(プロローグ)
「一の瀬さん、一の瀬さん」
1号室の扉がゆっくりと開き、寝惚け眼の一之瀬さんが声の主を捜した。
「何だってんだい?そんなに騒いで・・・」
一の瀬さんは欠伸をしながら、気の進まない調子で言った。
「今日・・・」
声の主はやはり四谷さんだった。
「管理人さんが退院する日ではないですか?」
「ああ・・・・」
一の瀬さんはポンと手を叩いて言った。
「丁度帰って来る頃じゃない?」
「こんちゃーす!」
玄関から朱美さんの声が聞こえて来た。
「ああ!やっぱり朱美さんだ」
一の瀬さんは言った。
朱美さんは袋からお酒を一本取り出して、言った。
「ほら、これはウチの亭主からのお祝いだってさ」
「ほう、素晴らしいですな」
四谷さんはすぐさま見て銘柄や年代などをしげしげと眺め調べながら述べた。
「そうだ、あの二人どうするつもりなのかな?」
朱美さんは問い掛けていた。
「ん・・・本来なら子供が産まれるたら引っ越すって言ってたけど・・・」
一の瀬さんは答えた。
「結局、居付いちゃいましたね」
四谷さんが続けて言った。
「まあね」
一の瀬さんが嬉しそうに言った。
「それもいいんじゃない?」
その時、一刻館の外から車の音が聞こえてきた。
「ばうばう!」
惣一郎が吠え続け、全員が屋外に出て行った。
タクシーが停まると、両手に赤ん坊を抱えた響子さんがゆっくりとタクシーから降りて歩き出し、五代くんが荷物を手にして後に続いた。
「ただいま」
響子さんが優しく微笑んでみんなに挨拶をする。
「やっとお帰りですな」
四谷さんが声を掛けた。
「わ~・・・見せて見せて赤ちゃん」
朱美さんが嬉しそうに近付いてはしゃぎながら言った。
「へ~、血色いい」
「パパに似て健康なのよねえ」
響子さんがとっても嬉しそうに言った。
「女の子でしょう?何て名前にしたの?」
一之瀬さんが問い掛ける。
「春の香りで・・春香」
五代君がその問いに答えた。愛する我が子の名前を言うのが嬉しそうだ。
「春香ちゃん・・・いい名前じゃないの」
一之瀬さんは微笑んで言った。
五代くんと響子さんは頭を低くして春香ちゃんを大事そうに、そして愛惜しそうに見詰めていた・・・・・。
””春香ちゃん、お家に帰って来たのよ””
””ここはね・・・””
””パパとママが初めて会った場所なの・・・・・・””
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「月日が経つのって本当に早いねえ、もう桜が満開の季節じゃない」
管理人室で一の瀬さんと響子さんはゆったりと窓の傍に座り、外の黄昏る景色を眺めながら世間話に花を咲かせていた。
「そうですね、私が春香を産んで一刻館に帰って来てほぼ一年ですね」
響子さんは景色を楽しみながら語った。
「春香ちゃんも、もうすぐ一歳だねえ」
「ええ、知らないうちにこの子もこんなに大きく育って・・・」
響子さんが室内を振り向くと、丁度そこにすやすやと眠る春香ちゃんが目に入る。愛娘を見守る響子さんの表情には温かく柔かな微笑が絶えず、その優しい眼差しが途絶えることは無い。
「一年っていう時間であんたもすっかりママになったねえ」
一の瀬さんは響子さんのつい今さっきした表情を見て言った。
「そうですね・・・」
響子さん、頬を紅く染めて俯いた。感情を伝えるのに泣くことしか出来ない幼い乳呑み児に優しく語り掛けたり、頬擦りをしたり授乳したりと響子さんのこの一年を見てきた一の瀬さんも感慨深い思いだ。
愛する男性である五代裕作と結婚して身篭り出産を経て新妻から赤ん坊の母親へとなっていく過程は微笑ましく映ったものである。
「あははは!そんなに恥ずかしがる必要は無いさ!」
一の瀬さんは嬉しそうに言った。
丁度その時、廊下の桃色電話が鳴り響いた。響子さんは慌てて立ち上がると、電話に出ようと廊下まで行きました。
「はい、こちら一刻館です」
響子さんは受話器を取って話し出した。
「管理人さんですか?」
「はい・・・」
「僕のこと覚えていますか?」と受話器から聞こえる聞き覚えのある男性の懐かしい声。
「ひょっとして・・・二階堂さん?」
