ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート   作:ルルマンド

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【逃亡者】:うそつき

 勝ったのか。

 東条隼瀬はその事実を受け入れるまでに、しばしの時間を必要とした。

 

「マスター。勝利、達成いたしました」

 

「ああ……」

 

 おめでとう。そう言う前にミホノブルボンはいつものように、そしていつもとは違う空気をまとって、利き手を前に突き出した。

 

「今。マスターのやるべきことは、私を祝福することではないはずです」

 

 それはお前のトレーナーとしてどうなんだ、と。そう言いかけて、レースが終わったあとの彼女の背中が――――何の寄る辺もなくした、やけに寂しげな背中が思い出されて、口を噤む。

 

「……そうだな」

 

 頷き、瞑目し、口を開く。

 

「ブルボン、助かった」

 

「お互い様です」

 

 凱旋門賞。一族の悲願にして、日本トゥインクルシリーズ関係者の目標。今まで数多の英傑たちが挑んでは弾かれてきた難攻不落の要塞を攻略したにしてはあまりにも簡素に見えるやり取りを交わして、ふたりは離れた。

 

 短いやり取りに、限りない親愛の情を込めて。

 

(言うこと自体は決めているとはいえ)

 

 構想と実行では使うエネルギーの量がかなり違ってくる。無謀も無茶も望むところだが、それにしても程度というものがある。

 しかしどちらにしても、やらねばならないことなのだ。

 

 かつてよく見ていた、そして最近は見ることがなくなった、アルファベットで記された名。

 扉に掛けられたそれなりに豪奢なネームプレートの下を少し叩く。

 

 この控え室に戻っているのか、どうなのか。覚悟を決めているとはいえ、そして実行するためのエネルギーに不足はないとはいえ、扉の前で待機させられ続けては緊張が深まり、意志が目減りする。

 

「はい」

 

 かつて聴き慣れていた、湿潤な声。かすかに揺れるような、独特の色彩を持つそれを聴いて、背筋と意志が揺れた。

 

「入って、いいだろうか」

 

「どうぞ」

 

 鍵がかかっていない扉を開けて、入る。向かい合う。勝負服のままのサイレンススズカは目を伏せ、椅子に腰掛けて誰かを待っていた。

 

 少なくとも彼には、そう思えた。

 

「どうぞ」

 

 同じ言葉を、サイレンススズカは繰り返した。ただし今回は、目と目を合わせて。

 明確な意図が感じられるそれが『話すことがあるならば』ということなのか、それとも椅子に座ってください、ということなのか。

 そのどちらもだろうと判断して、東条隼瀬はひとまず腰掛けた。

 

「私、負けてしまいました」

 

「……ああ。惜しかったな」

 

 話そうとしていた不意を突かれたからか、言わんでもいいことをわざわざ口に出す。

 その惜しさで負けた相手は発言者の育てたウマ娘で、その惜しさの発生源は発言者その人である。

 

「はい。とても」

 

 そのとてもはおそらく、『すごく惜しかった』ということではない。

 惜しかったというより、とても大きな差があった。そういう訂正であろう。

 

「ブルボンさんは、今のトレーナーさんを信じていました。だから私、これでも勝ちたいと思っていたんですよ」

 

「君が信じているのは、過去の俺だからか」

 

「はい。ちょうどいいと思ったんです。今のトレーナーさんが過去のトレーナーさんを否定して形造られたものだとしたら、いい証明になると考えていたんです」

 

 過去の正しさを証明するには、どうすればいいか。

 それは、過去の間違いを土台にした現在を過去の正しさでもって否定してやればいい。

 

「そうは見えないがな」

 

「はい。やめました。そう考えたことがあって、やめた。そういうことも、言っておくべきだと思ったので、言った。それだけです」

 

 ミホノブルボンと言う相手を見て、感じたのだ。

 今の彼は、過去の全てを否定してこの娘を育てたわけではない、と。

 

 その風韻がサイレンススズカの中に残っていて、そして過去でもって現在を打ち倒すという動機を停止させた。

 

「お前は俺の過去を肯定したかったのであって、現在を否定したかったわけではない。そのあたりに気づかなければ、また違った結末があっただろうな」

 

「ええ」

 

 たぶん、勝てていたと思います。

 自信がありつつも明確な言葉にしないのは、敗者としての矜持というものだろう。

 

「スズカ」

 

「はい」

 

 ふにゃりと先っぽがしおれていた耳がピンと張りを取り戻し、尻尾が跳ねる。

 何かを期待するように跳ねたそれらを否定するように強く膝を握って、サイレンススズカは短い言葉を返した。

 

「俺はまず、過去を清算するためにここに来た。聴いてくれるか」

 

 無言で頷くのを見て、頷き返す。

 息を少し吸って肺に溜めて、東条隼瀬は改めて口を開いた。

 

「俺は間違えた。あの時の事故に対しての対処を、だ」

 

