ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
「うそでしょ……」
それは彼女の口癖であった。
基本的には現実の解像度を敢えて下げ、逃げ切りたいときにそんな言葉が漏れる。
だがそんなことを、ミホノブルボンは知らない。
「いえ、嘘ではありません。私の人格的美点は素直なことだと、マスターも仰っていました。私としては認められた長所は墨守したいと考えています」
「うそでしょ……」
「ほんとうです」
そんな低知能な言葉の応酬を終えて、サイレンススズカは導かれるように部屋へ上がった。
がちゃりとチェーン付きで丁寧に鍵が閉められ、退路が絶たれる。
「貴方のことは、マスターから聴いています。自分が彼女の夢を絶ってしまったと。怪我をさせてしまったと。そして、嫌われているだろう、と」
「あなたはそれを……信じているの?」
「私はマスターを信じています。ですがその長所も短所も、把握しているつもりです」
ですが、が無ければ。その逆接の接続詞がなければ、サイレンススズカは正しい認識を――――自分にとっての事実をこの栗毛のウマ娘に投げつけなければならなかっただろう。
「ですがひとまずは今まで通り、その認識を共有しようと思っていました。そして、今もそれは変わりません」
「でもそれは、違うの。間違っているのよ、それは」
走った当人が、それを一番知っている。
彼女は、当初は自分のせいだと言っていた。それをおもねるというか、彼とすり合わせる形で事故だったのだという言葉を使った。
そして自分のせいだというのは、庇って言ったわけではない。単純に、それが事実だったから言ったのだ。
疑う余地のなく最高の状態だった。最高の走りをできた。そして柵を踏み越えようとして跳躍し、失敗した。
「私のせいなの。あのひとは、何も悪くありません」
「貴方から見ればそうであろうと思います。そしておそらく、第三者から見てもマスターが負うべき責任の比重は少なかったのでしょう。だからマスターの周りには第三者的な視点での真実を告げる方が大勢居られた。貴方のせいだとか、事故だったとか。そうでしょう?」
「それは……ええ」
「しかしその結果としてマスターの頑なさを助長させているのですから、ひとりくらいその幻想を共有してあげる存在が居ても良いのではないかと思うのです」
それは、盲点だった。そしてこの手法は当時の関係者の誰かが思いついたとしても、実行に移せないであろう方法だった。
しかしミホノブルボンは、当時全くの無関係だったのである。
なんなら天皇賞秋当日は正月に向けてお父さんと凧を製作し、風にふっとばされたそれを追っかけていた。要は、レースを見てすらいなかった。
だからこそ、『俺が悪いんだよ』と言っても『ああそうですか』と返せる。
ミホノブルボンは基本的に過去を詮索しないし、それほどの興味もない。
彼女が信じる材料にするのは自分と彼が歩んできた記憶や記録そのものであり、たとえ彼が自分に会う前に過去に殺人を犯していたとしても見る目を変えることはしないだろう。
「でもそれを肯定すると、あのひとは地中に埋まってしまわないかしら」
「他の方がこぞって否定しているのですから、地表へ引き擦りだされる力の方が強いのではないでしょうか」
そして別に、地中に埋もれるのが悪いこととも思わない。
だが当事者とそれ以外とでは見てきたものが違う。となると同じものを見ても反応が違ってくるのはいわば当たり前のことである。
ミホノブルボンが『別にいいだろう』と看過してしまう変化。
その類似の変化を実際に見たのがサイレンススズカだとするならば、やはりあのときのようにはなってほしくないと思うのではないか。
その辺りを察して、ミホノブルボンはサイレンススズカの心配性を笑うことも咎めることも、茶化すこともしなかった。
ただ、肯定することもしなかった。
「……少し考えてみたのですけれど、貴方が正しいと思います。むやみやたらに彼の責任がないのだと否定してみても、何も変わらなかったわけですし」
ずーん、と。湿度を漏らしはじめる異次元の逃亡者を見て、ミホノブルボンは率直に『似ている』と感じた。
それが生来のものなのか、あるいは人格的影響を受けたから――――彼ならば、人格的汚染と言うだろうが――――なのかはわからないが、自分の悪さと責任を率直に認めて抱え込んでしまうのはよく似ている。
「別に私は、貴方よりも正しいことをしている気はありません。ただ、貴方の上で正しいことをしている気はあります」
「……それは、どう違うのかしら?」
「つまり私の行動は単体として正しいものではありません。少なくとも私はそう思っています」
