事実は小説よりも奇なり。そんな言葉は、サキュバスとの共存社会が始まって陳腐化したけれど。それでもまるで舞台のような出来事は、日常の中に突然降って湧く物だった。
「泥棒ー! 誰かー!!」
ある土曜日。近所のスーパーへ買い出しに向かっていた時、辺りに女性の悲鳴が響き渡った。何事かと視線を巡らせると、ムンクの叫びと不動明王が混ざったような表情のおば様と、女物のバッグを持って走る男の姿を見つけた。それなりに年を食っていてそれなりに太っているように見えるその男は、しかし意外なほど素早く逃げていく。それは大きな道路を挟んだ反対側の場所で起こった出来事だったので、俺は逃げる男をただただ見つめていることしか出来なかった。
が、次の瞬間。その俺の横を、風を受ける長髪が颯爽と通り過ぎていった。茶色いロングヘアーがまるでマントのようにたなびいて、しっかり二車線ある広い道路を、女性が跳躍一つで飛び越えていったのだ。
「くそっ! 離せ! くそっ、この、クソサキュバスッ!!!!」
気が付いた時にはもう、ひったくり犯は取り押さえられていた。倒れた男を組み伏せているのは長身の女性だ。モデルみたいに細い体をしているのに、暴れる男を片手と自身の体で押さえながら、余った片手で手招きをして周囲の人に応援を求めている。力で圧倒的に優っているようだ。
「サキュバスか……」
何の役にも立たなかった俺は、事件現場のすぐそばで、ポカンとしながら他人事のように呟く。
あの気弱な夢子でさえ、圧倒的に不利な立場から俺を制圧することが出来たのだ。そりゃあサキュバスの中には、ああいう人もいるのだろう。理屈ではそうやって理解できるのだけれど、目の前で起こった出来事には、その上でなお唖然とせずにはいられない。いわゆる捕り物というやつを初めて生で見た。
驚きのあまり硬直していた通行人たちもじわじわと彼女のまわりに集まり始め、そのうちの一人が警察へ連絡し始める。バッグを盗られかけたおばちゃんは、拍手をしながら救世主のことを賛辞していた。
ちょうど横断歩道の信号が変わったので、俺も道路を渡って野次馬の一員になってみる。ヒーローと化したサキュバスの顔を一目見ておきたかったのだ。もしかしてもしかすると、同じ大学の生徒かもしれない可能性が、なきにしもあらずだと思ったから。
「すごいわね~あなた! あんな一瞬で、道路をぴょーんって、あっという間に!」
「いえ、大したことでは。それより危ないので、あまり近づかないでくださ……おっと」
最後の抵抗で男が渾身の力を見せたのか、野次馬たちに目を向け、少しそちらから注意をそらしていたサキュバスがよろめいた。とはいえ、それで男を逃がしてしまうなんてことはなかったけれど。
……けれど、再びひったくり犯を押さえこんだサキュバスが、訝しげに自分の腹のあたりを見下ろす。「泥棒」という悲鳴が聞こえた時のように、その場の人間が全員、再び凍り付いて動けなくなった。
サキュバスの腹部に十得ナイフのような小さな刃物が刺さって、服が血で濡れていた。彼女の下にいる男が、擬音で表せないような奇妙な笑い声を、その喉から秒針の音のように鳴らし続けていた。
「ざまぁみろ! クソサキュバス! はははっ!」
あの男は過去にサキュバスと何かあったのだろうか? と、俺は一時想像してから、我に返り恐ろしくなった。
俺は今、「サキュバスはどうせ死なないから大丈夫」と考えていなかったか……? 本人が望む通りの方法で夢子と毎晩を共にしていれば、無意識的にそういう認識が染みついてしまってもおかしくはないのかもしれないけれど、それにしたっていくらなんでも……。
「はぁ……」
ロングヘアーのサキュバスが、面倒くさそうにため息を吐く。そして、椅子から立ち上がる人間が言うのとまったく同じ調子で、一言「よっ」と漏らした。
ナイフの刃が折れた。カランと音を立てて柄が落ちる。
「お前とは咥えてきた肉棒の数が違う」
彼女の血に染まった服と肉の隙間から、赤黒くドロドロとした液体に塗れた欠片がひとりでに這い出して、小さな音を立てながらそれも地面に落ちた。やはりそれは、折れた刃の残りの部分だろう。
