CEFALÓPODOS -セファロポドス- 作:夜泣かし村
流々家町。何度も言うけど、ここでは沢山の命が軽々しく失われる。
路地裏から血の匂いがするなんて当たり前。不良は何かしらの武器を持っているし、時折黒服が何かを探っている。
ただ、安全な場所もある。正確には
その一つがここ。
「……」
「えっと」
「不合格、かね」
「ですよね……」
ClubJun──沖石ジュンさんオーナーを務める、女性バーテンダーばかりが集まった高級バー。バーテンダー達の容姿は粒揃いだけど、その中でも一際目を引く巨漢──漢じゃないけど──が僕の求めてきたもの。
傷だらけの拳や威圧感さえ覚える見た目に相反して、僕とジュンさんの方をチラチラチラチラ見ては心配そうに口を覆っている彼女の名は、錆浦蘭。
ムルシエラゴの主人公である紅守黒湖と対等の強さ……あるいはその上を行く、パワー極振りお姉さんである。
「飲食業での従事経験がない事。知識が乏しすぎる事。何より──」
ジュンさんが僕を見る。
眺める。座っている状態だけど、まるで机を空かして、足先から顔までを舐めるように見られているような気分になる。蛇に睨まれた蛙状態だ。げこげこ。
「な、何より?」
「──いや、いいさ。とにかく不合格だ。紅守経由の紹介とはいえ、ウチも慈善事業じゃない。すまないね」
「あ、大丈夫です。すみません、無理言って」
そう、今日。今日僕がここにいるのは、仕事の斡旋をしてもらったからだ。紅守黒湖に。
流石に紅守黒湖の気の向いた時の日雇い10万おせっせでは心許ない。それを副業に、何か定職が欲しいとなった次第。けれどムルシエラゴの世界において、飲食店だのコンビニバイトだのはあまりに危険。危険が過ぎる。ので、こういう安全な場所で働きたかった……んだけど。
まぁ、無理だよね。だって僕バーテンダーなんかしたことないし。
「今日はありがとうございました。失礼します」
「ああ──」
多分、ジュンさんの言い淀んだ、何よりに続く言葉。
それは、この店の地下にある格闘大会に類する何かなのだろう。地下闘技場「Destroyer」。犯罪歴無視、なんでもありの闘技場で、勝ったからお金がもらえる。
そういう
バーを出る。
出ると、ああ、戻ってきた感覚になる。ほんと、あそこは空気が良い。死の気配が遠いというべきか。単純に、血腥くないというべきか。
出て。
「あら?」
「……わ」
ばったりと、その子に出くわした。
柳岡千代。流々家一帯に強い影響力を及ぼすヤーさんの、その娘さんである。
「仕事がない?」
「うん……」
とある理由から、千代ちゃんとは友達である。最近友達になったというべきか。とある理由もなにも、紅守黒湖繋がりなんだけど。
彼女の家や家族がヤーさんであるのは事実としても、千代ちゃんはただの女子大学生。前世の僕と大体同い年である彼女との気はすぐに合い、会ってすぐの小一時間は多くを話し込んだものだ。
そんな彼女に今。一応、形としては年下である彼女に今、僕は無職であるという相談をしている。
「そういえばウチの病院の医療事務が求人出してたっけ」
「ほ、ほんと?」
「ええ。ただ……ほら、ウチって、アレじゃない?」
「ああ」
「だから、割と信用筋じゃないとダメでね」
千代ちゃんの病院、というのは、彼女の家族であるヤーさん……柳岡会が持つ柳岡総合病院の話である。原作においても頻繁に登場する病院で、背骨損傷やら内臓すれすれの斬撃などを痕も残さずに治療しきってしまう、凄まじい医術を持つ医者が在籍している。
柳岡会の息がかかっているために経歴の怪しい者でも安全に入院させられるし、ある意味で紅守黒湖の庇護下にあるため、その安全性もピカイチだ。
「是非……面接をうけさせてください」
「りょーかい。それで、この後暇?」
「ん? うん。今ここ落ちちゃったし」
「じゃあ買い物付き合いなさい。ホントは黒湖と予定があったんだけどね、また仕事だってさ」
「それじゃ、代わりのナイトには力不足だけど。精一杯僕がエスコートするよ、お嬢様?」
「……」
「あれ、どうしたの? 苦い顔して。~皿~みたいな顔してるけど」
「誰がサラみたいな顔よ。……お嬢って呼ぶのはやめて。ウチの連中を思い出すから」
「ああ、そゆこと」
柳岡会。その会長の娘となれば、お嬢お嬢と持て囃される。ちやほやされる。
