大学の食堂で孤独のぼっち飯グルメをしようとしていると、それを阻む男が現れた。
「ユウジ! 誘えよ!」
「いや、今日いないのかと思ってた」
俺の向かいに座った頭がプリン色の細身でチャラい男。彼の名は
二都が初めて話しかけてきた時、俺は何かの間違いかと思った。彼の見た目はダンサーだとかバンドマンだとか、そういった種類の人間を連想させる物だったからだ。つまり、交わらない分野の人かと思っていた。
けれど今思えば、彼のそういうジャンルの人間の中でもちょっとなよなよしたタイプに属していそうなところには、親近感を覚えないでもない。なんというかこう、歌う時の声が高そうなタイプ。
「いなかったらいないってラインするだろ」
「いる時にいるとは言わないのにか?」
「……確かに。しないかもやっぱ」
「馬鹿なのか……?」
「言うなよ〜」
彼は悔しそうに、そしてわざとらしく顔を歪めて見せた。
結論から言って、二都は馬鹿ではない。学業の出来は大学内でベスト10に入ると思われる。たとえ普段の振る舞いがチャラくてアホっぽかろうと、勉強が出来るやつのことを馬鹿と呼ぶのは無理があるというのが俺の考えだ。
そして二都本人も同じように考えているらしいことが、いつも要所要所の態度からにじみ出ている。それを隠す気がないということも彼のことを見ていればすぐに分かる。
「で、聞いてくれよ。笹間ってやついただろ、メガネの」
「はあ、まあ、いたかなぁ」
笹間という名前のメガネ君というと、大学の中で見かけたことがあるような気もする。蝶ネクタイが似合いそうな顔をしている陰キャっぽい男のことだ。声が小さかった印象がある。
「あいつ彼女出来たんだって。しかもサキュバス」
「へー」
「えっ、羨ましくない?」
羨ましいに決まっていると、昨日までの俺なら脊髄反射で返していただろう。
「……まあ」
刹那の間に、夢子の顔が脳裏をよぎったことを、なぜか悟られたくないと感じた。
二都から羨ましがられることが嫌なわけではないはずだけれど。というか、むしろその逆だ。
「ほら、あそこ。いるだろ」
「ええ?」
見間違いかと思うほど慎ましく、二都があごで斜め後ろを指す。何とはなしにそちらに目を向けてみると、見覚えのある顔のメガネ君と、ボンキュッボンの化身みたいな美女がいた。二人とも何やら楽しそうにお喋りをしている。
「あれが?」
「そうだよ。お前っ、ほらっ、思うだろ?」
「何がだよ」
「早くあれになりたいって!」
「……まあ」
曖昧な返事をすると、なぜか良心が傷んだ。頭の中にはずっと夢子の姿が浮かんでいる。彼女はまだ部屋の隅で膝を抱えているだろうか?
そんな風に迂闊に思いを馳せていると、馬鹿ではない二都が、目ざとく気が付く物だった。
「……お前もしかして、彼女できた?」
「いや、全然。出来てたらとっくに自慢してるわ」
「それもそうか。……じゃあサキュバスとヤったとか?」
ぐっ……、と冷たい水が、乾いたパンみたいに喉に詰まる。
「……やってない」
「怪しいな」
「怪しくない。やってたらとっくに自慢してる」
「どうかな。お前はあれだろ、AVの話にはノリノリなくせに、風俗の話には食いついてこないタイプだろ」
「行ってねぇよ風俗なんか。金の絡んだ関係で抱いても絶対よく分かんないだろ、サキュバスのサキュバスらしさなんて」
「さぁな。俺はそれをいつか確かめるつもりだけど、それは今日じゃない。でも笹間にとっては昨日だったんだ、しかも風俗じゃなくて完全プライベートで……」
「知らね〜」
二都は馬鹿じゃない。勉強が出来て、ある程度鋭い洞察能力がある。……でも、口を開けばこういう話ばかりする奴でもある。
もしも夢子と会ったのが風俗だったら、マッハでパンツを脱がせにかかってくる彼女のことも、そういうサービスや演技なのかなと考えていたことだろう。だから俺は今だって、自分の経験をもって「風俗では意味がない」と二都の奴に説いてやることが出来る。……が、あまり気が乗らなかった。
なぜ気が乗らないのかといえば、二都が、語られて当然だと思っているからだ。彼は何かあれば、俺が当然話すだろうと思っている。態度からそれが透けて見える。だからこちらとしても、語って当然と思えるようなところまで事が進行してからでなければ、話す気になれないのだ。
そしてその「事の進行」とやらは、きっと今晩にあると見て間違いないはず。性に対して奔放な忠犬みたいな性格の美女と、それはもう色々とあんなことやこんなことを……。
「…………」
「……どうした?」
脊髄反射的に妄想の世界へと旅立っていた俺を、二都が連れ戻す。
「別に。笹間とあの美女、もうヤったのかなって考えてた」
「そりゃお前、サキュバスだぞ?」
賢い二都は、声をひそめてそう言った。俺たち以外の誰にも聞こえないように。
