彼女がどんな声をしていたのか、俺はすっかり忘れていたのだ。……ということを、その瞬間に思い出した。
「あの……」
その日の講義を受ける時、またあのサキュバスが隣に座った。どこか疲れた顔をした、ズレたメガネをめったに直そうともしない、夢にも出てきたあのサキュバスだ。
彼女はその日俺の隣に座った……というよりも、彼女が俺の隣に座ることはいつものことだった。たぶん本人としては「位置」で自分の席が決まっているつもりで、むしろ俺のことを「いつも隣に座りに来る男」と認識しているのだろう。たとえ先に座っているのが毎度こちらの方だったとしても。
しかし、そんな微妙な距離感の人物から今日は、講義終了後に唐突に声をかけられたのである。いかにも消え入りそうな、か細い声だった。
「え?」
「これ……」
折りたたまれたノートの切れ端を渡される。開いてみると、彼女の物と思わしき連絡先が書いてあった。
「え、なにこれ……どういうこと?」
紙片と彼女の顔を交互に見ながら聞くも、返答はムッとしたような顔と指差しで返される。その人差し指は、今俺の手の中にある紙切れを突き刺さんとする勢いで示していた。
とにかく登録しろということか……? と懸命に推察しながら、ひとまず彼女のラインIDを入力してメッセージを送ってみる。
『なんで連絡先を?』
『喋るの苦手だから文章にして』
秒で返信が来た。スマホ画面をタイピングする彼女の手さばきを見てみると、その速度に人ならざる物を感じた。
『別にいいけど、何のご用ですか……?』
『ご用っていうか……』
「…………」
「…………」
神速のタイピングが急停止する。何か言葉を選んでいるのかなと思って、続きが来るまで気長に待つことにした。
ふと、背後に視線を感じる。振り向くとそこには、人を小バカにした笑みをニヤニヤと浮かべるリリアがいた。「わたし以外の女の子とも話せてよかったね♡」と顔に書いてある。どうしてこのメスガキは、いつまでも俺を童貞キャラにしたがるのだろうか。
……なんて気を取られている間に、いつの間にか返信が来ていた。
『ヤらせてあげようか……?』
「ちょっ」
吹き出しそうになった。隣を見れば、退屈そうな顔をしてスマホを握るサキュバスがいる。真顔だ。真顔で言葉を選んだ結果がこれなのか。
「いやなんでだよ」
思わず口頭でツッコむと、じろりと目の中をのぞき込まれる。いや、睨まれたのかもしれない。おとなしくチャット欄に戻った方がよさそうだった。
『いつも熱心にこっちを見てるから、そういうことなのかなって』
『いや、違う。見てたのは否めないけど、違います』
『そう? じゃあそういうことで』
荷物をまとめて立ち上がり、タイピングサキュバスはその場を去っていった。
振り向いて、リリアに表情とジェスチャーだけで「なに、今の……?」と主張する。すると「はあ?」みたいな顔をされたので、そうかリリアには文面が見えていなかったのかと気付き画面を見せた。
普段はメスガキみたいな態度しか取らない彼女が、その瞬間だけ大人が浮かべるような、微妙な苦笑を見せた。
「あー、あの子、押されると断れないところあるみたいだから……」
「いや、押すも何もないんだけど。ちょっとその、見てただけじゃん」
「ミカミカの目がよほど血走ってたんじゃない?♡ それか目が勃起してたとか♡」
「目が勃起ってなに……。そんな必死な形相で見てたかなぁ、あの人のこと」
記憶を振り返ってみる。初めてあのサキュバスが隣に座った時のことはよく覚えていた。その記念すべき初対面の日、当時知り合ったばかりだった二都が俺の傍にいて、いきなり彼女に話しかけ始めたのだ。
「どうもー」
と、近くに座った女子にたった一言、そう声をかけただけ。でもあの時からアイツは分かりやすいやつだった。「ワンチャン仲良くなれねーかなー、とりあえず挨拶してみるか」みたいな内心を、挨拶一言であれだけ明け透けに出来てしまうのだから、もはや才能だろう。その才能を演技の分野なんかで発揮できれば天下を取れるんじゃないかと思った。心情の伝わってくる感じが良くも悪くも神がかっていたのだ。
「どうも……。リューナといいます……サキュバスです……」
当時は、彼女のその消え入るような声と倦怠な態度を、二都へのやんわりとした拒絶なのかとも考えていた。
今になって思えばあの時のリューナは、初対面にしては結構喋っていた方なのかもしれない。しかしそれはそれとして、その時の二都は「サキュバス」という言葉を聞いた瞬間、明らかに目の色を変えていた。あの瞬間に彼とリューナの関係は早くも終了したと俺は確信していたのだけれど、むしろあと一押しだったとでもいうのだろうか……?