ずっと管理人室内で会話を聞いていた一の瀬さんも二階堂くんからと分かると、好奇心からかやって来た。
「そうです!お久し振りです。管理人さん、二号室ってまだ空いていますか?」と二階堂くんが尋ねた。
「ええ」
「僕がもう一度戻って住んでもいいですか?実は東京で新しい仕事が見付かったもんで」
「当然じゃないですか!私達もあなたのことが心配だったんですよ・・・はっ!」
いつのまにか、四谷さんが響子さんの背後に立っていたので、驚いた響子さんは受話器を下に落としてしまった。
「そう~です、二~階~堂~くん、私も~あなたを~とっても~心配~してましたよ、早く~帰って~らっしゃい」
四谷さんは受話器を拾い上げると、陰鬱に言い放った。
「ははは!四谷さんですね、今更あなたじゃ僕を驚かすことなんか出来ませんよ」
突然玄関から二階堂くんの声が聞こえたので、皆一斉に振り向くと、そこには背広を着て携帯電話を手にする二階堂くんの姿があった。
「まあ!二階堂さん!」と響子さんは飛び上がらんばかりに驚いた。
「実は僕も二号室には誰も住んでいないって思って、もう自分で荷物運んで来ちゃいましたよ」
二階堂くん、笑いながらしゃべった。
「ん!素晴らしい人ですねえ、また私と勝負をしに来たんですねえ?」
四谷さん、言い返す。
「はははは!今夜はお祝いの宴会をしなくっちゃね、全員勢揃いで騒げるね!」
一の瀬さんは興奮気味に言った。
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「ただいま~」と五代君は玄関に足を踏み入れた。
「あなた、お帰りなさい♪」
二号室のドアが開き、響子さんが出迎えた。
「わははは!もっと飲も!飲も!」
一の瀬さんの騒々しい声が二号室から聞こえてきた。
「あれ?今日は何で二号室で宴会してるの?」
五代君が尋ねる。
「実は、二階堂さんが引越してらしたの」
響子さんが答える。
「二階堂くんだけじゃないわよ、今日からアタシも越して来たんだから!」
五代君の背後から朱美さんの声が聞こえて来た。
朱美さんはお酒をいっぱい抱え込んで、館内に入った。
「お~!朱美さん!五代くん!あんたたちも帰って来たのかい!早く中に入んなよ!宴会今からもう一回始めるよ!」
一の瀬さんが顔を出し、べろべろに酔っ払いながら叫んだ。
「そうだわ、朱美さん。突然一刻館に帰ってらして、旦那さんはどうされたんですか?」
二号室内で響子さんは朱美さんに心配そうに尋ねた。
「あはは!今日さ~、うちの旦那実家に商品の発注に行っちゃってさぁ、一ヶ月後に帰って来るっつ~んよ。まあ1ヶ月で帰って来るっつ~ても寂しいじゃない」
「本当ならもうちょっと後に来て住む筈だったんだけど、今日さぁ、一之瀬さんから二階堂くんが引っ越して来るって聞いたもんで、慌てて荷物をまとめて来たっつ~わけ」
「けっ!ただ単に酒を飲む為だけに帰って来たんじゃないか!」
五代くんがブツブツと独り言を言っているのを、隣に座っていた四谷さんは聞き逃さなかった。
「五代くん!君の考えでは、まるで我々がただ単に酒を飲みたいが為に宴会を開いているとでも言いたいのですか!」
四谷さんはわざと大きな声で叫んだ。
「それじゃあ五代くんは二階堂くんを歓迎して宴会をすることに反対なのかい!」
一の瀬さんは完全な泥酔状態で吐くように言った。
「そうよ!そうよ!あんたは二階堂くんのこと疎ましいんでしょう?」
朱美さんはすぐに付け加えて茶化す。
「ばぅ!」
惣一郎も吠えた。
「ほぎゃぁ・・・ほぎゃぁ・・・!」
響子さんの懐に抱かれた春香ちゃんもタイミング良く泣き出した。
「違いますよ・・・」
五代くんは気の毒なほど弱気に答えた。
「五代さん、あなたは僕のこと嫌いなんですか?一体僕のどこが悪くて嫌いになったんですか?五代さん、皆さんがそう言うのは一体何故なんですか?僕に言って下さいよぉ!その理由を説明してくれませんか!」
二階堂くん、訳が分からないので相変わらず意味不明で失礼な詰問に掛かった。
「こ・・・これは俺の意見じゃない!」
