日曜日。予定通り、夜になってからリリアと現地集合で居酒屋に入った。
ルノアール・チル・リリア・マゾリエール、150歳。彼女は初っ端から前言を撤回して、迷うことなくビールを注文した。やっぱ飲みたい♡ とか言って。わざわざ身分証まで用意するくらい飲みたかったというのなら、別に好きにすればいいんだけれども。
「それでわたしはぁ、童貞っていうのは贅沢なんじゃないの? って思うのね♡」
そして、ものの十分で彼女の顔は赤くなった。体が小さいから、アルコールの許容量もたかが知れているのかもしれない。
俺は厚揚げを箸で掴み上げながら、彼女の語ることを話半分に聞いていた。
「贅沢?」
「そ~♡ だって童貞ってさ、ヤらせてあげてもいいよ♡って言われても、ぼくは決してそういうつもりでは〜って見栄張ったりするでしょ?♡ あれはなんでなんだろ~って考えたら、たぶん、そこで話に乗ったら一回で終わっちゃうと思ってるからなんじゃないかな~って思ったの♡」
「それが贅沢なのか?」
確かに、そういう言葉で迫ってくるサキュバス(というか女性)との関係は、一度きりで終わることも多いだろう。あるいは、今までさも何でもないような顔をしていながら、そういった言葉を受ければ待ってましたとばかりに欲望をさらけ出す態度が相手から軽蔑されかねないと危惧する……ということも理解できる。が、それは贅沢なことなのだろうか?
誰だって、自分に優しい相手とは長く付き合いたいもので、短い付き合いとなってしまう危険を察知したなら、それを避けたがる物なんじゃないのか。俺だって夢子のことをそう思っていて、だから「何でもします」と言われても、それで全てをさらけ出すことは躊躇われるわけだが……。
……なんて、そんなことを考えていると、ふと俺の頭の中に「100」という数字が浮かんだ。今はいくらか減り、いつか0になるその数字が。
「贅沢すぎでしょ♡ 一回にありつけないくせに、何回もを夢見て一回を蹴るなんて♡ ありえない♡ だからわたしは、童貞が童貞を卒業できない理由って、その贅沢さが原因なんじゃないかって思ったの♡ チャンスを物に出来ないっていう意味じゃなくて、もっと根本的な、性格の問題♡」
「なるほどねぇ……」
理屈の正当性はともかく、目の付け所としてはなくもないような気がした。たとえば俺だったら、そのお題についてはこう考えるだろう。
一回きりを嫌う童貞は、百回きりも嫌うのだろうか?
無論、俺の場合は、百回の先に結婚とやらが待っているようなので、「終わり」とは無縁なのだけれども。
「で、俺に聞きたいことっていうのは?」
「ミカミカに聞きたいのはね~、今の話を踏まえてわたしが「ヤらせてあげる」って言ったら、どう思うのかってこと♡ 一回だけならミカミカとシてあげてもいいよ♡ しよ?♡」
「……ははーん、なるほど」
今ここで「実は童貞なんだ」と嘘をつけば、酒に酔った女友達と過ちを犯せるというわけか……。そして相手がサキュバスともなれば、その過ちが後々悪い方向に尾を引くということもないだろう。はたして俺の答えが、彼女の考察にどう影響するのか、それは分からないけれど……。
しかし何にせよ、今も家で一人でいる夢子のことを思えば、俺の答えは決まっていた。
「家で帰りを待ってるサキュバスがいるんで、それはちょっと……って答えるかな」
「うわーん! やっぱりー!」
リリアは大袈裟にのけぞった。容姿も伴い、その姿は駄々をこねる子どもにしか見えない。
