ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
天皇賞秋。
1年の中距離最強を決めるこのレースは、大歓声と共にはじまった。
無論1番人気はビワハヤヒデ。宝塚記念で妹に負けたものの、その強さへの信頼は揺らがない。
他の有力なウマ娘はと言えば、GⅠを勝ったような者はウイニングチケットくらいなものである。
しかしミホノブルボンと覇を競い合ったウマ娘たちが故障やらドリームリーグ移籍やらで離脱していく中で、古豪と言うべきナイスネイチャやマチカネタンホイザなどのカノープス組は驚くべき耐久力を発揮して生き残っていた。
ナイスネイチャになんとしても、GⅠを勝たせてあげたい。
ドリームリーグへ移籍しないのかという問いに対して返した南坂トレーナーの言葉は、切実な願いに満ちていた。
彼は、GⅠで勝ち星を挙げたことがない。それはつまり、カノープスというチームがGⅠで勝てたことがないということを意味する。
だが彼は、自分の栄光を求めているのではなかった。純粋に、自分の担当したウマ娘にGⅠ勝利という栄冠を掴んで欲しかったのだ。
一方、GⅠ勝利がさほど珍しくもない男はというと。
「いけるいける」
「なるほど……流石マスターですね。マチカネタンホイザさんやナイスネイチャさん、ここには居ないもののイクノディクタスさん。彼女らカノープスの主力はGⅠを勝つための何かが足りない。その何かとはすなわち、末脚であったり速度であったりというもの。控えて見るに南坂トレーナーはウマ娘を長期的に活躍させることに長ける。それはすなわち、無理をさせないこと。健康に配慮すること。故にギリギリが攻められず、結果としてあと一歩が埋まりきらない。ジレンマですね」
「いけるいける」
「故にこのレースはウイニングチケットさん、あるいはビワハヤヒデさん。前走を見るにビワハヤヒデさんであろう、と」
お前、それは本当に翻訳しているのか。ホントはお前が思ってることを言ってるんじゃないのか。
そしてなんでこいつらはこれで会話が成立しているんだ……と。
なんとなく嫌な予感が払拭されていくのを感じながら、ナリタブライアンは始まったレースに目を移した。
姉貴、ビワハヤヒデはいつも通りの好位につけている。前から2、3番目。その後ろにウイニングチケット。
「いけるいける」
「ウイニングチケットさんは肩を負傷していました。その影響は無さそうですが、トレーナーとしてはバ群に突っ込ませたくはないはずです。故にビワハヤヒデさんとはやや距離を置かせている、ということですか」
「いけるいける」
「バ群の中では肉体的接触が起こるというのもめずらしくはない。時速70キロで走るウマ娘が負傷した肩に触れれば、再発するかもしれない。さすがはベテランということですか」
秋の天皇賞の第1コーナーは魔境である。スタート直後にコーナーがあり、バ群前方につける先行勢はハナから全力で走って効率のいいコースを取ろうとする。
生粋の、そして傑出した逃げウマ娘であるサイレンススズカはそんなことを気にしたこともなかったが、ビワハヤヒデやウイニングチケットには関係があった。
そんな魔の第1コーナーを抜けても、ビワハヤヒデは好位につけていた。これは彼女に心身共に高い能力があることの証明である。
だが、審議のランプが点っている。
「いけるいける」
「さほど問題にならないそうです」
「……なあ。どこを翻訳したらそうなるんだ?」
「心です」
自分の問いに答えとも言えない答えを返してきたドヤ顔ロボから目を逸らして、ナリタブライアンは2分に満たないであろう激闘のターフへと視線を戻した。
ビワハヤヒデのレースは、王道のレース。常に好位につけ、最終コーナーで抜け出す。
逃げるウマ娘の後ろを精緻に追う。そんなビワハヤヒデはこのレース中、2位か3位につけていた。
「さすが姉貴だ」
思わず、そうこぼす。
今のところナリタブライアンの戦法は無駄が多い。圧倒的な力で敵をねじ伏せる。無駄に5バ身も6バ身もつける。少し出てサラリと勝つ。そういう器用なことが、彼女にはできない。
これはシンボリルドルフじみたことができているビワハヤヒデが異常であるわけだが、普通に走るだけで5バ身も6バ身もつけられる方も中々に異常だった。
「いけるいける」
「マスターは、勝てそうだな、と仰せです」
「ああ。さすが姉貴だ」