「だまんなさい!ただいまから我々は君を懲罰として明日の朝までこの部屋から一歩も出しません!」
四谷さんは言い放った。
「ははは!いいねえ!いいねえ!すっごく楽しいいねぇ!」
一の瀬さんは狂った様に笑い出した。
「神も仏も・・・居ないのか・・・・」
五代くんは本心から悲鳴を上げた。
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宴会は尚も延々と続行中・・・。
「チャカポコ、チャッカポコ、チャカポコ!がははは!」
一の瀬さんは日の丸扇子を手に飛び跳ねて踊っていた。
「そう言えば、一年も見ないうちに大人になったわね、立派になっちゃって、以前の裕作さんを思い出させるわ」
響子さんは二階堂くんに向かって語り掛けた。
「その通り!俺がお前の歳もまだ求職中でね、その時は本当にあちこち彷徨ってたよ。今のお前は望んだ理想の仕事をすでに探し出したんだもんな、羨ましい奴だよ」
「ははは!言い過ぎですよ。僕はただ三流ではない大学で学ぶ必要があるって思ったんですよ、仕事を探すのに苦労しないようにね」
「当時五代さんが仕事を探すのにあんな辛酸を舐めているのを見て、真面目に勉強することを即決したんですよ」
二階堂くんは全く遠慮も無く思ったことを口に出して言った。
「はははははは!上手いこと言うねぇ、二階堂くん」
一の瀬さんが笑いながら言う。
「あんたは間違っている!二階堂くん、三流大学へ進学したことが最大の問題じゃないわよぉ!五代くんの就職が決まらなかった主な原因はすなわち彼が五代くんだからよ!」
「こいつが就職したのは同窓生の中で最後の一人であることを噂じゃなくて真実なのをしっかり色んな人から聞いて見て知ってんだから!」
朱美さんが暴露した。
「しかもそれが人の紹介を経てですからなぁ!わははは!」
四谷さん大笑いして、更に畳み掛ける。
「私が思うに五代くんの一生の運気は全部管理人さんへのプロポーズに成功した時に磨耗して消え去ったんですよ!わはは!」
「お・・・お前らなあ!」
五代くん、本気で怒りながら呟いた。
「管理人さん、何で五代さんはあんなに怒ってるんですか?皆の話って実話でしょ。僕が何か間違ったことを言いましたっけ?」
二階堂くんは響子さんに真顔で尋ねた。
「・・・・・・」
響子さん、ただ苦笑いの表情を浮かべるだけ・・・・・。
「そうだ、響子。もう十時だよね、春香ももうすぐ寝かさないと」
五代くんは内心で逃げ出そうと考えて話題をいきなり無理矢理に変えました。
「そうね。私、部屋に戻ったら春香に母乳を飲ませてあげないと・・それからすぐに寝かし付けますね」
響子さんは立ち上がって、席を外そうとした。
「俺も一緒にね」
「おっとぉ」
ちょうど五代くんが立ち上がろうとした時、四谷さんは彼の手を掴んで、強引に畳に戻した。
「何すんですか!四谷さん!」
「あなたは罰として今晩、この部屋からは離れることは出来ないんですよ。忘れたんですか?」
「あなたは以前、春香ちゃんをダシにして管理人室へ逃げたことがあったでしょ、同じ真似はさせませんよ、あなたはまだこんな手が通用するとでも思ってるんですか?」
「そうだ!そうだ!」
一之瀬さんと朱美さんが一緒になって囃し立て、五代くんに酒を飲むことを強要する。
響子さんはこの状況を見て、五代くんが既に逃走する機会を失ったことをすぐに悟った。
「さあ。いらっしゃい、惣一郎さん」
響子さんは溜め息を一つ吐いてやれやれと嘆くと、春香ちゃんを抱えて二号室から立ち去った。
「ま・・・待って、響・・子・・・」
五代くんは苦痛に染まった声で訴えた。
「がははは!飲も!飲も!」
惣一郎さんを犬小屋へ戻すと、響子さんは管理人室へ帰り、春香ちゃんにお乳を飲ませた。
「助けてくれぇ!オシッコがしたいんですよ!」
春香ちゃんを寝かし付けている時、響子さんは五代くんの悲痛な叫び声を耳にした。
「逃亡は諦めなさい!」
続けて四谷さんの声もした。
響子さんはくすっと笑うと、引き続き春香ちゃんをあやして、寝かし付けた。
「春香ちゃん、良かったわね。みんなも戻って来て、一刻館ももう一度活気を取り戻したわ」
(次回へ続く)