八月二十一日、夕方。
補習が終わり、球磨川は「落ちこめ! ネガ倉くん!」の新刊を買おうと書店に向かっていた。
公園を抜けると、御坂美琴に瓜二つな少女がいた。御坂美琴ととの違いは猫を前にしても微動だにしない表情筋と、頭に着けたゴーグル。
箱に入った猫の前に屈む御坂妹の肩を叩く。
『やぁ、御坂妹ちゃん。昨日はありがとう』
「いえ、謝礼が目的ではありませんので、とミサカはクールに回答します」
『いやいや、感謝はしといて損は無いってもんだぜ。それにしても昨日から思ってたけど、猫好きなんだね』
『その菓子パンあげるんじゃないの?』
「……不可能です」
『?』
「ミサカはこの猫に餌を与えることは不可能でしょう、と結論づけます」
『それはまたなんで?』
「ミサカには1つ致命的な欠陥がありますから」
無表情ながらもどこか落ち込んだ雰囲気を出しながら説明を進める。
「ミサカの体は常に微弱な磁場を形成します。人体には感知できない程度ですが、他の動物には影響があるようです」
「と、ミサカは懇切丁寧に猫に触れられない理由を説明します」
『つまり御坂妹ちゃんは動物に嫌われやすいんだね』
「嫌われてはいません、避けられているだけです。とミサカは訂正を求めます」
御坂妹からの抗議を受け、はいはいと納得すると名案を思いついた。とばかりにニコニコと笑みを浮かべる。
『じゃあ三分間だけ触り放題にしてあげるよ』
そう言うと御坂妹の手を取る。
「なんですか? とミサカは突然手を握られたことへの疑問を口にします」
『あとで説明してあげるから、今は猫を抱えてみなよ』
ほらほら、と猫を抱き上げ御坂妹に手渡す球磨川。
「お、おお。とミサカは猫を抱き抱えつつ初めて触れる感触に感動します」
普段ならば近づくだけで怯えて震える猫がリラックスした様子で腕の中に収まる姿を見せている、その事実に逆に震える自身の体を抑える。
『3分しかないんだし餌もあげてごらん』
そう言いながら御坂妹に菓子パンを差し出す。
「ありがとうございます、とミサカはパンを食べる猫の可愛さに悶えながら感謝を述べます」
『いやいや、気にしないで。昨日のお礼だよ』
『それよりほら、名前付けてあげたら? それは君の猫なんだし』
「ミサカの猫?」
『そうだよ、君が拾ったんだから君の猫だろう?』
御坂妹は考える素振りを見せると一呼吸おいて名前を決めた。
「いぬ」
「いぬとミサカは命名します。猫なのにいぬ……ふふっ」
球磨川は少し呆気に取られた表情の後、言った。
『猫なのに犬、……実に僕好みのセンスしてるね』
ひねくれ者の琴線に触れたのか、うんうんと頷く。
『おっと、そろそろ行こうかな』
腕に巻かれた黒の腕時計を確認すると、思い出したように言う。
「なにか予定があったのですか? とミサカは猫をあなたに預けながら質問をします」
『ああ、ちょっと本屋さんに行こうとね』
「なるほど、私も同じ方向に用があります。とミサカは共に行くことを暗に提案します」
『ふーん、じゃあ一緒に行こうか』
そう言うと2人は夕日に背を向け歩き出した。横断歩道を渡るところで、御坂妹は思い出したように問う。
「ところで、先程は私に何をしたのですか? とミサカは疑問を口にします」
『あー、まあちょっとした魔法だよ』
「……この科学の街で魔法とは、とミサカは嘘で誤魔化そうとする姿勢に白い目を向けます」
ジト目で胡散臭いものを見る目をする御坂妹に、軽く笑う。
『あー、実は僕もよく分かってないんだ』
「??? どういうことでしょう? とミサカは頭上にハテナマークを浮かべます」
『僕、自分のこと
少年はなんでもないことのように答えた。俯き影がかかったその表情から感情は読み取れない。どこか落ち込んだようにも見えるその背中に、御坂妹は普段と変わらない無表情で言葉をかける。
「記憶喪失、ということですか? とミサカは確認を取ります」
頷き、肯定した。
