僕のおしごと 作:駒木
わたしの師匠、もといお兄ちゃんは凄い。なにせ史上最年少棋士だ。三段リーグ突破に十六勝二敗なんて好成績の上に一期抜け。普通は十三勝くらいで昇段するのに、それよりも勝ち星を稼ぐ上に一期抜けした棋士はお兄ちゃんを除けば片手で収まる人数しかいない。とても十二歳の所業じゃなかった。今は十三歳になったけど。
お兄ちゃんと言えど、血の繋がりはない。わたしからすれば物心ついた頃からずっと側にいた人だ。家族と一緒に過ごしてきて、一緒に将棋を指してきた。どんな時でも頼りにしてきた大切な人。
わたしの師匠になるために三段リーグを一期抜けした天才。顔も可愛らしいし、今も絶賛連勝記録を作っている時の人。
お父様とお母様が認めた人。もう、わたしの一部になっている人。
最近一人暮らしを始めたために、何かと理由をつけて家にお邪魔していた。合鍵も受け取っていて、好きに入っていいと言われていたので九頭竜四段との対局の日もお邪魔していた。
将棋自体はタブレットで確認していた。本来順位戦、しかもC級2組というフリークラスを除いた最底辺のクラスの棋戦なんてネットで状況報告などされない。けどこの一戦は四段同時昇段者による、しかも中学生棋士二人による一戦だ。
連盟も大事な対局だと思ったのか、この対局は速報で棋譜を調べることができた。
三段リーグの最終日のように今日も将棋会館前にはたくさんの記者たちが詰めかけている。一度様子見に行ったけど、昼食──勝負飯は何だったかを大々的に報道していた。
馬鹿馬鹿しい。食べた物で戦局なんて変わらないわよ。モチベーションを保っているだけで、何かを食べていたら勝率が良いとかは迷信だと思っている。
まあ、将棋界でも結構おやつにアイスだの何だの、食事ブームがあるのは事実なのだけど。
それでも見るなら将棋を見なさい。内容が理解できないなら棋士の方を解説で雇いなさい。
わたし達が愛した碓氷暁人の将棋を刮目なさい。
将棋自体は九頭竜四段の得意戦法「後手番一手損角換わり」をお兄ちゃんが真っ向から潰した形だ。相手の思考外からの一撃。気付いたら状況が一変しているお兄ちゃんの進軍。それに九頭竜四段が対処できなかった形。
それでも一手差。かなりギリギリの将棋だったと思う。正直わたしじゃ思いつかない応酬もあった。もっともっと勉強しなくちゃ、とは思える良い将棋だった。
朝の十時から始まって、終わったのは夜に差し掛かる頃。でもお兄ちゃんが帰ってきたのは二十時を過ぎていた。この家から将棋会館なんて二十分くらいなのに。
「……ただいま。電気が点いてるからもしかしてって思ったけど」
「おかえりなさい、お兄ちゃん。おめでとう」
「先生おかえり。お邪魔しているぞ」
晶と一緒にお兄ちゃんを迎える。学校でもなかったのに正装で将棋を指すために学校の制服で帰ってきた。相手の九頭竜四段は進学しなかったためにスーツだったけど。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「え?適当にコンビニで買ってきたけど。ご飯は行く前にセットしておいたから炊けてるよね?」
「ええ、炊けてるわ。じゃあ晶。適当におかず買ってきて」
「わかりました」
晶がすぐ出ていく。わたし達もご飯を食べていなかったから、お兄ちゃんには悪いけどご飯を追加で炊かせてもらった。
……本当は何か作ろうと思ったけど、料理にまだ自信がない。だから手料理を振る舞う機会が延びて良かったと思ってる。
晶はすぐにおかずを買ってきて三人で食卓を囲む。その際、お兄ちゃんが質問をしてきた。
「そうだ。天衣ちゃん、GWって何か用事ある?最初の三日間なんだけど」
「特にないわ。例会もないし。指導してくれるの?」
「ん〜……。ちょっと違うかな?ほら、マイナビに出るなら現地調査じゃないけど、会場の場所とか見に行った方がいいと思って。女流棋士になってタイトル予選とかだったら連盟の人が会場まで案内してくれるけど、天衣ちゃんは今回一般参加枠。案内もないから会場の下見が必要かなって」
「ふうん?いいわ、予定もないし」
「じゃあ二泊三日ね。晶さん弘天さんによろしくお伝えください」
「はぁ!?二泊!?」
いきなりの発言に立ってしまった。はしたないとわかってすぐ座ったけど、お兄ちゃんを睨んだままだ。三日間のどれかの間に行くつもりなのかと思ってたら、日程全部なんて。
と、泊まり込みって。いくら晶を連れていくからって、そんな……!