色々思う所があるのだろう。友達付き合いをするには、少しばかり。
……。
「千代ちゃんちょっと、この道使うのやめよっか」
「何よ、いきなり」
「いいからいいから」
千代ちゃんの手を引いて、今向かわんとしていた道から踵を返す。
一歩。十歩。百歩。それくらい離れて。
離れて。
──背後から、ギャーだのキャーだのという悲鳴が……断末魔が響き渡った。
「え?」
「振り返らない方がいいと思う。グロいから」
「ちょ、ちょっと金枝?」
轟音。怒号。悲鳴。悲鳴の割合が些か多いか。パン、パンという乾いた音は発砲音。早いな、もう警察が来ている。あるいは巡回中の人だったのかな。可哀相に、仕事熱心であるが故に寿命が縮まった。
千代ちゃんの方を抱き寄せる。おおぅ、良いカラダしてますなぁお姉さん。げへへ。
その、先ほどまで千代ちゃんの頭があった場所を、瓦礫が通り抜ける。
「……判断ミス」
「何を──」
「千代ちゃん、柳岡会の護衛とかいないの?」
「え? いや、ついてこないで、って言ってあるから、いないと思うけど……」
参った。
後ろ……まぁ、直接見て無いからちゃんとはわからないけど、暴走トラックがいる。トラックは多くを轢き殺し……わざわざ歩道に乗り上げてまで民間人を轢いている。原作に無かった事件だけど、流々家町というのはまぁそういうものだ。
この行動が例の薬の影響なのか、単純な異常者なのかはわからない。毎日確認しているニュースを見る限りではあのレスラー男の事件は出てきてないから、まだ、であると信じたいけど……まぁ薬じゃなくてもやばいことはなんにもかわらない。
僕にとって今マストなのは、千代ちゃんを護ることである。
となれば手っ取り早くこの場を離れる……柳岡会の護衛の皆さんに連れて行ってもらうのが一番なんだけど、いないらしいから仕方ない。
「千代ちゃん、こっち」
「金枝、さっきからどうしたのよ」
「ここ危険だからさ。逃げようって話」
目の前に停めてあるバイクを指さす。勿論僕のバイクじゃない。なんならこっちの世界の僕は運転免許を有していない。ただまぁ、知識だけはあるので。
シートを開けて、コネクタとカプラ引っ張り出して、いくつかの数字を打ち込む。
……おっけー。U字ロックの南京錠は四桁。こっちは楽勝だね。
「よし、千代ちゃん乗って!」
「……何したの、今」
「非正規の……ああいや、緊急用の手段でエンジンかけただけだよ。乗ったら、ちゃんと掴まっててね」
音が大きくなっている。発砲音もかなりあるのに、トラック君は止まる気がないらしい。何人轢くつもりなんだ。異世界に大量の転生者が送り込まれるぞ。
渋々、といった様子で後ろに座った千代ちゃんを確認し、出発進行。どっちもバイクに乗る格好じゃないけどまぁ仕方ない。ヘルメットは千代ちゃんにあげた。僕は大丈夫。
「こういうの、慣れてるの?」
「え? なんてー?」
「そ。いいわ。私も人の事言えないし」
ガチで聞こえなかったんだけどなんだろう。バイクに乗ってる時に話しかけられても困るといいますか。
そのまま走る事2分程。
前から……というか前方の建物の屋上の方からギャリギャリというタイヤ音が聞こえ、安堵のため息を吐く。
バイクを停めて。
……停めて。
「あの、千代ちゃん。割と苦しかったりする」
「全部話しなさい。そしたら離すわ」
「千代ちゃん自分が力強い事自覚してる? 出るよ出るよ
後はまぁ、任せればいいだろう。
紅守黒湖。そして屠桜ひな子に。
僕は必要ない……というか、力添えにすらならないだろうから。
「ぐえ」
「話・し・な・さ・い?」
「はい、はい。わかりました、お嬢ぐえ」
と言っても話す事なんかほとんどないんだけどね。
「運が良ィ?」
「うん」
バイクを停めて、指紋等々を拭き取って。
僕と千代ちゃんはある喫茶店にいた。街中でなく、柳岡会が近い……住宅街にある喫茶店だ。だからというか、いるわいるわのヤーさん。そしてめっちゃ見られている。さしずめ悪い虫二号、という扱いなのだろうか。オトモダチデスヨー。
「……でも、金枝。アンタ……」
「ああ、家族のこと? まぁそれはね。僕の運の良さを打ち消すレベルのものに引っかかっちゃったら、どうしようもないよ」
「ヘンにさっぱりしてるわよね、金枝って」
僕は、運がいい。
幸運体質だ。そしてそれだけじゃない。
「わかるんだよね。あ、次にラッキーな事が起こるな、っていう前兆が、なんとなく」
