「それじゃあ、行って来るね」
五代くんは響子さんに振り向いて声を掛けた。
「行ってらっしゃい」
以前と変わらず、響子さんは微笑んで見送ってくれた。
通常とちっとも変わらんじゃないか! 五代くんは内心で思った。
ただし・・・どうしてもある種のおかしな違和感を感じざるを得なかった。
それがどんな感覚なのか?上手く言葉に出来なかった。
ともかく内心ではどうしても一抹の不安が浮かんで消えない。
そう、暴風雨の前日の夕方、すなわち嵐の前の静けさの様であった。
既にあれから5日が過ぎていたが、響子さんはずっと例の飛行機事故誤解事件を持ち出しもせず、怒る事も無く、いつもと同じく優しいままであった。
・・・本当に同じなのだろうか?五代くんは自問自答せざるを得ない。
あの時の彼女の視線は本当に冷たくて、その寒さに戦慄させられた。
その上、あの日の彼女の憔悴し切った容貌から推察して、明らかに前日は一晩中ずっと寝ないで自分が帰って来るのを待っていて夜を過ごしたに違いなかった。
まだ更に自分の心に気に懸かる事が一つ有った、それはすなわち、あの日の後から響子さんは毎日早朝に外出し、自分が目覚める前に帰って来ることだ。
一体彼女はどこへ行っているのか?彼女はそこで何をしているのか?
・・・・気懸かりで憂鬱な気分にさせられる。
「もう考えるのは止めよう。今晩、響子とはっきりと話し合って白黒つけるんだ、もう既にこれらの問題から逃避する事は出来ないんだからな」
五代くんはそう独り言を呟くと、駅に向かった。
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「惣一郎さん・・・・・」
響子さんは掌で顔を覆い、嗚咽を漏らしながらその名を口にした。
「管理人さん」
ドアの外から一の瀬さんの声が聞こえて来た。
「ど・・・どうぞお入り下さい・・・・」
響子さんは慌てて目に溜まった涙を擦り、元気な振りを取り繕い、その声に応じた。
管理人室のドアが開かれて、一の瀬さんが入って来た。
「春香ちゃんは寝てるのかい?」
一之瀬さんは尋ねた。
「ええ。今日は授乳させたら、大してしないうちに眠りに付きましたわ」
「管理人さん、あんたやつれたねえ・・・・」
「ふふ。そうですか?只の睡眠不足ですよ。そうだわ、お茶を注ぐのを忘れていましたね・・・」
響子さんは立ち上がり、一の瀬さんに背を向けてお茶を用意した。
「あんた泣いてたろ?」
響子さんの身体がビクッと身震いした。
「そんなことありませんわ!」
「あんたの目、泣いて腫れた跡があるじゃないのさ」
「・・・・・・・・」
「五代くんが戻って来てから、あんた本当におかしいよ」
「・・・・・・・・」
「どうぞ、お飲み下さい」
響子さんは身を翻すと、湯呑みを一の瀬さんの目の前に置いたが、彼女は眼差しを敢えてずっと一の瀬さんに合わせない様にしていた。
「一体全体、五代くんが戻って来る前の晩、何が起こったんだい?」
「そうだわ、テレビでもご覧になりませんか」
響子さんはテレビの傍に身を動かした。
「まだ現実から逃避するのかい?あんたがどれだけ平静を取り繕ったって構わないさ、二階堂くんやその他の人達を誤魔化すのは構わないさ」
「だけどあたしと五代くんの目はね、決して騙せやしないんだからね。本来ならこんな話しは五代くんの方からあんたにするべき話しなんだ」
「だけどね五代くんときたら、このことについて内心に疑問が渦を巻いてしまっていて、立ち所に上手く言葉に出来ないんだよ」
響子さんはテレビのスイッチを入れる動作を停止して、ゆっくりと振り向いたが、彼女の眼差しは頑ななままで、まるで変わらずに同じであった。
「五代くんがどれだけあんたの事を大事に想っているのかを当然理解すべきだろ、もう二度とあいつにあんたの事で心配を掛けるんじゃないよ」
「何か問題が有るんだったらさぁ、それをちゃんと話すんだよ、いいかい?」
響子さんは目を閉じていた。
「あんたあの日以降、毎日朝早く出掛けているけど、一体どこへ行ってんだい?あんた、五代くんがどれだけ心配しているか、ちゃんと承知してるのかい?」
響子さんはゆっくりと徐々に瞼を上げた・・・その眼差しは哀愁で充満し傷ついていた。
「承知しています・・・・」
「あんたも分かっているんだったらさあ、話してご覧よ、あたしらにあんたを助けさせておくれよ」
「この問題は私、自分自身の力だけで解決すべきと考えています」
「何でさあ、そんな風に言うのさ?」
「・・・・ごめんなさい。今日の私は何だかとても疲れているんです、ちょっと休息しようと思います」
「管理人さん!」
響子さんは一の瀬さんに背を向けると、沈黙してしまい一言も・・それ以上は何も語ろうとはしなかった。
「そうかい!あたしゃ帰らせて貰うよ!」
そう言うと、一の瀬さんは少々憤慨した様子で立ち上がり、ドアの前まで行った。
「あんたとはこんなに長く面識があることを思い起こしてみればさあ、あたしをこんなに拒絶するのってやっぱり初めてだよね」
一の瀬さんはドアの前に立ちながら悔しそうに言った。
