僕のおしごと 作:駒木
その日、将棋界も含めて日本が揺れた。
中学生プロ棋士の爆誕。実に数十年ぶりの快挙だった。
しかも、
一人はおそらくなるだろうと世間的にも言われていた九頭竜八一新四段。将棋界では将来有望な少年で、小学生名人の最年少記録保持者だった男の子。その勢いのまま研修会と奨励会を異様なスピードで駆け上がっていった天才。
十五歳二ヶ月という史上四人目となった。
そしてもう一人。こちらは世間的にはあまり有名ではなかった。熱心な将棋ファンなら知っているだろうという程度。今年になって若干有名になったが、それでもプロ入りはまだ早いと思われていた。
なにせ十二歳十ヶ月。中学一年生という史上最年少での四段昇格を成したのだから。
その人物の名は碓氷暁人。彼も奨励会を抜ける速度は尋常じゃなかったが、それでも今回が三段リーグ一期目。まさか魔の三段リーグを一期抜けするとは思われていなかったのだ。
九頭竜ですら二期かけている。だというのに、暁人はたったの一期、十六勝二敗という成績で二位抜けをしてみせた。
今期の昇段はこの二人のみ。昇段に合わせた記者会見が行われたが、その時に事件が起こった。将棋連盟としても格好の広報になるため、記者会見を生中継でお茶の間に流したからこその事件だったと言える。
記者のなんてことのない質問。当たり障りのない質問のはずだった。最初に答えた九頭竜はしっかりと受け答えをして、続いて暁人の番になった。
質問の内容は「プロになったことを誰に伝えましたか?」という一番初めの質問だった。九頭竜は家族や師匠、同門の皆に伝えましたという真っ当なもの。
一方暁人は。
「家族に師匠。それに……大切な友人に、伝えたかったです……!」
そう答えた途端大号泣。これには一緒にいた九頭竜も連盟の職員たちも驚いた。暁人が泣く姿を初めて見たからだ。
九頭竜は暁人のことを大人顔負けの将棋を指すことから、対局したこともあったために嬉し泣きをするような子じゃないと思っていたため。連盟の職員も暁人は受け答えなども中学生とは思えないほどしっかりしていたので、最初の質問で泣き崩れるとは思わなかったのだ。
しかも泣き方が嬉し涙ではなく、まさしく泣き崩れているという様相なのだ。プロになれて嬉しくて泣き出してしまう子どもらしさに記者たちは微笑ましく見守っていたが、特に彼を知っていた職員がおかしいと思い会見の場に入ってきた。
暁人はずっと泣いたまま、まともに喋れなかった。やはり表情も嬉しそうじゃなかったために、会見は暁人抜きで九頭竜のみのワンマンショーとなった。
暁人は控え室でずっと涙を流しており、困った職員がどうしようと考えていた時にやってきたのは月光会長だった。秘書である男鹿ささりもいた。
「皆さん、すみません。碓氷くんとは私だけで話をさせていただけますか?」
会見を設定したのは月光会長だ。今回責任を負うべきなのも会長ということになる。そんな人物の言葉なので職員たちは全員退室した。男鹿だけは目の見えない月光会長の補佐として残っていたが。
「か、いちょう……。ご、ごめんなさい……」
「いえ。あなたのことを思いやれなかった私のミスです。……夜叉神夫妻のことですか?」
月光会長の言葉に、暁人は肩を大きく揺らした。言葉はなくとも、それだけで返事をしているようなものだ。
月光会長は天祐と記念対局をした名人であり、将棋界の発展に寄与してきた夜叉神家のことは会長として把握していた。そして暁人が夜叉神家と親しいことも。
「夜叉神家の意向で事故については公表していませんから。あの場で名前を出しても困惑されるでしょう。……まだ、半年ですからね」
