アンダーライン×アンダーライン   作:氷の泥

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11 日の下で働き、月の下で従う。

 ある日の夕方。家に帰ると、鍵が開いていた。鍵を鍵穴に挿して回してみても、いつもの手ごたえが感じられなかったのだ。

 朝、俺が大学へ向かうべく家を出たあと、少し遅れて夢子は自分の職場へと出勤していく。そして夢子の方が先に帰ってきて、いつも俺のことを出迎えてくれる。それが俺たち二人の基本的な生活リズムだった。つまり家の鍵が開いているというなら、その原因はほぼ確実に帰宅した夢子の閉め忘れなのだ。

 鍵を閉め忘れてしまうことくらいは誰にでもある、そう気にすることでもないだろう。しかし夢子の方もそう考えてくれるのかは分からない。俺は出来るだけ彼女のメンタルに優しい「鍵、開いてたよ」の言い方を考えながら扉を開く。

 ……家の中から、一切の物音がしなかった。夢子がいるはずなのに。出迎えもなければ、足音一つとしてない。

「…………」

 分かるだろうか? 閉めたはずの鍵が開いていて、その中の部屋は無音であることの不気味さが。半開きの扉のドアノブを握ったまま静止した俺は、この状況を途端に不安に感じるようになった。

 これは何か、すでに俺の予想を遥かに超える、何らかのまずい事態が起こっているのではないか……? この期に及んで夢子が消えるということはないだろうけど、例えば仕事が立て込んだ彼女はまだ帰っておらず、この鍵を開けたのは泥棒であるだとか。その泥棒が、今も部屋のどこかに身を潜めているだとか……。

 しかし俺だって分かっている。そんな稀な災難は、めったに自分の身に降りかかるものではないのだと。雰囲気だけを理由に湧く不安と恐怖に踊らされて、何でもない自宅の前で立ち往生してしまったという間抜けな話の方が、ずっとあり得そうなくらいだ。そうだろう。

 何もまずいことはない。夢子が鍵をかけ忘れたのは一度帰宅してから、コンビニにでも出る時のことだったのかもしれない。オバケなんてないさ、泥棒なんてないさ。臆病な俺が、びびりすぎなだけさ。

 覚悟を決めて玄関へ踏み込み、俺は慎重に部屋の中の様子をうかがう。何かやばいことがあったら全力で逃げようと決めていたから、及び腰で。

 そして特殊部隊のように安全を確認しながら進むうち、リビングでそれを発見した。

「……し、死んでる」

 と、一瞬思ってしまうくらいぐっすりと、夢子が爆睡していた。眠気と戦いながらなんとか帰宅したのか、靴を脱いでふらふらとそのままベッドの上に倒れ込んだかのような形で寝息を立てている。彼女の私物である小さなバッグが、排出された薬莢のように傍に捨て置かれていた。

 とりあえず俺は、玄関の鍵を施錠した。

「夢子さーん?」

 返事がない。わりとノンレム睡眠のようだ。

 日の暮れかけた薄暗い部屋。窓から見えるジオラマみたいな街路樹が風に揺れている。季節がら部屋の空気は蒸しており、俺は窓を開けて網戸からの風を求めた。まだ夜の匂いはしない。

 感慨深い物があった。「おかえりなさい」の声がないことを、こんなに寂しく思う日が来ようとは。

「さて、たまには働くか」

 ずいぶんと長い間、夢子に家事をやってもらっていたように思う。自分一人でそれらの作業を片付けるのは久しぶりだ。改めて、贅沢をしていたことを実感する。

 そもそもサキュバスとは本来、夜行性である。古来の彼女たちが夢の世界でのみ活動していたことからもそのことが伺える。サキュバス向けのテレビ番組が深夜放送ばかりなのは、お茶の間を凍りつかせないためという理由以外にもう一つ、そもそもメインターゲット層がその時間の放送を望んでいるという背景もあるのだ。