ミホノブルボンの思考は謂わば『彼の抱える地獄を共有してあげるし、なんなら一緒に落ちてあげよう』というやつである。
それは現実に対する作用をほとんど持たない代わりに、心に大きな作用を持つ。
「私の行動は、貴方がたの現実的なアプローチがあってこそのものです。昔のマスターが交通事故に遭われたようなものだとしたら、貴方がたは外科的な手法で治した。私は外科的に問題が見受けられなかったので、心療内科的な手段を用いた。ですから、貴方の選択の上に私がいる、ということなのです」
だから、それほど否定なさらないでください。貴方が認めた正しさは決してかつて貴方が抱いた正しさと相対するようなものではなく、それを土台にしたもので、土台を否定するということはすなわち、貴方が今正しいと認めたものをも覆すことになる。
ミホノブルボンの徹底的な論理的骨格の内側にある温かなものに触れて、サイレンススズカは少し笑った。
「あなたは、とてもいいひとですね。ええと……」
「ミホノブルボンです」
「ミホノブルボンさん。ブルボンさんで、いいかしら?」
「はい。それはとても、呼ばれ慣れた呼称ですから」
無表情ながら、少しだけ笑う。
そんなミホノブルボンを見て、サイレンススズカは安堵した。
このひとが側にいれば、大丈夫だ。剃刀のような怜悧さといかにも動揺しなさそうな冷静沈着な見た目に反して、とても繊細で傷つきやすい彼の心が傷ついても、このひとなら治せる。
「ありがとう、ブルボンさん。これは、私が言えることでもないけれど」
――――あのひとのことは、いつだって大切に思っていました
でも触れれば、私は壊してしまうから。
自嘲気味に笑って、彼女は静かに席を立った。
氷のような儚さと、白雪のような行儀の良さ。ひと目でいいところの令嬢だと――――モニターを見に行くのがめんどくさくて膝立ちで移動するとか、そういうものぐさな行為とは無縁の存在だとわかる。
「どうか、これからもよろしくお願いします。とても繊細な方なんです。ああ見えて」
「傷つくというよりも傷つけるのが似合っていそうでいて、脆い。そういう認識で、よろしいでしょうか」
「はい。あなたと幻想を共有できるというのは、とても嬉しいものですね」
その言葉はからかうようで、その実惜しみない称賛であったかも知れない。
「よろしければ、見に来てください。私、これでも少しだけ、速い方なんですよ」
1枚のチケットを残して、そう言って帰っていく。その後ろ姿には危うさがあった。
間違いを認め、受け入れ、そしてそれでも止まれない。自分が決めた方法を、自分が選んだ道を進むことに躊躇いがない、求道者としての傑出した才能。
その裏側にあるのがなんなのか。それを東条隼瀬はほとんど完璧に読み取っていたし、少ししか関わり合いのないミホノブルボンにもそれがわかった。
心から喜んでいる彼女の喜色が後ろめたさから発せられたものであることを、ミホノブルボンは知っていた。
(マスターが貴方を責めないのは、自分以外を責めないのは確かに、そういう性格だからです。そういう性質だからです。ですがそれは感情的な理由であって、論理的な理由はまた別にある)
やや肌寒い、乾いた空気の中に消えていく彼女の背中に、その理由を告げることもできた。
そうなれば、彼女は動揺するだろう。凱旋門賞でも、確実に勝てる。それは彼女にとって認めるしかなくて、そして今まで彼以外の誰もが気づかなかった――――ともすれば彼すらも見て見ぬふりをして記憶の奥底に追いやっていた、思考が導き出した恐るべき真実の刃。
(それを振るう資格があるのは、存在に気づくことが許されるのは、この世界でたったひとり、マスターだけのはずですから)
『バカですね。メンタルを崩せば、彼女はぐしゃぐしゃになる。となれば、楽に勝てたというのに』
唐突に。
そしてある種必然的に復活したそれは、またも唐突に理性的で現実的な冷や水を浴びせた。
「私は勝つためにだけ走るわけではありません」
『知っていますよ、マスターブルボン』
左に曲がって消えていったサイレンススズカを見送り切って、ドアを閉めてチェーンをかける。
『私が茶々を入れるに足る精神性でなくなって、残念です。それなりに、楽しかったというのに』
いつものように粛清するまでもなく、それは消えた。
領域への自覚、目覚め。それらを果たした、あの夏。
その頃の幼さ、あどけなさ、無垢さ、愚かさ、弱さ。そういうものを守るために魂――――自分に宿るウマソウルなる正体不明のものによって作られたであろうそれらの人格は、かつてのミホノブルボンにとって欠くべからざるものだったのだろう。
「私も楽しかったですよ、それなりに」
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