「栗毛」のアーモンドアイ   作:栗東寮の玄関のガラスになりたい

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2.Easy Living

 走ってきた。それだけの単純な人生。

 

 トレーナーと別れて、私は、自分の部屋に戻る。

 西日が少し差し込む部屋に一人きり。

 たむろする烏たちに、笑われている気がしてカーテンを閉めた。

 目尻からこぼれる涙を乱暴に拭って、柔らかなベッドに腰かける。

 

 とりあえず、俺の置かれた状況を整理しよう。

 くすみ一つない姿見を覗けば、可愛らしい栗毛のウマ娘が居る。

 耳をピコピコと動かしてみたり、尻尾をゆらゆらさせてみる。

 

 木の香りのする机にはテールオイルに、ブラシ。

 引き出しの中には、蹄鉄とハンマー。

 日高と大きくプリントされた段ボール。

 中身は、にんじんと、ニンジンジュースがたくさん。

 おいしそうだ。

 

 

 

 

 さて、俺は、自分の名前を覚えていない。

 勤め先の事も、初恋の人の名前も、親の顔すらも、思い出せない。

 辛うじて、覚えているものはたった2種類。

 

 一つは自分の年齢と恋愛遍歴。

 38歳童貞で、彼女いない歴=年齢。

 

 もう一つは大嫌いな上司どもの、愉快な雑談。

 競馬で勝っただの負けただの、下らない。

 トータルでは勝ってる?素直に負けを認めろよ。

 というか仕事しろ。

 決裁板を回せ。

 あと可及的速やかに死んでくれ。

 

 まったく最高だ。

 忘れていいことは覚えてて、忘れたくないものは消え失せている。

 そもそも何なんだ、ウマ娘って。

 きっとこれは風邪をひいたときに見るイカれた夢に違いない。

 

 俺として至った結論を、私の記憶が否定する。

 

 

 

 

 北海道は日高の浦河町。

 そこに生まれて、物心ついた時から走っていた。

 

 幼いころの夢は三冠、入学試験で書いた目標はG1取れるだけ取る。

 走ることばかり考えて、14年生きてきた。

 

 中央トレセン学園の間口は狭くて、1回落ちた。

 2回目はペーパーも実技も死に物狂いでがんばった。

 及第点ぎりぎりで合格して、両親も学友も、町内会の皆も喜んでくれた。

 

 同じく中央への渡りを付けた学友もいたが、

 手違いで東京へは一人寂しく向かうことになった。

 

 一度も道に迷わなかった事は密かな自慢だ。

 

 同期はみんな良いトモをしていて、まずは追い付く事が目標になった。

 バッジをつけてる人達に、片っ端から声をかけて、話を聞く。

 鍛えて、泳いで、走って、食べて、話して、寝る。

 

 友達も大勢できた。

 同時にライバルでもあるけれど。

 先輩を含め、同郷で集まってみたこともある。

 皆が皆、親に隠れて派手~ずナイトを見ていて、大いに笑いあった。

 

 デビューするには、トレーナーが必要だ。

 チームに入るなり、専属を見つけるなり、しなくてはならない。

 

 手っ取り早いのが、定期的に開催される選抜レース。

 いい着順なら、引く手あまた。

 敗れても走りを認めてもらえれば、チャンスはある。

 

 迎えた選抜レース、8人立てで同郷が2人、うち学友が1人。

 1800mの青々とした芝を、8つの影が駆け抜ける。

 馬場は良。

 綿菓子のような雲に見守られ、3コーナーへ差し掛かる。

 

 外で溜めて、仕掛ける。

 末脚には自信があったのに、同期たちに追い付かない。

 遠ざかっていく尻尾が2つ。

 追い付けない尻尾が2つ。

 頑張って減速しないように曲がるさなか、

 ラチ沿いに、もう一つ尻尾が現れて、絶望した。

 

 最終直線はひどくつまらなかった。

 2番手だった先行の同期がハナ差で競り勝って、

 ゲートからハナを進んだ逃げの同郷が2着。

 ラチを擦るように抜けていった差しの同郷が、前方2人を抜いて3着。

 

 私は、とうとう誰にも追い付けない。

 精一杯踏み抜いて、上りタイムだけは上々。

 すぐ後ろには、学友が溺れながら足掻いている。

   

 結果は6着。

 自分では最高の仕上がりだと思っていた。

 バッジの群れから聞こえてくるのは、

 

 2着の逃げは鮮やかだった。

 1着の先行はいいコース取りだった。

 3着の差しも、根性を見せて頑張った。

 

 肩で息をする学友と、その後ろに居た誰かを、

 どこか他人事のように眺めていた。

 

 スカウトなんて来やしないと思って、泣きながら走って逃げだした。

 

 

 

 

 切り株で思いの丈をぶちまけていると、誰かがやってきた。

 聖子ちゃんカットが街行く女性を占める時代に、ツーブロックのベリーショート。

 

 「上りはすごくよかったと思うの。どうかな、一緒にG1目指してみない?」

 

 真新しいブレザーの襟に輝くトレーナーバッジ。

 堺と名乗った女性は、私に手を差し伸べた。

 

 

 

 

 そんな私の記憶を裏付けるものが、紙媒体で手元にある。

 丸っこい文字でしたためられた、桜色の日記帳。

 

 がんばる、で締めくくられるページの多いことが、なんとも可愛らしい。

 

 物心ついた時から一日も欠かさず、何故か毎朝、記しているようだ。

 昨日の日付まで読み進めるうちに、西日も烏も、夜の闇に呑まれていた。

 

 まっさらなシーツに寝転んで、布団を被って堺トレーナーに思いをはせる。

 

 俺の上司とは驚くほど正反対だ、なんて比べていると、ある雑談を思い出す。 

 

 

 

 

 ――アーモンドアイが、9冠で、引退。

 

 

 

 

 私のは、俺のよりも、ずっと簡単な人生かもしれない。

 

 翌朝、3時間近く寝坊して叱られた。

 ベッドが柔らかいのがいけないんだ。

 




くっきりとした形が見えている訳ではないけど、おぼろげながら浮かんできたんです。
38歳童貞という設定が。
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