……早く帰りたくなってきた。主に妄想力たくましい股間がそう言っている。
帰りの自転車を漕ぎながら考える。異界の扉が開かれる以前の時代の人間が俺のことを見たら、きっとこう言うだろうと。
「見ず知らずの女一人を残して家を空けるなんて、急に信用しすぎじゃないか!? この性欲モンキー野郎!!」
……俺だって、普通に考えれば不用心すぎると思う。だからこそ歴史の、たかだか十年ちょっとの歴史の重みを実感していた。
サキュバスが人間界にやって来てからというもの、サキュバスが悪意をもって人間に危害を加えたという事例は、一例たりとも報告されていない。それは異種族の来訪が起こって早々に、向こうのお偉い様(つまり女王的なサキュバス)の方から提案してきたことだった。
「我々が意図的に、悪意をもって人間に危害を加えた場合、人間のそれと比較してより厳重な処罰を下してくれて構わない」
いくつか項のある「人間界と魔界の友好条約」の中に、そんな取り決めが正式に載っているらしい。それはパッと見て差別的な条項だけれど、その条項を取り入れるか否かで揉めたのは、完全に人間の側だけだったという。その一連の騒ぎが、今や小学校の社会科の教科書にも載っているのだ。
性質上、サキュバスは人間と友好的な関係を築いていきたいと考えているらしい。サキュバスとは非常に安全な存在であると、そう認識してもらった方が、精力の吸収が容易になるからとのことだ。当然、人間側としてもそれは願ったり叶ったりな考えだった。セックスで争い事が消せるなんて夢のようでさえある。捉えようによっては正真正銘、愛が世界を救うのだから。
だから俺はそうした歴史の経緯と実績を信用して、サキュバスを家に一人置いて大学へ行くことだって出来たわけだ。これで万が一家が貴重品ごともぬけの殻になっていたら、それは歴史に残るような大事件になる。そんな杞憂について考えるよりは、家に帰ればサキュバスがいる、エッチなことやり放題ひゃっほう〜、と思っていた方が人生は幸せになるに決まっている。
オレンジ色の夕日が俺の住むマンションを照らしている。それはこれから俺の身に起こることを祝福するスポットライトであるかのようだったが、自転車置き場まで来て窓を見上げたことで、歴史の重みによって押しつぶしていた不安が、心の底からぶわっと吹き出る汗のようによみがった。
……俺の部屋の明かりが、消えている。
夕日が差し込むとはいえ部屋はきっと暗いことだろう。実際、他の部屋の窓からは点々と明かりが漏れている。そこに人がいるのなら、「人」でなくてもサキュバスがいるのなら、電気は点いているはずなんじゃないのか……?
結局、十年やそこらの歴史で得られる安心感なんてものは、その程度なのだ。俺自身が歴史の目撃者に、最初の被害者になってしまっても、何ら不思議はないのではないか。それは宝くじが当たる確率よりは高いことなんじゃないか。それとももしかして、「サキュバスは人間に危害を加えない」という歴史的事実自体が、権力者たちの圧力によって不都合なことが隠蔽された上で成り立っている物だったんじゃないか。
唐突の不安が、滑稽な速度で脳内を埋め尽くしていく。
しかし、玄関の鍵はかかったままだった。
「おかえりなさい!」
「うおっ!?」
鍵を開けると、窓の外の夕日が過剰に映えるほど暗くなった部屋から、無防備な格好の女が飛び出してきた。たぶんノーブラ、間違いなくノーパン、隙あらば上目遣いのサキュバスが。
「ユウジさん、待ってました……!」
「なっ、なんで電気つけないんだ」
「え、その、電気代が……」
「はぁ?」
今朝の記憶が、夢子の言葉がおぼろげに頭の中によみがえって来る。サキュバスだから家に置いても金がかからないとかなんとか……。
セックスと食事が限りなく同義に近いサキュバスが性欲旺盛な男と暮らせば、確かに食費は浮くだろう。その点は正直言って、いろんな意味で魅力的だ。けれども、
「電気くらいつけろよ」
「ご、ごめんなさい」
急激に夢子の態度が縮こまる。「怒られた」と受け取られてしまったようだ。まあ実際、何を不安にさせてくれとんねんくらいの気持ちは若干あったが。
よく懐いた飼い犬みたいに夢子があとをついてくる中、とりあえず荷物を置いて、手を洗って、テレビをつけて……と普段通り帰宅後のルーティーンをなぞっていく。番組はニュースが映っていた。
必要だと思ったことがないので、この家には椅子も座布団もない。その代わりベッドがあるので、俺がその上にあぐらをかいて座る一方、夢子は床に正座だった。……なるほど、椅子がないと「まあ座れよ」とも言いづらくて困るのか、とこの時初めて理解した。
「それで、朝はバタバタしちゃったけど、一回話を整理させてもらっていい?」
「はい!」
「夢子はサキュバスで、そういうことをする代わりにここに置いてほしい、ってこと?」
「あ、いえ、違います」