と、思い出を振り返っていると、気付いた。
「あっ、分かった。そうじゃん」
「うん?」
「俺、あの時はまだ夢子に会ってないんだ」
俺の人生の前半に長らく横たわっていた「夢子が来る前の日々」。その中にいた当時の自分を振り返れば、そういえばサキュバスに飢えていた記憶がある。飢えている状態で、リューナと名乗る女性がサキュバスであることを知ったのだから、なおさらな物もきっとあっただろう。
その後リリアのようなサキュバスの友達が出来たり、何より夢子が降臨してくれたことによってここ最近は満ち足りすぎていて、これみよがしに夜中パンツを干していた頃の気持ちを忘れかけていた。夢子が来てから、まだ二週間程度しか経っていないのに。
たしかに昔の俺なら、多少必死な形相でリューナのことを見つめてしまっていたかもしれない。反省しなければ。……いや、反省で済むのか? 記憶を振り返れば見えるのは、自分にとって都合のいい愉快な思い出ばかりだ。けれど実際には、その頃の俺は思っているよりも相当な変質者で、隣の席の彼女に結構な恐怖を与えていたんじゃないか……?
「ミカミカ♡ また余計なこと考えてるでしょ♡」
「え?」
「この前と同じ顔してる♡」
「ああ……」
この前というのは、リリアの語尾について「それはわざとなのか」と聞いた時のことだろう。今だからこそこんな言い方も出来るけれど、あの時は我ながら、それなりに思いつめた顔をしていた自信がある。
「いや、まぁ、嫌な思いさせちゃったかもくらいは考えてたかな」
「大丈夫♡大丈夫♡ 気にしない♡気にしない♡」
「まあなー、リリアもいっつも何も考えてなさそうな顔してるもんな。見習わないとな」
「は?」
「ごめんなさい冗談です」
「いいよ♡」
あれ以来、語尾からハートマークが消えると背筋が冷えるようになった。何をするにせよいつも手遅れになってばかりの俺としては助かるくらいだけれど。
「そういえばちょうどいい。リリアに聞きたいことがあったんだ」
「なにー?♡」
「この前その喋り方のことを「前フリ」って言ってたけど、それってつまりさ……」
俺はあの日帰りの電車で導き出した結論をリリアに話した。そしてその後に浮上した謎、小さい体で乱暴に扱われても怪我をせずにいられた理由もたずねた。
リリアはちょっと嬉しそうに、でもやっぱり、かなりこちらのことをバカにした風に微笑んで、全ての答えを教えてくれた。
「ミカミカ~♡ すごいね♡ よく考えたね♡ 全部正解♡ 天才♡ すごいすごい♡」
たぶん純粋な本人の性格として、俺のことをおちょくりたがっているのだろうけど、なんだか台詞だけを切り取るとメスガキといよりもおねショタの雰囲気をかもし出し始めていた。これは前フリをする方も大変そうだ。
「必死になって考えてくれたミカミカに教えてあげるね♡ ケガをしなかったのは、わたしがそういう魔法を使ったからだよ♡」
「そういう魔法? そんな物があるなら、ちょくちょく聞く事故の例なんて」
「うん♡ 誰でも使えるわけじゃないから♡ わたしだけの魔法♡」
「ははぁ、なるほど」
そういえば各々のサキュバスが扱える魔法の種類については、人間の特技と同じように個体によって多種多様だと習っていたのだった。単純な膂力と不死性、それから多少の飛行能力は全サキュバスに共通しているから、その辺りがややこしくてせっかくの知識も意識の外にいってしまっていた。学生としてあるまじきことだ。
種族としての人間が動物界全体で見ると優れた持久力を持っているように、種族としてのサキュバスには膂力と不死性と飛行能力が備わっている。そして各々のサキュバスは、各々の人間が特技を持つように、それぞれ非常に多様な魔法を持っているということだ。これはテストに出るかもしれない。
「ケガをしない魔法なんてあるんだな」
「うん♡ わたしも理屈はよくわかんないけど♡」
「えぇ……。分かんないとかあるのか」
「あるある♡」
「まじか……」
