CEFALÓPODOS -セファロポドス- 作:夜泣かし村
独り暮らし。
相成った次第は家族を喪くしたからで、既にローンは返済済みだったこの家は完全に僕の持ち家となった。
庭に面した窓ガラスも既に張り替えられているし、飛び散ったはずの血肉もきれいさっぱりなくなっている。
元のままの家。
……だというのに、あぁ、なんだろう。
「寂しくないのは、薄情だよなぁ」
ソファに横になって。
本来であれば、この、静かになってしまった家を寂しく思い、苦しく思い、何か心の拠り所を探したりするんだろうけど……いや誠に残念。
独りになったな、という思いはあれど、悲しいな、という思いは湧いてこない。静かだな、とさえも思わない。
僕が小高井金枝になってから三年間。
紛れもない家族であった二人とはもう、きっちり、きっぱり、お別れが出来ている。
「……うん。よし」
お別れが出来ているのなら、うだうだ悩む必要はない。
気持ちを切り替えよう。薄情なら薄情で、仕方ないじゃないか、と。
さて。
それよりも、なのだ。
「小高井 金枝 様……ううん。僕だよなぁ、やっぱり」
今朝ポストに届いていた、一枚の手紙。小高井金枝様、と書かれた便箋は、酷く酷く、見覚えのあるもの。
差出人を悟兵衛。中にはパーティの招待状。加えてもう一枚の手紙。お越しいただけた暁には、謝礼として3000万円を。馬鹿にしてんのか。
「これ、行かない、というテはあるんだろうか」
この招待状。招待者の悟兵衛にまつわるこの
犯罪者だけを招き集めたこのパーティでは、その名の通り殺人が……ああいや、
犯罪履歴のある者、今なお罪を犯し、逃げ続けている者。人には凡そ言えないレベルの、悪夢のような大惨事を引き起こしている者。
それらに届けられた招待状はとある館への誘いを意味し、その誘いへと乗っかってしまった者は、見るも無残な殺戮……もとい事故に見舞われる。
つまるところ、超、命の危険、なのである。
そんでもって超、行きたくない場所。
「……丁度この日仕事休みとかいう運命は無視しちゃだめですかね」
僕の所にこれが届けられた。
それはつまり、悟兵衛は、あるいはあのメイドは、僕を犯罪者だと思っている、という事。なんだろうね、やっぱり窃盗罪かな。バイク盗んだまま返してないもんね。
……断る、事も出来る。
多分断っていかなければ、明日にでも紅守黒湖があの館を攻略し、朽葉怜子によって悟兵衛の完全殺害が成されるのだろう。そうすればこちらの住所が割れていようと問題なく、僕はまた平穏無事な日々を手に入れられる。
が。
「……ワンチャン、殺せそうだよね、あの教授」
自分でも何を物騒な事言ってるんだという自覚はあるけれど。
いやだって、妨害者として認知されてしまった以上、排除するしかないじゃん、みたいな。あの館の戦闘において、件の教授の命が脅かされる場面はいくつかあった。それが演技なのか本心なのかはともかく、事故に見せかけて、なら通用しそうだな、とか。
よし。
行こう。
「とりあえず紅守黒湖は僕の味方をしてくれるだろうし」
それが何より、安全だから。
「お待ちしておりました、小高井さま」
「あ、はい。ドレスコードとかわかんなかったんですけど、大丈夫ですか」
「問題ありません」
だろうね、これから死ぬ予定なんだし。
なんてことはおくびにも出さないまま、長身長髪のメイドにぺこりとお辞儀をして、会場にインする。
原作通り、オッサン率の高い会場。皆ワイングラスを片手に食事を摘まんだり談笑を楽しんだりしている。これが全員犯罪者と考えると確かにぞっとしないね、うん。
「あんれぇ? 金枝さん?」
「あ、はい。じゃなくて、うん。僕です。紅守さん」
「なぁに、金枝さんもお呼ばれしたのぉ?」
「謝礼金3000万円くれるらしくて」
「へえ」
柳岡総合病院の給料はまだ入ってきていない。働き始めたばかりだからそれは当然として、だから僕の生活費は紅守黒湖との援助交際金で成り立っている。彼女と金銭込みのセフレになる契約を交わしてから、二回。僕はもういただかれている。
だから20万も貰っているわけなんだけど、その度に仕事を探している、という旨の相談をしていたから、僕の金欠事情は紅守黒湖にも認知されているわけで。
だからその、成程ね、という目線と、このパーティに対するきな臭いな、というような表情から、彼女の心境がひしひしと伝わってきて。
来て。
「……回数、増やすぅ?」
「あ、大丈夫。もう仕事してるから」
断ると、目に見えて落ち込む紅守黒湖。彼女とのおせっせ、気持ちいいけど疲れるんだよね。激しいから。
「あ、あの……黒湖さん。そちらの方は……?」
「あ、初めましてー」
「初めまして……その」
「小高井金枝っていいます。お名前窺っても?」
「あ、ミユキ、です。フリーターしてます!」
聞いてないけども。
やっぱり苗字は名乗らないか。この子、あんまりお近づきになりたくないんだよね、怖いから。
ただまぁ、この館における安全度はピカイチだ。だって紅守黒湖が守るから。あ、それだと僕守られなくない?
