僕のおしごと 作:駒木
二月は僕のタイトル戦はもちろん、天衣ちゃんのマイナビ決勝戦がある。決勝の相手は祭神女流帝位。これはトーナメントが発表された時点でわかっていたことだ。焙烙女流三段以外に相手になりそうな人がいなかった。他のタイトルホルダーは全員天衣ちゃんの山にいたもんなあ。
僕の次の試合の前に決勝がある。だから天衣ちゃんのためにも神戸に来て指導対局をしていた。
天衣ちゃんの決勝の次の日に僕の二局目がある。違う棋戦に出ているんだからこういうことは普通にある。棋士と女流で日程が被るなんて良くある。いくら同じ将棋連盟が日程を組んでいるからって師弟の日程を考慮するなんて無理だ。
男女の師弟なんてどれだけいるんだって話だし、弟子を取っている人は複数人弟子にしている人もいる。その全員の日程を把握している連盟職員なんていないんじゃないだろうか。
そんなことをお茶菓子を頂いている時に考えつつ、この後はどうしようかと考える。女流帝位の得意戦法は振り飛車だからとにかく振り飛車を僕が指しているけど、ぶっちゃけそれっていつもの僕だ。それに振り飛車と一言で言っても指し手の感覚で全然違った景色を見せる。
同門の僕と生石さんでも全然振り方が違うし、名人は居飛車が得意だからか僕らほど感覚で振らない。それでも強いんだからビックリだ。
だから女流帝位対策にただ振り飛車をしていて効果があるのかって話。女流帝位は強い時は本当に僕達棋士を簡単に吹っ飛ばす。正直才能だけなら現存の女流棋士で一番だ。
そんな女流帝位対策なんてどうしようってことで。僕だって指したら負けるかもしれない。
栗最中と緑茶をいただきながらそう考えていると、天衣ちゃんが話しかけてきた。
「師匠。次の一局、名人と戦う時のように本気で指してくれない?」
「うん?僕って名人と指す時はそんなに違う?」
「この前の一局みたいに指してほしいの。あれはどう考えても異次元だったわ。──あの状態の師匠と指せれば、それ以上に怖いものなんてないもの」
「アレかあ。意図的にできるかな……。話した通り、名人の前に座って気付いたらあの終局だったんだよ?」
天衣ちゃんにも話したけど、本当にどうしてああなったのか僕自身も、名人もわかっていない。そんな状態を意図的に出せるのか。
今まで天衣ちゃんともそれなりに指してきたけどあの状態にはならなかった。再現するなら名人と指すのが一番なんだけど、タイトル戦で戦ってる人と研究会をするわけにもいかないし。
わからないなりにやってみるしかないか。
「わかった。できるだけやってみるよ」
天衣ちゃんにはちょっと失礼かもしれないけど。
ここはタイトル戦でも使う旅館の一室で。
上座に座るのは名人だと仮定して、指そう。
・
わたしのお願いをどう感じたのか。
将棋盤を挟んだ先の碓氷暁人は目が据わっていた。そしてわたしが動かした次の瞬間には駒を動かしていた。
その意図を読もうと、定跡からすぐ外れるかもしれないからその可能性を残したまま動きを探りながらも振り飛車を指す。
お互い振り飛車で進む。名人と初めて指した時のように碓氷暁人の情報の波がわたしを襲う。
どのルートで来るか。奇襲のタイミングは。何を狙っているのか。攻守の切り替えのタイミングは。何に重点を置いているのか。
何でそんな手を打つのか、それが悪手ではないとわかるのはわたしがかなり考えてから。全部が重い一撃で、そもそも先手だったわたしがいつの間に手番を握られていたのかわからなかった。
防戦になり、何とか受け潰そうとする。必死に考えたのに、わたしが指してノータイムで次の一手を指してくる。
上手くいった防御なんていくつあるのか。囲いに迫る大駒。それを防ぐには、近寄らせないようにするには。こんな定跡も攻め方も、見たことがなかった。
わたしの学習量が足りないのか。
ただただ、わたしの脳が追い付けていないだけなのか。
ずっと扇子を握ったまま、盤にしがみつくように言葉を洩らす。脆弱な手しか思い付かない。こんなすぐに吹っ飛ばされる手を思い付くな。
何通りの攻め筋がある。どこを守るのが最善だ。
そもそも、最善って、何?
戦法、駒、マス目。状況も加味したらどれだけ変化手があると思ってるの?スーパーコンピューターですらまだ将棋を終わらせたとは言えない無数に近い盤面。それを人間が全部読み切れるとでも?
そんな驕りを捨てろ。
わたしはまだただの女流棋士で、奨励会に入ったばかりの小童。
女流棋士のタイトルも獲ってないただの十歳の小娘。将棋に出会うのが早かっただけの、周りの人に恵まれただけの子供。
夜叉神天衣として何も残せていないただの小学生が、名人に墨を付けた碓氷暁人の思考全てを読む?
傲慢になるのもいい加減にしろ、小娘。
将棋の関係者として、最も碓氷暁人の側にいた?
