ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート   作:ルルマンド

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サイドストーリー:300メートルの勝機

 雷とは、神と深い繋がりを持つという。

 生まれて数時間で立ち上がり、走れば年上を苦もなく負かす。誰もがシンボリルドルフを、神の後継だと噂した。

 シンボリルドルフは、言うまでもなく天才であった。自然と自らが選ばれし者であることを自覚し、それを誇りにし、他のウマ娘を無自覚に足蹴にすることになんの躊躇いも覚えなかった。これが世の摂理だとすら思っていた。

 

 プライド、誇り、意地。

 天才ではないウマ娘が必死に築いたそれらを無自覚に無反動に粉砕しながら、かつてのシンボリルドルフは生きていたのである。

 

 それが変わったのは、彼女が不調に喘いでからのことだった。

 不調と言っても、シンボリルドルフは負けなかった。年上にも同年代にも年下にも勝った。だがどうにも本気が出ない。出していないのではなく、出ない。そういう時期に、奴は現れた。

 

 

「お前、バカだな」

 

 

 このクソガキ、蹴り飛ばしてやろうか。

 そういう気持ちを抱かせた少年は、自分と互角の才能を持っていた。少なくともその頃の自分はそう思っていた。今は、そうではない。自分に勝ることはあっても劣ることはない。そう確信してすらいる。

 

 彼には、才能があった。悩める自分を正しい方向へ、より相応しい未来へ導く才能が。

 それは自分の持つそれとは違う色をしていたが質的には同一であると、幼い頃のシンボリルドルフはその慧眼で見抜いた。

 

 だが彼は、自分にはその才能を活かせないのだと言った。自分には才能はあってもそれを支える土台が無いと。

 シンボリルドルフは、才能を振るうにあたってまったくなんの支障を感じたこともなかった。だから自然に、思っていたのだ。才能に恵まれた者は、必ず才能を活かせると。そのための環境も土台も、用意されているのが当然だと。

 

 子供であるが故の、常識の押し付け。

 自分を取り巻く環境が地平線の向こうにも広がっていることを疑っていないし、疑うということを知らない。

 

 その疑いを抱かせたのが、東条隼瀬という男だった。その名前を知ったのはそれからずいぶんあとのことになるが、顔はずっと覚えていたのである。

 シンボリルドルフは、一度見た顔を忘れない。

 

 疑って、世界を知って、真実を知って。そして自分の愚かさに気づいて、自分が恵まれていることに気づいた。

 だからせめてこの恵まれた境遇を活かして、世の機会に恵まれない存在に還元したい。最初は自分と同じウマ娘に。

 

 そしていずれは。

 

 自己改革、自己変革。それを志すにあたって、そしてまた貫徹するにあたって、シンボリルドルフは誓いを立てた。

 

 生まれたときから開くことのできた領域を、そして自分の暴君じみた――――暴君というより幼いが故の無知というべきだが――――本質は鎖をつけて鍵をして仕舞っておこうと。

 

 走っている内に、ふとした瞬間に自分にめがけて雷が落ちる。しかしそれは決して恐るべきものではないということを、彼女は端からわかっていた。

 そしてそれが領域と呼ばれるウマ娘にとって極限の技術であることを、彼女は知った。そしてそれを誇りにし、当然だと思った。だからこそ、封じたのだ。かつての自分の象徴として。

 

(私は)

 

 勝ちたい。無論、その気持ちはある。だが遥かに勝る感情が、彼女にはある。

 

(私は、常に未来を見て歩いてきた)

 

 周りを見回し洞察し、勝てるだけの力を出して、ほんの少しだけ他者に優越して勝つ。

 相手が99なら101を。103なら105を。

 

 身体への負担を少なくする。

 自分の力の上限を隠す。

 手札を見せきらない。

 

 ざっと挙げればこの程度。故にシンボリルドルフは、勝てるだけの力を出してきた。目の前の勝利と、次の勝利を掴むために。

 そしてその最善・最効率を目指す姿勢と相反するようだが、自らに架した誓いを守ってきた。

 

(だが今日、このときだけは)

 

 何も考えない。未来も、過去も、何もかも。

 全てを擲つだけの勝ちが、ここにはある。全てを擲つだけの相手が、目の前にいる。

 

 彼は、言った。俺を見ろと。

 

 ――――俺は、君に勝つ。戦う以上、勝つために全力を尽くす。全知全能を奮って君に向かう。だから、俺を見てくれ。後ろに続く俺ではなく、隣にいる俺でもない、君に立ちはだかる俺を

