言うところサキュバスであるらしい。

 サキュバスと人間の見分け方は、下腹部……子宮の位置にある淫紋の有無を見る。……つまり脱がせなければ見分けられない。サキュバスだと自称されればそのように見えてくるような気もするし、しかし人間だと言われればそのような気も……。

 ……その隣の席の女が、裸になって、草原の真ん中から俺に聞いてきた。

「それで、私たちのことは好きなの? 嫌いなの?」

 俺は通じると思って、心の中で答えた。サキュバスに人の心を読む力なんか、基本的には備わっていないのに。

「分からない。人間としかヤったことないから」

 草原の中に立つ、隣の席に座った女は、はっきりとこちらに目を合わせてから……顔をしかめた。

「……せーん。……のー……ませーん」

 コツコツと、何かを叩く音がする。まぶたの向こう側に、あるはずのない光を感じた。……朝だ!

 草原の夢から目を覚まし、まぶたを上げた俺に日差しが襲いかかる。カーテンを閉め忘れた……のではなく、開けているのだ。少しでもサキュバス到来の可能性を上げたい一心で。

 寝ぼけ眼をこする間、コツコツと叩く音は鳴り止まなかった。それどころか、むしろ加速しているような。

「すいませーん! あのー! すいませーん!」

「うわっ」

 窓の外を見ると、狭いベランダに女が立っていた。白い無地のTシャツに、いやに赤くいやに短いスカート。見るからにアンバランスな印象を持つショートヘアの女が、地上三階のベランダに出現していた。

 彼女は中指の関節で窓を叩いている。俺のパンツがその後ろで揺れている。

「あの、よかったら、入れてもらえませんか……?」

「……もしかして、まさか!」

 こちらが布団を跳ね除けるように起き上がった時、窓の向こうではすでに彼女が自らの短いスカートをめくっていた。

 穿いていなかった。パンツのかわりに、淫紋が見えた。そしてそれはそれとして、逆に俺は下の方をパンツ(トランクス)しか穿いていなかった。朝の日差しが、男の朝らしい様子になった股間を照らし出す。

 ちょっと嬉しそうな顔をしたその女を見て、本物だと思った。

「サキュバス!?」

 ズボンを穿くより先に窓を開ける。我ながら無駄な剣幕を発揮してしまい、彼女はびくっと肩を跳ねさせてスカートから手を離した。

「そ、そうです……けど……。……あの、サキュバス……嫌いでしたか……?」

「いや! ……いや、分からない」

 分かりやすく、そのサキュバスはしょんぼりとした。あわてて言葉を選びなおす。

「いや、少なくとも嫌いではない……と思う。その、分からないんだ」

「分からない? それは、えーっと、……なんででしょう?」

「ヤったことがないから」

 巨乳と貧乳どちらが好きかと聞かれても、俺は答えることが出来ない。巨乳を揉んだことがないからだ。一方は揉み、一方は揉まずに決めるなんて、フェアじゃない。だからそれと同じ理屈で、サキュバスが好きかどうかも決められない。

 ……その旨を素直に伝えたつもりだった。けれど俺は、俺の耳にはそう聞こえなかっただけで、その瞬間だけ自分の滑舌が劣悪になったのかと途端に不安に思った。窓枠を隔てた二人の間に妙な間が生まれ、すずめの鳴き声がそこを通り過ぎて行った気がしたからだ。

 サキュバスの後頭部付近にあるパンツから、大きな蛾が飛び立った。今度はこっちの肩が跳ねる。あの野郎、宿泊していったのかよ。

「ああ! なるほど!」

 妙な間の中から何かを悟った彼女が、その場でスッとしゃがみこんだ。ベランダの向こう側には近所のスーパーが見える。

「失礼します」

 サキュバスが、俺のはいているパンツをずり下げた。

「はあ!?」

 咄嗟に身を引く。彼女の両手が、名残惜しそうに力なくそれを追った。

「え……」

「えっ、いや、「え……」はこっちの台詞だよ」

 とにかくパンツを穿き直す。周囲の建物から俺たちの今いる部屋が見えるのか、それは分からん。ただ分をわきまえなければならない。サキュバスと人間が共存する世界においても、公然わいせつ罪は現存しているのだから。