「え?あれ?ダメだった?」
「……三日も何をするの?」
「東京の将棋会館に顔を出して道場で将棋指したり、知り合いの棋士に会ったりとか。研究会のようなこともする予定」
……だと思った。頭の中将棋しかない。甘い夢を見ようとしたって無駄ってわけね。
知ってたわよ。
結局了承して当日。新幹線に乗って東京に行って、東京駅からマイナビの会場までの行き方を確認して、その後は近くでお昼を食べた。ふわっふわのオムレツが美味しいお店だった。
何でこうも女心を燻るチョイスができるのかしら?この女たらし。
それからまた電車に乗って移動。でも向かったのは千駄ヶ谷じゃなく、八王子の一般住宅街。どこに向かっているのか聞いても一向に答えてくれない。
そして着いたのは結構大きな一軒家。誰かの家だと思うけど、誰かしら。
お兄ちゃんがインターホンを押すと、出てきたのは高校生くらいの女性。
「いらっしゃいませ〜。あら、もしかして碓氷先生?」
「はい。碓氷暁人です。本日はお邪魔いたします。こちら、母から京土産です」
「あら、ご丁寧にどうも〜。そちらがお弟子さん?」
「はい。天衣ちゃん、挨拶」
「夜叉神天衣です。……申し訳ありません。女流棋士の方ですか?」
わたしの知らない人だった。それでも将棋関係者で女性となったらそれくらいしか思い付かない。わざわざ連盟職員の方を訪れないだろうし。
女流棋士で知っているのはタイトルホルダーだけ。他の人はニコ生の聞き手で見たことがある人だけで、目の前の人は見覚えがなかった。
「ああ、違いますよ。私はただここの住人ってだけで。お父さんみたいに将棋をやろうとは思いませんでしたし」
お父さん。つまり父親が棋士なのかしら。表札見るのを忘れてたけど、関東の棋士にお兄ちゃんのツテがあるなんて。研究会をするほど親しい方となると誰かしら?
わからないまま案内された先。一階でも大きな和室。
そこにいたのは、山刀伐八段に鹿路庭女流二段。そして──。
「め、名人ッ──!」
そこには、将棋の神様がいた。
「やあ、碓氷君。迷わなかったかい?」
「はい。本日はお招きくださり、ありがとうございます」
「かまわないとも。そちらが弟子の?」
「はい。夜叉神天衣です。天祐さんの一人娘です」
「……惜しい人を亡くしたな」
お兄ちゃんは平然と話しているけど。わたしも晶も困惑している。晶も流石に名人の顔は知っていたようで、突然のことに驚きを隠せないようだった。
いや、わたしもだけど。何で研究会の相手が名人なのよー!?
名人が一つの将棋盤の前に座る。その前は空いている。山刀伐八段かお兄ちゃんが座るのかと思っていたが、お兄ちゃんに背中を押されてそこに座らされる。
え?──え?
「さて、夜叉神君。指そうか。そちらの先手で始めよう」
「わ、わたしが……?」
駒はすでに置かれている。平手だ。角落ちでも二枚落ちでも、四枚落ちでも六枚落ちでもない。平手。
わたしみたいな小娘が、名人と平手で指す……?
