ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
領域によって開いた差は、すぐさま2段階目のスパートを解放したナリタブライアンによって埋められつつあった。
だがその歩みは、牛歩のそれである。空を駆けるように加速した姉には届かないかもしれない。
ナリタブライアンは、そう思っていた。
領域、その2段階目。深度を増したからと言って性能が1段階目より増したというわけでもない。
(流石は姉貴。見事なものだ)
細胞が沸き立つ。ギリギリのせめぎ合い、攻防。そういったものが好きで、ナリタブライアンは走っていた。
だが、彼女の豊潤な才気が――――事実としてはこういう優しげな表現には到底似つかわしくない、暴力的な怪物じみた才能であったが――――覚醒してからは誰も彼女には太刀打ちできなかった。
まともに相手ができたのは姉や皇帝などの、ごく一部。クラシック戦線でも、彼女の相手になる者はいなかった。
孤独感すらある圧倒劇に変わりはなく、これまでと違ったのは、相手が諦めないことだけ。
これまでであれば心が折れて諦めてしまうウマ娘たちが、最後まで無理などと言わずに迫ってくる。
それは喜ぶべきことではあった。だがやはり、自分を脅かすような相手はいなかった。
そのことが、退屈だった。世代の頂点を争うはずの日本ダービーですら、彼女にとっては楽勝も楽勝だったのだから。
(だが、これは違う)
楽しい。
幼い頃、才能が鎌首を擡げていなかったあのときのような無邪気さで、ナリタブライアンは笑った。
勝ちたい。
敗けたくない。
そんなことは、頭にすらない。ただこの時が終わってほしくない。
自分に常に付きまとっていた影を恐れて、泣いたことがあった。
水たまりに映った自分を見て泣いたこともあった。
あの頃の自分を思い出して、笑って。
思えばあの頃と、何ら変わっていない。そのことに思い至って、ナリタブライアンはまた笑った。
(なんてことのない)
姉を追う。才能と努力でもって恐怖を打ち砕いても、その本質は変わらない。やっていることは変わらない。
未熟だった頃の自分を克服し、打ち砕く。そのための領域を持っている。
影。闇。黒。
水たまりとか、鏡とか。
そういったものが、苦手だった。自分と同じだけの速さで付いてくるそれが、ナリタブライアンは苦手だった。物心ついて初めて恐れたのが、自分の黒ぐろとした影だった。
だがそれに気づいたとき、姉は側にいなかった。泣いた自分に気づいて慰めるためにやってきてくれるのが、姉だった。
彼女にとっての影とは、恐怖の象徴だった。恐怖からは、影からは、逃げ切れない。
鏡に映る自分は、ひとりだった。
影を見る自分は、ひとりだった。
水たまりに浮かぶ自分は、ひとりだった。
世界に自分ひとりだと認識させるもの悉くを、ナリタブライアンは嫌っていた。
逃げない。迎え撃ち、打ち砕く。
影を、恐怖を、それに付随する敗北を。
そのための領域を持っていた。しかし、それは違う。
恐怖は、打ち砕くべきものではない。
孤独とは、遠ざけるものではない。
(アンタの言う恐怖を呑み込むとは、こういうことか)
受け入れる。自分の弱さと、ありのままを。
姉はそうした。今そうして、迫る自分との一騎打ちから転換し、トレーナーを含めた複合的な個人となった。
だから、強い。これほどまでに。
前を駆ける姉を見て、ナリタブライアンは空を見た。
影が、空を覆っていく。
大地は青々としたターフが枯れ果て、彼女の領域の根幹に存在する荒涼たる枯野が顔を出した。
その荒野を渦巻くように染め上げるが如く、影が中央にいる彼女に迫る。
それは、大外から回る時にのみ見ていた景色だった。影を引きちぎるほどの遠心力を自分のものにする。孤独を振り回し、弾き飛ばし、打ち砕く。そのための領域でしか見られないはずのものだった。
影が、迫る。足元までせり上がってくる。
そしてそこで、止まった。いつものように打ち砕かないのかと、問うように。
「いや、しないさ」
ざわりと、影がうごめく。
今まで恐怖としか感じられなかったそれが戸惑うようにさざめくのを、ブライアンは少し微笑ましく見ていた。
影の動きからはいつものようにしてくれないのかと戸惑う、稚気すら見て取れたのである。
「来い」
散れ、と。
いつも言われてきて、そして命令通りに散ってきた影が勇躍し、ナリタブライアンの四肢に纏わりつく。
「アイツの言う通りにしてみよう」
恐怖を呑み込んだ、姉のようにしてみよう。
恐怖を乗り越えた、姉のようにしてみよう。
恐怖を纏い、黄金の瞳に黒い焔を灯して。
迫りくる影を供として、ナリタブライアンは暗闇を抜け出した。
姉との距離が、縮む。ぐんぐんと、縮んでいく。
影を纏いし怪物。恐怖を我が物とした怪物は、姉を直線一気に差し切らんと加速した。
迎撃するのは、ビワハヤヒデ。妹に劣らぬ強さを持つ英才。
