ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
勝つ。勝って、サイレンススズカという傑出した才能を持つウマ娘の脚を止める。止まるに止まれなくなった濁流のような意志の奔流を堰き止め、一種の空白状態を作る。そのためだけに、走るのだと。
ミホノブルボンは、世界でも有数の格式あるレースを前にそう考えていた。
考えられないことである。少なくとも3年前のミホノブルボンの眼差しはクラシック三冠に向けられていたし、当時のトゥインクルシリーズ関係者がこの見事なまでのスプリンターこそ『史上二人目の無敗でのクラシック三冠達成者になり、あまつさえ偉大な前任者を打ち倒し、無敗のまま世界最強を決めるレースに挑むことになるのだ』と言われても、たちの悪い冗談か、自己神格化が激しい妄想癖もちの夢物語にしか聴こえないだろう。
(そう。夢物語でした)
あのひとがいなければ。
ミホノブルボンには、この際なんの勝算もない。策はあるが、それだって不確かな感覚の上に建てられた楼閣。すなわち仮定に仮定を重ねた――――彼いわく策とは呼べないものであり、極言すれば彼女は、勝算も策もなしの丸腰であの天才に挑む。
無敗のまま、引退する。
その言葉の、なんと甘美なことか。隆盛から絶頂へ、そして絶頂から退嬰へ。
甘さに惹かれかけて我に返り、自分の思考がそちらに向きかねないことをわかって、ミホノブルボンはあらためて自分が凡人であると知った。
国内に留まっていれば、そしてレースを選べば。ミホノブルボンは無敗のまま引退できたかもしれない。
シンボリルドルフは、無敗であることにこだわらなかった。トウカイテイオーも、進むことを決めた。ライスシャワーは、挑み続ける不屈を示した。
肉体的にも、そして精神的にも非凡。
そんな天才たちの中で、ミホノブルボンだけが凡人である。負けたくないというより、無敗であることにこだわってしまう。
正しく言えば、こだわりかけた。
彼女を無敗の三冠に仕立てた――――これまた非凡人と言える魔法使いの苦悩が、彼女を凡人から羽化させた。
(敗けが無いことでなく、敗れざることを)
敗けが無いこと。無敗。
敗れざること。不敗。
無敗とは、結果だ。しかし不敗とは、そうではない。不敗は逃げない。どんなとき、状況でも戦い、そして敗れない。
まあ勝つ為に自分は逃げざるを得ないわけだが……そういう言葉のあや、お遊びはルドルフ会長あたりに任せればいいのだ。どうやら、そういうことが好きらしいし。
勝つ。如何に困難なレースでも。
勝つ。如何に偉大な敵手にも。
逃げることができた。いやです、と。勝てる気がしません、と。そう言えば、ミホノブルボンはここに居ない。
そうか。無理を言って、悪かった。
誰を恨むでもなく、誰を責めるでもなく彼は言って、申し訳なさそうに頭を撫でてくれて。
そして天皇賞秋をスルーしてジャパンカップの調整に入る。マスターはおそらく、そうしてくれた。
(在るべき自分に、帰るだけ)
勝った。勝ったのだ。夢を叶えた。自分はもう充分過ぎる程に夢を見た。マスターに出会わなければ、皐月賞出走も叶わなかったようなスプリンターが、ここまでどうにか駆けてこられた。
クラシック路線を目指すことを承知してくれる誰かが居たとしても、菊花賞で負けていた。天皇賞春で、宝塚記念で負けていた。
泥人形が魔法使いの技によって生命を得て、綺麗なおべべを着て立ち上がった。称賛を受けた。
だが結局は、泥人形のままなのだ。魔法使いがそうしてくれたのだから、魔法使いのために泥に還る覚悟をするべきだ。
思慕、敬愛、共感。
その他多くの感情が混じり合って、このひとまず忠誠としか言いようのない気持ちを育てていた。
そしてこの内心を彼女が言葉にすれば、東条隼瀬は言うだろう。『栄冠は君自身に帰するもので、俺はその余慶を被っているに過ぎない』と。
だが、ミホノブルボンがどう思うかは彼女自身が決めることだった。そして彼女はこの忠誠心に近い感情を、生涯改めることはないだろう。
(勝てたならば)
それはそれでいい。
しかし負けても負けたなりに、夢の残骸に向けて一途に駆け続けるサイレンススズカの脚を止める。引き潰されても、それだけは果たす。
その一瞬の意識的空白を活かせない、マスターではない。
この、目的も走る意味もなくした――――なくなってしまった天才の心を救うことは、マスターにしかできないのだということを、ミホノブルボンは知っていた。
――――いいえ。これからは、誰の為にでもなく
サイレンススズカは、そう言った。
彼女はかつて、速さの向こう側に行くために走っていた。マスターと離別してからは、マスターの正しさを証明するために走っていた。
その正しさを証明して、どうしたかったのか。それをミホノブルボンは、正確に類推することができた。
サイレンススズカは、迎えに来てほしかったのだ。
――――今のお前を見るに、俺が正しかった。俺は間違っていなかった。運がほんの少しだけ足りなかったがために、ああなったのだろう。だから再び、俺と走ってくれ