「この一週間! この一週間で、ミカミカが童貞じゃなくなっちゃった~! 約束してたし一応飲みに来たけどやっぱりだ~! 何の参考にもならないじゃん~!!」
店内中に響き渡るくらい大きなわめき声。俺は、二度とこのメスガキに酒を飲ませないことを心に誓った。周囲のチラっとだけこちらを伺うような視線も、数が多くなれば普通に痛い。
「いや、ていうか元々童貞じゃないし。ずっと言ってるけど」
「それはミカミカが言ってるだけでしょ♡」
「だけって……。俺が俺のことを言ってるんだから最重要だろ」
「じゃあ初めての時のこと話してみてよ♡ どーせ最近なついて来たサキュバスのことしか語れないくせに♡ すぐバレる嘘でもついてみて♡」
「……じゃあ話すけど」
催促されて隠すほどのことでもないので、クソつまらない自分語りを始める。
語るほどのことでもないが、俺が童貞を卒業したのは高校生の時だった。卒業したというか、させてもらった。相手は人間だった。
その人間はなんというか、今思えば、人間なのにサキュバスみたいなことを言う人だった。当時からサキュバスの存在くらい知っていたし、雑談くらいなら同じクラスのサキュバスとだってしたこともあったのに、不思議とその初めての相手のことを、当時は「サキュバスみたいだ」と思うことはなかった。
彼女は俺に、「なんでもしていいよ」と言った。そんな彼女との縁が今では切れていることが、俺が夢子に自分の趣味を隠そうとしていたことの理由そのものである。元カノに対して「サキュバスみたいなことを言っていた」と思うだけならまだしも、夢子というサキュバスとの別れ際に「人間みたいなことを言っていた」という感想を持つようなことにだけは、なりたくないのだ。
だから、俺が元カノとの関係の終わり方よりも、彼女とどんなセックスをしたのかなんて話をペラペラ下品に言いふらしている間、向こうも俺のことを口汚く罵っているに違いないけれど。それは、それでいいのだ。
「というわけで、まぁ童貞の卒業自体は普通に恋愛の延長線上のセックスだったんだけど、その先は結構いろいろありまして……」
「ちょっと待ってよミカミカ」
「うん?」
「ミカミカって…………マジで最初から童貞じゃなかったの?」
「そう言ってるだろずっと」
金髪幼女がジョッキを片手にあんぐりと口を開けている。彼女の手元にある串から外した焼き鳥をひとかけら、その口の中に放り込んでみたくなった。やらないけど。
「うそ……。ニトフワーといっつも馬鹿みたいな話してたのに……? おねショタのショタに自己投影してそうな顔してるのに……?」
「どんな顔だよ」
「うそだー! 仮に童貞じゃなかったとしても、どうせ心は童貞のままなんだ! セックス下手なんでしょどうせ! 粗チンなんでしょどうせ! レイピアみたいなチンチンしてるんでしょどうせ! ミカミカなんか一生騎士童貞精神でもつらぬいてればいいんだー! バカー! バカバカミカミカ馬鹿ミカー!!」
椅子に座ったままじたばたとあばれるリリア。店内全土を再びのわめき声が通過していった。
「えっ、ど、どういうこと……? 怖いんだけど……」
サキュバスの表現のセンスには、時々人間のそれからかけ離れていることがあると聞いたことがあるけれど、これがそうなのか……? 今がもし約二十年前の、異種共存社会の走りの時期だったら、店から追い出されかねなくないか……? サキュバスっていうのは昔からこうだったのか……?