 

 そう、彼は言った。だから私も戦う以上、勝つために全力を尽くす。全知全能を奮って貴方に向かう。だから、私を見てほしい。前を征く私ではなく、隣にいる私でもない、貴方に立ちはだかる私を。

 

 

(そうだ。これもまた、私だ)

 

 

 鍵を開け、鎖を解く。

 中に入っていたかつての武器は、錆び付く様子は些かもない。シンボリルドルフという日本トゥインクルシリーズはじまって以来の怪物の才能とたゆまぬ努力に磨き上げられ、究極の力を秘めてすらいた。

 

「――――さあ、私を見てくれ」

 

 雷霆が身体を打つ。実に数年ぶりに。そして、二度とないであろうと思っていた力が、身体を包んだ。

 

 その効果は単純な自己強化。領域が領域と呼ばれる所以、自分に有利な環境を構築しない、世にも珍しい領域。

 

 ――――私が何故、自ら相応しい環境を用意せねばならないのか。そんなものはいらない。どこであろうと、私は無敵だ

 

 そう言わんばかりの傲慢さ。そして、自分が強化されればそれ以上の力など必要ないという圧倒的な自信。

 まあその傲慢さは幼いが故のものであったり、自信に関しても実力相応と言うべきで恥ずべきことではないのだが、少なくともシンボリルドルフは自分の過去を黒歴史扱いしていた。

 

 今では優しい生徒会長をやったりダジャレを反射で言ったりして日々周りを和ませて――――彼女には珍しく圧倒的にして絶対的な自己過信である――――いるが、かつてはそうだったのだ。自信と傲慢が服着て走っていた。

 

 その過去を思い出すようで嫌な気持ちになる。だが自分の共にあるべき影は、愛すべき杖は、心から信じられるパートナーは、過去を見据えることを決意していた。そういう目をしていた。

 

(なら、私もそうしよう。でなければ、共に歩けない。私だけが、置いていかれてしまう)

 

 さあ、轟け雷霆。暴威を見せよう。皇帝ではなく、暴君の威を。原初にして起源、後悔と恥にまみれた嘗てのシンボリルドルフの姿を。

 

 そして知るがいい。その過去は恥ずべきではあるにせよ、力だけならば今に勝るとも劣らないことを。

 黒歴史を、恥ずべき姿を。鋼鉄の理性と磨き上げた智慧で噛み砕き、咀嚼し、呑み込み、受け入れる。

 

 彼が過去を受け入れることを決意した以上、自分もそうすべきなのだ。

 

 不気味に、アメジストの眼が輝く。

 知恵と理性の煌めきが奥の間に引きずり込まれ、才能と獣性が表に出る。彼女らしからぬ、冷静さの欠けたギラつくような光。

 

 一度だけ。

 そう、一度だけ上下の瞼が閉じられ、再び開く。

 

 理性を獣性で雁字搦めにするのではなく、理性を獣性で牽引し、獣性を理性で御する。

 あまりにも理想的な合一。ミホノブルボンのそれを遥かに超え、しかしトウカイテイオーのそれと比べれば完成度に於いてやや落ちていた。

 

 しかしトウカイテイオーより優れた理性が、本能よりも遥かに凶暴で獰猛な獣性を統御している。となると質に於いては優越していることになり、つまり安定的な出力においてはシンボリルドルフに軍配が上がると言える。

 

 それは、暴力的な才能。血統がどうこうではすまない程の才能だった。

 

(君の隣にいるに相応しい、共に理想を駆ける相応しい自分で有り続けるために)

 

 ある種の病的な一途さ、と言うべきか。普通ならば勝つためだけに動くところに、理性的な歯止めがかけられている。

 その一途さの向かう先こそどちらかに振り切れない――――中途半端な中間を指しているとはいえ、噛み合わざるべき自分の強さ同士を損なうことなく、シンボリルドルフは天にふたつの太陽を輝かせていた。

 

「なんともならないかな、これは」

 

 明らかな進化を果たした彼女を見て、東条隼瀬は独りつぶやく。

 

 自分の想定の範囲内に収まる相手ではないことは知っている。だからもとから、膠着を続けて計算どおりにこのまま勝つことなどできないことは知っていた。

 

 少し考えて、目の前を見る。予測とは違う圧倒的な質量を誇る現実の中で、シンボリルドルフは駆けていた。それも、想定を遥かに超えた速度で。

 

