アンダーライン×アンダーライン   作:氷の泥

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終 夢子の夜明け

 あの日以来、同じような悪夢を見ることが増えた。俺の知っている全ての女性に、ことごとく拒絶される夢。時には元カノが出てくることもあった。

「たしかに、なんでもいいとは言ったけどさ」

 高校当時と少しも変わらない顔のままで、吐き捨てるような笑みを浮かべながら言う。現実の彼女が本当に俺の記憶のままの姿をしているのか、そんなことは分からないけれど、唯一はっきりしているのは、現実にも夢の中にも、かつての彼女が浮かべた聖母のような表情は存在しないということだ。……あるいは、俺以外の誰かにそれは向けられているのだろうか。

 俺は彼女に、もうしないから許してくれと、勝手に吊り上がろうとする唇の端を必死に抑えながら乞った。けれどその弾みで、彼女に一歩近づいた瞬間。

「近寄らないで!」

 親の仇を見るような形相で怒鳴られ、身を引かれた。

 そして目が覚めると、横にはスースーと寝息を立てる夢子がいるのだ。窓からはカーテン越しの朝日がチラチラと部屋を照らす。昨晩つけられた痕は、夢子の体から全て消えている。それが「普通」だった。

 悪夢を見るペースが増すにつれて、夜がやって来ることが恐ろしくなっていく。しかしそれは避けようがないことだった。夜は必ず来る。俺は必ず夢子を犯し、痛めつけて、そして必ず眠ってしまう。

 ある時、隣で必死に呼吸を整える夢子の気もしらないで、俺がまどろんでいた時。やっと話せるくらいの余裕を取り戻した夢子が、こんなことを言っていた気がする。

「……ユウジさん、私ね、自分がつらいと、それだけで役に立てている気がしてしまうんです。変ですよね……。たとえば私が舌を噛み切ったとしても、ユウジさんは喜ばないのに……」

 自分が子どもの頃にしていたおかしな勘違いを笑うように、それは後腐れのない口調で語られた。

 彼女がそんなことを言っていたのは、俺がまた寝言のように戯言を繰り返していたせいだったのかもしれない。どうせ本当は思ってもいないくせに、何を改めることも出来ないくせに、ごめんな……ごめんな……と。

 夢子がそれを語ったことは、その一度きりだけだった。もしかしてあれは夢だったのではないかと、俺は今では思っている。夢と現実をはっきり区別する自信がなかった。

 けれど、きっと夢なら不条理なことがあるだろうと考えて、一度だけ「舌を噛み切っても喜ばない」という部分に注目してみたことがあった。なぜそんなことが夢子に分かる? こんな、人の心がないような趣味をしている男なのだ、舌を噛み切る夢子を見て、勃起しているかもしれないじゃないか。なのに「ユウジさんは喜ばない」と断言したことは、まさに不条理で、だから夢だったのかもしれないと。

 けれど、それからしばらくして気が付いた。俺はパソコンの中に、女の子が舌を噛み切る描写のある創作物は入れていなかった。単純に趣味ではないからだ。まともな人たちが聞けば「基準が分からない」と軽蔑するかもしれないが、舌を噛み切るなんてことは、いくらなんでもひどいと、俺も思うのだ。本当に心の底からそう思うのだ。鞭代わりのコードで身を打たれ、そのたび短い悲鳴を上げる夢子を見て興奮するのと同じ心で、けれど本当に思うのだ。

 パソコンの中に該当する内容の物がないこと。夢子はそれを根拠に言っていたのだろう。ならば夢子は、すでにある法則性にも気が付いているのかもしれない。俺が血を見ることを苦手としていることに、気が付いているのかもしれない。血は元々得意ではなかったが、あの出来事によってそれははっきりとトラウマになった。あの夜の、風呂場の床をつたう血流を見てからは。