しかし彼女の立てた勝利への方程式は影に浸食され、蝶の鱗粉のように影に呑まれて消えていく。
迫る。
迫る。
迫る。
黒い風がビワハヤヒデの内を突いて、坂へ。
「くそ……」
半分笑うように。
幼い頃、覚醒めた妹に彼女が初めて抜かれたときのように。
負けるのが嫌だとか、勝ちたかったのに、とか。そういうのではなく、圧倒的な才能を見て感嘆したようになってしまったあのときのように。
「ブライアン。お前は、すごいよ」
常識をも噛み砕いて坂を一気に登っていく妹の背を追う。
追いつけない。機能しなくなった方程式が、かろうじてそれだけを告げていた。
だがそれは、目の前の妹を追わない理由にはなり得ない。
最後まで、最後の最後まで。絶対に、諦めない。自分を信じてくれたトレーナーのため、自分の努力を知っている自分のために。
3バ身の差をつけて、ナリタブライアンはただひとりゴール板を駆け抜けた。
そのあとにビワハヤヒデが続き、それからしばらくしてナイスネイチャがしれっと3位入着。
観客に手を振るでもなく両腕を見つめるナリタブライアンは、しばらくして無言で空を見て右腕を突き上げた。
地鳴りのような歓声の中、妹の影を姉が踏む。
「ブライアン」
「姉貴……!」
上気した頬、楽しくてたまらなかったと言わんばかりの笑顔。
その無邪気さに昔を思い出して、ビワハヤヒデはくすりと笑った。
レース中の彼女とは、あまりにも別人じみていたから。
「すごい走りだった。私はお前のことを知ったつもりでいたが……どうやらそうではなかったらしい」
「姉貴もすごかった。私は……またアンタと走りたい。何度でも、何度でも」
飽くなき執念、強さへの、そしてレースへの渇望。その対象に、その眼の先に自分がいる。
そのことへの喜びを抱きつつ、ビワハヤヒデは焦燥感の消えた心で頷いた。
「有馬記念だ、ブライアン。そこでまた走ろう」
「ああ……!」
結論から言えば、この約束は果たされなかった。ビワハヤヒデもナリタブライアンも、この年の有馬記念には出なかったからである。
だがこのときに、それを知る者はいない。
(そして来季からは――――)
シニア級に、ブライアンは来る。おそらくは、6人目の三冠ウマ娘として。
そこで何度でも、何度でも競い合おう。
その言葉を、ビワハヤヒデは敢えて口に出さなかった。
口にした全ての願いが叶うことはない。そのことを、ビワハヤヒデは知っていた。故にこそ、彼女は鬼に笑われることを防ぐために口にはしなかったのである。
その判断がどういう結果を生むのか。それもまた、今は誰もが知る由もない。
こうして、姉妹はそれぞれの控室へと帰っていく。レースが終わったからといって、何もかもが終わるわけではない。
レースを見て、応援してくれたファンに対する感謝の意を示す為の行事――――ウイニングライブが待っている。
「おい、勝ったぞ」
バターンと扉を開けて早々、開口一番にナリタブライアンはそう言った。
若干口角は上がり、言わなくともわかるようなことを言う。その事象自体が、ナリタブライアンが心からこのレースを楽しめた。そのことを示していたと言えるだろう。
しかしそれでもなお、念を押すところは念を押す。彼女のトレーナーは、そういう性質をしていた。
「そうか。で、楽しかったか?」
「ああ。最高だった」
「ならよかった。きっとその楽しさは、何よりも価値あるものだろうからな」
流れるような動作で座り、靴と靴下をポーンと飛ばすブライアンの脚を触診し、熱を持った部分にアイシングを施す。
ブランコに乗った子供のように放り出した靴と靴下を回収して丁寧に揃え直し、東条隼瀬はいそいそとタオルとドリンクを用意し終えた。
無職からトレーナーへとランクアップした男は、流石に仕事が早い。
世話を焼かれるのを割とすんなり受け入れる末っ子ムーブを発揮して脚をゆらゆら揺らしているナリタブライアンは、チューチューとスポーツドリンクを吸った。
「蹄鉄の前側の磨り減りが著しいな」
「見ていたらわかるだろう」
本気で走ると蹄鉄が駄目になる。それは別に珍しいことではない。少なくとも、ナリタブライアンにとっては。
しかしその駄目になり方が異常だった。前側が異様に磨り減り、即ちこれは自分の脚の持つ出力を抑えつけていた期間があったことを意味している。
いつもの彼女であれば全てが均等に磨り減っていただろう。
これは理想的な力の分散であり、脚へかかる負担が分担されていることにも繋がる。
しかし今回は、今まで天性のセンスで脚への負担を減らしてきた彼女らしからぬ磨り減り方だった。
ナリタブライアンの言う『見ていたらわかるだろう』というのは、それがいつ起こったことであるか、なぜ起こったことであるかわかるだろう、ということである。
「ああ。説明はしないでいい。対策は考えてある」
「そうだろうな」