──"本日は私が主催するパーティーに、ようこそおいで下さいました"
唐突に館内放送が響く。良い機材を使っているのか、マイクのオンオフをした時のブチッが聞こえなかった。あるいはハナからついていた、という可能性もあるけど。
──"犯罪者の諸君。社会のゴミ共よ"
頭上。ガラス張りの出っ張った部分に、車椅子の老人がいる。メイドに車椅子を押されて現れたその老人は、嗜虐的な、あるいは全てを見下したかのような顔で笑っていた。歯はボロボロに抜け落ちていて、眼孔は暗い洞のよう。よくそれで喋れるな、って感じ。
単純に言うと、怖い。
──"初めまして。私がオーナーの悟兵衛だ"
──"さて、諸君らはこれまでに一体何をしてきた? 一体どんな罪を犯し重ねてきたのかね?"
演説、なのだろう。ここにいる犯罪者へ向けたメッセージ。
犯罪者とはどれほど愚かで浅ましく邪魔な存在で、それを一向に排除せず、人権とやらを叫びたてる国はおかしいのだと。
故に、あのご老人が。悟兵衛が、排除するのだと。この国に、政治に、司法に絶望した彼が。総工費1242億389万1702円。10年もの歳月を費やして作られたこの屋敷は──。
「ふざけるな! 黙って聞いてりゃ、好き放題ぬかしやがって!」
「仕事が無いなら帰らせてもらう!」
「まったく、くだらない……」
「私もお暇させていただきます」
招待客が会場を出て行く。
出て行かんとする。
その体を。
「ぇ──」
「ガ、ぁ」
……幾本もの槍が刺し貫いた。槍。あるいは、針か。
──"年長者の話はちゃんと聞かんか、莫迦者"
──"言ったろう。諸君らの為にこの屋敷を作り上げたと。この屋敷には、私のとっておきの罠が"
しかけてある。
そう言いきる前に、ガラスを叩く轟音。ライフル弾だ。朽葉怜子から放たれたライフル弾が兵衛のいるガラスを叩き、けれど弾かれた。あ、ガラスじゃなくて特殊強化プラスチックらしい。なんやねん特殊強化プラスチックって。
──"君たちが真に善人であるというのなら、抜けられるはずだ。この屋敷を、無傷で、生きて"
……まぁ、そこからは筆舌に尽くし難い。
殺戮。殺戮。殺戮ショーだ。
今まで飲食を行っていたテーブルから円形のソーが出てきたり、動揺してかふらついた足元にあったスイッチで身体を割断される人がいたり。壁から伸びてきた銛に刺し貫かれる人。手元の皿が爆発するヒト。置かれていたワインボトルから銃弾が飛び出し、鎮座していた騎士の甲冑が剣を振り下ろす。
それらはけれど、彼らの不注意が原因で飛び出した罠。悟兵衛が手を下したわけではない──との言だ。
そうして、そうして。
夥しい数の命が失われた。血まみれ、血だらけ、臓器だらけ。吐き気を催す光景に、けれど動揺はない。エログロ好き舐めんな。確かに臭いはキツいけど、これくらい見慣れている。興奮するまである。
「大丈夫? 金枝さん」
「うん。運が良かったみたい」
「そりゃ……そーみたいねぇ」
傷一つ、負っていない。流石に靴は血まみれだけど、それくらいだ。声をかけてきた紅守黒湖もまた無傷だし、それに守られているミユキちゃんも無事。
「……あなたたちも生きてたんだ」
「あ、さっき狙撃してた……えーっと」
「朽葉。結局仕留めきれなかったけど」
いつの間にか銃を仕舞った様子の女性、朽葉怜子。
「どうヤラ残ったノハ……これだけのようデスね」
「……」
「クク……皆サン悪運がお強イ……。初めまシテ。私の名はコバルト=コンラッド」
浅黒い肌をした異人、コバルト=コンラッド。
「どぁぬぁあああっ、どぇぇりゃあッ! ……でぇい、チクショウ! なんだってんだ一体!」
「どうでショウ、生き残った我々で、ここからは共に行動するというノハ」