 けれど、人間社会に参入したサキュバスの全てが、なんらかの夜の仕事に従事出来るというわけではない。人間界で暮らす彼女らの数が増えていった結果、単純にその手の仕事の雇用数からあぶれることによって、仕方なく昼の仕事をしなければならないようなサキュバスたちも出てきている。彼女らにとってのそれは、人間にとっての夜勤に似た働き方なのかもしれない。

 それを思えば、夢子が今まで元気いっぱいのままで出迎えてくれていたことの方が不思議だったのだ。本来なら今のように、疲れ果ててしまっていてもおかしくないわけで。まあどんな仕事をしているのかは知らないのだけれど……。

 ……そう、俺は未だに知らなかった。夢子が何の仕事をしているのか、具体的には何も把握していない。興味がないわけではなかったけれど、……なんとなく怖くて聞けなかったから、少しも知らない。

 何が怖いのかといえば、夢子の方から仕事や職場についての話題を出してくることが一切ないことだ。働いているとは言うが、どこで何をしているのか本人の方から明かしてくれることはない。本当にただの一度もなかった。だから俺もある時から嫌な予感を覚え始め、何をして働いているの? とは聞けずにいたのだ。何か話したくないことがあるんじゃないかと勘ぐって。

 けれどいよいよ、その嫌な予感よりも、興味の方が上回ってきたような気もする。夢子が起きたら聞いてみよう。今日なら話題の切り込み方としても自然になるはずだ。

 まあ、それはそれとして。とりあえず俺の今するべきこととして、まずは風呂を沸かすことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 自分の邪な心を自覚しながら家事をするのは初めてだった。百回の願いというシステムを作ってまで「急なこと」を嫌う夢子にとって、眠姦はNGだろうなぁとか、とにかく気が散ることこの上ない環境であることを再認識したのだ。

 ぐっすり眠っていたサキュバスが、もぞもぞとその体を動かし始めたのは、すっかり空が暗くなってからのこと。フライパンの上で豚肉とピーマンに火が通っている最中のことだった。

「うーん……?」

 むくりと起き上がった夢子が、俺を見る。窓の外を見る。壁にかけられた時計を見る。それから、自分の型がついた布団をぼーっと眺めてもいる。

 しばらくの間、ロード音がギコギコ聞こえてくるのではないかといった具合で動かなくなった夢子。そんな彼女が次にこちらを向いた時、その顔は蒼白としていた。

「お、おかえりなさい」

「ただいま。よく寝てたね」

「す、すみません。あの、すぐにお風呂の準備を」

 そこで俺も、ああしまったと気が付いたのだった。

 やや関係のないことだけれど、アメリカの学校には掃除の時間がないらしいことを思い出した。子どもたちが掃除をしてしまっては、掃除員さんの仕事がなくなってしまうからだ。

 特に深い考えなく、俺は夢子から仕事を取り上げてしまった。お願いをされないことを、彼女がどれだけ嫌っているか知っていたはずなのに。

「あー……。ごめん、それ俺がやっちゃった」

「え……」

「気持ちよさそうに寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」

 たかだか家事を一日やらなかったくらいで、何もそんなアイデンティティを否定されたような顔をしなくてもいいじゃないか。……という思いが、顔に出ていなかったことを祈る。

「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」

 ペコペコと夢子が何度も頭を下げる。これが平謝りというやつかと思った。

「いやいいよ。というか、むしろ今までの夢子が凄すぎたよ。サキュバスって夜行性なのに、よく考えたら今まではいつ寝てたんだ……?」

「そ、それはその、エッチが終わったあとと、夕方ユウジさんが帰ってくる前に少し仮眠を……」

「サキュバス的にはほぼ昼夜逆転か……」

「だ、大丈夫ですよ! 大人ですもん!」

「大人ね……」

 若干、否めない理屈ではあった。大人になって、社会の歯車の一員となる人間たちは皆、小学生の頃に言われた「早く寝なさい」の言葉を忘れる。大抵の人は睡眠時間と自由時間、捨てがたい二つを天秤にかけることを強制され、その結果、睡眠時間を削ることを選んでいくようになる。