 悪夢の中で血を流した女性はいない。……まだいない、というだけなのかもしれない。出来ることなら眠りたくはなかった。

「あと3回です、ユウジさん。もう少しですね……?」

「もう少しで、結婚か……」

「そうですよー。えへへ、楽しみですね」

 俺の横に寝ころんだ夢子が、本当に、これ以上の喜びはないってくらいの笑顔でそんなことを言う。そんな夢子の手首についた、縄できつく縛られた痕はまだ消えていない。時間がかかるのだ。

「ユウジさんと結婚できたら……きっと幸せでしょうねぇ……」

 夢子が、さっきまで潰れるカエルみたいな声を出していたのと同じ口から、乙女チックな楽しみを語っている。彼女の言う幸せとはなんだろう? どうしてそれが手に入ると思うのだろう? 俺には理解できなかった。

「……なぁ夢子」

「はい」

「結婚って、いったいなんだ……?」

 口に出してから、しまったと思った。一番してはいけないことをしてしまったと気付いた。夢子の喜びに水を差すなど、絶対にしてはいけなかったはずなのに、それをしてしまったら、彼女に今まで俺の欲望を押し付け続けてきた意味がなくなってしまうのに、なぜかフッとその言葉が口から出てしまったのだ。

 夢子が返事をしてくれるまで、長い長い十秒間が部屋の中を漂った。

「ユウジさん、そんなことは考えなくていいんですよ」

 意外にも、そして幸いなことに、夢子は機嫌の良さそうな笑みを浮かべたままだった。……その口から出た言葉は、聞き間違いか何かかと思ったけれど。

「長かったですね。ようやくです。ようやくですよ……」

「……結婚したら、俺たちはどうなる?」

 まるで、長い旅の「終わり」かのようなことを言う夢子に、俺は次第に不安になってくる。

 知識による安心は脆い。俺は、「結婚」という言葉に対して自分が持つ知識にすがっていたのかもしれない。結婚するのだから、それは「終わり」ではないと思っていた。けれど、それは本当にそうなのか? 夢子の考える「結婚」も、「終わり」ではない物なのか……?

 彼女が何か一つだけ、取り返しのつかない勘違いをしているだとか、そういったことはないのだろうか。たとえば人間のオスは結婚をすれば、全員が必ず優しくなるのだとか。

「どうなるって……。知りたいですか?」

「そりゃ」

「お願いしてくれたら、教えてあげますよ」

「……なるほど」

 俺も気が長い方ではないから、夢子の急く気持ちもよく理解することが出来た。

 念願まであと3歩というところまで来れば、一気に消化してしまいたくもなるものだろう。すでに97回を乗り越えた夢子にとって、一度に3つの苦痛が襲いかかってきたところで、さほど致命傷にはならないのだろうし。

 そう、俺たちの関係がどうなるにせよ、百回の願いという取り組み自体は、どうあってもそれで終了する。あと3回で終わるのだ。終わり、結婚して、仮にその後の結婚生活が幸せなものになったとして、……夢子はもう俺の願いを聞いてはくれないのだろうか。

 夢子が俺に、嫌だと言う日が来る。それはすぐ傍まで来ている。嫌です、やりたくありません、自分でなんとかしてください。そう言って、今まで二つ返事で快く受け入れてくれたことを、笑顔で請け負ってくれたことを、冷たく突っぱねられる時が来るのだろうか。それとも夢子は結婚したあとも、それなりに俺のお願いを聞いてくれるのだろうか。

 あと3回。あとたった3回になって、俺はようやく真剣にそれを想像し始めたように思う。なぜ今までちゃんと考えてこなかったのだろう。悪夢を振り払うことに必死だったからだろうか。自分の罪悪感を可愛がることで、必死だったからだろうか。

 夢子もいつか、近い将来、「触らないで!」と俺を突き飛ばすのだろうか。サキュバス故の強力な力で、百回も聞いたんだからもういいだろうって。

 ……いや、そんなことはない。夢子に限ってそんなことはない。彼女はサキュバスなのだ、人間とは違う。心が違う。何がどう違うのかは分からないけれど、とにかく違う。

 けれど、もしそうなら、例えばこんな願いだって聞いてくれてもいいはずじゃないか……?

