ウマ娘 ワールドダービー 凱旋門レギュ『4:25:00』 ミホノブルボンチャート 作:ルルマンド
何も知らずに聴くと果てしなく自意識過剰なことを、東条隼瀬は口に出した。
「あいつはどこまでも自分のために走る。そういうやつだった。自分が走りたいから走っていた。そういうやつが誰かのために走るというのは、いかにも異常だ。見間違いであるという可能性の方が高い」
「マスターもかつては、そう思っていたわけですか」
「そうだ。思いたかった」
端的ながら、自分の現実逃避を認めるような言葉だった。短いながら意味を孕ませた言葉は、如何にも彼らしい言い方である。
「だがそうではない。彼女は今、誰かのために走っている。それはきっと俺のためだ。なにせ……」
やや沈毅な面持ちで顎を下げて眼を暗く光らせながら、東条隼瀬は覚悟を決めたように言った。
「あいつは、俺を信じてくれていたから」
(サイレンススズカという人が心から信じてくれていたからこそ、それを知っていたからこそ、その期待と信頼を裏切ったことがお辛いのでしょう)
無神経だが無責任ではない。だからこそ、自分に原因を求める。そういうことなのであろうと、ミホノブルボンは思った。
「彼女が何かのために走るとすればそれはすなわち俺のためだというのは、間違いではないと思う。彼女は俺の指導力不足もあってレース中に怪我をした。だが彼女はその怪我を事故のようなものだと言っていた。ひいては自分のせいですらあると」
それは実に競技者らしい発想だと、ミホノブルボンは思った。
実際に自分でやってみて、その結果として怪我をした。となれば周りが何を言うかはともかくとして、競技者当人は責任を自分に求める。
トレーナーが自分の計画になにか問題があったのではないかと思うのと同じくらい、そう思う。
(第三者としての俯瞰に徹することができれば、マスターであればこのことに気づけたはずですが)
そうはならなかった。能力的にはできたが、性格的にはできなかった。
「あのとき、俺は自分を否定した。そう思っていたし、今も否定とまではいかなくとも、批判している。だが彼女には、俺が彼女と歩んできた道そのものを否定しているように見えたのではないか」
「あり得ることです」
「だから、彼女は走っている。過去に俺と作り上げた合作としての自分が結果を出すことで、過去の俺を肯定しようとしてくれている。彼女は俺が結果を重視することを知っているから」
そうして見せられた戦績は、ものすごいの一言に尽きる。
この4年間、負けはなし。1年間で10回前後のレースを走り、すべてを圧倒して勝っている。その内容からは選り好んだ質が感じられない。どちらかと言えば、手当たり次第といった感じか。
「結果をどうこうはわかりませんが、それもあり得ることです」
「わからない、というと?」
「サイレンススズカという方には、選択の余地があったのでしょうか」
サイレンススズカというウマ娘が何かしらの目的があって走っていたのだろうということはわかる。彼と合うのは明確な目標がありながらその過程が暗闇に包まれているウマ娘だ。
そして彼の好みとしても、届かないものに手を伸ばす莫迦を好む。
だからサイレンススズカにも、なにか求めるものがあった。
「マスターは彼女が自分の夢を曲げたのではないか、と思ってらっしゃるのですか?」
「……いや、無くしたと考えている」
なるほど、と。
ミホノブルボンは得心いった。その発想は違和感を綺麗に拭い去るスポンジのように、彼女の思考に彩度を取り戻させていた。
「アメリカでGⅠを勝ち続ける。32戦走って全てに勝つ。これはすなわち、結果を出したと言える」
確かにそうだと、少女は頷いた。
シリウスシンボリの海外遠征でも、善戦止まり。国内外のレベルの差というものが騒がれつつあったちょっと後に、これほどの結果を叩き出した。
それは疑いようのない偉業である。
「つまり、マスターの方針を勝利によって肯定しようと決めて節を曲げられたのであれば、次の段階へと進むはず、ということですか」
「1年間ではフロックかもしれない。2年目を越えても、対策が間に合っていないからかも知れない。だが3年目というのは、ケチがつけようがない。疑いようもなく、去年までアメリカのトゥインクルシリーズの支配者はサイレンススズカだった。であれば、証明は完了したと見ていい。俺はそう思う。彼女がどう思っているかは知らないが」
彼女の目的に先があるならば、戻ってきて言ったはずだ。貴方は間違えていなかったと。私がそれを証明したと。
だからもう一度共に走って、導いてほしいと。
そこまで論理的な思考を行えて、なぜ今まで表に出さなかったのか。
一瞬だけそう考えて、ミホノブルボンは首を横に振る。
こんなことを、マスターが言えるわけはない。もともと自罰的で感情が内に向く。そんな人が、サイレンススズカという天才に怪我という罅を入れた――――少なくとも彼視点ではそう――――男が、『あいつが俺のもとに戻ってこないことはおかしい』、などと。