「え、違うの?」
「あー、えっと、ここに置いていただけるならそれは嬉しいですけど、迷惑にならないように通いという形でも……」
「なるほど……?」
現代社会において、サキュバスと人間は共存している。そしてその共存のベースは、幸いなことに人間側にある。人間の社会はほとんど形を変えずに、昔のまま人間界に残っているのだ。
だから人間同様、人間界に住んでいるサキュバスには戸籍があり、住所がある。それが普通だ。窓の外から降り立つ彼女らの全員が全員いわゆる家出少女的な存在……というわけではない。
「じゃあ夢子はセックスするためにここへ通ってくれるってこと?」
「はい!」
「そりゃ嬉しいけども」
「じゃあ……!」
「でも別に住んでくれてもいいんだけどなぁ」
「えっ」
心底驚いたような反応が返ってくる。改めて部屋を見回してみると、たしかに狭いかもしれない。
「いや、狭いか。じゃあまぁ通いってことでも」
「いえいえいえ! 住まわせてもらえるなら、ぜひお願いしたいです! 憧れてるんですそういうの!」
「あこがれ?」
というと、夢子は今まで「通い」であることが多かったのか。
人間同様、サキュバスも一度「固定の相手」を見つければ、何か事情がない限りはその人から離れなくなると聞いている。人間と違ってその固定の相手が一人とは限らないのだけれど、何にせよそれが、サキュバスのいる世界においても「あぶれ者」が生まれてしまう理由だと見て間違いない。昨日までの俺がそれだ。一昨日までの笹間もたぶんそれだ。
だから一人暮らしの男なら大抵、サキュバスを自宅に住まわせたがる。そのサキュバスに通いの相手が何人いるのかは知る由もないが、住み込みの相手は物理的に一人でしかあり得ないのだから、そっちの方が何かと安心出来るというものである。大抵の男は、サキュバスと末永くお付き合いしていきたいと考えるものだから。
だから夢子の「住み込みが憧れだった」という話には、やや違和感を覚えた。だから何だというほどではないけれど。
「じゃあ、今日からここに住んでもらうってことでいい……?」
「はい! よろしくお願いします! ……あ、でも、二つお願いがあるんですけど、いいですか……?」
「なんだろう」
正座を崩さず身を乗りだすようにして話す夢子から、無茶な要求が出てくることはあまり想像できなかった。
つまり俺は、夢子のことをこの時点でちょっとナメていた。
「一つは、あの、週に何日か働きに出ているので、昼間は家を空けることが多くなってしまって、その……」
「ああ、じゃあ合鍵を渡さないと」
「いいんですか……?」
「当然」
初対面の女を置いて家を出ることと、その女に合鍵を渡すこと、大差あるまい。サキュバスが窃盗の類を働いたという事例は本当に一つも存在しないのだ。
けれど賢い彼女らは、人間の中にはそういった「信用の信用」を反射的に嫌う者がいることも知っている。夢子もそうなのだろう。
「もう一つは?」
「もう一つは、……私と取引をしてほしいんです」
「取引?」
「私、百回だけユウジさんの言うことを聞くので、なんでもするので、百回目のそれが終わったら、私と結婚してくれませんか……?」
「結婚……?」
サキュバスと人間は、問題なく結婚をすることが出来る。すでに何百組も前例が出ている。だからそれ自体は何もおかしなことではないが……。
「あの、百回目が終わってから考えてもらっても大丈夫です。だからその、頭の片隅にだけ……」
「……分かった。考えておく」
「本当ですか。ありがとうございます!」
緊張の糸がほどけたかのように、夢子がほわほわとした微笑みを浮かべた。……まさか今のは、いわゆる「告白」のつもりだったのだろうか?
俺の頭の中に、言いしれない不安が少しずつ積もっていく。一つ一つは雪の結晶のように小さなそれが、何かまずいのではないかと、冷たい予感をもって降り積もっていくのだ。
現状、夢子には明確におかしいところが一つある。というのも、サキュバスというものは普通なら人間と同じように、ちゃんとパンツを穿いているものなのだ。だから何だという話だけれど、サキュバスだって暗くなれば人の家の電気でもつけるし、妙な告白の仕方をする文化なんかないし、初対面からいきなり忠犬みたいな態度を取ってくることも珍しいはず。
種族に関係なく、この夢子というサキュバスは、何か妙な気がする……。それが何であるのか分からないまま、彼女との暮らしを始めてもいいものだろうか……?
「あの、それで、ユウジさん」
「なに?」
気が付くと、比喩的に言えばピンク色の視線が、俺の下半身の方へと向かっていた。
「そろそろその、欲しいな……なんて」
「よしっ」
俺は全ての不安を雑に払いのけて、性欲に従うことを決めた。愛は世界を救うと信じて!
そして、愛という名の弱みにつけ入るのは、これで二度目だった。