地味にショックだった。魔法といえばなんとなく、科学や数学のように理屈の理解の塊みたいなイメージがあったのだけれど、それは俺がハリーポッター等の魔法学校的なイメージに引っ張られすぎていただけなのだろうか。
しかしそういえば、サキュバスが学校で魔法を学ぶという話はあまり聞いたことがない。人間界だけではなく、魔界の方においてもという意味で。
これは単なる予感だけれども、この話題はもっと真剣に掘り下げていけば、異界学という分野の中にあるいくつもの興味深い話に辿り着けそうだと思った。
「勉強して習得する人もいるよ?♡ でも半分くらいのサキュバスは、なにかのきっかけで突然魔法を覚えるの♡ 運命ってやつだね♡ わたしもそれ♡」
「へぇー。学校で魔法を習うサキュバスの話はあまり聞かないんだけど、勉強っていうのは?」
「専門学校みたいなやつ♡ 「日本の子どもたちは学校でアニメ制作を学びます」なんて話あんまり聞かないでしょ♡ それと一緒♡」
「ははぁ~なるほど。マジで勉強になるわ」
「ミカミカがよければ、今度もっと詳しく教えてあげようか?♡」
「マジで? それは本当にお願いしたい」
「いいよ♡ 教えてください~♡お願いします~♡って言えたら教えてあげる♡」
「オシエテクダサイ~♡オネガイシマス~♡」
「きっも♡」
リリアは心底嬉しそうに俺のことを罵った。彼女はメスガキだけれど、メスガキはメスガキでも根は完全に善人のメスガキなので、ちゃんと後日いろいろと親身になって教えてくれるのだろうと思う。
それにたぶん、もしも急に真顔になって「は?」と言われたら背筋が冷えるのは、リリアの方も同じなのだ。いかにも日本人のコミュニケーションらしい「暗黙の了解」がここにある。
「じゃあさっそく♡ ちゃんとお願いできたミカミカに一つ教えてあげる♡」
「おお、なんだろう」
「サキュバスの魔法には、リスクが付くんだよ♡」
「リスク?」
「うん♡ ためしにミカミカ、腕相撲しよう?♡」
「はぁ? まぁいいけど……」
小学生の休み時間じゃあるまいし、あるいは酔った親戚の集まりじゃあるまいし、まさか大学構内で腕相撲が始まるとは思わなかったけれど……。
とにかく机を挟んでリリアと向かい合い、肘をついた状態で彼女の小さな手を握り臨戦態勢に入る。このサイズ感だけを思えば万が一にも負けることはあり得ないと感じるけれど、俺は人間でリリアはサキュバスだからな……。ある意味、勝負は見えている。
「いくよー?♡ よーい、すたーと♡」
「……あれ?」
スタートの「ト」の字が聞こえた時には、俺は腕相撲に勝っていた。人間である俺が、サキュバスであるリリアに、秒で勝っていた。
尋常ならざる力に対抗するため本気で力をこめていたので、やや彼女の手を叩き付ける形になってしまって、咄嗟に罪悪感が湧いてくる。相手は、見た目だけは本当に子どもなのだ。
「ちょ、ごめん。……って、いやなんでわざと負けたし」
「わざとじゃないよ♡ これで全力♡ 普通のサキュバスみたいになれないの♡」
「はぁ……?」
あまりスッと頭に入ってくることではなかったけれど、話の流れから察するにその言葉の示すところは一つだった。
「つまり、魔力を力に変えられないことがリスクってことか……?」
「うん♡」
なんか、異能力バトルみたいな話だな……。たしかに天は二物を与えずだとか言って、突出した特技を持つ人間は、別の部分で抜けていたりすることがあるけれど……。
「いや、でも、ちょっと待て。じゃあお前、あの大男からはどうやって逃れて……」
あの日リリアは酒を飲むために、間違いなく身分証を持参していた。彼女の見た目では、それがなければ絶対に酒類など提供してもらえないからだ。つまり別の言い方をすれば、あの大男はリリアを力尽くでねじ伏せたあと、長期的に彼女を脅すことも可能だったということになる。個人情報を知られて、今日のことをバラされたくなければ……と。
しかし実際には、ハメ撮り映像が流出してもリリアは余裕だった。サキュバスにとってさほど慌てるほどのことでもないセックスシーンはともかく、個人情報の方はきっちり守ることが出来たということか……?
