「栗毛」のアーモンドアイ 作:栗東寮の玄関のガラスになりたい
走ってきた。それだけの単純な人生。
トレーナーと別れて、私は、自分の部屋に戻る。
西日が少し差し込む部屋に一人きり。
たむろする烏たちに、笑われている気がしてカーテンを閉めた。
目尻からこぼれる涙を乱暴に拭って、柔らかなベッドに腰かける。
とりあえず、俺の置かれた状況を整理しよう。
くすみ一つない姿見を覗けば、可愛らしい栗毛のウマ娘が居る。
耳をピコピコと動かしてみたり、尻尾をゆらゆらさせてみる。
木の香りのする机にはテールオイルに、ブラシ。
引き出しの中には、蹄鉄とハンマー。
日高と大きくプリントされた段ボール。
中身は、にんじんと、ニンジンジュースがたくさん。
おいしそうだ。
さて、俺は、自分の名前を覚えていない。
勤め先の事も、初恋の人の名前も、親の顔すらも、思い出せない。
辛うじて、覚えているものはたった2種類。
一つは自分の年齢と恋愛遍歴。
38歳童貞で、彼女いない歴=年齢。
もう一つは大嫌いな上司どもの、愉快な雑談。
競馬で勝っただの負けただの、下らない。
トータルでは勝ってる?素直に負けを認めろよ。
というか仕事しろ。
決裁板を回せ。
あと可及的速やかに死んでくれ。
まったく最高だ。
忘れていいことは覚えてて、忘れたくないものは消え失せている。
そもそも何なんだ、ウマ娘って。
きっとこれは風邪をひいたときに見るイカれた夢に違いない。
俺として至った結論を、私の記憶が否定する。
北海道は日高の浦河町。
そこに生まれて、物心ついた時から走っていた。
幼いころの夢は三冠、入学試験で書いた目標はG1取れるだけ取る。
走ることばかり考えて、14年生きてきた。
中央トレセン学園の間口は狭くて、1回落ちた。
2回目はペーパーも実技も死に物狂いでがんばった。
及第点ぎりぎりで合格して、両親も学友も、町内会の皆も喜んでくれた。
同じく中央への渡りを付けた学友もいたが、
手違いで東京へは一人寂しく向かうことになった。
一度も道に迷わなかった事は密かな自慢だ。
同期はみんな良いトモをしていて、まずは追い付く事が目標になった。
バッジをつけてる人達に、片っ端から声をかけて、話を聞く。
鍛えて、泳いで、走って、食べて、話して、寝る。
友達も大勢できた。
同時にライバルでもあるけれど。
先輩を含め、同郷で集まってみたこともある。
皆が皆、親に隠れて派手~ずナイトを見ていて、大いに笑いあった。
デビューするには、トレーナーが必要だ。
チームに入るなり、専属を見つけるなり、しなくてはならない。
手っ取り早いのが、定期的に開催される選抜レース。
いい着順なら、引く手あまた。
敗れても走りを認めてもらえれば、チャンスはある。
迎えた選抜レース、8人立てで同郷が2人、うち学友が1人。
1800mの青々とした芝を、8つの影が駆け抜ける。
馬場は良。
綿菓子のような雲に見守られ、3コーナーへ差し掛かる。
外で溜めて、仕掛ける。
末脚には自信があったのに、同期たちに追い付かない。
遠ざかっていく尻尾が2つ。
追い付けない尻尾が2つ。
頑張って減速しないように曲がるさなか、
ラチ沿いに、もう一つ尻尾が現れて、絶望した。
最終直線はひどくつまらなかった。
2番手だった先行の同期がハナ差で競り勝って、
ゲートからハナを進んだ逃げの同郷が2着。
ラチを擦るように抜けていった差しの同郷が、前方2人を抜いて3着。
私は、とうとう誰にも追い付けない。
精一杯踏み抜いて、上りタイムだけは上々。
すぐ後ろには、学友が溺れながら足掻いている。
結果は6着。
自分では最高の仕上がりだと思っていた。
バッジの群れから聞こえてくるのは、
2着の逃げは鮮やかだった。
1着の先行はいいコース取りだった。
3着の差しも、根性を見せて頑張った。
肩で息をする学友と、その後ろに居た誰かを、
どこか他人事のように眺めていた。
スカウトなんて来やしないと思って、泣きながら走って逃げだした。
切り株で思いの丈をぶちまけていると、誰かがやってきた。
聖子ちゃんカットが街行く女性を占める時代に、ツーブロックのベリーショート。
「上りはすごくよかったと思うの。どうかな、一緒にG1目指してみない?」
真新しいブレザーの襟に輝くトレーナーバッジ。
堺と名乗った女性は、私に手を差し伸べた。
そんな私の記憶を裏付けるものが、紙媒体で手元にある。
丸っこい文字でしたためられた、桜色の日記帳。
がんばる、で締めくくられるページの多いことが、なんとも可愛らしい。
物心ついた時から一日も欠かさず、何故か毎朝、記しているようだ。
昨日の日付まで読み進めるうちに、西日も烏も、夜の闇に呑まれていた。
まっさらなシーツに寝転んで、布団を被って堺トレーナーに思いをはせる。
俺の上司とは驚くほど正反対だ、なんて比べていると、ある雑談を思い出す。
――アーモンドアイが、9冠で、引退。
私のは、俺のよりも、ずっと簡単な人生かもしれない。
翌朝、3時間近く寝坊して叱られた。
ベッドが柔らかいのがいけないんだ。
くっきりとした形が見えている訳ではないけど、おぼろげながら浮かんできたんです。
38歳童貞という設定が。