「なぁ夢子」

「はい」

「お願いを百回に戻してくれ……っていうお願いは出来るか?」

「それはダメです」

 即答だった。気のせいか、まるで最悪の一線を踏み越えてしまったかのような冷たさを、夢子の声に感じた。

「ルール違反ですから」

「……まぁそうか」

 それが夢子本人以外に誰一人として審議する者のいない自分ルールだったとしても、たしかに破綻していることは否めない。そんな願いが許されるのなら、初めから無限に願いを聞くと言っていればいいのだから。

 しかしそれなら、それでも、まだ手はあるはず。夢子は俺のことを、突っぱねたりしないはず。拒絶したりしないはず。夢子は俺を、否定しないはずなんだ。

「わかった。……ならお願いは、もう使わない」

「えっ」

 俺が自身の欲望を性癖を隠そうとした時以上に、夢子はもっとはっきりと「絶望」を顔に浮かべた。

「ただし一つ約束してくれるなら、あと3つを一気に使ってもいい」

「……なんでしょう?」

 夢子は、おそらく無自覚に、こちらを睨みつけていた。積年の恨みをこめるかのように、目の前の人間を、生かすか殺すか思案するように。

 けれど、実際に夢子が俺を殺すことはないだろう。彼女がサキュバスという「安全な存在」だからではない。そんな脆そうな知識による安心ではない。俺は、彼女のことを信用しているのだ。……より正確に言えば、もはや信用するしかないのだ。悪夢に出てきたことがない女性は、夢子ただ一人だけなのだから。

「結婚してからでいい、100回が終わってからでいい。夢子の願いだって出来る限り聞くから、頑張るから、そうしたら俺の願いを、この先も無限に聞いてくれないか……? お前しかいないんだ。俺には夢子しかいないんだ。見捨てないでくれ、夢子……」

 それは、意外なほど滑らかに口をついて出た。

 悪夢に怖気づいたのか。それとも、俺の中にずっと居座っていた畜生が、時の流れによって表面化したのか。何にせよそれを口にすることには、ほとんど躊躇いが伴わなかった。スラスラと、何度も読んだ文章を音読するように、当たり前のように言うことが出来てしまった。

「それは100の命令ではなくて、単なるユウジさんの望み……という意味ですか?」

「そうだ、俺の勝手な望みだ。けどそれを叶えてくれるなら、約束してくれるなら、今すぐ願いを使い切って結婚すると約束する! 頼む夢子、頷いてくれ、頼む……!」

 本当にそんなことが、恥ずかし気もなく言えてしまうものだった。俺は今までの生活で、彼女に何かを頼むという行為自体に慣れきって、麻痺してしまったのかもしれない。

 けれど、口に出してみてやっと分かった。俺があれこれと理屈をつけて、夢子のことを痛めつけ続けていた理由が、やっと分かった。単純なことだ。ただシンプルに「そうしたい」から。俺がクズだから、根性が腐っているから、それだけだった。

 俺は、手放したくない。あれだけ罪悪感がなんだとか、夢子を傷つけたくないだとか、グダグダと言い訳をしながら続けていた毎晩の行いを、けれどやっぱり手放したくない。それを受け入れてくれる相手を、背徳と興奮と快感を、今さら捨てられない。こんなに長い間俺にそれをくれたのは、夢子だけなのだ。

 つまり俺は、夢子をまだ傷つけ足りないと思ってしまった。何度も何度も欲望のままに振る舞ってきたのに、まだ足りない。悪夢の中の連中は正しかったのだ。そうして然るべきだから、誰もが俺を拒絶する。

 でも、だから夢子にだけは、この先もずっと間違え続けてほしかった。

「ふむ……。願いを無限に、ですか……」

 天井を見つめて、夢子が思考に耽る。普通に考えれば答えはノーだろう。100回耐えれば終わると思っていた苦痛が、これから一生続くと分かったら、普通なら心が壊れてしまう。だから、そこに自ら向かうことも出来ない。

 けれど夢子なら……と思ってしまう。夢子は特別だ。特別に俺のことを許してくれる、夢子だけが、俺の欲求を受け入れてくれる。これまで何度もそうしてくれた。だから夢子なら……。