「一個だけ、わたしも強くなれる方法があるから♡」
「どんな……?」
「聞きたい……?♡」
ニコォ……と、人の悪そうな笑みが彼女の顔に浮かぶ。俺はゴクリと喉を鳴らしつつも、頷いた。
「精液を体の中に入れること♡ そしたらちょっとの間だけつよくなる♡」
「……なるほど。大体わかった」
一瞬、その言葉の意味を理解しきれなかったけれど、それはとんでもないトラップの話だった。
リリアが犯される時というのは、メスガキが理解らされる時である。理解らされたメスガキは何でも従順に言うことを聞き、完全に服従した素振りで、きっとこう言うのだろう。「中に出してください♡」
で、本当に出したら、その瞬間ボコボコに反撃されるわけだ。リリアの歳はこう見えて150歳、決してガキではない。「理解らされるメスガキ」なんて物は、プレイの中にだけ存在する架空の概念でしかないのである。そういえばハメ撮り映像には「最後」の部分がなかったなぁ……。
巨漢男に合掌。せめてもの復讐が、あの動画の流出だったのだと思われる。ボコられながらまだ復讐しようというその精神は、サキュバス並みの命知らずだと言えよう。間違いなくただの大悪人だけれど。打ちのめされるべし。
「ゴムも付けない男ほどしばかれる……。なんというか、「正しい力」だな」
「でしょ♡」
何にせよ、全ての真相を知ることができてよかった。何か一つ賢くなったような気がする。錯覚だろうか。
しかしそうなると気になってくるのは、講義で聞いた「変身魔法を使うサキュバス」のリスクが何だったのかということだ。別に知ったからどうっていうことはないが、単純に興味がある。今度誰かに聞いてみようか。
「ところでリリア、リリアの魔法のことって、秘密にしなきゃいけない感じ?」
異能力バトル漫画では、信用した人間以外には自分の能力を明かすな……なんて言われる展開がよくある。ここはバトル漫画の世界ではないけれど、共通することはあるかもしれない。
どこかでうっかり口を滑らせて手遅れになる前に……というつもりで聞いたのだけれど。リリアは、しばらくにんまりと笑うだけだった。そしてある時、何でもないことみたいに、
「さぁ、どうだろうね」
と、その幼い顔立ちから表情を消して言う。目が笑っていなかった。
いや、怖すぎる。完全にこっちが理解らされる側だ。
「絶対に喋りません!」
「あは♡ がんばれ~♡」
サキュバスのことを知りたいと思うのは自由だ。実際に知ろうとすることも自由だ。現にそのための学問がある。しかし、何事にも「踏み込みすぎない方がいいこと」はあるのかもしれない。何せこの異種共存社会の平和は、サキュバスの良心によって成り立っているのだから。
あの事故の例を話した日、教授はなぜそのサキュバスの魔法の性質について、詳しく語らなかったのかのだろうか? ……実はそこにも、何らかの理由があったのかもしれない。今の俺のように。