「……大丈夫だと、思ってたんです。吹っ切れてなんていないですけど、ちゃんと我慢して答えられるって。……そう、思ってました」
「あなたはそれこそ、中学生ですから。それに我慢なんてしてはダメです。感情を押し殺すのは人間としてダメですよ。泣きたい時は泣いていいのです」
暁人は真正面からそう言われて、涙を止める努力をした。そう言われても迷惑をかけたことには変わりないのだ。
「記者会見は、無理ですけど。雑誌の取材とかだったら受けます……」
「それらも無理をしなくて大丈夫ですよ。九頭龍くんもいますから。一般の記者ではなく、将棋世界を出している雑誌のみで取材という手もあります。あなたは記録を更新したために情報をある程度流さなければいけませんが、中学生ということを配慮して取材などを断ることはしてもいいんです。私達に遠慮はしなくて構いません」
月光会長がそう言うと、男鹿のポケットから着信音が聞こえてきた。電話かと思っていたが、男鹿が出したのは暁人のスマホ。
記者会見をするからと、彼女に預けていた物が震えていた。
「すみません。相手が見えてしまいました。碓氷くん、出るべきだと思いますよ?」
男鹿から受け取ったスマホに出ていた相手の名前は夜叉神天衣。お祖父さんの家に移ってから買ってもらったもので連絡をしているのだろう。
月光会長も頷いたことで、暁人は通話ボタンを押す。息を少しだけ吸って、暁人は伝えたかった言葉を口にする。
「──天衣ちゃん。棋士になったよ」
「知ってるわよ!?大丈夫なの!途中でいなくなっちゃうから、電話したのだけれど……」
「天衣ちゃんの声聞いたら大丈夫になった。……うん、もう大丈夫」
そんな世間を騒がせた出来事の裏で。最年少棋士は穏やかに笑っていた。
彼本来の笑顔がそこにはあった。
・
「あら。九頭竜四段、また竜王戦の予選勝ったわね」
「そうなの?調子良いんだね」
「と言うか、竜王戦しか勝ってないわよ?玉将戦は負けてるし、棋帝戦も負けて、新人戦の予選も負けてるわ」
「僕と真逆だなあ」
夜叉神邸宅。そこで僕と天衣ちゃんは指導対局をしていた。今は休憩中で天衣ちゃんはタブレットで将棋界の情報を集めている。
十月に棋士になってからはや三ヶ月。色々な棋戦が始まっているけど、この時期はタイトル戦が多いために新人の僕はあまり対局がなかった。予選も数が少ないし、順位戦もまだ先。出られる棋戦は出るようにしていたけど。
竜王戦の予選は負けて、それ以外の玉将、棋帝、新人戦は今の所勝ち進んでいる。僕も九頭竜さんも中学生棋士だからすごく注目されているけど、勝ったり負けたりで熱も収まってきた頃だ。
まあ、余裕がある方が学校の宿題とか天衣ちゃんの指導とかできるから良いけど。
「お兄ちゃんは今の所六連勝ね。また騒ぎ出すんじゃない?」
「竜王戦の予選であっけなく負けたからどうだろ。名人との記念対局もギリギリ100手いっただけだし。……天衣ちゃん、僕の呼び方の使い分けって何か意味があるの?」
「あるわよ。だから指導を受けてる時はちゃんと師匠って呼んでるじゃない」
将棋界は礼節がとても大事だ。年長者や段位が上の方はすごく尊重する。だから天衣ちゃんも指導中は僕のことを師匠と呼び、お兄ちゃんとは一切呼ばない。休憩中や食事の時はお兄ちゃんって呼ぶけど。
名人との記念対局なんだけど、最初は僕と九頭竜さんどちらとも対局をしようとしたらしいけど、名人は対局が詰まっていたために一局だけとなり、僕が指した。九頭竜さんは同門の月光会長と記念対局をしたようだ。
二人とも吹っ飛ばされたけど。A級在位のトッププロだ。プロになったばかりの僕たちじゃ敵わなかった。