「それは、なんでもとはいきませんね」

 夢の中の自分と同じように、喉から勝手に声が出た。

「だよな」

「でも、今までと同じような願いなら、いいですよ」

「……え?」

 これまでで一番身勝手な欲求を押し付けたことを、それを拒否されたことを、どうやって取り繕おうかと必死に考えていたところだった。

 耳を疑った。夢子が、言葉の選び方を間違えたのだと思った。「今までと同じ」が何を意味するのか、よく分かっていないまま言っているのだと。

 けれど俺の知る限り、夢子は一度も言葉の選び方を間違えたことがなかった。彼女が「なんでも」と言えば、それは本当になんでもだった。

「同じって、それがどういう意味か」

「これからも私が、今までユウジさんにされたようなことと同じ目に遭わされ続けるってことですよね? それから家事をしたり、何かと便利に使われて……」

「分かってるなら、なんで「いい」なんて言うんだよ」

「頼られることが好きだからですよ」

「好きって言ったって限度が……」

「ありませんよ。限度なんて」

「……じゃあ本当に!」

 ぞくりと、背筋に冷たい怖気が這う。

 限度なんてない。俺はその言葉を聞いて、期待に胸を膨らませ夢子の顔を見た。聖母のような声で全てを受け入れてくれる夢子。そんな彼女の顔が、しかし微笑んではいなかった。そこに表情はなかった。ただ、夢子の目が据わっていた。

 淫紋と同じ鈍いピンク色の光が、彼女の瞳の中に灯っているような気がした。それを見て、俺は一つ、気が付いた。走馬燈のように、今まで夢子と共にした時間が、今までに見た夢子の顔が、激流となって記憶の中に舞い戻ってくる。

 一つ、失念していたことがあったのだ。

「お前……」

 俺が驚き、恐れ、硬直していることを知ると、夢子はにこりと微笑んだ。それがどういう意味を持つことなのかは分からなかった。

 夢子との日々は依然として脳裏を駆け巡る。いろいろなことがあった。そして都合が良いことに、俺の頭の中には、楽しい記憶だけが次々と浮かんでくる。きっと夢子にとってはそうじゃないだろうに。

 そう、誰にとっても、俺の願いを聞き続ける生活など、楽しい物じゃないはずなのに。夢子だけがそれを否定していた。笑って、喜んで、幸せだと言ってくれていた。……どうして彼女にはそんなことが出来たのだろう? サキュバスだからか? でもそんな話、聞いたことがない。サキュバスにも人間と同じように「嫌」があって、苦痛があって、だから俺たち人間は、彼女たちと関わる時も「人間同士」の時と変わらず、理性や気遣いを保たなければならないんじゃなかったのか……?

 100の苦痛が無限に化けたら、人の心は壊れてしまうなんて、ふざけている。そもそも「100の苦痛程度」なら、人の心に耐えられるとでも考えていたのか? 俺は、本気で? 夢の中で言われたじゃないか。「される側の苦しみが分かったか」と。俺は、現実の方では、一度もそれを味わっていない。絶対に、絶対に絶対に絶対に、それを味わいたくはないからだ。人間誰しもそうだろう、サキュバスだってそうだろう。

 いつからだ? 初めからか? それとも途中のどこかから……?