響子さんは依然として、振り向かなかった。
一の瀬さんはドアをくぐり、その後玄関を通り過ぎて階段に腰を降ろした。口に咥えた煙草に火を点けると、呆然と天空を眺めた。
「ばうばう!」
惣一郎が彼女の傍で吠えた。
一之瀬さんは惣一郎に目をやり呟いた。
「あたしはずっと、彼女を自分の妹同様に考えていたけど、あんな風に言われるとは本当に思いもよらなかったよ」
「ひょっとしたら彼女はもう既に、あたしを必要とは考えていなんじゃなかろうかね・・・」
煙草の煙がゆらゆらと立ち昇り、霧散していった。
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「五代くん、また明日ね」
同僚の保母の一人が五代くんに挨拶した。
「さようなら」
五代くんはそう応じて言った。
「五代くん」
背後から声が聞こえた。
「ああ、やはり園長先生でしたか」
「実はちょっと話したい事が有るんだよ、ずっと君に言いたかった事なんだが」
「どうぞお話し下さい」
まさか俺を解雇するんじゃないだろうな?五代くんは心の中で思った。
「君が北海道から帰って来てからというもの、君自身、心ここにあらずっていう感じになったね、何か厄介な問題でも起こったのかね?」
「はい・・・・・・家庭でちょっとした事情が発生しまして・・・・」
「君だって当然分かっているだろう?子供達はとても敏感なんだ、君が今までとは少なからず同じ気持ちではないことを取り繕ってみても、子供達はそれを察知してしまうんだよ」
「身も心も休める様に休暇が君には必要かね?」
「大丈夫ですよ」
「ん・・・それならいいが。もしも休暇が必要なら、私に言うんだよ!最近、君はとっても忙しかったからね」
そう言うと、園長先生は身を翻してその場を離れた。
「既にもう、問題を引き伸ばす事は出来ないんだ、帰宅するまで待って、後は必ず響子と真剣に話し合わなきゃな・・・・」
五代くんは机の上の品を片付けると、自分自身に語り掛けた。
五代くんは片付けを終えると、帰宅の準備をした。
あれ?あの人影は・・・・?五代くんは保育園の校門に立っている人物を見て考えた。
「やっぱり、あなたでしたか、三鷹さん」
五代くんはそう述べた。
「僕は君にちょっと話したい事が有るんだ、来たまえ、さあ車に乗ってくれたまえ」
三鷹さんはそう答えた。
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三鷹さんからの言葉を五代くんは反芻するように脳裏に思い浮かべていた。
(ひょっとしたら今の僕にはこんな事を言う資格は無いのかも知れない・・・・)
(ただし、僕の本当の望みは君が彼女を幸せにしてくれる事なんだ、彼女は若くして夫を亡くしている、だから精神的にとても脆弱なんだ。)
(当時僕が自ら願って身を引いたのは、ある程度、君を信用しているからなんだよ、五代くん。)
(僕はどんな問題が発生したのか知らないが、それはそれで構わない。だけれども彼女が当日君が事故に遭遇したと誤解した様子から見て、彼女が被った打撃は本当に少なくないんだ)
(僕はただ君に一つの事を答えて欲しいだけなんだ、もう決して彼女を泣かせるな、君は僕に返答出来るかい?)
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五代くんは、三鷹さんが最後に言った幾つかの話しを思い出しながら、帰り道の坂を歩いていた。
俺だって響子の事が心配なんだ!五代くんは独り言を呟いた。
知らず知らずのうちに、五代くんはもう一刻館の入り口まで来ていた。
「あんらぁ?五代くん、やっと帰って来たねえ!」
朱美さんが玄関に立ち、五代くんを見付けて大声で叫んだ。
続けて、待ち人来たりの様子で四谷さんもすぐに駆け寄って来た。
「な・・・何が起きたんですか?」
「あなたも本当にすみにおけない人ですねえ、五代くん・・・・」
四谷さんは高らかに言い放った。
「ほ―んと、結婚したばっかなのにさあ、五代くんにもまあだ、あんな男女間の色恋沙汰を起こす度胸が有るなんてねえ!」
朱美さんは危機が差し迫った表情で、そう続けた。
「女子大生までもあなたに惚れ込むなんて、本当に羨ましい方ですねえ」
「あんた達、一体何を言ってるんですか?何を?」
「質問する必要は無いよ、あんたが家に上がればすぐに分かる事だよ」
五代くんが言い終わらぬうちに、一之瀬さんが結論を述べた。
「そうそう、早いとこ、上がんなさいよ」
朱美さんと四谷さんが五代くんを挟み撃ちにして言った。
全員で即刻2階への階段を登ると、春香ちゃんを抱えて5号室の扉の前に立つ響子さんが目に入った。
「響子、何が起きたんだい?」
五代くんは少しばかり恐る恐る尋ねた。
響子さんは答えずに、ただほんの少し後方に退き、五代くんを部屋の中に入るように促した。
若い女性が一人、5号室内に座っていた。五代くんが入って来たのを聞き付け、すぐさま立ち上がった。
「やっと帰って来たんですね、五代先生!」
「な・・や、八神!?」
(次回へ続く)