「たとえば?」
「たとえば、こう」
ストローを引き抜く。
そこに、茶柱が立っていた。
「……いや、お茶をストローで飲むのがまずどうかしてる、ってツッコミは必要?」
「ラッキーな事が起こる予感がしたからお茶を頼んで、ストローをつけてもらった、って言ったら?」
「馬鹿ね、っていうわ」
「だよね。ちなみにお茶をストローで飲むのは昔からの癖。特に理由はないよ」
「けど、幸運、か……。それならギャンブルとか向いてるんじゃない?」
「賭博行為は違法だよ?」
「アンタさっきバイク盗んだでしょーが」
「それはそう」
ストローをコップに戻す。中に入った氷が立っていた茶柱を崩した。そのままストローで中身をかき混ぜれば、カラコロと涼し気な音が響く。
「それで?」
「ん?」
「別にカジノだのなんだのじゃなくても、宝くじとか買えばいいじゃない。100%当たるなら、それだけで働く必要はないでしょ」
「んー、ラッキーな事が起こるな、ってのがわかるだけで、ラッキーなことを起こせるわけじゃないんだよね。僕がどうこうできる事じゃないっていうか。だから宝くじを買う時にラッキーな事が起こるって思える日まで、毎日毎日宝くじ売り場に通っては買わない、を繰り返さないといけない」
「何十年も当たらない運命にあったら意味がないってワケか」
「そゆこと」
生命活動における保全にはうってつけの特異体質だけど、日常生活ではあんまり役に立たない。ムルシエラゴの世界だからこそ少しは役に立つけれど、先も述べたように
それはたとえば、紅守黒湖とか。あるいは悟白亜とか。
「じゃあやっぱり地道に働くことね」
「もちもち。僕もニートは御免だからね。働いてこその人間生物でしょ」
「ヘンに真面目よね、金枝って」
「幸運だからね。少しくらいは返さないと」
貰い過ぎては、不平等だし。
「……夫も子供も失って、返すも何もないと思うけれど」
「あはは」
それも、貰いものだから。
「それじゃ、病院に話ついたら連絡するわ」
「あれ、もう行っちゃうの?」
「黒湖がね。仕事終わったから、急いでいくって」
「なーる。オアツイコトで」
じゃね、と。
千代ちゃんは手を振って、喫茶店を出て行く。
あ、お会計しないと、と思って立ち上がれば、レジの前にはどこか見覚えのあるツルピカ頭が。
彼はこちらに気付くと、グッと親指を建て、ウィンクを投げてきた。……お友達認定してくれたって事かな? もしくは千代ちゃんが支払いを命じたか。
「……これもラッキー、ということで」
良かった。実は手持ち300円だったんだよね。
5月14日。日曜日。
無事柳岡総合病院での医療事務として受かり、月曜日から早速働き始めるぞ、といったところで、その日付に気が付いた。お昼の番組でその日付を言ってくれなかったら気が付かなかった。
昼下がり。家族が居なくなったことで暇な時間が増えた僕は、相も変わらず煎餅をバリボリとやっていたのだけど、流石にそれを床へ落とさざるを得ない動揺を覚える。
この日は。
この日の、夜は。
「……原作開始日じゃーん」
流々家町二丁目の殺人を発端に、元プロレスラー井々村弼の暴走が始まる日。そして終わる日。
プロレスラーであった時点で既に薬物に手を染めていたようだけど、その依存症は留まる所を知らず。リングを追われた今となっても薬物を買い求め、ついにはヤバーイものにまで手が伸びてしまった、なんというか憐れな人。それが死ぬ日。
彼の頭部にはマイクロチップが仕込んであって、だから多分、ヤバーイものにまで手が伸びたのはそのチップを仕込んだ人物の助言あってのそれなんだろうけど……ま、そこは割愛。
今ここで僕がすべきことは二つ。
一つ、流々家町二丁目からSHILUYA109周辺までには近寄らないという事。あれこそ幸運程度ではどうにもならない悪意の暴威の一つだから。
そしてもう一つは、その旨を千代ちゃんに伝えておくということ。
……なんだけど。
「出ないか。いやまぁ原作通りだったら千代ちゃん今頃紅守黒湖とレズってるはずだから安全なんだろうけど……」
紅守黒湖と柳岡千代は肉体関係にある。だから実は僕と紅守黒湖との関係も、千代ちゃんにはあまり知られたくない物の一つだったりする。まぁ千代ちゃんは許してはくれるんだろうけど。一応ほら、今んとこクリーンなお付き合いだからね?
