ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
最終コーナーで、するりと抜け出す。
なんてことのない、普通の動作。普通の強さ。しかしそれからの動きが、全く以って普通ではなかった。
ぬるりと前に出て、力感のない走行フォームで――――完全に流すような柔らかさで先頭に立つ。
強い。速い。止まらない。
『さあ、差が開いた開いた開いた! どんどんどんどん差が開く!』
まるで別の生き物のように、黒鹿毛のテールヘアーが揺れる。去年伝説を打ち立てたときと同じバンカラな勝負服、白いコートが風を揺らす。
『春の天皇賞に向けて独走! 春の天皇賞に向けて独走!』
7バ身程、だろうか。
それなりに差をつけたところで、後続は必死に追ってくる。
特に、カノープス組の3人。
『さあマチカネタンホイザが僅かに上がってきたが強い強いブライアン! ブライアンに陰りなし、ブライアン陰りなし!』
――――今年もブライアンの年だ!
実況は、そう告げて締め括った。
確かにそれはそうである。今年のトゥインクル・シリーズの主役は、ナリタブライアン。
しかしそれは、日本でのこと。
「トレーナーさん」
「ん?」
「ペガサスって……なんなんでしょうか」
知らん。
陰りなきブライアンの大阪杯の、2ヶ月前。遠征先のアメリカで唐突に疑問をぶつけられ、東条隼瀬は暫時戸惑った。
「ペガサス……そういえばなんなんだろうな」
「伝説のウマ娘だと思いましたが、でしたらトレーナーさんが知らないということはありませんよね」
「ああ」
歴史。そういったものからも相手の出方を知ることはできる。歴史を知れば伝統が知れるし、伝統が知れれば事の推移が掴める。
となると現在この土地で何が流行っているのか、何故流行っているのかがわかるのだ。
「折角だし、調べてみようか。確か英語はできたな」
「はい。すぐに終わらせますね」
「いや、無理に急ぐな。なぜか2人しか出てこなかったんだから、相手の出方を見つつ流して逃げられるはずだ」
「はい」
「これは調整のレースだ。わかっているな?」
「はい」
なぜか、と言いつつ理由はわかる。
今の全盛期が再来したスズカとやればタイムーオーバーでのペナルティを喰らいかねないし、そもそも勝ち目が少ないからだ。
(俺と同じ思考さ)
勝てないレースはしない。
サイレンススズカに勝つには、それなりに準備がいる。
例えば10人立てのレースに同一陣営から5人出走させる。そして序盤から1人ずつ全力で仕掛けさせ、息を入れる暇を与えない、とか。
(まあ、そうされたとしても対策はあるが)
そんなことを思考する男をニコニコしながら見ているサイレンススズカは、実のところ何も考えていなかった。
生粋の先頭民族であるからして、走る前に何事かを気にする神経を持ち合わせるはずもない。しかしなぜ彼女がニコニコしているのかと言えば、それはひとえに叶わなかったアメリカ遠征をやり直しているような心持ちになっているからである。
「折角2人出てきてくれたんだからそれなりにもてなしてやらないとな」
「はい。走ってきますね」
「流せよ」
「わかりました」
言うまでもなく、わかっていない。
「領域を使うなよ」
「わかりました」
無論のこと、わかってない。
開幕で世界が加速するような感覚に陥ったレース場に身を置きながら、東条隼瀬は改めて確信した。
こいつ、やっぱり脳筋だと。
殺人的な加速で尋常ならざるハイペースに持ち込んで他のウマ娘のスタミナを削り切り、17バ身ブッチギリでサイレンススズカはペガサスワールドカップを制した。
ガルフストリームの怪物。
その名が未だ健在であることを示すように。
「耳ぃ。付いているのかスズカ?」
「つ、付いてますトレーナーさん!」
まあいいや。うまいこと流して勝ってくれるのは理想ではあるけど、別に期待してなかったし。
そんな感じの諦観によって離された耳のカバーを付け直したりなんだりしてるスズカをちらりと見つつ、ため息をつく。
(ま、元気ならいいさ)
勝ち方に人の心が無くても。
複雑な戦法は、なぜ負けたのかわからなくなる。そのわからなさで心理的なアドバンテージを取れるわけだが、複雑さを解析されると弱い。
それに比較して単純な戦法は、なぜ負けたのかわかりやすい。今で言えば、スズカより遅いから負けたのである。
サイレンススズカより速ければ、ハナを奪えた。サイレンススズカより速ければ、道中先頭をキープできた。サイレンススズカより速ければ、差し脚を繰り出されても逃げ切れた。
つまり、サイレンススズカより速くなれば勝てる。楽な話である。
で、どうやってサイレンススズカより速くなるのか? それは誰にもわからない。
鼻歌を歌いながら高速で前に出ては戻ってくる、調整の効かないラジコンのような挙動を繰り返すスズカをしれーっとした目で追いながら、東条隼瀬は思った。
(理不尽極まりないやつ)
なぜ勝てたのか不明。あえて言うならばブルボンがすごかった。それだけのこと。
