ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート   作:ルルマンド

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【逃亡者】:逃げ切れぬもの

 サイレンススズカから先頭を奪うのは快挙である。少なくともこの4年、それができた者はいなかった。

 影を踏めた存在すら、前のレース――――ヴェルメイユ賞まで現れなかったくらいなのだ。

 

 観客たちの全員が、必ずしもサイレンススズカのファンではない。無論彼女の横綱相撲を見に来た者も多く居る。

 だがここはフランスである。フランス出身のウマ娘を応援する機運もあったし、分布で言えばスズカ親衛隊遠征分隊とその他の戦力比は3:7くらいなものだった。

 

 だが、彼女を好むと好まざるとに関わらず共有していた幻想がある。それは、サイレンススズカがハナを進む。先頭の景色は彼女のものだという幻想だった。

 そしてそれは、あながち幻想とも言い切れない色彩と奥行きを持っている。なによりもそれは、確かな実績に裏付けされたものなのだから。

 サイレンススズカが先頭を走るというものは太陽が東から昇って西に沈むくらいの常識的な運動で、誰もがそれを前提に作戦を立てていた。

 

 少なくとも、過去4年間は。

 ミホノブルボンはスプリンターがどうたら、距離の壁がどうたらという常識を倒した。勝利が影のように付いてくるとまで言われた皇帝をも倒した。

 そしてこのとき、それらより遥かに歴史が浅いながら、彼女は再び常識を倒した。たった4年のことでありながら、歴史深き距離の壁と同じかそれ以上の密度で以て君臨していた常識を、である。

 

 しかし状況としては、そうそう浮かれても良いものではなかった。

 ミホノブルボンとしては領域を発動されてしまったし、サイレンススズカとしては必要欠くべからざる物を――――先頭を奪われた。これはお互い一発殴り合ったという感じであって、これでは地力で劣るミホノブルボンが不利である。

 

 一発の重みも、立っているための体力も、どちらもサイレンススズカの方が上だと。

 少なくともミホノブルボン自身はそう考えていた。

 

 となると、このまま容易に押し切れるとも思えない。彼女は平素からぽやーんとした顔をしている如何にもな楽天家ではあるが、それほど自分の実力を信じていなかった。

 

 

 ――――お前には才能がない。だから、死ぬ気で考えろ。油断をするな。自分の信じるところは信じて、あとは疑え。疑うというのは、観察することだ。観察すればすなわち、見えてくるものもある

 

 

 サイレンススズカから、先頭を奪う。

 ミホノブルボンを知っている者にも、知らない者にも壮挙と讃えられるべき偉業をなしながらも、あくまでも彼女自身は冷静だった。

 

 今更な話になるが、ミホノブルボンの持ち味はラップ走法である。一定の時計を刻んで駆けていくこの戦法は、世界でもできるものは限られる。だが前例がないわけではない。

 

 つまり、ただの変則的な逃げである。

 彼女は常に8割くらいの出力で走る。そんな彼女がハナを奪えたのはつまり、サイレンススズカが加速し切っていないから。それだけのことなのだ。

 

 現在、差は少しずつ広がってはいる。

 しかしその1秒ごとに広がる距離は時間が経つごとに減ってきている。これがマイナスに転じたとき、ミホノブルボンがリードする距離は縮まりはじめ、そしてそれから広がることはないであろう。

 

 

 私のものを。

 

 

 そう思っているかどうかは定かではないが、サイレンススズカの眼差しは前を駆けるミホノブルボンに向けられていた。

 

 先手必勝とばかりに飛び出した彼女に、勝算はある。か細く、一筋の勝機が。

 だがそれは、このままでは掴めないものである。

 

 ロンシャンレース場で勝つ為のセオリーは、よく整備された内を通ること。その点でミホノブルボンはまさに、教科書通りの走りを見せていた。

 

 スタートからの長い長い直線を駆け抜け、登り坂に入る。曲がりながら上る、高低差の大きな坂がふたつ。

 

 7メートルの勾配と3メートルの勾配。

 フォワ賞で経験したそれを、ミホノブルボンはほぼ減速なしに容易く越えた。

 

 そんなことをすれば、どうなるか。消耗し尽くして、スタミナがすり減る。ではなぜ彼女が超高速で登りきれたのかといえば、それはひとえにパワーがあるからで、もっと簡単に言うならば慣れているからだった。