何がなんだか分からなかった。彼女の口から出た台詞も含めてだ。でもたぶんそういう魔法で、そういうセンスなのだろう。
彼女の服に付いた血はみるみる薄まっていき、最終的に完全に消えた。傷の方も同じように消えて完治したのだと思われる。まさに魔法だ。
その後警察がやってきて、ひったくり犯は無事に連行されていった。向こうも必死だったのかもしれないが、しかし最後に無駄に罪を重ねてしまったものである。その場の誰が許そうとも、血塗れの凶器を消し去ることはできないのだから。
すごかったなぁとか、ちょっと怖かった……とか、野次馬たちが口々に感想をつぶやきながら解散して行く。一人で外出していた俺は誰に感想を言うこともできずに、とりあえず今度こそ買い物へ向かうことにした。
「三神賀くん?」
……突然、誰かに呼び止められた。あまり身に覚えのない声だ。誰だ……誰だ……と頭の中を検索しても、誰も出てこない。
とりあえず振り返ってみた。この珍しい苗字で人違いということもあるまい。
「……誰?」
「あたしあたし! 高校で同じクラスだったミーモル! 覚えてない……?」
「……あっ!」
名乗られてようやく記憶がよみがえった。あれだけサキュバスを待ちわびていた頃の自身の感覚すら忘れるくらいだから、年単位で昔のクラスメイトのことは、それも友達未満の関係だった人のことは、すぐには思い浮かばなかった。
けれど確かに覚えている。彼女はイアリス・ライ・スティラート・ミーモル。友達未満だった関係の「人」というか、サキュバスだ。
ミーモルは相変わらず、生まれついての緑色のウェーブヘアーに銀河の星々が映る瞳という、嘘みたいな容姿をしていた。こういったファンタジックな容姿のサキュバスの存在は、人間の想像するフィクションが魔界の在り方と偶然一致したわけではなく、サキュバスが古来より僅かずつ人間に影響を与えていたことを意味しているらしい。
異界の扉が開く前にも、極々少数のサキュバスがこちら側へ来て、正体を隠し、夢の中でのみ活動していたというのだ。ゆえに彼女らの古い呼び名は「夢魔」であるとも。
「久しぶりだね。最初のクラス替えで別れちゃったから、三年ぶりくらい?」
「そうだな」
「今は何してるの?」
「大学行ってるよ。異界学の」
「あ~、三神賀くんそういうの興味ありそうだったもんね」
星の瞳で、ミーモルが見透かしたような笑みを浮かべる。あたしに興味があったことも知っているんだからね、という風に。
彼女の瞳に映る模様を「銀河の星々」と呼ぶのは、それは比喩であり、実際に銀河にあるそれが映し出されているわけではない。だが高校の頃から、彼女のその瞳についての噂は有名だった。「ミーモルの瞳を見るのはほどほどにしろ。比喩ではなく、吸い込まれるようだ」と。
けれど今の俺には、そんな彼女の瞳よりも、さらに目を引かれる物があった。実際に見て始めて気がついた。俺は今日まで、彼女の私服を見たことがなかったのだ。
いざ見てみれば確かに、白のロングスカートが似合う女性だった。
「そっちはどうなの?」
「あたしはねー、就職したよ。いいとこの風俗」
「すごいじゃん」
「でしょ」
約二十年前。サキュバスやインキュバスが社会に参入してきたことで、人間界の職業事情はある一部分において少しずつじわじわと、それでいて天変地異級の変化を起こしていた。結果、二十年前と現代とでは、「それ」は激変している。
二十年前の人間は想像もしなかっただろう。風俗嬢やAV女優……その他諸々の性的なものを扱う職業が、公務員並の就職倍率になる日が来ようとは。
つまりミーモルは、そういう意味ではエリートと呼ばれる部類の存在になったようだった。彼女がいったいどんな優れた部分を持っているのか、俺には容姿以外では分からないけれど、それが学歴で測る物でないことだけは確かだろう。
「あいつはどうしてる?」
「あいつ?」
「江田だよ」
「ああ、江田君ね」