理屈でわかっても、感情が許さない。
そしてその先を言うべきは自分だと、ミホノブルボンは悟った。
「無論、私が居たから戻ってこられなかったという可能性はあります。ですが来年のマスターはチームを率いることができます。となれば日本トゥインクルシリーズへの復帰交渉もあるはずですし、何よりもマスターへの事前交渉があってしかるべき。そういうことですか」
「……ああ。そしてそんな知らせも交渉もない」
少しの沈黙の後に東条隼瀬はそっぽを向いてから、ミホノブルボンに向き直った。
「悪かった」
「いえ」
自分が言えないことを、言いにくいことを言わせてしまって、悪かった。
その意味をおそらく、ミホノブルボンは理解できたと感じていた。
「俺はサイレンススズカが正しさを証明するために走っているのではなく、正しさを証明し続けるために走っていると思っている。そしてその終わりは、そう遠いことではないとも、感じた」
終わり。
それはサイレンススズカの中から罪悪感という信頼の残骸が消え去ることを意味しない。
その残骸が消え去り、そして新たな一歩を踏み出せるとするならば、東条隼瀬は素直に祝福したはずだ。たとえそれが、自分のもとから離れていくということだとしても。
約4年間背負い続けてきた信頼の残骸を脱ぎ捨てて、新たな目標へ走り出す。
そうではない。
「目的の無い血を吐くようなマラソンを走り切ることはできない」
なにせ、ゴールが存在しないのだから。
東条隼瀬が誰に何を言われてもサイレンススズカを怪我させたことに対しての責任を感じ続けたのと同じように、サイレンススズカは自分の夢を追い続けた結果、信頼するひとに取り返しのつかない傷を負わせた責任を感じ続けることになる。
夢を追うための関係だった。だから、夢を追った。スピードの向こう側へと行こうとした。その行動は身勝手に映るかもしれない。
だが東条隼瀬だけはそれを肯定するし、『トレーナーの未来を考えるべきだった』とか、『怪我の可能性を考えるべきだった』とか、そういう否定意見でサイレンススズカが責められるたびに自分の実力不足を痛感するだろう。
「彼女は走れる内は、生きていられる。だが走れなくなって、目的が果たせなくなったとき」
それは呪いのように彼女を蝕むだろう。過ぎ去っていった道に置き捨てられた栄光がいかに輝かしいものであっても、彼女が見ているのは過去に続く暗黒の未来だけなのだから。
「俺は今から、身勝手なことを言う。お前のトレーナーとして、最低なことを言う。トレーナーとして落第と言えるほどの、私情にまみれた言葉を放つ。聴いてくれるか」
ミホノブルボンはひとつだけ瞳を瞬かせて、頷いた。
頷いて、前を見る。これまで常に、自分のためだけに動いてくれていた利他的なひとを。
「…………俺は、あいつを止めたい。過程が永遠に続くマラソンを敗北によって打ち砕きたい。俺の責任によって発生した妄執を拓き、サイレンススズカの前に広がる未来を明るいものへと戻したい。そのために、お前の力を借りたい。お前の脚は、他ならぬお前の夢を叶えるためのものだ。そのためだけのものだ。それを承知で、頼みたい。俺のために、走ってほしい」
「はい」
そのふた文字には、無限の慈愛がこめられていた。
そのふた文字には、無限の信頼がこめられていた。
「私は、言いました」
――――私は、三冠達成後はマスターの為に走りたいと考えていました。私の夢を実現可能な物へと変えてくださったのは、マスターです。私の夢を叶えた後は、マスターを栄光で彩りたいと考えていました。マスターがそれを望まれないことも、理解していました。
ですが私は、マスターが貶められたことを知っています。私のために貶められたことを、知っています。そのぶんの栄光を、私はマスターに受け取っていただきたいと思っていました。
彼女は去年の今頃、そう言った。
切り開く者となる、と。その決意を披露する前置きとして、そんな本音を彼に言った。
「その言葉に、変更の余地はありません。私の言葉はマスターとサイレンススズカさんが紡いできた過去と同じように不変で、不動のものです」
ぱちりと。星のような瞳が瞬く。
優しく微笑みながら、ミホノブルボンは小さな口を開いた。
「オーダーを、マスター。自発的にそうせよ、と言われるのであればそうします。ですがこの過程はおそらく、マスターにとって必要なことです」
「……ああ、そうだな」
本人の意思によるのではない。
頼むのではない。
そういう方式にすれば、後悔が残る。
「ミホノブルボン」
「はい、マスター」
「命令だ。俺のために走れ」
「オーダー、受領しました。私は私のためではなく、あなたのために。あなたの未来をより良いものとするために、あなたの未来を切り開くために、走ります」