「あ、トレーナーさん。あのお店、美味しいんですよ」
「そうか」
考え事をしている最中特有の塩対応。
自分のことをよく見てくれているひとを、サイレンススズカはよく見ていた。
岩塩を顔面にぶつけられるが如き塩対応に直面してもめげず――――それどころか気にもせず、サイレンススズカはくるくるとその場で回って彼の意識が浮上するのを待った。
「で、なんの店なんだ?」
36周くらいしたところで、俯きがちだった顔が意識と共に浮上した。
「お肉ですよ」
「肉か。肉……まあ肉だろうな」
スズカのイメージにはあまり合わないが、アメリカと言えば肉である。
ステレオタイプなイメージとステレオタイプなイメージの激突。その末に自分を納得させた男は、スズカに手を引かれ曳航されながら店に入った。
やはりそれなりの知名度があるのか、色めき立つ店内。
ここで話は少し変わるが、レースの巧さというのは、走る技術だけで決まるものではない。
例えば五感から不要なものを認識する機能を削ぎ落として感覚を鋭敏にする。研ぎ澄ます。
そういうことをすると、判断力が高まる。一瞬の切り返しが巧くなる。
サイレンススズカの場合、駆け引きというものは存在しない。ただ逃げるだけだからである。
しかし彼女はレース中、この情報の取捨選択を行う。
芝の様子を見て、最適なコースを探す。捲り具合、重さ。水滴。湿度による変化。
同じコースの同じレース、例えば宝塚記念でも天皇賞(秋)でも、1つとして同条件で開催されることはありえない。
その微妙な変化を感じ取る。そのために不必要な情報を削ぎ落とす。
すごい技術である。大したものである。
差し当たっての問題は、サイレンススズカという先頭民族出身のウマ娘はこの技術を無意識に、そして常に使っているということだった。
故に割と簡単にシカトしたりするし、状況に惑わされたりすることが少ない。
明らかに自分に向けられた視線やら呟きやらなにやらをまっっっったく気にしていないのは、おそらくはそのおかげであり、その所為だった。
「ここの一押しはステーキということになっているんですけど、私からすればハンバーグがいいと思います。お塩を振っただけのものなのですけれど、あっさりと食べられて……」
(そう見えているだけなのだろうが、神経太いなこいつ。ワイヤーロープ製か?)
彼女には、結構繊細なところがある。
しかし擬似的な神経の太さを獲得してしまう情報の取捨選択の巧さが作用して、ある意味では尋常ならざる図太さを手に入れているように見えるのである。
ニコニコしているサイレンススズカを見つつ、彼女の前に運ばれてきたそれと比して4分の1程度のハンバーグを食べつつ、東条隼瀬はふと気づいた。
「お前、ステーキなのか」
「はい。好きなので」
枕詞に【あれだけ人にハンバーグを激推ししておいて】という言葉がつくであろう言葉をぶつけられてもそれに気づくことなく、ステーキにナイフを入れる。
(実にスズカしているなぁ)
客観的に美味しいと思ったものを勧める。
そして自分は自分の道を行く。
そういうところがある。実にある。
極めて言語化しにくいあやふやさに包まれた、絶妙にズレている感覚。
「美味いか。ステーキ」
ほっそい身体をしているが、サイレンススズカは一応ウマ娘である。
彼女が人間には到底食べ切れないような量を食べ進めて半分までいったところで、彼は雑談のような形で声をかけた。
特に意図はない。強いて言うなら美味しそうに食べるなぁとか、そのあたり。
基本的に言葉を額面通り受け止める(受取拒否して着払いで返送してくることもある)スズカは、ニコニコしながら答えた。
「はい。美味しいです、ステーキ」
(そんなに肉料理が好きなのか、こいつ)
昔は割となんでもそれなりに美味しそうに――――少なくともこんなにニコニコはせず――――食べていた。
――――アメリカに3年ちょい居て、味覚が変わったのかな。
そう思ったこの男も割と言葉を額面通り受け止めるきらいがある。
無論、スズカの言葉の中になにか……わざと含ませたようなところがあるわけではないが。
少し優しげに――――親しくなければわからない程の変化ではなく、明確に――――変化した目線を受け止めて少し首を傾げた。
なにがそんなにも彼の目線を優しくしているのか、サイレンススズカにはわからない。そして本来こういう雑談を振ってくる人間ではないということも知っているから、なおのことその意図が読み取れない。
取り敢えず一口でひと切れを平らげてモクモクと咀嚼し、スズカは彼の意図するところにピンときた。少なくとも彼女自身はそう思った。
見た目だけは清楚な、音も鳴らなさいし、肉の脂をちっとも唇につけない行儀の良さ。
おそらくは小さな頃に身に着けたものを天然で発揮している彼女は、少し自信ありげに目を瞑って、フォークに突き刺したステーキの切れっ端を差し出しながら、言った。
「トレーナーさんも食べたいんですか? ステーキ」
「いらん」