「栗毛」のアーモンドアイ 作:栗東寮の玄関のガラスになりたい
頭がひどく痛む。
入社以来の偏頭痛だ。
蹴りでも食らったようにクラクラする。
薄暗い事務室に一人きり。
現場は根性で回っていると思い込んでいるらしい営業の連中が取ってきた、
血潮がたぎるような発注を前に、目頭が熱くなる。
判読できる文字が半分以下になったキーボードを叩きながら、生あくびを漏らす。
最後に家に帰ったのは、いつだったか思い出せない。
寝具しかないワンルームが、今はひたすらに恋しい。
裁断機のような音を奏でる印刷機を遠目に、虚ろな目で机上を眺める。
青と白に彩られ、赤い牡牛が角をぶつけ合う、カフェイン臭いロング缶。
山積の書類、作成者すら仕様をしらないマクロ、9:00-17:00が整然と並ぶタイムカード。
チク、タクと喧しい時計を睨んで、はて、あの針の並びは何時なのだろうか。
――もうダメだ、少し寝よう。
幸福と縁遠い生活をしていると、なるほど神なりカルトなりにハマる気持ちも解る。
問題は信仰に縋りつく暇すら、俺には許されないことだろうか。
痩せて骨ばった己の腕に頭を預け、目を覚ますと、視界いっぱいに芝が広がっていた。
――わけがわからん。
「走って!アーモンド!」
トレーナーの声が聞こえる。
まて、トレーナーって何だ。
走れ?意味が分からない。
在庫表を仕上げて、発注書をやっつけて、決裁印を今日中にもらわないと。
…在庫って何だ?
なぜ芝の上にいる?
何でこんなにも走りたい?
よし、深呼吸をして落ち着こう。
貧乏商社の窓際で徹夜して書類つくるマンこと俺の名は、
――俺は誰だ?
俺は、いや私はウマ娘で、中央にギリギリ合格して、奇跡的にトレーナーがついて…
今日はデビュー戦だ。
――走らなきゃ。
一足も二足も先に駆けだした同期たちを追いかけて、走り出す。
芝生を蹴り上げながら、様々なことが脳裏をよぎる。
頭頂に耳が生えているし、尻には尾すら生えている。
異様に速く走れるし、音も匂いもずいぶん鮮明だ。
癖となって久しい独り言の度に、可愛らしい声が聞こえる。
…おかしいな、股座の息子がどこか遠くへ家出している。
力強く芝を踏みつけて、しかし思考は深く、深く沈んでいく。
――わけがわからん。
盛大に出遅れた私の着順は13人立ての10着だった。
感情と記憶が入り乱れ、宇宙猫の様な間抜け面を晒していると、トレーナーが駆けてくる。
「まぁその…アレよ!出遅れが敗因だって分かりきってるから大丈夫よ!」
ダメなんじゃないだろうか。
何事においても出遅れるのは致命的だと思う。
「緊張を解してあげられなかった私がいけないのよ!」
正しくは緊張でなく、茫然自失だ。
「だから、貴方は良かった所のことを考えて!」
――良かったところが、ありましたか?
純粋な疑問から、トレーナーへ問い掛ける。
同時に、耳へ届く可愛らしい声が、己の喉から発せられたと理解して、軽く吐き気を催す。
「驚異的な末脚だったじゃない!稍重で上り3ハロンが35秒は相当のタイムよ!」
末脚だとか、ハロンだとか、競馬用語だっただろうか。
ボールペンで突き殺したいと思う程に憎んでいた上司達が、そんな会話をしていた気がする。
「…3週くらい空けて、未勝利戦に臨みましょう!」
随分と明るい上司だ。
前職とは比べるべくもない。
こちらもつられて明るくなる。
――がんばります。
30歳まで童貞を貫くと、魔法が使えるようになるそうだ。
覚えた呪文は「がんばる」
これまで効果は不明だったが、どうやら女の子になるらしい。
持病の偏頭痛はどこへやら、なんともすがすがしい夢見心地ではないか。
…私は楽観主義者のようだが、俺は悲観主義者だったのだ。
背反する感情がぶつかって混ざり合う。
何もかも唐突すぎる。
頭に蹴りを食らったような気分だ。
アーモンドアイじゃないほうのアーモンドアイについて知ってほしいと思っています。だからこそ、アーモンドアイじゃないほうのアーモンドアイについて知ってほしいです。