 

 如何にも楽そうにひとつめの坂を越え、ふたつめの坂も同じく楽そうに越えていく。

 そんなミホノブルボンを見ても焦ることなく、サイレンススズカは自分の中にある鉄則を遵守した。

 

 つまり、無理はしないということである。

 だがそれにしても後続の14人から見れば充分に速いことに変わりはなく、彼女らは必然的にこの2人の逃げウマ娘に引っ張られるように加速した。

 

(釣られた)

 

 となると、あとはもう潰れるだけだ。

 

 そう判断して、ミホノブルボンはこの時点でサイレンススズカ以外の後続、14人を意識から切り離した。

 

 そしてこの坂で、意識し合う両者の距離はやや離れた。目と鼻の先にあったサイレンススズカのエメラルドグリーンの瞳が、やや後ろにスライドしたのである。

 

 こと坂の登り降りに関しては、ミホノブルボンに敵う者はいない。

 

 しかし少しずつの加速は続き、ほぼロスなくコーナーを曲がり切ったあたり――――1200メートルを越えて下り坂に入ったあたりで、サイレンススズカが先頭に立った。

 

 そして瞬間、領域が開く。不気味な程静かで、外観の変化もない。ただ空気が澄み切ったような涼しさと静けさが増したような気がする。

 

 実のところこのとき、サイレンススズカは無茶をしていた。

 心の中で無理をしないと言いつつも、サイレンススズカはかなりのストレスを溜めていたのである。本来自分のものであったはずの先頭が、奪われたまま1200メートル。

 そろそろ奪い返しておこう、と。彼女は自分の加速するペースを維持するよりも、敢えて崩して領域を開くことを優先したのである。

 

(流石に速い)

 

 過ぎ去っていく明るい栗毛を横目に見て、ミホノブルボンは感嘆した。

 そして同時に、サイレンススズカもミホノブルボンが無理にでも加速しない様を見て感嘆した。

 

(どうにも、天敵と言えるかもしれません)

 

 自分にとってミホノブルボンと言うウマ娘は、天敵というものに分類されるらしい。

 他人を気にしない彼女にしては珍しく、舌を巻く。

 

 ラップ走法。計算など眼中になく加速していく自分とは違って、ゴールからスタートまで逆算し、最初から等速で走っていく走法。

 

 この走法を使う両者の実力が拮抗しているとすれば、中盤までは確実にラップ走法の使い手が先頭を駆ける。

 そして先頭を駆けなければ、サイレンススズカは領域を構築することができず、トップスピードになることもできない。

 

 なによりも一定の速度を保つ走法は、サイレンススズカの開幕から展開した領域――――無理矢理に加速させるそれとの相性が最悪だった。

 抜き去るだとか、仕掛けるだとか。そういうことを頭の片隅に置いているウマ娘相手であればこそ、そのペースを無理矢理に底上げし、加速させ疲弊させ、潰し切ることができる。

 

 しかしラップ走法には、それがない。彼女はペースを保つことこそが勝機なのである。仕掛ける為の距離とか、そういうことをごちゃごちゃ考えない。だから、加速させようとする思惑通り掛かってくれない。

 

 故にサイレンススズカは攻めた。

 

 下り坂を前にして、ギリギリ。肌と肌が触れそうな程の間隔で外から追い抜きにかかり、そしてそれを成功させる。

 スタミナもパワーも、単純な速度でねじ伏せる。条件を満たすのではなく、屈服させる。才能を活かした一撃に、ミホノブルボンは見事にしてやられたのだ。

 

 単純な最高速度に関しては、ミホノブルボンもサイレンススズカも大した差はない。ややミホノブルボンが勝るくらいである。だが領域を発動されてしまった以上、その優位は明確にひっくり返った。

 

 しかし、ロンシャンレース場の坂――――淀の坂よりも更に急峻な登り坂の次には、更に急峻な下り坂が待っている。

 その下り坂を活かすことが抜群に巧いウマ娘のことを、ミホノブルボンは誰よりも深く知っていた。

 

 ――――ライスには、ブルボンさんみたいなスピードがないから

 

 だから、下り坂で速度を無理矢理増設するのだと、ライスシャワーはそう言った。

 菊花賞。そして天皇賞春。ライスシャワーは地形をうまく利用して、足りない能力を補強・増設することに長けていた。そしてその要訣を、ミホノブルボンは知っている。

 