江田勝太。高校に入学するよりも前からミーモルと付き合っていた男の名前だ。
彼は俺とは親しくなかったし、誰とも親しくなかった。彼とミーモルの間には良い意味で介入しがたい雰囲気があって、誰も二人に積極的に関わろうとはしなかったのだ。……といっても、俺個人は普通に嫉妬していただけだったけれど。サキュバスと付き合えるだなんて、なんてやつだって。
「別れたよ」
「あっ、そうなんだ」
「今はフリーだよ」
「へー」
……まあ、そういうこともあるだろう、高校生の恋愛なんて。相手は人間だったが、俺も人のことは言えない。
しかし、そもそも謎だったのは江田とミーモルの馴れ初めだ。なにせ人間とサキュバスが同じ学校に通うようになるのは義務教育終了後、つまり高校になってからのことだと決まっているから。幼すぎる人間には、見た目の振れ幅が大きすぎる同級生についての正しい理解を促しきれない……というのが、そういった制度が存在する理由になっている。
つまり、高校入学前から付き合っていた二人の、接点というやつが分からないのだ。家が近いとか親が仲良いとか、そういう話は聞いたことがないが……。別れてしまったとなれば、ついに本人に聞くことすら難しくなってしまった。
「ふふ、三神賀君は相変わらずだね」
「なにが?」
「サキュバスに興味津々って顔してる」
「どんな顔だよ」
異界学を受講する学生の顔に共通する物を感じたことはない。あと、二都と俺はまったく別種の容姿をしている。
俺はなんとなく、リリアから「童貞っぽい顔」と言われたことを思い出していた。……マジでそういう顔なのか?
「あたしでよかったら、教えてあげようか?」
「なにが?」
「サキュバスとのセックス」
「……いや、いいよ」
夢子のことが頭をよぎった。そのこと自体、罪悪感に襲われる。彼女の姿が思い浮かぶということは、俺がミーモルの言葉を真に受けたということだから。ミーモルの誘いを面白い冗談だと笑い飛ばす時、ifの世界の、悲しそうな顔をする夢子の姿なんて想像する必要はないはずだから。
けれどあくまでも冗談で通すため、俺は軽口をたたく。
「どうせ高いんだろ? いいとこにお勤めの人はさ」
「まあね。でも三神賀君なら、友達割引で初回は十割引してあげでもいいよ」
「マジで!? ……なーんて、遠慮しとくよ」
「そう? 自信あるのにな」
ゲームの腕を競い合うような軽いノリで言って、彼女は唇をとがらせた。それを受けて俺は、何か妙な物を感じる。
俺たちは今こんな風に、まるで突然起こった幸運な同窓会のようにお喋りしているけれど、俺とミーモルの接点なんて本当にたかが知れているものなのだ。十割引きどころか、一割分の交友関係さえあった覚えはない。どうしてそう食い下がるのだろう?
何にせよ断るのだから、理由はどうでもいいのだけれど。
「いやー悪いけど、家で待ってる人がいるからな」
「えっ、そうなの!?」
きらめく瞳を見開いて、ミーモルは露骨に驚いた。失礼なやつだ。
「そうなの。だから早く帰らなきゃいけないし、欲求不満な自分とはさよならをしたんだ」
「へぇ〜、そうだったんだ。三神賀君がねぇ。へぇ〜」
「じゃあ、そういうことで。俺そこのスーパーで買い物するから」
「あ、うん。じゃあねー」
小さく手を振るミーモルに見送られて、俺はその場を去る。高校時代の江田は、毎日こんな風に彼女から手を振られていたのだろうか。「また明日」と。
……そこで、俺は突然ひらめいた。
スーパーの自動ドアをくぐる直前、もしやと思って背後を振り返る。すると予想通り、ミーモルはまた別の男に声をかけていた。俺が思い出せていないだけで、あるいは単純に俺が知らない間柄の人というだけで、その男も彼女の知り合いか何かなのだろうか?
……いや、違うだろう。俺は知っている。サキュバスにも好みがあるのだ、誰彼構わず手を出したりなんかしない。……ものすごくお腹が空いていない限りは。
俺も似たような気持ちだった。めぼしい物を買ってさっさと帰ろう。方針としては、今日はカレーの気分だ。