「良いと思います! かたまって動いた方がきっと安全です!」
「そうね。私は構わないわ」
見るからにパワー馬鹿、桃山照美。
この三人が加わって、僕らは晴れて屋敷探索パーティ、となった次第である。
「なぁ。そういやお前らなにしでかしたんだ? あのジジイ犯罪者の諸君とか言ってたけどよ。そこのおじょーちゃんとか、そっちの姉さんとか、どー見ても無害だろ」
「私は……その、万引きくらい、です。学生の時に……」
「僕は窃盗だね。ちょっとこの前緊急に駆られてバイクを盗んじゃって」
「尾崎かよ。つか、その程度でこんな目に遭ってんのかよ。災難だなオイ」
「桃山さんは?」
「俺か? 俺は、地下格闘技でよ。金賭けててよ。そこで対戦相手をぶっ殺しまくってたんだけど、オカシイよな、同意の上だろッツーんだよ」
「同意の上でも殺人が罪なのがこの国の法律だからね」
「意味わかンねーよな。事故だろこのバアイ」
雑談タイム、にしては内容が殺伐としすぎているけれど、六人で廊下を進んでいく中で仲を深める。ミユキちゃん、ホントに怖いな、という所感。だって本当に無害そうで、同時に庇護欲を掻き立てられて。この子、悟白亜の娘とかその辺なんじゃないかと考察しているけれど、はてさて何を隠し持っているのやら。
ん。
同じタイミングで紅守黒湖がミユキちゃんの前に手を出し、制止させる。
瞬間、突き出てくる鋭利な針。
「あっは。危ないよ、ミユキちゃん」
「……あなた、とそこのあなた。今、罠が作動する前に気付いたように見えたけど……もしかして」
「ん? 何くちばっち。聞こえないよ?」
朽葉怜子のか細い声は、確かに聞き取りづらい。原作でもフォントが細くされていて読みづらいのだ、こうして生で聞くと、成程わかりづらい。
僕は内容を知っているから聞き取れるけど、これ日常生活の意思疎通も大変なんじゃなかろうか。アラーニァでの鴇ちゃんはよくもまぁ。
「今罠が作動する前によけたでしょ、って……」
「はェ~、ミユキちゃん耳が良いねえ~」
紅守黒湖へは睨むような視線を。そして僕へは、何か得体の知れないものを見るかのような視線をなげてくる朽葉怜子。最後尾を歩いていたから見えるのは当然として、僕はちょっと立ち止まったくらいなのになぁ、よく見ている。
あ。
「ソレ」
「ッてぇ! テメ、何しやがん──ッ!?」
突然桃山を蹴りつける紅守黒湖。それにキレる桃山の前に、床を焼く液体が零れ落ちる。
「酸」
「お、おう……助かりました……」
一瞬紅守黒湖と朽葉怜子の視線が僕を貫くけれど、なんでもなかったかのように紅守黒湖が語り始めた。
曰く、紅守黒湖には"死の気配"のようなものが感じ取れるらしい。それは彼女の仕事……国選処刑人が故なのか、そもそも彼女が715人を殺し続けた結果なのかはわからないけれど、とかくそれを感じ取れると。
故に罠がどこにあるかはともかく、罠がどう来るのか、はわかるのだと。
「金枝さんも、同じだったりぃ?」
「うぇ」
「私とおんなじくらいに立ち止ってたよねぇ?」
な、何故だ。紅守黒湖は僕の味方をしてくれるんじゃなかったのか。
彼女の特異体質に、俄には信じがたいといった様子で、けれど実際を見せつけられて納得していたパーティ一行の視線が僕をザクザクと貫く。やめろ、やめてくれ。僕は死の気配なんてわからないぞ。
「僕は、幸運なだけだよ」
「幸運ン?」
千代ちゃんにしたような説明をする。紅守黒湖が"死の気配"なら、僕は"生の気配"を感じ取れるのかもしれない。いや普通に生命活動関係ないラッキーも引き寄せるからそんなのが読めるわけじゃないんだけど。
幸運が起こる事がわかる。
それは転じて、自らの死に関して聡い事である、といえなくも、なくもなくも、なくも。