そんなやり取りの後に、お互いにとって心地良い沈黙が室内を満たす。
その沈黙を破ったのは、ストローと氷が奏でる鈍い異音だった。
「おい」
「だめ」
「もう一杯」
「だめ」
「もう一杯くれ」
「だめ」
「半分」
「だめ」
取り付く島もないあんまりなやり取りを終えてそっぽを向くブライアンと、ダンス用の靴を現在の脚の消耗具合に合わせて調節する男。
再びそんな沈黙を破壊したのは、1度目に破壊した彼女の姉と、そのトレーナーだった。
「失礼します」
やや緊張の面持ちを見せるビワハヤヒデのトレーナーを視線で一瞥し、東条隼瀬は口を開いた。
「なにか?」
「無愛想だな、アンタは」
「お前にだけは言われたくない」
飲み物の怨みとばかりに突撃してきた担当ウマ娘に綺麗なカウンターを食らわせつつも、思うところはあったのだろう。
丁寧な所作で椅子の方を指し示すが、ビワハヤヒデのトレーナーは黙って頭を振ってそれを固辞した。
「では、手短にということかな」
「はい。つまり、今回のレースについてです」
三度。少しの沈黙が、場を包んだ。
なんとなく保護者のような形でついてきたであろうビワハヤヒデはブライアンと同色の瞳を忙しなく移動させている。
一方でブライアンはスポーツドリンクのサーバーに手を伸ばしかけ、ピシャリとやられていた。
甘いわ。そんな横顔をチラリ見て視線をそらし、ブライアンは心の中で毒づいた。
(クソ、相変わらずかわいげのない……!)
そんな暗闘の果てに、ようやくビワハヤヒデのトレーナーは口を開く。
「今回のレースは、私が貴方に劣っていただけです。ビワハヤヒデとナリタブライアンは、互角でした」
「トレーナー君、それは……!」
ビワハヤヒデの言葉が続く前に、彼の真意を察した東条隼瀬はなるほど、と頷いた。
「……知っている」
それは、俺がお前より上だということを、知っている。そういう意味だった。
相手のミスを突くような、そして自分の実力を誇示するような。
そんな返答に『何っ』という顔をしたビワハヤヒデと反対に、その短い言葉に含まれた真意をビワハヤヒデのトレーナーはこの上なく正確に読み取った。
そしてまずナリタブライアンの方を見て深々と頭を下げ、再び東条隼瀬の方に向かって頭を下げる。
去っていく姉と、そのトレーナー。
どういうことかと、ナリタブライアンは首を傾げた。
「あれは」
ビワハヤヒデの足音が完全に消えた、そのあと。
説明する相手の姉に聴かれないように気を使って黙っていた男は、ようやく口を開いた。
「自分のせいにしたかったんだ。自分の信じたウマ娘が実力で負けたことを、認めたくなかったのさ。そうとわかってはいても、自分のせいにしたかった。つまり、若さだな」
「ああ……だから私にも頭を下げたのか」
「そうだ」
間接的に、ナリタブライアンというウマ娘の実力を低く見てしまうことになる。
本人からしてみれば『私一人の勝利ではない』と思っていたから別に不満にも思っていなかったから見当外れというべきだが、気を使われて悪い思いはしない。
「それにしてもアンタは、なぜそれを言ってやらなかったんだ。たぶんいずれ気づくだろうが、姉貴はアンタのことを悪く思っただろう」
「別に嫌われても構わん。慣れている」
そうかな、と。
ナリタブライアンは思った。
嫌われるのは慣れているから、別にいい。それだけではないだろう。
たぶん彼は姉貴のトレーナーのことを知っていて、目をかけていた。あるいは今回で、目をかけた。だから、生きやすいようにしてやったのではないか。
あるいは単純に、甘いだけか。
「甘いな、アンタも」
「経験があるからな。優しくもなる。ああ言うときは責められたいものなんだよ」
「そうか」
「あと、ビワハヤヒデには言うな」
姉貴には、後でそれとなく言っておこう。
そう思考したのを読んで釘を刺すような一言を受けて、脚のブラブラが止まる。
「何故だ」
「知られたくないだろうからな」
「アンタ、案外繊細な気遣いができるんだな」
「そうでもないさ。第一、ビワハヤヒデならいずれ気づく。指摘されるよりも円滑にな。そのあたりが読めているから、放置するんだ」
それはたぶん、負け惜しみに近いものだった。負け惜しみというより、強がりか。別に負けたわけでもないのだから。
(ただ、愉快なもんじゃないな。背中を預けているやつが、誤解に基づく評価をされるのは)
「お前にも悪いな」
アンタ、心が読めるのか?
そう言いかけて、ブライアンは黙った。黙らされた。続けられた言葉が、あんまりにもあんまりなものだったからである。
「大好きな姉が誤解に基づいて人を悪く思うというのは、嫌だろう」
「……まあ、それもそうだが」
「なんだ、他にあるのか?」
あるけど、ない。その辺を察せ。
そんな気も知らず、東条隼瀬は首を傾げた。
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