 人間界で生活したければ、昼間起きていることくらい我慢しろ。……と、サキュバスたちにそんなことを言う人間がいたとしても、悲しいことではあるけれど不思議なことではないように思う。あるいはサキュバスたちが、誰に言われることもなく自主的にそう考えたのだとしても。

「でも夢子、寝たい時には寝ていいんだよ」

「……ありがとうございます」

 その時の彼女の表情は、俺には不服そうに見えた。夢子にとっては、疲れた中で叩き起されてでも、何かをお願いされた方がマシなのだろうか。もしもそうだとすれば、それは、人の役に立ちたいからなのか? それともやはり、いち早くカウントダウンを進めたいからなのか?

 彼女の心の中にある答えがどれだったとしても、俺の中に残る疑問は同じ物が一つだけとなる。……なんでだ? なんでそれがそんなに大事なんだ? と。

「いただきます」

「いただきます」

 豚肉とピーマンの炒め物と、味噌汁と、サラダ。何かもう一品くらいあった方がいいかなと作ってる途中で思ったけれど、よく考えればこれが俺の普通だった。夢子が作る時はしばしばそうではないというだけで。

 例によって映される録画番組を横目に、俺は夢子に聞いてみることにする。これもまた今日玄関の扉を開けた時のように、まずいと分かればすぐに回れ右をする体勢を万全に整えて。

「ところで夢子のやってる仕事って、どんな仕事なんだ?」

 ピタリと、彼女の動きが止まった。なるほど、やばいな、回れ右だ。

「いや、別にな」

「カフェで働かせてもらってます。ホールスタッフっていう、いわゆる接客なんですけど」

「ああ、分かる分かる」

 俺はコクコクと頷く。蜘蛛の糸を握ったような気がした。

 話しだしてみると、うっすらとだけれど、夢子は思いのほか楽しげな微笑みを浮かべるものだった。

「カフェといっても、コラボカフェなんですよ。アニメとかとコラボして、こう、いろんな変わった商品を出すような」

「あー、分かる分かる。行ったことはないけど、行った人が撮った写真くらいは見たことある」

「そこで働かせてもらってます。結構楽しいんですよ」

「なるほどなぁ」

 コラボカフェの店員として働く夢子を想像してみる。好きなコンテンツのコラボ商品を目当てに来るのだから、そこへ来る客たちは普通のカフェの客層と比べれば、なんというか、熱意に満ちた人たちなのだろう。その人たちからの注文を「はい、はい」と聞く夢子の姿を思い浮かべる。……ただ働いているだけなのに、なんだか楽しそうにしている夢子の姿が思い浮かんだ。

 言われてみれば確かに、夢子の好きな職種はといえば接客であるような気もする。俺の思い上がりかもしれないけれど、彼女は人から何かを頼まれることが好きなように見えるから。そしてもしも本当に夢子が「何かを頼まれること」を好んでいるなら、接客というよりは「仕事」という概念その物が好きそうだなとも思った。

「仕事は楽しい?」

 油断して、無神経なことを聞く。この人間社会に、好きで働いている人などほとんどいないというのに。

 夢子は、にへっと無邪気な笑みを浮かべて答えた。

「楽しいですよ。お客さんと関わるのは好きですし、あぁそれに今日なんて、巨人を臣人って書く人がいたんですよ。あ、今は進撃の巨人とコラボしてるんですけど、職場のリーダー的な人が巨人の巨の字を間違えて書いていて……」

「へぇ〜」

「それからシルバニアファミリーとのコラボの時には、意外と男性のお客さんも多くて……」

「ふむふむ」

 まるで小さな子どもが親に話すように、それでねそれでねと、夢子が職場の話をしてくれる。今まで話してこなかったことが不思議なくらい、彼女はその話題を数多く持っており、また饒舌だった。