徐々にウイニングチケットが近づいてくる。しかしレース全体を管制下に置いたビワハヤヒデは他のウマ娘の意識を誘導し最効率の進路を取れないように阻む。
ナイスネイチャが上がっていく。
マチカネタンホイザが内から迫る。
それらをいなしてビワハヤヒデが勝ちきるまでの姿を、東条隼瀬は既に見ていた。
そうして、第3コーナーを越える。
大ケヤキが見えた、その瞬間。
「いかん」
突如、眼が死んでいた男は正気を取り戻した。
「ブルボン。当初予定通り、控え室から2台分の氷を車椅子に乗せて引っ張ってこい。あと、行く道で職員捕まえてURAに連絡」
「わかりました、マスター」
なんでですか。
そういうことを訊かず、ミホノブルボンは座って観戦する客の間を巧みに抜って消えていく。
その背中を追い切る前にスマートフォンが取り出され、そしてワンタッチで電話をかける。
これまたワンコールで、誰かが出た。
「弟よ、これから問題を起こす。そう、乱入する。処分の準備をしていてくれ。あと、医師の準備だ。わかるな」
――――わかったよ、兄さん。仕方ないな
ウマ娘特有の優れた聴覚でそんな返事を聴き取り、ナリタブライアンは目を逸らしたい現実を見た。
大ケヤキを越えて、加速した。確かに、姉は前を走る1人を差し切るべく、そしてスパートをかける周りに呑まれまいと加速した。
だが、鈍い。ズブい。
なにかあった。あんなに弱い、姉貴は見たことがない。
「ブライアン、行くぞ」
「わかった。だが、訊かせろ。何があった」
「故障だ。おそらくは」
「治るのか」
その問いがこれまで自分がしてきた脊髄反射での質問の中でもとびきり愚かなものであると、普段の彼女であればわかっただろう。
だが、そうわかるほどの余裕もなかった。
「わからん」
「わか――――」
昇りかけた血を沈静化し、早足になりながら息を吸う。
「わからないというのは、どういうことだ」
「脚が微妙に膨れている」
「骨折か。治しただろう、アンタは」
「違う。骨折したときの走り方ではなかった。あれはもっと別のものだ」
「何故わかる」
「何回も見たからだ」
スズカのことか。
少し考えればわかることをわざわざ訊いて、古傷に触れた。ナリタブライアンには、そのことがわかった。
わかれる程度には、分別を取り戻していたのである。
「じゃあ、なんだ」
「繫靭帯炎かと思った。だが膝自体の稼働に問題はなかった。だが動きづらそうにしている。おそらくは、屈腱炎だ」
「治るのか」
「冷やして症状の進行を止める。病院で診断し、断裂していれば縫合する。幹細胞での治癒も狙える。今そこまで持っていくために動いている。お前は姉を動かさないようにその場に止めろ。あと、深刻そうな顔をするな。別に死ぬわけではない」
つまり、走れなくはなるのか。
そう思い、嫌な想像を振り払う。
「動きが早かったが、予想していたのか?」
「嫌な予感がしたからな。もっとも、死蔵気味ではあったが一応用意自体は常にしていた。整備もな。それに……」
――――スズカのアレがあったから、何かあったときの対処はできるように学んでいた
そう言った男から目を逸らした先の、通路の闇の奥にピカリと光る耳飾り。
耳飾りのよろしく光る勝負服から散々ガンダムガンダム言われてきたウマ娘が、氷と水で満たされた箱を積載した車椅子を片手ずつ持って立っていた。
「マスター」
「早かったな」
「搬入を手伝っていただきました。名は教えていただけませんでしたが」
「なるほど。とにかく、急ごう。おそらくは問題になっているはずだ」
ウマ娘の耳には、聴こえる。
脚音が止んでいるから、レースが終わっているだろうということ。
そしてどよめくような多数の声から、レースの結果が観客の予想したそれとは違ったであろうということが。
「それはよろしいですが……マスター。心情を斟酌するのもわかりますが、ブライアンさんは置いていかれるべきかと。最悪、菊花賞に出られなくなります」
レース中、ウイニングラン中の部外者の侵入は禁止である。これは無論競技中の乱入による混乱や事故を防ぐためにあるわけだが、この禁止期間はウイニングランが終わりウイニングライブの座席抽選発表が行われるまで続く。
菊花賞など、いらん。
そう言おうとした瞬間、緊張で汗をかいていた手が掴まれた。
「いや、そこに関してはいい。俺が無理矢理引っ張っていったことにする。トレーナーの命令で乱入したウマ娘が出走停止にならなかった判例もあるから、問題はなかろう」
