ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
そして明日、私は2回目のワクチンを刺しに行きます。つまり何が言いたいかというと、明日の更新はないとも言えるしあるとも言えるということです。よろしくお願いします。
帰ってきたら、ドアの前が局所的なハリケーンにでも襲われたかのような痕跡を残していた。
「……」
指の腹で痕跡に触れ、まだやや熱を持った削られて剥がれた床の粒子は左回りに輪動している。
この光景を見て、東条隼瀬は今更ながら少しだけ覚悟を必要とした。誰が無意識にこういう痕跡を残すのかを、彼ほど知っている者もいない。
「よし」
鍵を入れ、開ける。覚悟と共に開け放つ。
その覚悟の腕振りは、無慈悲なチェーンに阻まれた。
「……」
がちゃ、がちゃ。
無機質な音が鳴って、ドアは精々どう頑張っても半開き。
あ、と。
そんなバカっぽい声を出すのはひとりしかいないと断言できるほどに間の抜けた声がして、これまた聞き慣れた足音が鳴る。
玄関前でスタンバっていたのか、音が妙に近かった。
「おかえりなさい、マスター」
「ああ、ただいま。で、他に言うことがあるんじゃないか?」
来客があった時はモニターを確認して、それでも一応の対策としてチェーンをかけてからドアを開けろ。
そう言ったが、閉めるときにチェーンをかけてくれとは言っていない。なにせチェーンをかけられると、鍵を開けて入ってくるであろう東条隼瀬が部屋に入れなくなるのである。
「申し訳ありません」
「まあいいさ」
「言い訳をさせていただきますと、我が家で鍵をかけた経験が台風に直撃された数日間しかありませんでしたし、チェーンなども備え付けられていなかったのです」
「長閑だったんだな」
「はい。のどかでした」
別に彼女の生育環境にごちゃごちゃと文句をつける気もない男は、早々にこの会話を切り上げた。
いつもならばくだらない話をくりひろげてもいいのだが――――ここらへん、我ながら変わったと述懐するところである――――今回はそれよりも何よりも優先すべきものがあった。
「スズカは来ているか」
サイレンスはつけなくて良いのですか。
いつもならば気軽にこう返すところだが、彼女の優れた聴覚は彼がドアの前でうろうろしていたことも、覚悟を決めて入ってきたであろうことも察していた。
自分はそれをチェーンによって一度阻んでいる。それをこれ以上、阻むべきではない。
「来ました」
「来ています、ではないのか」
「過去形です。つまり、お帰りになりました」
「……そうか」
覚悟がフイになった、では済まされないほど凹んでいらっしゃる。
そんな感情を読み取って、少女は持ち前の優しさでフォローに走った。
「マスターと会いたくない、というわけではないと思いますよ」
「そうかな」
「はい。そうでなければ、空港にも来なかった。見つめ合うこともなかった。そうではありませんか」
「見つめ合うといっても9秒とかそこらだろう。2桁すらいっていない」
「マスターにとっての1日が24分だと仮定するならば、その時間感覚は正しいということになります」
貴方は自分で思っているよりもサイレンススズカさんに入れ込んでらっしゃいますよ。
言外にそう言われて、東条隼瀬は口をへの字に曲げた。
「で、何か言っていたか。別に話したくないなら話さなくともいいが」
「マスターを心配していらっしゃいました。あとは物事の見方などについて話しました。過去ログデータを再生しますか?」
「頼む」
「はい。では」
青空の中に瞬く星を孕む瞳。
それを2度3度瞬かせて、ミホノブルボンは口を開いた。サイレンススズカ特有のささやくようなウィスパーボイスを見事に再現しているそれは、誰が話しているのかということを一々問わずともわかる、それほどの精度。
第三者に徹しきった一度目のログデータの再生を終え、ミホノブルボンは私見を交えた二度目の再生を行う。
そしてそれを、東条隼瀬は黙って聴いていた。
「私の推察は、どうでしょうか」
「正鵠を射ている」
「ありがとうございます。ですが、わからないこともあります」
ぴっ、と。両手の指で左右それぞれの端を持って広げる。
それは、凱旋門賞のチケットだった。それも、かなりいい席の。
「これは、どういうことでしょうか」