「碓氷くんは僕と指そうか」
「胸をお借りします。山刀伐八段」
「研究会なんだからもっと肩の力抜こうよ。鹿路庭くんは最初記録係していてくれるかい?彼らは関西からのゲストだからね」
「はい。というか私も場違い感がハンパないというか……」
「時間もないし早指しでいこう。持ち時間はそれぞれ三十分。じゃあ始め」
「「「「お願いします」」」」
そこからは怒涛の展開だった。
わたしの棋風は受け将棋。だからって序盤や中盤で手を抜いていいわけじゃない。名人は居飛車寄りのオールラウンダー。相掛かりは相手の土俵だと思って、わたしが選択したのは中飛車。
早指しもあって、急戦だ。
そのままわたしはできるだけの力を見せる。けど名人から濁流のように流れ込んでくる思考の海について行くのが精一杯だった。相手の読みがどれだけ深く鋭いのか、たった一手指されるだけでわかる。
その濁流に飲み込まれないようにしっかりと息を吸う。
この感覚を知っている。お兄ちゃんが本気の時に繰り出す重い一撃を出すまでの思考の波だ。この濁流でさえ、その一撃の前哨戦に過ぎない。
わたしが平手で名人に勝てるわけがない。だからって無様な将棋を指せるわけがない。
この方はお父様のことを惜しい人だと言ってくださった。そしてわたしは碓氷暁人の弟子だ。
わたしはわたしを証明するために、ただただ盤面に喰らい付いた。
わたしは夜叉神天祐の娘だと。お父様の残した受けを証明するように名人の攻めを受ける。そしてお兄ちゃんのような一撃を繰り出す。それが、わたしの将棋だから。
途中誰かの叫び声があった気もするし、鼻が痛い気もしたけど、とにかく指す。思考が分裂するのが邪魔だ。
いらないものは削ぎ落とせばいい。
「違う。違う……。違う!違う……。これも。違う。違う。……まだ。違う。違う」
そんな軟弱な手を思い付くな。これじゃあ名人どころかお兄ちゃんにも吹っ飛ばされる。もっと違う手を。勝てる道筋を。
「違う。違う。ちが……。いや。……ここ!」
指す。飛車の援護に香車を。でもこれだけじゃ繋げない。まだ、ここで手を緩めちゃダメだ。すぐに攻めを増やさないと。
わたしが指してもすぐに名人は新たな手を打ち込む。その攻防に少しでも食い込みたくて。
飛車に手を伸ばす。触れる瞬間、気付いた。
「……あ。負けました……」
「ありがとうございました」
二十五手詰。嵐のような攻防に隠された妙手。それが複雑に絡み合った先の一棍。
夢のような時間が過ぎ去った後、わたしは横に倒れていた。
「お嬢様ッ!」
晶、うるさい。ここ人様の家よ。お兄ちゃん達もまだ指してる。
だけど暗くなっていく意識を、わたしは止められなかった。
・
「な、何ですか、この子……!」
「僕の自慢の弟子ですよ」
途中で鼻血を出したことは驚いたけど。拭うこともなく将棋を続けちゃうんだからなあ。それだけ集中してたんだけど。畳を汚さなかったのは良かった。
晶さんが近くの部屋を借りて着替えさせるようだ。血が付いちゃった服をいつまでも着させておくわけにはいかない。晶さんが一緒で良かった。
鹿路庭さんが棋譜を取っていたために驚いてるけど、僕も驚いてる。天衣ちゃんがあそこまで指せるなんて。
しかも僕のような攻め方と天祐さんのような受けを融合させたような、凄くバランスの良い将棋を。
さて、こっちも終わりだ。
「負けました」
「ありがとうございました。……珍しいね。碓氷くんらしからぬ大ポカだ」
「いやあ。さすがに天衣ちゃんが鼻血を出したのには驚いて。僕の声も聞こえていませんでしたし。名人もすみません。あんな状態になったのに将棋を続けていただいて」
「いや、面白い将棋だった。ふふ、最近の女性は活気があって素晴らしい。釈迦堂君が矢面に立ってくれたおかげだな」