「いや、なんとかなるかもしれないな、これは」

 

 しかし俺の手ではどうにもならない。やるのはあくまでも、ミホノブルボンなのだから。

 1100メートル地点。異変が起こるならそこのあたりだろうと、ミホノブルボンには伝えていた。逆に1100メートル地点を超えれば後は流れで勝てるとも。

 

 ――――どうしますか

 

 深さを湛える蒼い瞳にしっかりと映り込むように、東条隼瀬は肩をすくめた。

 

 ――――当初の予定通り

 

 ――――わかりました

 

 まだ3バ身程度の差があるが、そのままの速度ではおそらく軽々追いつかれる。

 1000メートルを越えたあたり。雷鳴が轟いた辺りで、ミホノブルボンはゆっくりと脚を回し始めている。

 

 故に彼女は、1100メートル地点を89%の速度で駆け抜けることに成功した。

 だが僅かに、シンボリルドルフの方が速い。天性のスプリンターである彼女は無論、普通の中距離ウマ娘よりは速い。だがシンボリルドルフは普通ではないし、彼女の構築した領域も普通ではない。

 

 そんな普通ではないもの同士の掛け算の結果、ミホノブルボンは徐々に追い詰められてきている。

 

(さて)

 

 どうしよう。

 ミホノブルボンはレースがはじまって以来、はじめて自分としての頭を動かした。

 

 彼女の頭は本来、誰かの指示に従うことに特化した形をしている。故にシンボリルドルフが感嘆するほど見事に参謀の描いた答案を現実に書き起こせたわけだが、それはつまり独創性に乏しいということである。

 

 独創性を多分に含んだ――――豊潤に栄養を含んだ土のような才能をしていれば、彼女はこの時点でシンボリルドルフの駆け引きに振り回され続けた挙げ句、逆撃を仕掛けようとして消耗しているだろう。

 だがそういった謀反気が無いからこそ、彼女は忠実に指示をこなせた。

 だから現在、辛うじて有利に立っている。だがこれから不利に転落するのは、その忠実さが故であろう。

 

 ちらりと、後ろを見た。

 そこにはただでさえ強いのに、更に強くなった――――過去に彼女が経験した、誰にも知られることがなかった全盛期に回帰した皇帝がいる。

 

(私には、できない)

 

 シンボリルドルフもトウカイテイオーもライスシャワーも、何も唐突に覚醒したわけではない。

 努力によって積み上げてきたこれまでに一滴の閃きを垂らした結果、覚醒を果たしてきたのだ。

 

 積み上げてきた努力なら、ミホノブルボンにもある。だが閃きと呼べる一滴が、彼女にはない。

 99%どころか、99.9%の努力をしても、閃きがなくては意味がない。

 

 

 ――――申し訳ありません。マスター

 

 ――――ポットを壊したのなら魔法瓶に詰めてある。パソコンを壊したのなら、バックアップはとってある

 

 この通り。

 そう言いながら人差し指と中指で摘まれたのは、SDカード。

 確かにそれらは前科のあることだが、そのときはそうではない。これは春の天皇賞後、ほんの一幕。

 

 ――――私は飛躍することができません。ライス、テイオーさん。そしておそらくルドルフ会長。彼女らができることが、私にはできません。そのせいで、マスターにはいつも苦労をかけています

 

 ――――なんだ、そんなことか

 

 鼻で笑う。

 たぶん反射で繰り出されたであろうその動作を見てなんとなく、ミホノブルボンは彼が妙に誤解される理由を理解した。

 結構深く理解しているはずのミホノブルボンですら、それを見てちょっと凹んだのである。

 

 ――――いいかブルボン。長所の裏には短所がある。何回も話したな

 

 ――――はい。47回目です

 

 ――――そうだ。つまりお前は覚醒できない。それが短所だとすれば、長所は何か。それはつまり、実力の目算が立てやすいということだ。俺ができるのはその場に揃った素材で最適解を作ることであって、覚醒に適応した策を即興詩のように奏でることはできないのだ

 

 例えば『坂の前で他のウマ娘に追いつかせたい』と思ったとする。そして『そのために段階的に出力を絞る』と決めてレースに臨んだとする。

 しかしそこで覚醒してしまえば、策はおしゃかになる。出力を絞っても、覚醒前の全力になる。そういうことが起こりうるからだ。

 

 ――――お前はそういうことが起こらない。それは俺にとってこの上なくありがたいことだ

 

 

 『起こせない』と思うのではなく、『起こさない』と誇れ。

 

