八百四十一頁目
悩む俺を尻目にキャシーのアルケンが、普段と違う彼女を心配するように良く牧場で毛づくろいされているお返しとばかりに彼女の髪の毛を優しく啄む。
それを嬉しそうに受け入れながらキャシーは、このことは他のトライブの皆には……特にソフィアには内緒にしてほしいと言ってくる。
もちろん相談事を他所に漏らすつもりはないと断言する俺を見てキャシーは安心したように僅かに息を漏らす。
そんな漏らされたら困るであろうことを告白してきた辺り、キャシーは本気で過去の自分を悔いているのだろう。
ただやっぱり個人的にはそれまでの生活に加えてこんな危険すぎる場所に丸裸で放り出された彼女が、他者を利用しようという考えに至ったとしても無理のない話でありここまで心苦しい思いを覚える必要はないと感じてしまう。
恐らく仮にこの話を仲間の誰かが知ったとしてもキャシーに接する態度が変わったりはしないと思う。
或いはキャシー自身はそんな自分の性根が汚れているとでも思い込んでいて、そういう醜いところを皆に見せたくなかったのかもしれない。
尤も思い返してみればキャシーは危険な肉食に襲われていたソフィアを自分もまきこまれる危険を顧みず救出していたはずだ。
内心でどう思っていようといざ目の前で困っている人を見たら損得抜きに助けの手を差し伸べられるのだから……と余り気負わないようフォローめいた事を口にしてみたが、キャシーは最後まで言い切らせることなく首を横に振って見せた。
そうして語ったところによると、どうもキャシーはソフィアを見かけた時に万が一にも自分が巻き込まれないよう投げ縄で相手の身体が傷つくことも気にせず強引に引っ張っただけだという。
そうして上手く助けられれば命の恩人として利用しやすくなるし、助けられなそうでも投げ縄を捨てれば囮になるから自分だけは逃げられるから駄目元で試しただけだと。
……そう告げるキャシーの顔は今までで一番苦しそうであり、その声は途中から震えていたほどだ。
余程ソフィアを利用しようと考えていた当時の自分が許せないのだろう。
実際にそこで一息ついて軽く気持ちを落ち着けた後でキャシーは目じりを指先で拭ったと思うと再び儚げな微笑みを浮かべながら、あの純粋無垢なソフィアにこんな醜いところを知られたくないと漏らした。
その後もキャシーはソフィアに対して最初のうちは表面上を取り繕い、向こうの出方に合わせて気さくな性格を演じていたそうだ。
いや何ならば俺やハンスさんと合流した後も猫を被り、敢えて無防備に自分の身体を押し付けたりして上手く利用するために反応を伺っていたという。
……言われてみれば確かにキャシーはスキンシップが過剰だったような気がするが、別の国のまして違う時代の生活習慣に詳しくないからキャシーの居たところではそれが当たり前なのではと思い込んで疑いもしなかった。
ちょっとこれを欠片も見抜けないのはリーダーとしてはどうなのかと少し反省する。
果たしてキャシーはそんな俺やハンスさんの反応を見て当初は女慣れしておらず初心で扱いやすそうな連中だと思っていたらしい。
ただ一緒に過ごしているうちに俺やハンスさんが自分のところに居た男とは違い紳士とでも言うべき邪な心の無い人だとわかり、正直戸惑いながらも段々と好印象を抱いていったという。
尤もそれが物の豊かな未来人だからこその余裕からくるものだと知った時は少し思うところがあったそうだが、今では心の底から尊敬しているし好意を抱いているという。
そこでキャシーは少しだけいつものような口調で悪戯っぽく微笑みながら軽口を叩くように、何ならここで生涯を過ごすことになるのならば俺かハンスさんと結婚して子供を産み育てるのも悪くないとも考えていたというのだ。
……はい、その瞬間から右手首の鉱石が威嚇するようにチカチカ光りはじめましたよほんと……い、痛いって俺に八つ当たりしてどうするのフローラっ!?
そんな風に悶える俺を見てキャシーは先ほどまでよりは明るくなった様子で笑みを零すと、フローラの話を聞いてからは俺とそういう関係になろうと思ったことはありませんよと安心させるように呟く。
お陰で何とか痛みは治まったけれど、今度は何か違うことを訴えかけるようにチカチカし始めた。
まあ何となく言いたいことはわかる……俺とはそうでなくてもハンスさんに対してはどうなのかとでも言いたいのだろう。
しかし話の最初の方でキャシーは自分の恋愛は後回しでソフィアの事を考えているようであった。
その辺りどうなのか突っ込んで聞いていいのか少し迷うが、そもそもこんな深い闇を掘り出しておいて今更気後れしてどうするのかと覚悟を決めて尋ねてみた。
するとキャシーは困ったように首を横に振ると、ハンスさんはとても良い人だからソフィアが惹かれるかもしれないと……いやそうでなくても自分がトライブの仲間と付き合い始めたら彼女は気を使って付き合い方が変わるかもしれないから、ソフィアが好きな人を見つけるまでは自分は恋人を作る気はないというのだ。
……何だろうか、俺はキャシーの言うことに違和感を覚えてしまう。
まるでその言い方だとソフィアがハンスさんを好きになれば譲るつもりのようであり、何というか本当に結婚を意識するほど好きな相手ならばもう少し躊躇なり葛藤なりがあるはずではないか?
いや多分ハンスさんに好意を抱いているというのも結婚を考えるほど異性として意識しているのも事実だろうが、それ以上にキャシーはソフィアの事を気にしているように感じられた。
果たしてキャシーは自然な動作で拠点の方へ視線を向けたかと思うとソフィアには誰よりも幸せになってほしいからと言葉を続けたのであった。
その様子が何とも言えぬ雰囲気を纏っていたためか、或いは……その表情に見覚えがあったからか気が付いたら俺は無意識のうちに問いかけてしまっていた。
……キャシーが本当に愛している相手はソフィアなのではないかと?