「夢子、お前……」

「はい」

「お前は……」

 走馬燈が終わる。全てを思い出し終える。そうか、そうだった、と合点がいく。

 俺は、トラウマを思い出していた。世界中の誰でもなく、ただ俺一人だけが、それを忘れる権利を持たないが故に。

 よく考えてみれば分かることだった。俺はそれを真剣に考えたことがなかったのだ。

 夢子は、俺から拷問されるためだけに、首を掻っ切って見せた。

 いったい、それのどこが、「壊れていない心」だというのだろう。

「本当に今までと同じことが、一生続いてもいいと思ってるんだな……?」

「はい! もちろんです!」

 壊れたサキュバスが、満面の笑みを浮かべた。

「ユウジさん、約束しましたよ? あと3回、お願いしますね?」

「……じゃあ、とりあえず一つ目」

「はい」

「抱きしめさせてくれ」

「どうぞー」

 夢子が腕を広げて俺を迎える。無防備な腹にできた青紫色のアザが、淫紋の光に照らされて暗闇に浮かび上がっていた。

 俺は夢子を抱きしめる。彼女は少しも怖がらなかった。今さら愛するフリかと笑うこともなかった。ただ幸せそうに、抱きしめ返してくれるだけだった。

「二つ目」

「はい」

「俺のことを許してくれ」

「ユウジさんの……何をでしょう? 私、何もされてませんけど」

「今までしたことの全部と、これからすることの全部」

「ふむふむ。……いいですよ?」

 抱き合う形のまま、夢子が俺の頭をなでる。それは細くて、儚く、力ない手だった。そう本当ならそれは、傷つけられることのないよう守られるべきものであるはずで……。

「よしよし、大丈夫ですからね。誰も怒ってませんよ。誰も傷ついてなんかいません。だからユウジさんは、そんなに自分を責めなくて大丈夫なんですよ」

「……俺が自分を責めてるって、なんで分かる」

「ふふっ。それくらい、見てれば誰でも分かりますよ?」

 夢子が、よりいっそうギュッと俺のことを抱きしめる。私が守ってあげるとでもいう風に。あるいは、ここ以外のどこへも行かせないという風に。

「ユウジさん、最後の一つは?」

「……最後、三つめ」

「はい」

 必要だと思ったことがないから、この部屋には姿見がない。鏡の類が何もない。洗面所にあるそれで、全てが事足りると思っていたから。

 この部屋に鏡を置かなくて、本当によかったと思う。自分の姿を客観的に見ることが出来ていたら、俺はそれを言うことができなかったかもしれないから。

 何しろ俺は裸で、裸の女に抱きしめられながら、よしよしと頭をなでられながら、それを言うのだ。

「俺と結婚してくれ、夢子。頼む……」

「もちろんです、ユウジさん」

 背中を抱く手がほどかれて、夢子が唇にキスをする。チュッと、ただ触れるだけの、愛を示すためだけのキス。記憶を振り返れば、俺は夢子にそれをしたことが一度もなかった。

 俺が彼女にキスをする時はもっと、貪るような、蹂躙するような、一方的に押し付けるような、縋りつくような……。

「誓いのキスです。もう夜も遅いですから、今はこれでもいいですか……?」

「ああ」

「私、ユウジさんのお願いを、ちゃんと100回聞けましたよね?」

「ああ」

「…………やっっっっったああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

 ……つんざく声。月まで届くような、歓喜の声。今まで上げたどの悲鳴よりも大きな、壊れた夢子の喜びの叫び。

 思わず俺の肩は跳ね、体は硬直する。心臓は収縮したまま呼吸を忘れる。夢子は手足を使わず、体をしならせるだけでベッドから飛び起き、部屋中を跳びまわった。

「やったあ!! やった!! やった!! やった!! やった!! やった!! やったあああああ!!」

 馬鹿な俺はそれを初め、発狂だと捉えた。結婚に憑りつかれた夢子の、自分で決めた規則に縛られた夢子の、ついに訪れた発狂なのだと。そして俺はある種感慨深げに、それを見守った。

 この期に及んでそうであってこそ、俺はどうしようもなく俺だったのだ。馬鹿で、最低で、いつも手遅れになってばかりの、三神賀雄二だった。

 気が付いた時には己の体の、首から下を動かすことができなくなっていた。俺の両手と両足は、鈍いピンク色の光を放つ鎖に繋がれていて、首には同じような光の首輪がはめられていて、全ての拘束具から伸びる鎖が、夢子の手の中に収まっていた。

「やっと! 魔法が発動した!!!!」

「…………は?」

 本当に、首から下を動かすことが出来なかった。ピクリとも動かせない。なのに確かに、布団の感触だけはきっちり伝わってくる。首から下の感覚を失ったわけではないのだ。夢子の絶叫がもたらす空気の振動も、文字通り全身で感じ取っている。