 

 ――――覚醒と言えば聞こえはいいが、覚醒を前提にして策を立てるなど愚か極まりない。そして俺は対応できるだけの実力も、才能も能力もない。だからつまり何が言いたいかと言えば、才能のないお前に相応しいのはやはり才能のない俺だと言うことだな

 

 ――――自薦ですか

 

 ――――ああ。もう3年間も終わる頃だからな。そろそろよかろうと思う

 

 自薦界のレジェンド・郭隗には劣るが、中々の自薦だと思うぞ。

 

 そうやって言葉を結んだ彼を、ミホノブルボンは愛しく思った。

 一度たりとも、契約を解消したいと思ったことはない。言ったこともない。

 なのに不器用にも『これからも一緒にやろう』と言ってくる。

 

 その、なんというか、普段の洞察力をトラッシュしたかのような心の読めなさ。

 

 ――――ああ、3年間が終わるというのは、出会ってから2年半が経過しているという意味ではない。デビュー前ウマ娘とトレーナーが最初に結ぶ契約は、3年間だ。これを更新しようという意味だな

 

 ……読めていないというより、裏付けがほしいだけかもしれない。

 言わないでも伝わることを長々と言った彼を見て、ミホノブルボンは微笑んだ。

 

 ――――ずっと一緒です、マスター。貴方が望む限り、私が望む限り、ずっと

 

 マスターとして。

 そしてなにより、ひとりの人間として。この高くそびえる断崖のような才能を持った彼のことを愛おしく思っている。

 

 ――――これからもよろしくお願いします、マスター

 

 ――――そうか

 

 端的に、そっけなく。だがどこか嬉しげに。

 そう言って、契約の延長は約束された。

 

 約束されてからの初戦が、これ。早速相手は――――たぶんこれまでで最も才能があるであろう相手は、あっさりと覚醒を果たした。そしてミホノブルボンは、覚醒することはできない。彼女は少しずつ地歩を固め、次へと歩いていくしかない。

 

 ミホノブルボンは、後ろを見る。

 帯電した有翼の獅子は、その才能に比して堅実なまでに少しずつ、少しずつ迫ってきていた。

 

 覚醒を必要としないで勝つ。覚醒できなくとも勝つ。

 そのための方策を、彼女のマスターは立ててくれた。

 

 だが問題は、距離である。その最後の秘策の発動をするには、距離が足りない。残り1000メートル地点では仕掛けられない。

 

 当初の予定通りと、マスターは言った。シンボリルドルフを知っていることに関しては彼以上の人間はいない。

 あくまでも自分でタイミングを計るが、策そのものは変更しない。

 

(しかしそれにしても)

 

 仕掛けが早い。シンボリルドルフはこれ以上ない、完璧なタイミングで仕掛けてきた。

 宝塚記念は仕掛けの早いレースである。最後の直線が短いからこそ、第3コーナーで早々に仕掛けてくることは珍しいことでもない。

 

 だがシンボリルドルフは、向正面付近で仕掛けた。そして端から脅威的な末脚を解放した。

 彼女は中・長距離ウマ娘の中で勝てる者がいるのかと思うほどに鋭い脚を繰り出せる。勝てるのはトウカイテイオーとかそのあたりしか居ないだろうと思われる程に。

 だが今回、出力が更なる上をいっていた。他でもない自分を超越して、シンボリルドルフは最速の脚を最大限持続させる術を得たのだろう。

 

 第3コーナーを回り切って、シンボリルドルフとの差はもはや1バ身程。

 徐々に、徐々に。無理せず、しかし確実に詰めてくる。理性的な猛獣の狩りというべき追い込みを受け続け、精神が削れていく。

 

(流石だ、ブルボン)

 

 それでも掛からないミホノブルボンに、シンボリルドルフは惜しみない称賛を送った。左眼で参謀を、右眼でブルボンを。

 注意割合としては7:3だが、シンボリルドルフはミホノブルボンの短所も長所も研究し尽くした上でレースに臨んでいる。

 

 ――――私が知っている中で2番目に強いウマ娘

 

 その評価に、狂いはない。ミスはない。本質的にはスプリンターである彼女を、シンボリルドルフはこれ以上ないほど極められたミドルステイヤーとして認め、対策していた。

 

 そんなミホノブルボンには、称賛を受ける余裕などなかった。いっそ、掛かってしまいたい。一刻も早く、一尺でも遠くに駆け去りたい。

 才能はない。全くない。まるでない。ぶっちぎりでない。だが精神力だけはある。あるというか、鍛えて作り上げた。

 