言わなくてもいい事だ。しつこく電話をかけて、レズってる最中に繋がりでもしたら気まずいし。
ただ……なんだろう、胸騒ぎがするというか。僕の幸運センサーがやった方がいいと囁いているというか。
もし僕に、紅守黒湖や朽葉玲子、あるいは錆浦蘭のような強さがあれば、暴走プロレスラーを止める事ができたかもしれない。あそこで起きる殺人の全てを事前に停める事が出来たかもしれない。
ただ僕、パンピーなんだよねぇ。
ちょーっとラッキーなだけの一般ピーポーが向かってどうにかなるような奴じゃ無い……。
「む」
いや。じゃあその強い人を連れてくればいいんでね?
時間は13時。紅守黒湖に指令が渡るのが20時42分だから、時間はバリバリある。
思ったが吉時、この間もらった名刺を取り出してプルプルリ。
ガチャ。
──"はい、こちらClubJun──"
「あ、沖石さん。ご無沙汰しております、小高井です」
──"ああ、先日の"
「不躾で申し訳ないのですが、今うららさんっていますか?」
──"うらら? ああ、いるけど……何用かな"
「ちょっと強い人がいて。地下格闘技で圧勝しそうなくらいのが」
──"へえ。知ってたのか"
「私じゃ勝てないので、うららさんに頼もうかな、と」
実際は殺してしまう事になるのかもしれないとはいえ、だけど。今の時点では殺人を犯していないはずなので、明るみにも出難い。ただ例の薬物は摂取済みだろうから、話が通じるかはわからないけど。
──"何々? バトればいいの?"
──"私は構わないが、うららを雇うんだ、金は出せるんだろうね?"
「ぜ、善処します」
──"別にタダでいいよ! ソイツ、強いんだろ?"
「格別に」
──"どこに行けばいい?"
「あ、今から私がそちらに伺うので、一緒に行きましょう」
──"おっけぃ"
未だ警察庁からの仕事となっていないから、紅守黒湖の仕事を奪う結果にもならない。
うららさんが負ける事はないだろうから、大量殺戮も起きない。ワンチャンDestroyerの参加者が増える。
僕はエゴを満たせて満足。
よし。
後はまぁ、うららさんに同行した結果、巻き添えを食らわない様に気を付けるくらいかな。
「この辺りのはず……うわお」
「うひゃー、凄いねコレ」
そもそもClubJunはSHILUYA109にほど近い所にある。そのため、特に何か乗り物を使う事もなく、流々家町二丁目へと徒歩で向かう道すがら、それを見つけた。
ボコボコと開いた壁の穴。まるで狭い巣穴を体格の大きい動物が無理矢理通って行ったかのような痕跡は、奥へ奥へと続いている。
そして、血の匂いも。
「うららさん」
「よーぉっし! って、アタシが先でいいの?」
「え。僕はヤりませんよ。というか出来ません。僕、うららさんとか紅守さんみたいに強くないので」
「そう?」
……え、なんだその反応。
無理やろ。どう考えても。体格的に無理やろ。僕人妻やで人妻。なんやて工藤。
「お願いします、うららさん」
「うっし!」
進む──うららさんを先頭に、僕も。
その、奥へ。
「──いた! うららさん、あそこ!」
「やっとか!」
僕の歩幅じゃ遅すぎたので、担いでもらって移動する事2分ちょい。
そこに、いた。超、超超巨漢。3m……いや、4mはあるだろうか。既にこの時点で人間の大きさじゃないんだけど、それはそこにいた。
筋骨隆々の身体。長いもじゃもじゃの髪。半裸で、その体に歯少なくない傷と、多くの血管が浮き出ている。
そしてその手は、明らかに委縮している金属バッドを持った少年の方へ伸びていて──。
「降ろすよ、かなえ!」
「ぬわお」
ぽい、と投げられる。
何とか着地を試み……ぬわ。尻もちをついた。
「せ──りゃっ!」
眼前。うららさんより大きい巨漢を、力づくでぶん投げる彼女に、どこか安心感を覚える。
カクン、と頭を下げた。
「……ナイフ?」
先程まで僕の頭があった場所を通り抜けたのは、一本のナイフ。
見覚えはある。どこぞの大学教授の使うナイフだ。
……そういえば、体格が異常に発達した大男の犯罪者って、あの教授の……ひいてはその後ろで糸を張り巡らせているあの子の差し金なんだっけ?