 大事なのは、減速しないこと。

 脚取りの運び、身体への負荷を減らす技術。

 そして何よりも、勇気。

 

 直滑降。下り坂を一気に駆けおりるそれを、ライスシャワーは『駆けくだる』と言っていた。なるほど、そちらの表現の方が迅速さに勝る。

 そして彼女には、決意があった。覚悟があった。ミホノブルボンに勝ちたい、という単純極まりなく、だからこそ純粋な決意と覚悟が。

 

「セーフティロック、解除」

 

 そしてそれは、今のミホノブルボンにもある。大きく息を吸って頭を下げ、一気に坂を駆け下りサイレンススズカから先頭を奪い返す。

 足を取られそうな程に長い芝、高低差の激しい下り坂。

 

「本番は、ここからです」

 

 そこを越えると、残るは2本の直線。ゴールへ続く530メートルの長大な最終直線と、下り坂と最終直線を結ぶフォルスストレート。

 

 そのフォルスストレートに入り直滑降による加速の勢いが薄れてきたところで、サイレンススズカはまたも先頭を奪い返した。

 奪い、奪い返し、鍔迫り合う。未だ完全に前に立つというわけにはいかないサイレンススズカは、やや不利な外寄りのコースを走らざるを得ない。

 

 そして、その時はやってきた。

 

 やや前を走るサイレンススズカの細身の身体から雰囲気が膨らむように弾け出し、リミッターが再び外れる。

 領域。その3段階目。加速を終えきった刹那、即座に箍が外れて加速がはじまる。

 

 フォルスストレートの終わり、カーブと言うよりはスライドしたような角を曲がる前に、ミホノブルボンは自分の土台となるべき領域を構築する腹を決めた。

 サイレンススズカは、完全に抜け出しつつある。明確で、残酷な速度の差。肉体的な限界を超越しかねない程の速度を、今の彼女は叩き出し続けている。

 

(ヴェルメイユ賞で、見た)

 

 領域が領域として構築され、展開され、そして即座に消える様を。

 あれは、焦りから構築を失敗したとか、そういうことではない。シンボリルドルフの領域が他者の領域を打ち砕き、支配する効果を副次的に持ち合わせているように、彼女の領域には他者のそれを加速して早期に終了させる力を持つ。

 

 領域とはつまり、ゾーンである。意識をゾーンに入れ、走りやすい環境を整える。

 そのゾーンを強制終了させるのがシンボリルドルフなら、発動時間を早期終了させるのがサイレンススズカだった。

 

 そして、それはミホノブルボンにとって望むところだった。

 

 彼女の第2領域は、未だに完全に展開できたことがない。

 本来ならば歯車を噛み合せ、カタパルトを敷設し、サーキットを広げて、宇宙――――第1領域の構築に向けて射出する。

 ライスシャワーに破壊され、シンボリルドルフに破壊され、これまで一度たりとも成功したことのないそれは、このとき初めて成功した。

 

 つまり、歯車が噛み合い、カタパルトが敷設され、サーキットが広がりという邪魔してくださいと言わんばかりの長ったらしい工程が、サイレンススズカの領域のおかげで瞬時に省略されたのである。

 

 故にミホノブルボンはこの第2領域に目覚めてはじめて、完璧な加速を得た。

 

 ――――この加速で以て、勝負が決まるか。

 

 そんな甘い考えなぞ、持っちゃいない。

 抜き去り、そして瞬時に差し返される。最終直線に入った異次元の逃亡者は、まさしく次元の壁を突き破らん程の加速を得ていた。

 

 こうなることを、知っていた。そしてこのまま第1領域に繋げても到底勝てないということも。

 

 だから。

 

 

「ライス。少しだけ、力を借ります」

 

 

 領域と、領域の激突。その後遺症として自分の魂に根ざしたとある領域を、ミホノブルボンは引き出した。

 青薔薇の庭園も、全天式の教会もない。たった一部だけ、限定的に使うことを許された、それだけのもの。

 

 祝福を意味する青い薔薇の蔦が、サイレンススズカの脚に絡みつき、その速度を吸う。

 

「こんなもの……!」

 

 苛立つようにサイレンススズカの耳が動き、思わずといったように言葉が漏れた。

 