公私共に長い時間を過ごしている?
彼と一番長く将棋を指しているのは、生きている中ではきっと自分だ。だからどうした?長く指しているだけで濃密な時間を過ごしたのは生石玉将や名人、山刀伐八段の方。
そんな事実だけで、隣に立った気になっていたのか。何を当たり前のことを今更自覚しているのか。
お父様が縁を結んでくれて、幼少期から側にいることが常識になっていて。
わたしを寂しがらせないようにと、三段リーグを一期で抜けて。
その後も非常識だと理解しながらプロになってすぐただの知人のわたしを弟子に迎え入れたお人好し。
優しい人につけ込んで、トッププロの環境を教えてくれて。図々しくもわたしを将棋のトップだと思って指してくれなんて、バカなの?
自分だってタイトル戦が控えているのに、息抜きと称してわざわざ神戸まで来て。わたしのワガママに二つ返事をして。
わたしが女流帝位程度に負けたくない。早くあなたに恩返しがしたいと思ってるだけなのに、結局あなたに縋って。
こんな浅ましいわたしに、本気で指してくれる。
今まで指導として戦法を変えたり、それこそ駒落ちで何度も指した。模擬戦ということでかなりの対局をしてきた。
だけど、まるで公式戦のように本気で戦うのは初めてだ。その時点で、わたしが一番なはずがない。
彼にとってわたしは弟子で、夜叉神天祐の娘でしかない。
本気で競う相手じゃない。弟子として大事にされていても、同格だなんて絶対に思われていない。
史上最年少タイトル挑戦者に、奨励会員を名乗れるようになったばかりのわたしが追い付けると?本気を出すほどの価値があると思われてすらいない。
きっと今までは弟子だからとか、そういう無意識のセーブがかかっていたんでしょう。でも、本気を出せばこの通り。わたしなんて蹂躙されるほどの実力でしかない。
常識で考えたら無理だ。トッププロでさえ負かす神童に、弟子なだけの女が勝てるわけがない。
──わけがない、で終わらせたら、わたしは何者にもなれなくなる!
わたしはどうなりたい。
お父様の将棋を、きちんと受け継ぎたい。こんな将棋もあったんだと、世の中に証明したい。
ただの碓氷暁人の弟子で終わりたくない。女流として戦うのではなく、棋士としてこの人の前に座りたい。
名人のように、この人を将棋で理解したい。
碓氷暁人の、全てを愛してる。
結局行き着く先はそこなのかと、わたし自身に呆れながらも。
この人を愛しているなら、隣に居たいのなら。
この人の最も大切な将棋も理解しないとわたしがわたしを許せない。
思考の濁流に呑まれるな。
本当に濁流なんてあるわけがない。
あるのは目の前の人の、たった一つの思考だけ。どういう終わりを観ているのか。それだけ。
趣味とか好みとかじゃない。この一局を、どうしたいのか。
知識という定跡を、頭から吹っ飛ばした。
それは先人の遺産。
だけど、目の前の人は先人の誰でもない。同門の癖はあるかもしれないけど、碓氷暁人の考えは碓氷暁人の中にしかない。
もしもし、聞こえますか?
師匠は、どこを目指していますか?
百二十二手の
気付いたらまた鼻血を出して横に倒れていて。
キチンと終わりは、百二十二手目の銀成だった。
・
二月十四日。
マイナビの挑戦者決定戦が東京将棋会館で開かれた。時間は朝の十時前。上座には祭神雷女流帝位。下座には夜叉神初段。
女流帝位の女王へのリベンジか、最年少チャレンジャーの誕生か。どちらにせよ注目されるカードだった。入室前にどちらにもフラッシュが焚かれる。この時点で天衣は最年少記録を塗り替え続けてきたので、このまま様々な記録を打ち立てて欲しいとさえ願われていた。
それは彼女の師匠が、同じように現在将棋界で大躍進をしていたために期待も高まっていく。
そんな期待に対局者の二人は一切気にも留めないのか普段通りの様子で座っていく。むしろ緊張しているのは記録係の方だった。
二人して座った後に、上座の祭神が駒を並べながら口を開く。
「マイナビも何でこんな日程にするかね?バレンタインデーモロ被りじゃん」
「何か予定があったのかしら?」
「モチ。やいちに直でチョコ渡そうと思ったんだけど、やいちって大阪じゃん?こっちに対局で来てもないからさー、対局終わったらそのまま家行こうかなって。もう作ってきて会館の冷蔵庫借りて冷やしてるんだよねー」
「いいんじゃない?今からならお互いの持ち時間を考えても新幹線には間に合うでしょうから。千日手なんかしないでしょう?」
「するわけないじゃん。楽しみにはして来たけど、長引かせるんじゃなくて潰す気で来たんだから。去年みたいなツマラナイ幕引きにするつもりないしー。やーしゃじんチャーン、
「ええ、いいわ。──今のわたしは、一筋縄じゃいかないわよ?」