その子は紅守黒湖へ並々ならぬ想いを寄せていて、その意図まではまだわからないけれど、紅守黒湖に殺させるために仕向けているような描写があって……。
それを僕ってば、妨害しちゃった感じ?
「おっと」
二投目。三投目。
ちょいちょいちょい。うららさんと井々村弼の戦いを見届けにゃならんってのに、なんだって僕を狙うんだ。一回当たらなかったら諦めろよ無理なんだよそういう投擲物は!
くそー、大通りに逃げるのも手だけど、うららさん置いていけないし……かといって反撃の手段なんか僕には無いし。というかあの教授サンもどちらかといえば強者側だから勝てる見込み無いし!
「あっ、マズッ! そっち飛ばしちゃった!」
「ぬぇぁ?」
轟音と破砕音。それと共に、僕の周囲へ影が差す。
あ、降ってくるな──と思った瞬間には身体が動いていて。
「つ゛ッ!?」
その先に。
避けた先の、左足に。
一本のナイフが突き刺さった。
「だ、大丈夫? かなえ……うわ、足ケガしてる!」
「いやなんも問題ないです。で、どうですかアレ」
うららさんが近くに来たからか、ナイフ投げが止む。
痛い。けど、骨にまでは達していない。筋線維を傷つけない様に慎重にナイフを抜けば、だくだくと血が溢れ出す。
とりあえずハンカチを縛り付けて止血。
「逸材!」
「そりはよかたです」
「卑怯な事しないし、1on1を誘えばちゃんと乗ってくるし。けどあれ、耳聞こえてないのかな。さっきからスカウトしてるんだけど」
「今は興奮状態なので雑音として処理されているだけかと。一度気を失わせて、落ち着かせれば声くらいは届くんじゃないでしょうか」
「なるほどね。おっけぇ、やるか!」
自らに突き刺さった一本と、そこらじゅうに突き刺さっている幾本かのナイフを回収する。
その内の一本を徐に天へ向かって放り投げた。
「ナイフ投げビギナーズラック──これでお相子でしょ」
どこかの建物から「ウ!?」という男声が聞こえた。
ナイススロー。ラッキーショット、って奴。
「痛み分けって事で」
明日初出勤なのに、怪我とかさせないで欲しい。
事の顛末。
結局、井々村弼の正気が戻る事は無かったっぽい。
というのも、井々村弼とうららさんの戦闘は結構長引いて、その戦闘音を聞きつけてか警察が来てしまい、僕とうららさんはこそこそ逃げる羽目になったのだ。
ただうららさんからの打撃で相当に弱っていた井々村弼は警官の一人も殺すに至らず、猛獣用の麻酔弾を撃たれて昏倒、のちに拘束。
……そこから、護送車内で覚醒し、護送車の運転手らを殺した後、駆り出された紅守黒湖によって処刑された。
最終的殺害人数は4人。原作が23人であったことを考えればマシであるとは思うけど……まぁ、エゴは満ちたかな。多少は。
僕の足の怪我は、痛みを押し殺して出勤した結果、丁度その場に居合わせたお医者さんに看破され、入院手術の次第となった。内定は取り消さないでおくとのことで一安心。治らない内にベッド抜けだしたら縛り付けるからね、と言われて戦々恐々の内、今はすっかり痛みもない。
どんな医術だよ。
「しかし、何でついた傷よ、これ。痴話げんかのもつれ?」
「ああいえ、ちょっとナイフ投擲されまして」
「どんな日常生活送ってんのよ」
担当医は藤浪ユリアさん。
本来は要人医療の凄腕医で、僕程度を診る事は無いはずなんだけど、曰く丁度暇だったとかで診てくれている。看破したのもユリアさんだしね。
ちなみに彼女も紅守黒湖の彼女だ。
「でも、ラッキーだったね」
「治りやすい形で刺さってましたか」
「何、狙ったの?」
「多少は」
治りやすい形ってなんだよ、とか思わないでもないけど、お医者さんが肯定するのならそうなんだろう。
あの時にそこまで考えている余裕はなかった。だからこれは、無意識的幸運だ。それ普通の幸運じゃね?
「……じゃ、そろそろ行くから。今後、医者を相手に怪我を隠し通せるとか思わない事ね」
「はぁい」
傷は一週間も経たば完全に塞がるらしい。だからどんな医術だよ。
「それと」
「はい?」
「あんたの医療費は、もう払われてるから」
「はい?」
「んじゃ」
……え、なにそれ。
それは流石にラッキーとかそういう事じゃない気がするんだけど。え、誰が?
もしかしてあしながおじさんいる??