「あぁ、わけがわかりませんよね。混乱してますよね。大丈夫ですユウジさん、私がちゃんと全部説明してあげますからね」

 愛おしそうに、猫なで声の夢子が、俺に向かって語りかけてくる。彼女の瞳の中にはハートマークが浮かんでいた。比喩ではない。本当にピンク色の光が、俺の体から伸びる鎖と同じ色の光が、彼女の瞳の中に象られ、灯っているのだ。

「ユウジさん、サキュバスがそれぞれ独自の魔法を使えることは知っていますか? 私たちはみんな、力を強くしたり空を飛んだり死ななくなったりすること以外に、それぞれが得意な魔法を使うことが出来るんですよ」

「し、知ってる」

 黙っていると圧倒されっぱなしになって、何かが取り返しのつかないことになる気がした。だから俺も喋る。喋ったところで、まさか助かると思っているわけじゃないだろうに。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないだろうに。

「友達に同じようなことを言っているやつがいて、具体例も見た。リスクがあるんだろ! サキュバスの魔法には必ず、メリットとデメリットがあるんだ!」

 光の鎖が、じゃらりと音を立てる。

「素晴らしいです! その通りです! 異界学を学ぶ学生さんですもんね、しっかりしてますねぇ。……でも」

 絞め殺すような勢いで、夢子が鎖の束を引く。どういうわけか身動きが取れない俺は、鎖の音と共になすすべもなく引きずり倒された。硬い床の上に、うつ伏せに投げ出される。少しだけ痛い。

「あんまり他の女の話をしないでください。不愉快です」

 首をひねり目を動かすことで、どうにかして「上」を見る。俺のことを見下ろす夢子が、支配者の顔をしていた。

 夢子がずっと、俺と知り合ってからずっと、毎晩のように受け止めてきた目と同じだ。俺はずっとあんな顔をして、彼女のことを見下ろしていたのだ。そして俺はその上、彼女のことを……。

「私の魔法は、人になんでも言うことを一つ聞かせる魔法です。そのかわり私が負わなければならないリスクは、言うことを聞かせたい相手の望みを、まずは私が百回叶えること。……私はこの魔法を使うために、物理的に可能な限りなんでも、どんなことでも、百回従わなければならなかったんです。でもそれが終わったら、今度は私の番。私が一つだけ、ユウジさんになんでもさせることができる……」

「……まさか」

「あぁ、ユウジさん。私、痛かったです。苦しかったです。つらかったです。何度も死んじゃうって思いました。怖かったんですよ? 気付いてましたか? ねぇユウジさん?」

「……やめろ」

「私、すっごくすっごく頑張りました。あなたの欲望、全部受け止めました。毎晩毎晩、拷問みたいなことをされたけど、ちゃんと耐えました」

「やめろ……」

「ユウジさんだって一回くらい、頑張ってくれてもいいはずですよね……? 私、本当に苦しかったんですもん。……ね?」

「やめろ!!」

 這いつくばったまま、彼女の顔を見上げることすら諦めて、俺は床に向かって命乞いの言葉を吐く。吐き続ける。

「悪かった! 俺が悪かった! 頼むからやめてくれ! なんでもする、謝る、どんなことでもするから、頼む、許してくれ、悪かった、悪かった、夢子……!」

「……なんでもするなんて、当たり前じゃないですか。そういう魔法なんですから」

「……な、なんで! なんでそんな、契約みたいな! 俺は何も聞かされてないのに!!」

 夢子の表情が見えない。怖くて、そちらを見ることが出来ない。頭上から、くすくすという笑い声が聞こえる。夢子は本当に、嬉しい時は嬉しそうに笑うのだった。

「聞かせる必要なんてないじゃないですか。たった一つのお願いのために、私は百回も命令を聞いてるんですよ? リスクはそれで十分なんです。助かりましたよ、「なんで百回願いを聞くのか答えろ」なんて言われなくて」