「ンだよ、第六感持ちが二人もいやがンのかよ」
「ん-、第六感とはちょっと違うかなぁ」
前方、斜め上。射出された針が、紅守黒湖の人差し指と中指によって挟まれ、勢いを失う。
後方、斜め下。僕の後頭部を狙うようにして反り返った刃が空を切る。僕がしゃがんだから。
「未来予知、ってカンジ?」
「あ、僕の方は第六感であってるあってる」
「……だってさ」
ともあれ。
信じてくれたようで、何よりである。
分かれ道に来た。
僕らは六人。ミユキちゃんが紅守黒湖のそばを離れようとしないのはともかくとして、僕もそちら側にいこうとしたら、止められた。
曰く罠を感知できる奴は両方に一人いた方がいい、と。ぬぐぅ、正論。
よって残った三人で別れた結果、紅守黒湖とミユキちゃん、そしてコバルト=コンラッドのパーティと、桃山照美、朽葉怜子、僕のパーティに別れる次第となったわけである。
……おいおい、これじゃ当初の目的達成できねえじゃんよ。
「コバさん」
「はイ? なんでショウか」
「これ」
ぽい、と投げ渡す。
それは、幾本かのナイフだ。
「……これハ?」
「落ちてたの拾ったからさ。足りないと困るでしょ?」
「なるホド。……
意図は汲み取ってくれたかな?
こっちは手を出すつもりないから、さっさと手を引いてくれ、っていう。
「行くわよ」
「あ、はい」
朽葉怜子に催促されて。
僕は、最も安全だろう紅守黒湖の元を離れる次第となった。
「あ」
「ん……おお、ホントに降ってきやがった」
「……」
僕達が向かうのは北館。ばっちり正解、悟兵衛のいる場所への最短距離。その道中に仕掛けられた罠々は、僕の些細な動作を二人が見逃さない、という手法で回避して行く。
鉄球が降ってくる位置。床の抜ける位置。壁が狭まる位置。円鋸の迫ってくる位置。
それらすべての前で僕が幸運を感じ取り、一歩下がる。
「マジで便利だな、それ」
「さっきも言ったけど、幸運を引き起こせるわけじゃないからね。こうも悪意に満ち溢れた場所なら凄く役に立つけど、日常生活だとそんなだよ」
「はーン、そンなもんなのか」
「何より僕は一般未亡人だし」
「ンだよそりゃ」
割合言動が適当な僕と、割合言葉が適当な桃山照美。
なんだかんだ、気が合う。
「あ」
「また分かれ道だな……」
「……そっち」
「おいおいナメんなヨユーだっツーの」
朽葉怜子が僕を桃山の方へつかせようとするけれど、桃山がそれを断る。
まぁ彼のプライド的に、お守をつけられる、なんてのは気に障るのだろう。
「じゃあな! また生きて、外で会おうぜ!」
「うん。頑張って」
「……」
のっしのしと僕らとは反対方向に歩いていく桃山に手を振る。
……彼はここで死ぬ。正確にはその人格が、だけど。だから、今のガサツで荒々しい桃山照美とは、今生の別れだ。
じゃあね、と。
もう一度、心の中で言った。
「……」
「……ん」
「……」
無言。無言。無言。
僕が時たま止まって、それに伴って朽葉怜子が止まって。
けれど、罠が降り注ごうが、迫り来ようが、そこに会話は発生しない。僕の幸運は僕にだけ作用するから、僕が避け切っても朽葉怜子に迫るものもあって、でも朽葉怜子はしっかりと反応して対応するものだから、悲劇的な叫びもない。
気まずい、とはちょっと違う。僕はこの人の事を少しだけ知っているから。
ただ。
「……ねえ」
「あ、なに?」
「……なんでもないわ」
時折差し込まれるコレだけ、凄く凄く気になるからやめてほしい。
何を感じ取っているのか。
何を思っているのか。僕はこの人の事を少しだけ知っているけれど、だからこそわからない。僕にそんな興味がある、という理由が。
ん。
「……分かれ道」