僕は隣の将棋が気になってしまって大ポカをしてしまった。そこから巻き返しを狙ったけどダメ。山刀伐さんはそれをきっちりと咎めて負けた。
釈迦堂さんは女流棋士として将棋の普及に躍進されてきた方だ。この人がいたから女流棋士は続いていると言われるほど。名人も認める女性で、彼女を認める棋士は多い。
というか、僕達の将棋酷いな。名人の将棋が気になって途中で形作りに入っている。天衣ちゃんの集中を切らさないためにやっているフリをしていたに過ぎない。
全部を見ていたわけじゃないので、棋譜を鹿路庭さんに見せてもらう。力戦だ。これまでで一番の将棋だったんじゃないだろうか。
最後の盤面も見て、僕は頷く。
「ああ、良かった。ちゃんと気付いてたんですね」
「ここからどこに詰みがあるんですか……?」
「二十五手詰だね。駒が集中している陣形の外側。ここの桂馬から夜叉神ちゃんの陣形が崩されていく。ちょっと指そうか」
山刀伐さんが天衣ちゃん側になって指していく。山刀伐さんの説明通りきっかり二十五手詰だ。それを知ってもう一度震える鹿路庭さん。
「中盤もしっかり陣形を整えつつ攻められていますね。先手の有利を活かしている」
「五十七手目を角で守らずに銀で守ったらもう少し攻められたかな。いやでも、どっちもそこまで悪い手じゃない」
「攻め方は碓氷君にそっくりだ。弟子というだけはある」
もっぱら研究は名人と天衣ちゃんの棋譜になった。僕達の棋譜は検討する余地なし。僕の大ポカが原因だ。
「あの、碓氷先生。あの子にはどんな指導を?二十五手詰は、詰将棋でも解かせているんですか?将棋図巧とか……」
「先生って呼ばなくていいですよ。それに天衣ちゃんには詰将棋を一切やらせていません。指導は過去の棋譜を並べて検討するか、僕とひたすら指していますよ」
「つ、詰将棋を一切やらせていない?それでさっきのを読んだんですか?」
僕も詰将棋なんてまともにやってないからなあ。詰将棋をやったから最後の詰が読めるとは限らないし。
「だって詰将棋って答えがわかってるじゃないですか。詰むって。詰まない詰将棋なんてないので、それよりは過去の棋譜を見て実戦形式にした方がまだ流れとかを追えますから。……ああ、研修会入会前に詰将棋の問題が出るので、十問くらい解かせました。詰将棋はそれくらいです」
「人それぞれだな。月光会長は詰将棋の第一人者だ。詰将棋を重ねることで強くなる人間もいるだろう。だが、夜叉神君は碓氷君の教えでここまで強くなった。将来が楽しみだ」
嬉しそうに名人が笑う。僕も天衣ちゃんが強くなってくれると嬉しい。今日ここに連れてきて良かった。彼女にとって大きな財産になったと思う。
それから僕は名人と指したり、鹿路庭さんと指したりした。それと僕と名人の記念対局の検討をしたり。
天衣ちゃんが目を覚ましたのは夜遅く。そのまま名人宅にお泊まりすることになった。夜遅くまで名人は研究ができると大喜び。僕と山刀伐さんが付き合わされて、鹿路庭さんも棋譜を書いたりと付き合わされていた。
天衣ちゃんは眠気に勝てずダウン。結局僕達は朝まで検討をしていて、朝日を見たのと同時に全員倒れこむように寝ていた。結局起きたのはお昼すぎ。全員名人の娘さんに怒られた。
結局二日目も研究会を続けて、この日はさすがにそこそこの時間でお開き。結局名人の家にお泊まりしたけど。
三日目に軽く東京の将棋会館に顔を出して、GWの旅行は終了。観光なんてほとんどしなかったけど。でも天衣ちゃんは今将棋を指すのが楽しくて仕方がないようだ。
だから帰りの新幹線でずっと指していた。晶さんがいて良かった。大阪から乗り過ごすところだった。