 ミホノブルボンは、一事が万事それである。元から持っていたのは、頑丈な身体だけ。今ある武器の一部はお父さんと、そして殆どは東条隼瀬と作り上げた。

 元から持っていた武器など、ありはしない。唐突に降ってくることもない。計画的に作り上げていって、そして作り上げていった武器を使って勝つ。

 

 彼我の空間を表す数字が目減りし、分数になり、そして消える。

 ハナとかアタマとか。そういう世界に至って、ミホノブルボンはやっと第4コーナーに――――自らの領域を形造れる地点に辿り着いた。形造れる冷静な自分を運び切った。

 

 そして、開く。領域を構築する。

 メインプラン。それは領域打ち消し効果を持つシンボリルドルフの領域を構築させず、一方的に領域を広げて勝つこと。

 シンボリルドルフは二の矢――――というより生来持っていた領域を広げることで、そのプランを打ち壊しにかかった。

 

 かかったが、それでもシンボリルドルフの恐るべき領域――――自身の能力を向上させ、ついでに他者の領域を雷撃で粉砕、新規構築をも阻害する力を持つそれ――――は、封印した。その事実に変わりはない。

 

「ほぉ……」

 

 底知れない強さを見せるシンボリルドルフのやや低めの声が、虚空に鳴った。

 

 青空を、ターフを、観客席を、レース場全体を覆っていく、星の燦めく大宇宙。

 歯車が噛み合い、開かれていくサーキット。ライスシャワーには開ききる前に破壊されたそれは今度こそその全容を宇宙の中に現し、ミホノブルボンを射出する。

 2段階目の領域とコーナーでの加速という十八番も合わせて圧倒的な加速を得て、1段階目の領域に繋げて速度を上げて逃げ切る。

 

「私の勝ちです、ルドルフ会長」

 

 何度も掛かりかけたが、耐えた。耐えてここまで持ち込んだ。その時点で、そして前半戦で勝負はついていた。

 

 そのことを言われるまでもなく、シンボリルドルフは領域が構築されて即座に察知した。畳まれたサーキットが出てきた瞬間に看破した。そして敢えて、何もしなかった。

 

(なるほど、確かにこれはどうしようもない)

 

 だがそれはあくまでも、領域を広げられないから。対処法はあるが、対処法を実行するための手段を没収されている、そんな状況。

 

 シンボリルドルフは加速を得て宇宙へ進もうとするミホノブルボンを見据えて、息を吸った。

 

(半分を越えた地点で3人抜く。それは達成できていない)

 

 だが、3人は抜いた。達成できていないのは、『半分を越えた地点で』という位置条件。3人抜くという実績条件は満たした。

 シンボリルドルフは、自ら定めた誓約を緩めた。普通ならばできないことを、彼女はした。できるだけの才能を持っていた。

 

 なによりもひっそりと、シンボリルドルフは条件を緩めるための訓練を重ねてきたのである。

 それはレースのためというよりとある男を自分の領域内に招くための訓練だった。とある男に領域というものを理解させ、ミホノブルボンの役に立たせるための訓練だった。

 

 それが今、ミホノブルボンに牙を剥く。

 

 条件は半分だけ満たした。ならば条件を完全に達成したときに構築できる領域の効果を半分だけ引き出す。

 

 自己強化はいらない。展開阻害もいらない。

 ただこの目の前に広がるこの宇宙を、目の前の領域を消し飛ばすための領域を。

 

 誓約を軽減して条件を緩め、そして効果を大幅に削ぐ。

 

「さあ轟け、我が力よ」

 

 星の大海、2つの領域が重ねられた美しき闇の虚空の中に閃光が迸る。

 

 しばし拮抗し、歯車が悲鳴のような軋みを上げる。虚空が上映を終えたプラネタリウムのように明滅し、宙空に罅が奔る。

 

 砕け散る空を、威力の減衰を見せない雷神の鎚が穿ち抜いていく。

 

 青空とターフが、世界に舞い戻る。虚空が吸い込んでいたはずの観客の大歓声が身体を打つ。

 

(勝った! 予想を超えた!)