「あちゃー」
実際、こっちの道に関して僕の知識は薄い。高い塔のような場所に絶好の狙撃ポイントがあるくらいで、本来は桃山照美の行った道が……正確には屠桜ひな子の駆け抜けた道が正解なのだ。
こっちに何がまっているかって、もうすぐ火災になって焼け落ちるくらいの結末しかない。
「……そっち」
「うぇ」
「大丈夫でしょ」
「うぇー」
桃山照美のように心配される、ということもなく。
僕は当たり前の様に、朽葉怜子とは反対の道を選ばされてしまった。
おかしい。紅守黒湖の庇護はどこへ行ったのか。
なんだって僕はこんな危ない殺人屋敷を単独で歩き回っているのか。
先程から何の容赦もない殺人トラップがわんさか押し寄せてきているけど、僕そこまで悪い事しただろうか。あの窃盗だって、人助けのための窃盗なんですけど。いやまぁ家族の罪を考えれば夫の巨悪はありますけれど。
ああ、えっと。
「これワンチャン帰れないかな」
僕なら、玄関から出れるんじゃね説。
「──ようこそ小高井君。一番乗りがまさか君だとはね……」
「うせやん」
玄関を探して三千里。幸運の気配のする方へ歩を進め続けてみれば、なーぜか悟兵衛のいる部屋へと辿り着いてしまった。もしかしてだけど僕の幸運ここまでだったりするぅ?
「いやはや、これまで何百人ともてなしてきたが……
「あ、はい。ありがとうございます」
「これは素晴らしい事だよ、小高井君。君は数々の試練を乗り越えて此処に立っているのだ。君は紛う方なき、善人なのだろう」
「ありがとうございます」
深々と礼をする。褒められたので。
すると、毒気を抜かれたような反応が聞こえた。
「フム……もしや本当に善人なのかな?」
「自分じゃわからないですけど……そう言って頂けるのなら、嬉しいです」
「……カカ。紫さん」
「はい、旦那様」
執務机越しに笑う悟兵衛の顔は、お世辞にも優しいものとはいえない。つか怖い。
その傍らで瀟洒に佇むメイド……紫さんも、正直怖い。紅守黒湖に惨敗したとはいえ、彼女も十二分に強い存在だ。
さて。
「小高井様、此方へ」
「……あ、はい」
此方へ。そう示された方の扉へ向かう。幸運の気配はしない。
一歩。また一歩。悟兵衛の横を通り過ぎ、紫さんの方へ足を進めども、幸運の気配はまるでしない。うわ、僕の人生ここで終わりくさいなー。
「カカッ……本当に善人か。一つたりとも、反応せんとは……」
何か恐ろしい小声が隣から聞こえた。もしかして、気配はしなくともちゃんと幸運体質君は働いてくれていたのかな。
そのまま、そのまま。
示された扉に入る。悟兵衛の部屋を出て、見た事のない通路に。
無言のまま案内される。傍らに、此方に歩幅を合わせてくれる紫さんに先導されて、そうして辿り着いたのは。
「あ」
「はい。小高井様。貴女が、記念すべきお一人目ですわ」
出口──だった。
切り詰めた崖に建つこの屋敷の、最初に入って来た入り口の、そのすぐ横。
ん──。
「ありがとうございました、紫さん」
「ええ、どうぞお元気で」
ぺこりと頭を下げて。
その、先ほどまで僕の頭部があった場所を通り抜けていく銃弾に、気付いた素振りも見せずに。
踵を返し、歩き出す。少しばかり歩幅を開けて、あるいは狭めて。
なーにがこの屋敷を造った、だ。周辺にも罠あるじゃんか。
「……それは」
全速力だ。
今持てる全速力を出して、その場を立ち去る。
「流石に引っかからないよ!」
直後、通って来た道の全てが爆発した。
こればかりは幸運頼りではない。ガソリンっぽい臭いがしたから、だ。いやホント、殺す気満々じゃん。怖いわー。
けど、まぁ。
「これで晴れて、善人認定されたってことで」
名実ともに一般未亡人となったわけである。