「これは推論になるが、俺に見て欲しかったのではないかな」
ミホノブルボンとしては、そのことは理解していた。自分の存在がおそらく認識されていないこと――――文字通り視界に入っていないということも、である。
「それはわかります。ですが、私を見てこれを渡すというのは……」
一応、出走登録はされている。そして、報道もされている。トレーナーからも同じ逃げウマ娘として注意するように――――とまではいかなくとも、頭に入れているように指示はあったはずである。
空港のときには視界に入っていなかった。それは先程初対面のような反応を示したから、わかる。
だが、対面して話した。この時点で、気づくのではないか。気づいていたとしたら、その意図は何なのか。それとも気づいていないのか。
「それに関しては簡単だ。スズカが他人の顔を覚えているわけがない。そしてトレーナーからの具体的な作戦指導もないだろう。あいつはルドルフとはまた違った意味で、トレーナーを必要としないウマ娘なのだ」
狭く、深い。
サイレンススズカは、そういう人間関係を得意としている。そして、広く浅くができない。興味を持てる範囲と、持てない範囲が極端なのである。
ウマ娘は顔というより色とか声とか匂いとか雰囲気とかで人を認識する。
シンボリルドルフは一度見た顔は忘れないが、あれは結構頑張った末のことなのである。
それどころか暴君としての全盛期には同族のシリウスシンボリ――――の、幼き頃――――の顔を12回見てついぞ覚えることができなかった。
シリウスシンボリとは、後のダービーウマ娘である。幼い頃からそれなりに才能の光輝を示していた。それでもなお、シンボリルドルフにとっては有象無象のひとりでしかなかった。
――――よくも、そんなすっとろさで偉ぶれたものだな
これが、初めて会って共に走ったとき。名前は聴いてすらいない。
――――トカゲは龍には勝てん……!
これが、12回目の同族レースでの出来事。ちなみに、シンボリルドルフには珍しい辛勝であり、シリウスシンボリには珍しい惜敗だった。
無論、名前を覚えてはいない。
――――あのときはすまなかった。謝って済むものでもないが、シリウスシンボリ。君と共に再び走れることを嬉しく思う
で、これが13回目。
なんだこいつ……と。
イキリ散らかしていた――――もっとも、相応しい実力は持っていたし、だからこそシリウスシンボリとしては自分が在るべき理想像としてこの暴君を見ていたわけだが――――シンボリルドルフがいきなりおとなしくなったのを見て、シリウスシンボリは恐ろしくなった。脚が初めて縮こまった。そして見事に負けた。
こういう所業にも表れているように、天才というのはそれなりの人格的欠落を併せ持つものである。
なにせライオン丸時代の彼女が覚えた人はと言えば、両親とクソ生意気な芦毛のガキくらいなものなのだから。
クソ生意気な芦毛のガキを認識してからは厳密に言えばライオン丸ではないのだが、他人を明確に認識することを覚えてから、彼女の変化ははじまったと考えた方が収まりが良いので、そういうことにする。
何が言いたいかと言えばそれはつまり、ウマ娘は人を覚えるのが苦手。
そして天才的なウマ娘は輪をかけて人を覚えるのが苦手。だが、本人の意識次第では改善することもある。
「つまりサイレンススズカさんは顔を覚えるのが苦手、ということですか」
「やろうと思えばできる。ただ、そのための労力を、差し当たり走ることに向けている。そういうことだ」
その差し当たりが直るのはいつ頃になるのか。
それは誰にもわからない。だが、たぶん治らないだろうなと誰もがなんとなく察していた。基本的に、走ることしか考えていないウマ娘なのである。
「つまり、天然ですか」
(お前が言うのか……)
総天然色ウルトラBみたいなウマ娘なのに、などと思いつつ、言っていることはまっとうである。話を円滑に進めるためにも、東条隼瀬は華麗にスルーした。
「まあそのチケットは有効活用できないが……見ることはできるだろう」
「隣で、ですか」
「ん、いや。これだ」
東条隼瀬は、外出した理由を上着の内ポケットから出した。
チケットが、2枚。
「スズカが出るレースのチケットを取ってきた。まあ、凱旋門賞前の流し運転といったところかな」