 栗毛がふわりと空気を孕み、跳ねそうになった肩がもとの撫で肩に戻る。

 

 ああ、乗り越えたんだ。

 

 たった一言だけだったが、彼女としてはこの言葉だけで目の前の男の成長を何よりも感じる。

 その成長をもたらしたのが自分ではないということへの悔しさはある。ほんの少しだけ、ある。

 だがそれよりも何よりも、サイレンススズカとしては彼がトラウマ――――自分を起因とした心的外傷を乗り越えられたことへの喜びが強かった。

 

 この喜びは、ミホノブルボンと少し話したときにも感じたものである。だが他者から人づてに聴くのと、本人から直接聴くのではその喜びの質が、与えられる安心の度合いが大きく異なる。

 心理的な折り合いは完璧についていないだろう。だが、口に出せたということが大きな一歩であることを、サイレンススズカは知っていた。

 

「あのときの俺がやるべきは責任の重さによって潰れることではなく、怪我した君の夢を叶えることだった。なんとしてでも、そうすべきだった」

 

 そう言いつつ、彼は心底から納得していない。自分にやれることがあったのではないか。ああしていたら、こうしていたら、怪我することはなかったのではないか。

 その後悔は尽きない。尽きないが、その上で。怪我をした、させた。その事実を受け止めた上で、やるべきことがあった。逃げるべきでもなければ、逃がすべきでもなかった。そう言っている。

 

「俺がそうしなかったことによって、君に罪悪感を植え付けてしまった。君の夢は速度の向こう側に行くことで、その為には速さを極めることを、求めることを躊躇うべきではない。君は正しい選択をして、その結果として事故が起きた。俺は怪我をさせたことにではなく、夢を実現させるための頑丈さを与えられなかったことにこそ、罪を感じるべきだった」

 

 事故だと認めつつも、責任を感じてしまうところは変わっていない。誠実で、真摯で、頑固で、責任感の強い本質は変わっていない。

 だが明確に変わったところがある。それは感情的で漠然とした責任を負うのではなく、その明哲な知性で分析し、負うべきところを負い、諦めるべきところを諦めているところである。

 

「俺は逃げた。自分が全力を傾けて、それでもなお発生した事故を恐れて、君の夢を共に叶えると言う約束から逃げて、破棄した」

 

 少し、黙る。

 そこまでが、彼にとっての謝罪であり、清算だった。そのことを、サイレンススズカもわかっていた。

 

 だから、言おうとした。わかっています、と。私にはもうできることはなくて、貴方には未来がある。

 私のことは忘れて、あの娘と輝かしい路を歩んで欲しいと。

 

「俺は逃げた。そして、忘れようとしたこともあった。そうした方がいいと言われたからだ。だが、できなかった。忘れられなかった。忘れたくなかった。

忘れようとしても、忘れられないというのはつまり、忘れてはいけないことだということだと、思う」

 

 お前は、どうだ。

 そんな鋭い、鋼鉄の視線がサイレンススズカを射る。

 

 忘れることなどできるはずもない。

 彼女がミホノブルボンに負けたのは、そうだ。その通りだ。そこを否定することを、彼女はしない。

 だがその内訳としては、サイレンススズカはまさにサイレンススズカに負けたのだ。

 

 彼女は孤独故に、最強だった。だが最後の直線の最後の競り合いで、孤独であることを捨てた。孤独であることを拒否した。

 

 真に孤独であるならば、彼女は目の前にいる男のことなど考えずに走り、そして敗れなかったはずなのだ。

 

「こんな嘘つきを許してくれるなら、共に歩んでくれるなら、また俺の手をとってくれ。今度こそ、俺はお前を速度の向こう側に連れて行ってやる」

 

 今度は、必ず。

 決意を湛えた鋼鉄の瞳を見て、俯いて、また顔を上げる。

 

「嘘つきさんは、私にまた信じてほしいんですか」

 

「反論の余地もないが、そうだ」

 

 バカらしいことだ、と。サイレンススズカは思った。

 信じていなかったことなんて、ないのに。出会って、道を示してくれて、信じると決めてから、ずっと、ずっと、ずっと、信じていたのに。

 

 そのことを、このひとはまだ知らないんだ。

 

「でしたら、もうひとつの約束を果たしてください」

 

「もうひとつの?」

 

「ええ。ちゃんと約束しました。クリスマスにまた一緒に――――」

 

 ブッシュ・ド・ノエルか。

 ここまで言われてやっと、東条隼瀬は電撃の煌めきを見せた。

 

「わかった。必ず、今年中に果たそう」

 

「はい。信じています」

 

 うそつき。

 いつか繰り返したそんな言葉が、心の中で溶けていく。

 

 差し出された手を取って、サイレンススズカは立ち上がった。

 

「それにしても、なんというか……よく憶えていたな」

 

「ええ」

 

 ずっと、ずっと。

 

「ずっと、待ってたんですよ。私」

次回は

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