「そんな……」

 それを、言わなかったのか、俺は。

 いくつか、そんなようなことを言った覚えならあった。けれどそれはよくよく思い返してみると、確かに「なぜ願いを聞くのか答えろ」とは言っていなかった。なぜ選んだ相手が俺なんだとか、急に何かをされることが嫌いだから願いを聞くなんて言い出したのかだとか、願いのカウントは増やせないのかだとか、そんな言い回しばかりで、俺はただの一度も、確信に迫ることを夢子に聞いてこなかったのだ。一人で考えて、一人で納得して、勝手に分かったようなつもりになって……。

「さてユウジさん、私から正式にお願いです」

「ま、まて、待てっ、頼むっ、やめろ! やめろ!! やめてくれ!!」

 悪夢の台詞が、頭の中にループする。『される側の苦しみが少しは分かった?』『される側の苦しみが少しは分かった?』『される側の苦しみが少しは分かった?』『される側の苦しみが少しは分かった?』

 俺は完全に手遅れになってから、人から恨みを買うことの恐ろしさを思い知った。謝っても遅い。何をしても遅い。夢子が俺を見下ろしている。支配者の目で、人を痛めつけて喜ぶような人間と同じ……俺と同じ目をして。

「ユウジさん」

 この世で一番、俺を裁く権利のある女性から、判決が告げられる。

「お願いです。私のことだけを愛してください」

「……………………へ?」

 その瞬間、俺は最後の罪を知った。

 言葉にし難い感情が、いくつもの似たような感情が、風に巻かれ見えなくなる一握りの砂粒のように、吹き飛び、なくなっていったのだ。

 リリアへのそれが、リューナへのそれが、ミーモルへのそれが、笹間の彼女へのそれが、通行人へのそれが、芸能人へのそれが、AV女優へのそれが、絵の中へのそれが、文章の中へのそれが、頭の中のそれが、まだ見ぬ女性へのそれが、元カノへのそれが、全ての女性へのそれが、消し飛んでいった。

 一瞬のうちに、俺は、あらゆる女性への興味を失ったことを自覚する。今まで「夢子が悲しむ」だなんだと言いながら、それらはずっと俺の中にあったのだ。

「……なんで?」

「何がですか?」

「俺に、復讐するんじゃなかったのか……?」

「そんな! するわけないじゃないですか、そんなこと!」

 這いつくばった俺を、夢子が抱きかかえて起こす。完全に脱力した俺の体を起こす時のそれは、サキュバスらしく、女性のものとは思えない力だった。

 そうか、復讐なら、その気になればとうの昔に出来ていたんだ。サキュバスには人ならざる膂力がある。復讐するならとっくに終えているはずだった。……形にこだわらないのなら。

「言ったはずですユウジさん。私の魔法の発動条件は、あなたの願いを百回聞くことだって。……私はちゃんと、あなたのことを許しましたよ。これまでのことも、これからのことも。まあ、そもそも何にも怒ってないんですけどね」

 いつの間にか、俺の体から光の鎖は消えていた。試しに指先に力をこめてみると、動く。ちゃんと動く。動くけれど……。

 俺は、夢子に身を任せることにした。まるでお姫様みたいに彼女に抱きかかえられることを受け入れた。

「ごめんなさい、やっと願いが叶ったから興奮しちゃって。怖がらせちゃいましたね」

「いや、俺の方こそ、本当に今まで……」

「いいですよ。許します許します。何を何回されたって許しますよ。だってユウジさんはもう、私のことだけを愛してくれるんですもん。私だけを愛してくれる人のためなら、私、なんだって出来ます。本当ですよ?」