そんなことを彼が言うはずがないとわかっているのに、決定的に分かたれた道を見て、そこに希望を見出すしかなかった。
だが一方で理性的な面が、『そんなことはありえない』と知っていたから、彼女は思ったのだ。自分が彼にとって決して癒えない傷になるくらいなら、忘れてほしいと。
(愛)
サイレンススズカのそれは、愛だ。
直感的に、ミホノブルボンにはそうだとわかった。
よくわからない概念。父が、自分に注いでくれたもの。そして、マスターが自分に注いでくれたもの。
そして、自分が父とマスターに向けているもの。
父とマスターが注いでくれた感情。温かく、優しく、抱きしめ、背中を押すようなそれは同じものだとわかる。
だが自分が父に向けているものとマスターに向けているものは、同質ではない。
だから断言はできないが、そうであろうと思う。
目の前で壁に身体を凭れさせている彼女は、そういう人だと。
「貴女、すごいひとだったんですね」
胸の上で、ペンダントが揺れる。やや短めのマントのような趣きのある鮮やかな緑色のストールが、地下道から吹き込む風に揺れていた。
「知りませんでした」
ともすれば皮肉にしか聴こえない程のその言葉はまるっきり邪気のない、本心からの物である。
本当に知らなかったし、本当にすごいひとだったんだなぁ、と思っている。
このひとは相当な天然なんだ、と。ミホノブルボンは改めて知った。
「ありがとうございます。知っていただいて」
自分の返しもよくよく考えると皮肉にしか聴こえないかもしれない。
だがこの栗毛の令嬢に迂遠な言い方をしても通じるとも思えないし、それこそ誤解の種になるような気もする。
この人とマスターはよくやれていたようだが、彼は皮肉――――ルドルフ会長の洒落に対して『うつくしい! すばらしい!』と喝采を浴びせるような――――だけでなく相反する直言をも――――ルドルフ会長の洒落に対して『すごいな。卒倒するほどにつまらん』と断言するような――――友として生きているような人である。このぽややーんとした天然さを、強かな直言で切り裂いてコミュニケーションをとっていたのだろう。
「あ、でも。私もそれなりのものなんですよ」
(それなり)
アメリカのウマ娘が聴いたら卒倒しそうな言葉の選び方を、サイレンススズカはしている。おそらくそれは彼女なりの理屈があってのことであろう。
例えば、左回りのレース場であれば自分に有利なのだから勝つのも当然のことだ、とか。まあそのあたりを推理できるほどに、ミホノブルボンはサイレンススズカを知らない。
「貴女は私が得られないものを、色々と持ち合わせているようですね」
パドックに続く、地下道の終わり。光差す道から続くどこかを見つめながら、異次元の逃亡者は目を細めた。サイレンススズカ自身もミホノブルボンも知り得ないことだが、彼女は明らかに多弁になっていた。
「それは私にはもう手に入らないものです。ですから、見せてあげます。孤独であればこそ手に入れられるものもあることを」
「私はその鏡像を、このレースでお見せできますよ」
「ええ。そうだろうと、思います」
それから、両者の間に言葉は交わされなかった。その必要がなかったし、それ以上の量を要求する程に、二人の関係は濃く深いものではなかったのである。
パドックでの大歓声に包まれても、一顧だにせずゲートに入る。
日本にある、ファンファーレはない。あれがどうやらガラパゴス化した環境特有のものであるらしいことを、ミホノブルボンは最近知った。
乾いた音がやや唐突に鳴る。
そう感じたのは、あまりにも先鋭化した集中力あってのものかも知れない。
サイレンススズカの利き脚が不確かな大地を確かめるように伸び、踏みしめる。
長く伸びた芝が、芝を支える大地が、まるで湖面のように波紋を描いた。
ふわふわとした、浮き立つような感覚を固める。はじまったばかりのレースのハナを切るとは、そういうこと。
色彩が、ズレる。
かつて見た時とさほど外観の変化を見せない緑生い茂る森が赤茶けていく。芝が飛蝗が潜むに相応しい褐色に変わっていく。
本来ならば恐るべきそれを、ミホノブルボンは余すところなく受け止めて、思った。
サイレンススズカは生命が色を無くした世界に住んでいるのだと。
一歩目の速さでは、ミホノブルボンはサイレンススズカに劣る。それは純然たる才能の差であり、練度がどうこうの話ではない。
しかし彼女が勝るものもまた、あった。それは、加速の幅である。
サイレンススズカの身体は、脆い。少なくとも本人はそう思っている。故に0から100への加速ができない。
異次元の逃亡者。ひとたび走り出せばどうにも止まらず、旧次元に取り残した他のウマ娘を振り返りもしない。
そんな天才には珍しく、彼女は後ろを振り向いた。
その弱点を正確無比についた二の矢が自分を狙い貫いたのがわかったのか、何者かの威風を感じたのか。
あるいは。
ともあれ事実としては、サイレンススズカによる先頭の景色の独占状態にはピリオドが打たれ、すぐさま寡占へと移行した。
ミホノブルボンが、先頭を占めたのである。