「え、だって、そういうことでは……」

「どういうこと……?」

「ヤらせろっていう……」

「いや、……いや間違ってないっちゃ間違ってないけど、違うじゃん。早すぎるというか急すぎるというか、外じゃん。ここはまだ外じゃん実質」

「あっ、すっ、すみません!」

 跪くようになっていた彼女があわてて立ち上がる。……が、なぜかそこから窓枠を一歩踏み越えるということを、いつまで経っても彼女はしなかった。その代わりに、上目遣いでこちらの様子を伺ってくる。

 は、入っても……? と言っているように、俺には感じられた。実際、手招きをしてみると、彼女はなぜか慎重に、つま先歩きで部屋に入ってきて、可能な限り音を立てないように窓を閉めた。

 俺の勘違いでなければ、上はTシャツ一枚しか着ていない彼女が、ノーブラであるように見えた。だからってなんで慎重なのかは分からないけれど。

 強迫観念に追われるかのようにシャッシャッと素早くカーテンを閉めて、彼女がこちらに向き直る。

「……そ、それでは」

「いや、ちょっと待って」

 壁掛け時計を指さす。

 そう、俺は気がついていた。電池の切れた目覚まし時計に、昨日の俺が電池を入れ忘れたということを。こういうことに気が付く時、いつもは必ずと言っていいほど手遅れになっているのだけれど、今日はサキュバスのおかげで助かった。

「これから大学行かなきゃだから、今は無理かな……って」

「そんな! お願いします!」

 紛れもなく獲物に襲いかかる肉食獣の速度で、彼女が俺の腰にしがみついた。腰に、というか、パンツのゴムの部分に。

 ズレるズレる! 落ちる落ちる! と、必死で放送コードの布を握りしめながらこっちが説得の言葉を考える間に、肉食系サキュバスはまくしたてる。

「お願いします何でもしますどんなことでもします、おちんちんください、お願いします……!!」

「わ、分かった! 分かったから離して! なんか嫌だろこの流れは!」

「私サキュバスだからお金かかりませんし、迷惑かけませんし、何でもしますから、どうか、どうか……」

「いやだから分かったって! いいから離せってば」

「お願いします!!」

「承知してます!! 離して!!」

 パンツがようやく強奪の魔の手から解放された。

「なに、お腹減ってるの……?」

「あ、いえ、そういうわけじゃ……」

「じゃあ大学終わってからでもいい?」

「は、はい。大丈夫です」

「じゃあそういうことで!」

 俺はあせっていた。時間的に、結構やばい。さっさと服を着て、適当にトーストで朝飯を済ませて、顔を洗って歯を磨いてその他諸々の準備をして、一刻も早く家を出るべく急がなければならない。

 まずは服からだ! と、ドタバタしながら朝の支度を進めていくその最中、何かを手伝いたそうな顔のサキュバスが終始俺の後を付いてまわってきた。けれど彼女は役目が何もないということを徐々に悟っていき、最終的に意中の相手にフラれた人みたいな顔をして部屋の隅で膝を抱えるようになってしまった。

 そんなどんよりとオーラの彼女に声をかける余裕が生まれたのは、玄関で靴を履く段階になってようやくのことだった。

「えーと、サキュバスさん?」

「はい!」

 背中越しに、元気の良すぎる返事が来る。忠犬、というイメージが湧いた。

「名前は?」

「あ、夢子って呼んでください」

「夢子?」

「本当の名前は長いので、その、覚えやすい方で」

「ああ」

 それは俺も知っている。サキュバスのフルネームは長いのだ。そこはそれ、魔界と人間界の文化の違いなのだろう。幸いにも人間界にはラノベがあるから、特に若い人間にとっては、長い名前にもある程度馴染み深いところがある。

「あの、そちらのお名前は……」

三神賀雄二(みかみが・ゆうじ)

「ユウジさんですね……!」

「そう! じゃあ行ってくるんで!」

 家の鍵と自転車の鍵を片手ずつ握りしめ、玄関のドアを開く。

「い、いってらっしゃいです」

 遠慮がちにかけられた見送りの声に俺は振り返って、わざと不躾に彼女の顔を指さす。なんというか、舞い上がっていたのだと思う。

「帰ってきてから、サキュバスのそういうのマジで楽しみにしてるんで、よろしく頼みますよ!」

 夢子が、ぱあっと華やいだような顔をして、「はい!」と元気よく返事をした。

 自転車を漕ぎながら俺は思う。サキュバスと人間を見分ける方法は、きっと淫紋以外にもあるに違いないと。しかし手当り次第に試していたのではセクハラで捕まるので、そういう意味では「脱がせないと分からない」ことと大差なかった。

 

 

 

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