「なんでも……」

「はい。あなたが望むなら、何でもです」

「……夢子のことを愛している限りだろう? 何が愛かなんて、心が読めるわけでもないのに、伝わるのかよ」

「大丈夫ですよ。ユウジさんはもう、私だけを愛するしかないんですもん。そういう魔法ですから。あなたの意思は、そういう意味ではもう、関係ないんです」

「……本当に?」

「はい!」

「本当に俺は……何をしても夢子を愛していることになるのか?」

「というか、私を愛しながら出来ることしか、もうユウジさんには出来ないんですよ」

「でも俺は!」

 心の中の、夢子以外のあらゆる女性へ対するあらゆる興味が消えたことを自覚したからこそ。俺は、「まだ残っている物」のことも感じ取っていた。

「「まだ私にひどいことしたい」、ですか?」

「…………」

「いくらでもどうぞ!」

 夢子がニコリと笑った。

 カーテンの外が明るくなってくる。夜が明ける。朝になったら、婚姻届けを提出しに行かなければ。

「むしろ、これからどんなことされちゃうのかドキドキしちゃいますよ。私、人妻になりますし、NTRとかさせられちゃうんでしょうか? ドキドキです」

「それも愛なのか……?」

「愛ですよ! 私だけへの愛があれば、私だけへの全ては愛です!」

 夢子に抱きかかえられて、俺はベッドに寝かされた。優しく布団をかけられて、今夜は疲れたでしょうとばかりに寝かしつけられる。

 カーテンも開けないまま服を着て、夢子は台所へ向かった。卵を割る音と、それをかき混ぜる音が聞こえてくる。

「朝ご飯作りますから、少しの間でも眠ってください。起きたくなくなっちゃったら、眠たくなくなるまで、それでもいいですからね」

「……夢子」

 根性の腐った、最低最悪な畜生の口からは、どうせ反省も改善もする気がないくせに、その言葉が勝手に溢れ出した。

「はい?」

「夢子ありがとう。……ごめん。こんな人間でごめん。百回も頑張って、やっと手に入れるのが、こんな最低な人間でごめん。こんな、こんなクソ野郎でごめん……直せなくてごめん……ごめんなさい……」

「あっ、えっ、ちょ、ちょっと!? 大丈夫ですか!?」

 夢子が飛ぶような勢いで傍に来てくれたことが足音で分かる。視界は、涙で何も見えない。

 細い指が、その涙をぬぐった。

「もう、泣かないで。大丈夫ですから……」

「ごめん……ごめん……」

「はい、許します。全部ですよ、ユウジさん。全部です。……あ、でも、「最低」なんて、もうそんなこと言っちゃダメですからね」

 ポンポンと頭をなでてから、夢子が俺の傍から離れていく。涙は少しずつ底が見えてきた。

 ジュウーと、溶き卵が火にかけられる音がする。彼女はこれからも、頼まれるまでもなく、俺に優しくしてくれるのだろうか。俺の全てに優しくしてくれるのだろうか。

 ……きっと心配ない。「全部」と、夢子がそう言ったのだから。彼女が言う全部は、本当に全部だ。

「ユウジさんは自分のこと悪く言いますけどね、そんなこと言ったら私なんて、百人の男に捨てられてきた女なんですからね。底辺も底辺の、何の魅力もない無価値なクソビッチですよ。……でも、だから言い合いっこ無しにしませんか? ユウジさんが自分のことを悪く言うと、なんだか私まで責められているみたいで、傷つきます」

「……ごめん。もう言わない。絶対言わない」

「はい! いい子ですねぇ」

 誰かが、魔法の習得方法には二種類あると言っていた。一つは勉強、もう一つは、何らかの偶然。……でもそれを言っていたのが誰だったのか、俺は上手く思い出せなかった。まあ別にそんなこと、もうどうでもいいんだけど。

 こんな時でも眠気はやってくるものだった。台所からの心地よい音を聞きながら、まぶたはどんどん重くなり、俺の意識は夢の世界へと連れていかれる。けれどきっと、もうあんな悪夢は見ないだろう。どこへ行こうとも、何をしようとも、そこには夢子が現れて、俺の全てを許してくれるのだ。

 気が付くと草原の中に、裸の夢子が立っていた。いつも通り媚びるような目をして、彼女が俺に問いかけてくる。

「ねぇ、私のこと、好きですか?」

「好きだ! 大好き! 愛してる!!」

 俺は全身全霊で、喉が枯れるほど強くそう叫んだ。夢子が満面の笑みを返してくれる。俺の方まで、生まれてきた意味を知った気がした。

 神様、俺たち、幸せになります。

 

 

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