 先のレース。ヴェルメイユ賞でも、似たようなことをしたやつがいた。だが、それはどうだ。0.7秒で打ち負かされた。そしてこの青薔薇の蔦の練度は、それに遥かに劣る。

 ミホノブルボンが持つ本来の領域でないからこその、深刻な劣化。しかし続いて放たれた束縛の雷が、二重にサイレンススズカの身体を縛った。

 

 だがそれでも、そのふたつを合わせても、0.7秒はかからない。あの鎖が錆びて風化するより速く、この蔦を枯らして原子に還る。雷も無論、霧散させる。

 

 だがそのゼロコンマ何秒があればこそ、ミホノブルボンは再びサイレンススズカを抜き去ることができた。

 

 また、抜き返す。

 あらゆる拘束を加速のみで無に帰した異次元の逃亡者は、わずか前方にいるサイボーグを捉えた。

 

 視界の中に、捕捉した。となれば、抜き去れる。

 それは誇張であっても虚構ではなかった。

 

 だがその誇張を虚構に変える一撃は、曇り空から降ってきた。

 

 

 ――――そしてこれは、少し余計なことかもしれないが

 

 

 出発前の、生徒会室でシンボリルドルフがそういった意味がわからなかったが、今はわかる。

 宝塚記念での激闘によって魂に根ざし、そしておそらく、あの時にかたちになった皇帝の領域。

 

「轟け、天下無双の嘶き」

 

 かつて恐ろしかった、尻尾を取られると信じていた――――敬愛する生徒会長、皇帝の力の象徴たるそれ。

 青い雷を身に纏って、ミホノブルボンは駆け出した。

 

 そしてそのまま、流れるように自己の領域を構築し、展開する。加速し切ったサイレンススズカに呑まれるように星が尾を引いて雨となった星の大海へ。

 

 サイレンススズカの思考の埒外にある加速。だがそれでも、彼女には切り札があった。

 追い越されたその瞬間、僅かに加速して並ぶ。そのゼロコンマ1秒もない瞬間、彼女は失われていたはずの領域を開けることがわかったのだ。

 

(もう一段)

 

 もう一段、外せる。リミッターを、外せる。加速できる。速度の向こう側に、辿り着ける。勝てる。この、今までの全てを賭けて挑んできた挑戦者に、勝てる。

 

 彼女がただの先頭至上主義を唱える単純な先頭民族であった頃ならば――――怪我をする前ならば、なんの思考を挟むこともなくリミッターを外し切っていただろう。

 そしてミホノブルボンのこれまでを――――紡いできた激闘の歴史を、経験を、絆を、全てを込めた走りを正面から撃砕できていたに違いない。

 

 撃砕する確率は、50%ほど。決して分の悪い賭けではないし、賭けなければそもそも負けるのだから他に選択のしようもない。

 東条隼瀬は領域と言うあやふやなもので作られた土台の上に立ってもなおそこまで引き上げるのが限界だった。

 

 3度目のリミッター解除のあとは、なんとかしてくれ。たぶん51%くらいの確率で勝てるから、分の悪い賭けではない。

 それが、東条隼瀬の策とも言えぬ策。

 

 だが今の彼女は、そうではなかった。

 

(トレーナーさんは、見ている)

 

 きっと、見ている。自分が彼女に渡したチケットで、きっと観ている。

 その前で、また同じことをするのか。

 

 リミッターを外し切れば即座に骨折するわけではない。だが可能性が少しでもあって、そして彼が見ていて。

 

 骨折するのはいい。その結果歩けなくなっても、まあ仕方ないと諦めもつく。

 自分の行動の結果で、自分が傷つくのはいい。だが、この場合はそうではない。

 

(私は)

 

 夢よりも。

 本能よりも。

 拘りよりも。

 

(私は、二度と)

 

 あのひとを、傷つけたくない。

 あのやさしいひとを、泣かせたくない。

 

(すみません)

 

 全力できてくれたのに。

 こちらの全てを勘案して、挑んできてくれたのに。

 

 全力でかえせなくて、すみません。

 

 やや俯き気味に、ゴール板を過ぎる。

 全てから逃げ切れてもただ1つ、自分の思いからは逃げ切れず。

 サイレンススズカは実に4年ぶりに、敗北の土を踏み抜いた。


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