開戦。
お互い得意な振り飛車による、ガチンコの殴り合いが始まる。
持ち時間に余裕はあるはずなのに、ほぼノータイムの早指し。早すぎて記録係が困惑するほどの早さだった。考えていないんじゃないかと疑うほどの、即座に駒音が鳴り合うこの場は異常な空間が出来上がっていた。
天衣は真面目な表情を崩さず、祭神は笑顔を絶やさない。
「キヒッ!お前、やる度に強くなってんじゃん!しかも今回は、確実に
「ごめんなさい。あなたのために鍛えたわけじゃないの。──ここはまだ道半ば。通過点でしかないわ」
「あはははははは!そうだよなあ、こんなとこで足踏みしてらんねえよなあ⁉︎だってアンタはこれの上を知ってる!あの異常な、たった二人の語り合いの片方を知っちまってる!そこが最終地点なら、こんなの登り始めでもねえよなあ⁉︎あーしも、別の頂きがある!名人にはお互い感謝してるっしょ?やいちをあそこまで鍛えてくれたんだからさあ!ああ、早く公式戦でやいちと
そんな会話がニコ生に堂々と乗りながら二人の捌きが繰り広げられる。
飛車同士が喰い合い、前から仕掛けていた歩が爆弾的な役割を果たしたり、香車の火力が火を噴いたり。
盤面は恐ろしく動いていく。お互いの囲いはボロボロになりながらも最後の一線だけは抑え込み、守るよりも攻める動きが続けられる。
早指しが過ぎて解説が追い付かない。どっちも次に何をしてくるのかわかっているのか、応手が即座に繰り出される。
一枚、また一枚と。お互いの囲いが削られていく。攻めと攻めの駒がぶつかり合い、かといって守りを完全に蔑ろにしているわけでもなく。必要な時にはどちらも防衛のための駒を自陣に置く。
ミスもなく、いつぞやの先読みが過ぎて必要な駒が今ないということにもならず。
決め手は祭神の飛車が、受け潰されたことだった。
「チッ。先手の一手分届かなかった……」
「ええ、そうね。わたしが後手だったら負けてた。──師匠並みに強かったわ」
「マジ?暁人きゅんと同等って認めてくれんの?ならやいちと同等ってことじゃん。うっわー、そのお墨付きは嬉しいかも」
「最近は直接対決がなかったはずだけど?」
「あん?あーしの旦那舐めんなよ?また来年竜王奪いに行くってーの。それに今は名人に黒付けたっていう指標もあんじゃん?名人は頂点かもしんないけど、やいちも暁人きゅんもその下には確実にいるっしょ」
「そうかもね。竜王かはわからないけど、九頭竜八段もすぐにタイトル挑戦くらいはしそうだわ」
「ねー。あ、言ってなかった。負けました〜」
「ありがとうございました」
最後に雑談をしていたこともあって、異様な空気は残ったまま。
当人達は気にすることなくさっさと感想戦を始めてしまう。
「こっちも一応考えたのだけれども……」
「うっわ、えげつな。どっちにしろあーし不利は変わらんくね?ここでこっちに指してたら大チョンボだけど」
「さすがにそっちには指さないでしょう。一見王手に近そうで角の攻守に利用されるだけじゃない」
「だよねー。んじゃあ、ここのこの場面は?七7銀よりは持ち駒の銀打ちした方が良かった?」
「そうなると攻めが更に手薄になるから七7銀は正しかったと思うけど。ここでわたしの桂馬を通す方が悪手よ」
「銀って使えねー」
「悪い駒ではないわよ。金が万能すぎるだけで」
「ホント、駒の持つ力が絶妙なのは凄いわ。もし銀じゃなくて金四枚だったらゲーム変わってるわー」
「それは色々とバランスが崩れるわね……」
感想戦も無事に終わり、それでも雑談が続く。
「チョコ以外にもメガネを用意したんだよねー。ペアメガネって奴?」
「へえ。九頭竜八段は対局の際にはメガネをかけるものね」
「暁人きゅんはそういうことしないよね。自然体っつーかさ」
「師匠はそういうスイッチがないみたい。アイテムじゃなくて意識の切り替えって言ってたわ。わたしは扇子に頼ってしまうけど」
「扇子邪魔じゃね?」
「これが案外落ち着くのよ。あなたもそのメガネ、対局の時だけでもかけてみたら?何か変わるかもしれないわ」
「まあメガネくらいならいっか。できたらこれ、デート用にしたいんだよねー」
「そこは九頭竜八段と相談すればいいと思うわ。ペアメガネなら対局とデート用で分けるとか」
「──天才かよ」
「それほどでも」
そんなツッコミどころ満載な会話もニコ生で流れ続け。記者による質問なども入って放送も対局も終わった。
そして祭神は宣言通り新幹線で大阪へ。怒った
一方天衣は。
「はい。バレンタイン。わたしは帰るけど、明日頑張って」
「うん、ありがとう」
神奈川で前夜祭に出ようとしていた暁人にチョコを渡して神戸に帰った。
明日は平日だったので、小学生の彼女は学校に行かなくてはならないのだ。