「なるほど。流石マスター。過去を墨守するURAの習性を熟知した完璧な計画ですね」
「そう褒めるな。さあ、ブライアン。お前は車椅子の片割れを持て。これが後々結構意味を持ってくるはずだからな」
「わ、わからんが、わかった。持てばいいんだな?」
「ああ」
ミホノブルボンがひとつ、そしてナリタブライアンがひとつ。車椅子とそこに積載された氷水で満たされたプラ箱を抱えて、3人は駆けた。
ビワハヤヒデと、顔を白色にした彼女のトレーナーのもとへ。
「姉貴!」
ドンと車椅子をおろして声をかける。しかしそれ以上、言葉が続かなかった。
「ブライアン……と、隼瀬さんとブルボンさん。トレーナー君を止めてくれ。私は――――」
まだ走れる。
そう言いたかったのだろうか。隣では彼女のトレーナーが、なんとか座らせて触診を試みようとしている。
そしてその隣には、何が起きたかわからないとばかりに混乱するウイニングチケットとそのトレーナー。
ビワハヤヒデとそのトレーナーの悶着を片目に捉えながら白髯ながら矍鑠とした彼に一礼し、東条隼瀬はブルボンが抱えてきた車椅子を手で指し示した。
「老公。僭越ながら用意させていただきました。ご自分で処置なされますか?」
「ああ。こちらは任せてもらおう」
結構素直に座って処置を待っているウイニングチケットを車椅子に乗せ、そして勝負服のまま脚だけを氷水につける。
慣れた手付きからは、経験が伺い知れる。やはりこういうときは、ベテランが強い。未知と既知に1億光年からの距離があるように、経験しているというのは大きいのだ。
「ハヤヒデ、君は怪我をしています。車椅子に――――」
「違う! 私は……今も2着だった! 抜かっただけだ。伸び切らなかっただけだ。あと一歩で、何かが掴めるんだ……! 怪我はしていない。怪我をすれば……」
追いつけない。
約束を果たせない。
続く言葉がどちらだったかは、わからない。どちらもだったかもしれない。
「ビワハヤヒデ」
「隼瀬さん。貴方も見ていただろう。私は怪我などしていない。ただほんの少し、運と実力が足りなかった。それだけだ。私はまだ走れる。有馬記念で――――」
「ああ、走れる。だが君のトレーナーはどうだ? 心配しているだろう。俺とブライアンに勝つにはパートナーとの折り合いをつけることが大事だ。ここは自分を曲げて、彼の心配を拭ってやればいい。怪我していないのならば、できるはずだ。違うか?」
「それは……」
「怪我人扱いされるのが嫌なのはわかる」
――――ここだけの話、俺も怪我はしていないと思っているんだ
囁くような声でそう言った彼を、ビワハヤヒデのトレーナーが弾かれるように見た。
東条隼瀬が、あの天才が言うならばそうかもしれない。垂らされた蜘蛛の糸にすがりつくように、そう思ったのである。
「しかし、ブライアンは菊花賞を目前にしている。あいつは栄光とかそういうものに興味がない癖に、菊花賞だけはとりたいと言っていたな」
認識に同調を示し、そして話をずらす。
時間がないからこそ、時間を使う。こういうときの為に溜め込んでいた知識を大量放出して、東条隼瀬は臨機応変の才能を無理矢理に引き出した。
「……それは、なぜですか?」
「そりゃあ、君が勝ったレースだからだ。君に並びたい。そして勝ちたい。それがブライアンの行動原理で、それ以上はない。だから菊花賞を落とすわけにはいかないんだ。だが見ろ、心配しているようだろう?」
ちらりと、ビワハヤヒデの眼が自分と同色の妹の瞳と交わった。そこに立っている妹は蒼白で、何も言えなくて、幼い頃に戻ったように自信無さげに立ち尽くしている。
宝塚記念で自分を真正面から打ち砕いた、シャドーロールの怪物。それと同一人物とは思えないほどに、頼りなげな姿。
「………ええ」
「だから、助けてほしいんだ。ブライアンを。俺を。そして、君のトレーナーを。頼む」
……わかりました。
か細い声を残して、ビワハヤヒデは車椅子にかけた。そしてすぐさま脚を氷水にひたし、熱を持った患部を冷やす。
「マスター。来ました」
ウマ娘用の、救急車。近隣の病院への直通となるであろうそれを、URAの職員が呼んでくれたらしい。
「わかった。ウイニングチケットは?」
「先に。おそらく、同じ車輌に乗り込んだほうが」
「そうだな。そうしろ。いや、そうしてもらおう。交渉を頼めるか?」