『僕も最近知り合いから聞いたんだけどね。どうもそうらしいんだ』
「しかし、自分
『文字通りの意味だよ、自分のことだけ分からないんだ』
『何が好きで何が嫌いだったか、何がしたくて何をしていたのか。何ができて何ができないのか』
『その全てが綺麗さっぱり頭の中から消えちゃった』
『だから能力も手探りで使ってるってわけ』
なんでもないことのようにサラッと流すように答えた。しかし、影に隠れたその表情は読み取れない。
『でも安心して欲しい』
『君のことは忘れないからね、とミソギは指を指しつつウィンクしてみる』
顔を上げ光が差すと、いつも通りの貼り付けた笑顔が浮かんでいた。記憶を喪った球磨川禊の本心を知るものはどこにもいない。当の球磨川すらも知らないのかもしれない。
御坂妹からすれば、己のことだけ分からないことなど想像もつかない。かける言葉も見つからなかった。
ふと、御坂妹が前を見ると数m先に目的の本屋が見えた。
「おや、本屋に着いたようですよ。とミサカは口説き文句とパクリを無視しつつ到着を知らせます」
『おっと、ここまで付き合わせちゃって悪かったね。僕は悪くないけど』
『あー、本屋って猫連れててもいいのかな……?』
「基本的に動物の入店は許されないのでは? とミサカは一般論を振りかざします」
『うーん、御坂妹ちゃん。ちょっと待っててくれない? 3分で出てくるからさ』
「それは構いませんが3分で出るなど可能なのですか? とミサカは疑いの目を向けます」
ジト目で疑いの目を向ける御坂妹の手を握り笑顔で答える。
『買うものは決まってるからね、安心して待っててよ』
『じゃあ行ってくるね』
「待ってください」
御坂妹に背を向け、本屋に入ろうという時。御坂妹が球磨川を呼び止める。
どうかしたのかと球磨川が振り返ると御坂妹が無表情で口を開いた。
「あなたが自分を忘れても、周りがあなたを覚えていてくれるはずです。だから、不安になる必要はありませんよ。とミサカはあなたに慰めの言葉をかけます」
「少し、遅くなりましたね。とミサカは考えた末にタイミングが遅くなったことを謝罪します」
その言葉を聞いた真っ黒な青年は、驚いたように少し目を見開き、柔らかい笑みを浮かべ応えた。
「ありがとう」
「ありがとう」
一言そう言うと、彼は背を向け本屋に入っていった。
「出会った頃から気になっていたあの喋り方、括弧つけていたんですね。とミサカは一人納得します」
「それにしても、3分で買い物を済ませるなんて簡単なことでもないでしょうに、可哀想なのは3分経った後の猫なのですが。そうですよね? とミサカは猫に意味もなく話しかけます」
初めて触れることが出来た猫に興奮しているのだろう。その感触を楽しみつつも周囲を見渡す。
なんてことは無い普段通りの夕方、平和というのはこういう日のことを言うのだろうなと猫を撫でつつ考えている御坂妹の顔に影がかかる。
それは雑踏の中に在る違和感に気づいてしまったからだった。こちらを見つめる一人の人間。白い髪に赤い瞳、病的なまでに細い腕。男性か女性かも分からない、狂気的なまでに白い
学園都市第一位、
この学園都市に生まれた
そしてその
その濁りきった白の中で特に目立つ真っ赤な瞳は鮮血よりも赤く。地獄の炎を連想させる、紅。
暗闇にただひとつ産まれた、白い肌に深紅の瞳を持った悪魔。
学園都市だけではなく、全人類と比べても最強。その化け物が平和な街並みに一人立っている。それだけで生まれる違和感。
平和な日常とは絶対に相容れない、その性質。
怪物がこちらを見ている。この平和な学園都市の中、白濁し白熱し白狂した笑みを、ただこちらに向けている。
ただそれだけ、それだけだと言うのに生まれる恐怖。その姿を見せるだけで全ての者が萎縮する。腕の中の猫は震えながらこちらを見上げ、ミーと鳴いている。
あぁ、この子を巻き込むことは出来ないな──なんて落ち着いた思考と同時にミサカの日常が終わり。
地獄は始まった。