 

 東条隼瀬は、気づくだろう。シンボリルドルフがもう一枚だけ切り札を用意していたことに。

 トウカイテイオーもそうだった。メジロマックイーンもそうだった。ライスシャワーもそうだった。ならば、と。

 

 自分と歩んだシンボリルドルフというウマ娘は、彼女らと同列かそれ以上に座しているはずだと。

 

 封じられたのは想定外だった。だがその瞬間、思った。2段階目の領域で何もかも打ち砕こうと。

 だが、読み切られていると瞬時に理解した。何故なら、彼には対戦経験があるから。2段階目の領域があることを、彼は知っているから。

 

 勝つために、一番厄介な領域を封印する。

 そのために、彼はここまでの策を立てた。

 

 ならばそれはつまり、そういうことなのではないか。

 

 第4コーナーを曲がり、最後の直線へと向かう。

 ウマ娘にとっての頂、極み。それが領域。それを組み込んで策を立てる。誰にでもできることではない。

 

 ゴール板。その付近の観客席に、彼が見える。ミホノブルボンが勝つ姿を見るために陣取っている彼に、見せつけてやる。自分が、他ならぬシンボリルドルフが勝つ光景を。

 

 均衡がやや、本能へと傾斜を深めた。

 直線勝負では、理性はいらない。むしろごちゃごちゃと考えていては邪魔にすらなる。

 

「ありがとう、ルドルフ」

 

 先頭は変わらず、ミホノブルボン。しかしシンボリルドルフとの差はわずか2分の1バ身。300あれば充分に差しきれてしまう、そんな僅かな差。

 

 ――――想定すら不可能な程に強大で、絶対的な皇帝でいてくれて。

 

 東条隼瀬は知っていた。自分の立てた策の尽くが振り切られ、噛みちぎられ、打ち砕かれることを。

 彼はシンボリルドルフを、この上なく過大評価している。それでいて、この上なく正当に評価をしている。

 

 過大評価をしても、しすぎることはない。

 シンボリルドルフとはつまり、そういう存在なのだから。

 

 絶対の皇帝。その称号に嘘はない。

 だからこそ。

 

「俺は君に、同じ質量の絶対をプレゼントしよう」

 

 ――――ミホノブルボンというウマ娘が持つ、唯一の絶対を。

 

 レースを遅延させた。それは、領域を封じるためか。

 そうではない。そもそも彼は領域というものを切り札に据えたことが無い。

 

 彼にとって領域はどこまでも手札の一枚でしかない。ラミネート加工されて燦めく、有効で強力な――――そして兎にも角にも目立ち、ウマ娘の注意を集める数少ない手札。

 

 シンボリルドルフは名門のウマ娘である。

 だからこそ領域の重要さを知っている。領域と領域が激突して、勝負が決まる。そういう古典的な戦いを愛している。

 

 では、なんのためか。

 それはミホノブルボンが本来持つ資質を、この上なく最高の状況で発揮させるためだった。

 

 ミホノブルボンは、スプリンターなのである。

 その本質は、変わらない。弛まぬ努力で他の距離へ挑戦することができるようになった今も、ミホノブルボンの本質はスプリンターなのだ。

 

 それは、絶対的で覆しようのない事実である。

 そしてシンボリルドルフは、ミドルステイヤー。主流である中・長距離を駆けるために精緻に整えられた才能をしている。

 これもまた、絶対的で覆しようのない事実である。

 

 シンボリルドルフは、油断をしない。2200メートルを走る以上、中距離を走る以上、『中距離での最悪』を必ず想定してくる。そして必ず上回ってくる。

 

 東条隼瀬は、レース前に言った。

 

 

 ――――お前はどこまでいってもスプリンターだ。今回は、ここに頼る。この作戦はつまり、1100メートルまでをだらだら走って脚を溜め、残りの1100メートルの内、最終直線までの743.5メートルをなんとかしてやり過ごす。そして最後の直線で徒競走をすることを目指す。最後に決めるのは俺の策ではない。お前の天稟だ

 

 

 この二人が単純に356.5メートルで争えば、ミホノブルボンが勝つ。なぜなら彼女はスプリンターだから。短ければ短いほどに強いウマ娘だから。

 

 だから、ここまで持ってきた。

 

 シンボリルドルフは、強い。最強と言っていい。だがそれは、王道の距離でこその最強である。

 しかしその強さは、距離が長ければこそ。356.5メートルの徒競走では、ミホノブルボンに軍配が上がる。

 

 2分の1が3分の2に。

 3分の2が1に。

 

 それ以上は、開かない。だが、縮まりさえしなければいい。

 坂を越えての356.5メートルを、ミホノブルボンはスプリンターとして全力で――――そして一番に駆け抜けた。




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