滅多に頭を下げない名門のトレーナーらしく命令形でそうしろと言い終わってから、救急車が自分の管制下にないことに気づく。
彼らしからぬミスだった。それはつまり、彼も完璧に平静であるというわけではない、ということであろう。
「やってあります」
「よし。運んでくれ」
「はい」
自分がやる。
そう言わんばかりに前に出たビワハヤヒデのトレーナーを、東条隼瀬が手で制す。
ミホノブルボンが二言三言をビワハヤヒデにかけて、そのままターフへと入ってきた車輌に向けてコロコロと運ばれていった。
「ああは言ったが……」
「怪我をしていない、というのは……嘘、ですよね」
やるな、と。東条隼瀬は思った。
普通の神経の太さをしているならば、ここで信じたくなるものである。そしてビワハヤヒデは怪我をしていないのですよね?と言ってくるだろう。
そう彼は思っていたし、ちゃんと『いや、嘘だ』と言うつもりだった。そして、なんなら殴られてやるつもりだった。
担当ウマ娘が怪我をした、あのとき。
スズカの脚が折れた、あのとき。
寝て起きれば骨折など起きていないのではないかと何度も思った。骨折の診断が下るまで、どうか折れていないでくれと思った。
冗談でも『いや、折れてなかったんだよ』と言ってくれる人がいれば信じていたし、そのあと『それは嘘だ』などと言われればぶん殴るどころではすまなかっただろう。
「そう、嘘だ。すまない」
深く頭を下げる。
そして下げたまま、言葉を続けようとした彼に『頭を上げてください』という言葉が届いた。
「では。これからのことだが、君は心を多少切り替えねばならない。そのために今、止めたんだ。心を整え、深呼吸をして合流し、そしてそのあとは好きにしろ。距離を取るなり何なりな。ただ、トレーナーとしての責任は果たせ。せめて彼女が復帰するまでは、側に居てやれ」
「わかりました」
白かった顔をやや青いくらいにまで回復させた若きトレーナーの、駆けていくその背。
それを見送り切る前に、見覚えのある制服が見えた。
「東条隼瀬トレーナーですね」
「いかにも」
「……なんというか、私としては非常に気が進まないのですが、これも規則でして。その……ご同行願えますか?」
「まあ、そうなるでしょうね。ミホノブルボンとナリタブライアンに関しては、労働力として必要だったので同行を命じました。車椅子を持っていたでしょう?」
「……ああ、なるほど」
そういうことか、と手を打つURAの職員。
そしてそれと同時に、ナリタブライアンも気づいた。
――――さあ、ブライアン。お前は車椅子の片割れを持て。これが後々結構意味を持ってくるはずだからな
彼は、そう言った。
「あ、マスター。何度目ですか?」
「いちいち数えていられるか」
「まあ、そうでしょう。なにか伝言はありますか?」
「忙しいだろうしルドルフには伝えないようにしてくれ。あと、菊花賞の作戦についてはカバンの二重底の下、メモリーカードに入っている。これが一番重要なことだが……勝った娘に謝っておいてくれ。正式な謝罪は後でするし行動自体には後悔はないが、場を乱したことは事実だからな」
「承知しました」
空気を読んで待ってくれていたURA職員――――状況を把握したらしい観客からのブーイングがひどい――――と共に詰め所に歩いていく背中に、やっと声の出るようになったナリタブライアンは声をかけた。
「おい!」
「なんだ」
「その侵入を命令したトレーナー、どうなったんだ」
「ライセンスを剥奪された。それがどうかしたか?」
事もなげにそう言うと、東条隼瀬は何かに気づいたかのように再び絶句したナリタブライアンの方を向いた。
「あ、そうだ。チーム所属のお前は菊花賞に出られるだろうが、このとおり俺はたぶん指揮は取れん。逆スカウトをしてくれて悪いが、俺はこういうやつだ。まあ、自分の見る目が無かったと諦めてくれ」
「アンタを選んで後悔したことなんか有りはしない。見る目が無かったと思ったこともない。今もな」
だから、早く戻ってこい。
その言葉に返ってきたのは、皮肉めいた微笑みだけだった。
83人の兄貴たち、感想ありがとナス!
小水大貴兄貴、フック兄貴、砂鯨兄貴、弧明は蛍と旅したい兄貴、とち兄貴、hervek兄貴、評価ありがとナス!
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