 楽しそうに話す夢子を見ると、こっちまで嬉しい気分になる。だから俺はすっかり、「大丈夫だ」と思ってしまったのだ。

「いい職場なんだな」

 ……また、夢子の動きがピタリと止まった。大皿に伸ばされかけた箸が、彼女の笑顔と共に引っ込んでいく。

「……私にとっては、そうですね」

 いかにも、後戻りするには手遅れだった。

「え……?」

「職場の人は、正直、私のことをよく思っていないと思います。サキュバスのことが、あまり好きではないみたいなので」

「な、なんで?」

「いやらしいから」

 誰かの言葉を反芻するように、うつむいたまま夢子が言う。

「サキュバスが昼の世界に出てくることをよく思わない人は、結構いるんですよ。いやらしい、空気が悪くなる、なんでサキュバスがここで働いてるんだって。……実際に前の職場では、私のせいで人間関係をおかしくしてしまったこともあって、反論の余地もないんですけど……」

「誰が言ったんだ」

「え?」

「そんなこと、誰が言ったんだよ」

 軽々しくそんなことを言ってはいけない、思ってもいけないと知っているけれど。俺は、夢子にそんなことを言った人間に対して、言ってしまえば……殺意を持ったように思う。

 もちろん本当に殺してやりたいとか、死ねばいいとまで言うつもりはない。でも、そういう時代錯誤の悪意を平気で口にできる人間が、それも本人の前でそれを言ってしまえる人間が、何の報いも受けないまま今頃テレビでも見て笑っているのかと思うと、それは納得がいかなかった。

「誰って、……誰でもよくないですか?」

「よくない。教えてくれ、誰なんだ」

「それは、お願いですか?」

「……あぁそうだ」

 俺がお願いをする時、夢子はいつも嬉しそうにしてくれた。それがただの雑用でも、酷い欲望のはけ口でも、了承すれば泣くほど苦しい目に遭わされることが分かっていても、いつも彼女は嬉しそうに俺の願いを聞き届けてくれた。

 だから今日初めて、「お願い」をするタイミングでは初めて、俺は彼女の複雑な苦笑を目撃した。

「さっき話した、巨人を臣人って書いた人ですよ」

「…………」

「もう何年もそこで働いている、ベテランさんなんです」

「……あぁ、そうなんだ」

 お願いをしてまで聞いておいて、返す言葉が見つからなかった。

 何かを頼まれるたびに嬉しそうな顔をして、誰よりもいい返事で応える夢子。雑用を任されただけでも待ってましたとばかりに微笑んで、なんなら歌を口ずさみだしそうなくらい機嫌良く働く夢子。……俺は、俺の想像していた「カフェで働く夢子」が、単なる俺の願望、妄想であるように思えてしまって、二度とその意識を振り払うことが出来なくなった。

 それを察してか、夢子が底抜けに明るい笑顔を、努めて作って見せる。油断すれば重い沈黙が降り、明日まで消えなくなるであろうその空気を、強引にでも振り払おうとしてくれたのだ。

「あと33回ですよ、ユウジさん」

「……そうだな」

 俺の方ばかり作り笑いが下手で、申し訳なかった。

 一方で、夢子はたたみかける。沈黙を振り払おうとする笑顔は、早くも姿を消していた。減りゆく数字に頭を支配されたみたいに。

「その、よかったら……今晩はたくさん命令してくださいね? 寝ちゃってた分、私がんばりますから」

 媚びるような瞳、卑屈な笑み。サキュバスだからなのか、それとも単なる性格なのか、夢子の表情は時々そんな風に、一瞬で色が変わる。それは、俺が相手だからなのだろうか? 俺と、今のような関係を築いているためなのだろうか。それとも彼女は、大抵の人間に対してそういった表情を見せているのだろうか。

 私がんばりますから、精いっぱいがんばりますから……。職場でもそんな風に下手に出ている夢子の姿が思い浮かぶ。彼女のそんな表情を蛇蝎のごとく嫌うというのなら、その上司というのは、きっと女だろう。

「そんなこと言って、後悔しても知らないぞ」

「大丈夫です!」

 媚びへつらう夢子の瞳には、しかし同時にハートマークが浮かんでいるようにも思えた。俺はそれが、嫌いじゃない。

 

 

 

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