と、思った矢先、俺の感覚はまだ現代でも通じるということが実証されてしまった。
「嬢ちゃん、うるせぇよ」
店の通路を通りがかった強面の男が、リリアの肩に手を置いた。リリアの小さな体と対比させるまでもなく、その男は巨漢と呼ぶにふさわしい体格を有している。
俺は正直、ちびるかと思った。その男は声もドスが効いていて低かった。
「すっ、すみません、ちょっと酔いすぎてるみたいで」
「はぁ~?♡ おじさん誰?♡ 触んないでくれる?♡」
肩の上の大きな手を、さぞ不愉快そうにピッと払うリリア。
「……いや、あの、違うんですよ。本当、あの、違うんです……」
自分の目が泳いでいるのが分かる。リリアの態度に、コワモテ男がカチンと来ていることも分かる。死んだと思った。ふざけるなよこのクソガキと思った。なまじ死なないばかりにサキュバスは命知らずすぎるんじゃないか? そんなことだから、体を小さくしたままセックスだってしてしまうんだ。
「お嬢ちゃんさぁ、サキュバスなんでしょ? だから男のことナメてんの?」
「別に~?♡ まぁ実際、おじさんのことなんか眼中にないけど♡」
「……兄ちゃん、こいつちょっと借りていい?」
「えっ」
その時初めてその男と目が合ったように思う。蛇ににらまれた蛙とはこのことだと思った。無数に浮かんでくるその場しのぎの言葉が、浮かびはするのに喉を通って出ていってくれない。俺は意味もなく、口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
一方でリリアは普段と変わらずハキハキと、語尾にハートマークを付けて喋る。
「ミカミカの許可とかいらないし♡ おじさん、わたしと遊びたいんでしょ♡ 遊んであげる♡」
「ほおー、遊んでくれるのか。光栄だなぁ。じゃあ行こうか?」
男がぐいと腕を引くと、ぬいぐるみを連想させられるくらい、一瞬だけリリアの体が宙に浮いたように見えた。体格の差が、力の差がありすぎる。俺だってひょろいけれど、それ以上にリリアは……。
「じゃあねミカミカ!」
満面の笑みを浮かべて、リリアはそう言った。彼女は、いつも俺に対してノリでそうするように、見ず知らずの乱暴そうな男の腕に愛おしそうに組み付いていた。きっと店の外の人間には、見た目「だけ」が犯罪的な二人組のように見えることだろう。二十年前ならいざ知らず、現代ではよく見る光景なのだから。
見間違いでなければ、彼女の唇が最後に「ごめん」と言っていたような気がした。
「ちょっと、これ、お釣りいらないんで!」
コンマ数秒後、我に返って店を出る。リリアを追いかけて行こうとしたが、目に映る限りの世界には無数の通行人が右へ左へ行き交っていて、もうどこにも知り合いの姿を見つけることはできなかった。……いつもそうなのだ。
どうして俺の体は、頭は、手遅れになってからしか動かないのだろう。
知識から来る安心感は脆い。
サキュバスは安全な存在だと知っていても、ふとしたことで「まさか、もしかして」と急な不安の波にのまれることがある。それはリリアのことでも同じだった。
サキュバスは人間と違って、その身一つで「魔力」を扱うことが出来る。そしてそれによって、生身でも武装した人間に匹敵する力を発揮することが出来る……らしい。そう習った。
今まで一度も、サキュバスが暴力的な犯罪被害に遭った記録はないのだ。サキュバスを標的にしてしまった強姦魔も強盗も、ことごとく返り討ちにあった記録だけが残されている。
だからリリアも大丈夫なのだ。きっと彼女はあの大きすぎる手に肩を叩かれた瞬間、まずい状況になったことを咄嗟に理解して、俺のことを庇ってくれたのだろう。あの巨漢男のこともどこかで適当に返り討ちにして、今頃何事もなかったかのように家に帰っているに違いない。「ごめん」というのは面倒ごとに巻き込んでごめんという意味だったのだ。
……本当に? 暴力を返り討ちにしてきた歴代のサキュバスたちは、少なくとも成人女性程度の体格は有していたのではないか? あのリリアが本当に、巨漢の男に力で抵抗できるのか? 彼女は本当に「ごめん」と言っていたのか? 「助けて」ではなく?