天衣ちゃんは正式に僕の弟子になっている。これに大槌師匠は最初反対した。僕はプロになったばかりで、しかも学生だ。二足の草鞋の時点で大変なのに、その上神戸まで出張って指導をするというのは大変じゃないかと。
だけど天衣ちゃんの状況を知っていたからか、反対は最初だけだった。僕が奨励会を駆け上がれたのは夜叉神家のことが大きいとわかっているからだろう。
今では土日のどちらか、対局がない日に指導をしている。月光会長は僕に色々配慮してくれているようで大盤解説や記録係の仕事は基本的に入れないでくれた。対局以外の仕事が増えると天衣ちゃんに会う時間を作れないからだ。
天衣ちゃんが京都に来るって話もあったけど、どうせこれからこっちに来ることの方が多くなるから大丈夫と伝えたら顔を真っ赤にして枕で叩かれた。何でって思いながら年度が上がったら大阪に引っ越して一人暮らしをするという話をしたらすぐに謝ってきたけど。
何だったんだろう。女の子の気持ちはわからない。
指導の回数が変わるのが嫌だったんだろうか。
天衣ちゃんへの指導は主に中盤から終盤にかけて。天衣ちゃんは天祐さんに似て素晴らしい受け将棋をするけど、だからって中盤で相手に手番を渡す意味もない。
終盤も鍛えつつ、定跡から有効な中盤の指し方を教えている。
「……空女王、また勝ってるわね。女流は一強状態だわ」
「空さん女性では一番強いのも当然でしょ。奨励会に入ってる時点で他の女流じゃ相手にならないよ」
これは女流棋士の棋力の問題。プロ棋士になった女性は今の所おらず、女流でタイトルを獲っている人たちは奨励会に入れなかった人たちがほとんどだ。研修会を途中で辞めた人がタイトルホルダーとして名前を連ねる。
そんな中で現在一段となって奨励会に挑んでいる空さんと戦える人がいるかと言われたら、思いつくのは二人だけ。その二人だって調子の波が激しすぎて戦いと呼べるかもわからないけど。
「お兄ちゃんに勝てるようになれば、わたしだって女王になれるわよね?」
「まあ、将棋に絶対はないからそんな単純なことでもないけど。相性もある。僕が空さんと戦ったら全部負けるかもしれない」
「お兄ちゃんは女王と戦ったことないの?」
「研修会で一回だけ。向こうが上の級だったから香落ちで指したよ。その時は勝った。それ以降巡り合わせもなかったし、研究会とかも開いてないからそれ以降は一回も。それに空さん振り飛車嫌いらしいから、僕嫌われてるんだよねえ」
「はぁ?なにそれ」
天衣ちゃんの表情が歪む。派閥や得意戦法というのはどの棋士にもあって、それが苦手とする戦法やそれを使う棋士を嫌うことなんてザラだったりする。僕の兄弟子なんて「振り飛車党総裁」なんて渾名があるほど人の個性が出る。
「振り飛車と居飛車は仲が悪いからね。よくあることだよ。それに同い年の下の級に負けたのが悔しかったんだろうね。僕に負けた後九頭竜さんに泣きついて?うん、泣きついてた。それ以降敬遠されてるかな」
「見る目ないわね。女王は。棋力に年齢も級も関係ないじゃない。戦法だって人それぞれだわ。……というか、何?その二人って公衆の面前でそんな風にイチャついてるの?」
「そうだよ?大阪の将棋会館じゃ有名なんだから。二人のこと夫婦って呼んでる人もいる。同門で四六時中一緒にいて、空さんは九頭竜さんを好きなことを隠していないから」
天衣ちゃんを将棋会館に連れていったことなかったから知らないのか。あの二人は昔から来る時も帰る時もずっと手を繋いでいた。小さい子供だったからだろうけど、それが恋愛の好きに変わるのは自然なことだったんだろう。
空さんが九頭竜さんを心配したり、彼だけに見せる態度を見れば誰だってわかる。