「映像で見るのと実地で見るのは違ってくる。そういうことですか」
「そうだ。今のところ世界最強の走りを直接見るのは、お前にとっても悪いことではないはずだ」
悪いことではない。直接見て、あわよくばその領域を感じたい。感じて、対策を立てられるなら立ててみたい。ミホノブルボンとしてはそう思うが、不思議なこともある。
「それにしても、なぜフォワ賞に出てこなかったのでしょうか」
「雨が降るかもしれなかったからじゃないか?」
「雨」
「そう。あいつはなんというか……重いバ場が苦手でな。だから回避したのではないかな、と思う」
だが最近、天候は悪い。ぐずぐずしている。凱旋門賞でも似たような天候になるのではないかと思われている。
「典型的なスピード型、というわけですか」
「そうだ。こういうことを言うのもアレだが、彼女自身が望み、俺がそうした」
ミホノブルボンがスプリンターとしての天性のスピードを半ば放置してスタミナとパワーを伸ばすことだけに注力したのとは対照的である。
「それにしてもなんというか……スズカも解き放たれたようだな」
「と言うと」
「いや、スズカはお前の口を通じて俺の変化を知ってくれただろう。となると、彼女は俺という呪縛から解き放たれる。なにせ、走る目的がすでに達成されているわけだからな。そうではないか」
ミホノブルボンというウマ娘によって、多少なりとも前を向けた。過去を見据え、立ち向かう覚悟を決められた。
そのことを、サイレンススズカは知った。ミホノブルボンというウマ娘が、やや脆いところのある男の心を補綴したと言う事実を聴いた。
となれば必然、解き放たれるのではないか。ミホノブルボンという存在が自分の代わりにやりたかったことをしてくれた。
彼女が自分の走りによって過去の東条隼瀬の走りを肯定しようとしてくれることは、なんとなく察している。
だからこそ、東条隼瀬はミホノブルボンに渡された凱旋門賞のチケットが本来は自分に向けられるべきものであり、その意図が『私の走りを見てください』というところであろうと考えていた。
それを、捨てた。見せる必要がないと感じたのなら、あるいは東条隼瀬という男の心を救ったミホノブルボンにこそ自分のレースを見せたいと感じたのか。
どちらにせよ、サイレンススズカは前を向いた。少なくとも東条隼瀬はそう思った。
そこに内心、忸怩たる思いはある。自分のせいで壊れてしまったサイレンススズカを、自分の手で――――なんの因縁もないミホノブルボンの力を借りてでも自分の手で振り向かせたかった。自分のせいで呪われた彼女を現実に引き戻したかった。
だが、自分の手でなくとも立ち直った。解き放たれた。それは嬉しいことであると、素直に思う。
そして、ありがたいことだとも。これから挑む凱旋門賞の制覇は日本トゥインクルシリーズの悲願。その悲願を掴むためにあらゆる手段をとってもおかしくないし、敵に塩を贈る必要などない。
呪いから解き放たれたサイレンススズカは、必ずその本質を取り戻して強くなっているはずだ。そして本質を取り戻せば強くなるであろうということは、ミホノブルボンならわかるはずなのだ。
なのに、ミホノブルボンはサイレンススズカの呪いを解いた。敵に塩を贈った。自分の勝利のためではなく、自分のパートナーのために動いてくれた。
となれば東条隼瀬としては思うのだ。これからは全力で、全霊で、ミホノブルボンを勝たせることを考えるべきだと。
しかしその思考を、冷静な声が否定した。
「マスター」
「なんだ」
「確かに会話だけ見たら、そう見えるでしょう。しかしこれは直接見ての私の印象なのですが、解き放たれてはいないと思います」
――――そしてそれは、マスターがあのひとの走りを見たらわかるであろうと思います
そしてその言葉は、証明されることになる。
東条隼瀬がどこかで感じていた懸念が、実証されるという形で。
69人の兄貴たち、感想ありがとナス!
赤土 かりゅ兄貴、エルグライト兄貴、rumjet兄貴、読み専絶対に書かない人兄貴、零崎飛織兄貴、ルル家兄貴、っゲッテムハルト様!?兄貴、評価ありがとナス!
https://mobile.twitter.com/LLUMONDE
↑これで次回投稿や次回作について報告しています。たぶん副反応キツくても1週間は開かないかなと思います。