「おかえりなさい!」
「…………」
「ユウジさん……?」
「ああ、ごめん。ただいま」
俺は結局、家に帰ってきた。
夢子はテレビを見ていたようだった。聞き覚えのある女性の声がするので、おそらく深夜にやっているサキュバス主体の番組の録画だろう。サキュバスが出演する番組には深夜枠が多いのだ。理由は……言うまでもないだろう。
二人組でお笑いをやっているサキュバスのコントが、不安そうな顔をしている夢子の背後から聞こえてくる。
「この前ヤった男が顔射フェチでさ~」
「えっ、眼射!? やばすぎじゃん、大丈夫だった……?」
「え、うん。ていうか別にそんなやばい趣味でもなくない? AVとかでもよく見るし」
「いや見ない見ない見ない見ない!! えっ!? こわっ!」
「ユウジさん、どうかしたんですか……?」
様子がおかしいことを察したのだろう。いかにも不安そうな表情で、夢子が俺の顔を覗き込んでくる。本当に彼女は、素振りがいちいちよく懐いた犬みたいだ。
「夢子、お願いがあるんだ」
「あ、はい! なんでしょう!」
「……友達を助けたい」
「えっ……?」
さっき起こったことを全て夢子に話した。夢子は神妙な面持ちで、ずっと真剣に俺の話を聞いてくれていたと思ったけれど、全てを話し終えた途端おかしそうに笑った。
「あはは、大丈夫ですよ、そのくらい。その人、サキュバスなんでしょう? ちょちょいのちょいですよ。体格差くらいなんぼのもんです」
「でも! でも、もしかしたらリリアは、サキュバスじゃないかもしれない!」
「えっ、なんでですか」
「だって俺は、あいつの淫紋を見てないし、長い名前だって偽名かもしれないだろ。もしも彼女がサキュバスを装っているだけだったら……」
「大丈夫ですって、ユウジさん。淫紋を見なくても、なんとなく分かるものでしょう? その人がサキュバスであるのかどうかくらい」
「でも、でも……」
「……うーん。あの、こう言ってはなんですけど……。ユウジさんって、もしかしてちょっとサキュバスのことを甘く見てたり、するんですかね……?」
「は……?」
「今日のお願い、それにしてくれませんか? 絶対に抵抗できないっていうくらい私のことを縛ってボコボコにして、二度と反抗できないようにしてみてください。「いいよ」と言ってもらえたら、そこからユウジさんのことを組み伏せてみせますから。……そしたらリリアっていう人が大丈夫だっていうことも、分かってもらえるんじゃないかなって」
「……助けに行くのは無しってことか?」
「うーん……。だって、どこにいるのか分からないし、絶対に大丈夫ですし……」
「…………」
直接言葉にはしなくても、「なんてくだらない話だ」といったようなニュアンスを、夢子が内心に抱いていることは明白だった。そして実際、リリアの居場所が分からないことも事実だった。
俺がここへ帰ってきたのは、夢子の力を借りるためなんかじゃない。……何も出来なかったからだ。
「……分かった。じゃあ、お願いだ夢子」
「はい!」
数十分後、電源コードで手足をがんじがらめに縛ったはずの夢子から、俺は万力のような力で組み伏せられていた。縄がわりのコードは、全て力任せにひきちぎられていた。
いつも「される側」だった夢子の手によって、ベッドの上に押さえつけられながら思う。確かに俺は、サキュバスという種族のことを勘違いしていたのかもしれない。不死の力にさえなる魔力を、膂力に全振りしたらどうなるのか、真剣に考えたことがなかったようだ。確かにこれなら、もはや体格差云々の問題ではないだろう。「サキュバスは安全な存在」という言葉の意味も、ようやく本当に理解することが出来た気がする。
本気で争ったら、人間はサキュバスに勝てない。現代の異種共存社会は、ひとえにサキュバスたちの慈悲によって成り立っているのだ。
「あと59回ですね、ユウジさん」
腕を固められた俺の体の上に乗ったまま、夢子は幸せそうに微笑んだ。