「連盟の職員さん達はいつ二人がくっつくのか賭けをしてるらしいよ?世間でも割と有名だったはず。ネットにそんなこと書かれてなかった?」
「わたし、勝敗は調べてもそれ以上は調べてないわ」
「掲示板とか、見るだけで時間がかかるからね。世の中にはそういうのを面白おかしく話している場がある。そんなところ見たって女王に勝てるわけもないけど」
「でしょうね。相手の個人情報を知って勝てるほど、将棋は甘くないわ」
「番外戦術なんて今やする人はほぼいないからね。戦術とか棋譜を集めておけばいいよ」
別に九頭竜さんが空さんとくっつこうが、師匠の娘さんである清滝桂香さんとくっつこうが、他にも色々と交流のある女流棋士の人とくっつこうが、関係ない。それで弱くなったらそこまでの人だったというだけ。
僕たちは棋士だ。全ては盤面で語ればいい。
……ちょっと女の人にだらしがないなと思うけど、竜王戦を勝ち上がってるのは本当なんだから、そんなところでケチをつけたらダメだろう。うん。
「天衣ちゃん。まずは女王になるんでしょ?そうしたらそろそろ反則手とか、アマチュアがやりそうな騙し手を教えようか」
「それって何が何でも勝とうって思ってやっちゃう将棋ってこと?」
「年齢制限とか、何勝とか求められる世界だから、棋士じゃなければ結構あるみたい。勝つために何でもやってくる人は一定数いるよ。僕も女流はあまり調べてなかったんだけど、女流の試合でも何回かそういうのはあったから。研修会や奨励会でも何人かそういう人いたし、対処法だけ知っておけばいいよ」
必死になりすぎて空回った結果、棋力以外の手段に頼るという本末転倒なことをする。そんなことをしてプロになったって勝てないのに、やる人はどうしたっている。
そんな人たちのせいで足踏みするのは嫌だろう。だから今の内に教えておく。
「簡単なのは指したフリかな。ちょっと目を離した内に駒音だけさせて指したフリをする。それに引っかかってこっちが指したら二手指したことになって反則になる」
「え?そんなことする人いるの?」
「いた。研究会で一回喰らったよ。盤面覚えてたから引っかからなかったけど、年齢制限に近い人ほどやる。後は降級や残留が決まっているから道連れにしようとする人も。トイレで立ち上がっている間に指したフリをして堂々としていて、相手に指させるって方法をとった人もいたみたい」
「……必死すぎるわね」
でもそういう場所なんだ。あの将棋会館というのは。プロでそれをやったら顰蹙を買うからそういう盤外戦術を取る人はいない。そんな人はプロでも何でもないからだ。
「後はいきなり定跡から外す手を指してくる人。もちろんそんなのは棋士でもやる人はいるけど、棋士の場合はその手をこれでもかと研究して打ってくる本気の一手だ。けど全く研究もしていないけど、定跡からさっさとズレて相手を困惑させようとする人もいる」
「それで行き当たりばったりな将棋を指すわけ?」
「そう。読み合いに自信があるとか、逆に定跡をあまり学んでいないからこそ、そういうことをする。定跡は定跡だからこそ残ってるのに、それをワザと崩そうとする人はいるよ。自分が強くならなくても、相手が実力を発揮できなければ勝てるのが将棋だから」
真剣師というお金をやり取りする人たちだと特にそういう傾向がある。僕もプロになってしまったのでそういう場所に近付けない。それに対局料以外でのお金のやり取りをする将棋なんて天衣ちゃんに教えたくない。
彼女にとって将棋とは、両親との絆だから。その将棋を汚そうとする人には修羅のごとく怒るだろう。
でも研修会や女流ではやってくる手なので、一応教えておく。本番で困らないように。
「わたしは、わたしの将棋を指すだけよ」
「そういう人が一番強いんだよ。将棋は」