しきあすとかではなく、ただひたすら飛鳥くんが志希に振り回されてツッコみ続ける話です。
太陽の光に皮膚から水分を吸われるような感覚をおぼえながら、二宮飛鳥はある一軒家の呼び鈴を鳴らした。数日前までは軽やかな緑に光っていたはずの風がいまは重みをもって吹きつけ、飛鳥はハンカチで額をはたいた。
「遅い」
すでに三度鳴らした呼び鈴に家主は応えない。四度目へ伸ばした指を飛鳥は下ろし、薄いトートバッグへいれた。スマートフォンで家主の番号をタップする。八回のコール音ののち、寝ぼけた気配もない声が応答した。
「どーしたの飛鳥ちゃん」
「志希……」
相手の名をうなるようにつぶやく。飛鳥の訪れたその相手、一ノ瀬志希は、飛鳥の態度に言葉の上でだけ疑問を呈した。
「キミに用があって来たんだ。家にいると聞いたから」
「用がなくて来るほど友達でもないかぁ~、にゃはははは」
「いまどこにいるんだ?」
「家にいるよ?」
アスカは下唇を噛んだ。
「ならどうして出てこないんだ。三回も鳴らしたのに」
「あたしの家はいりたいわけ?」
「……まあ、そうなるかな」
「きょうの暗証番号は五二一五二だよ」
飛鳥はドアを時計回りに見めぐらした。テンキーのようなものも、それを隠していそうなカバーも見当たらない。
「大きい声で元気よく!」
「ご……五二一五二!」
いわれるままに飛鳥が番号を復唱すると、志希の笑い声がスマートフォンのスピーカーからひびいた。ドアノブは押しても引いても動かない。
「志希?」
「うーんそんなにはいりたいとは思わなかった。ドアに向かって右にペチュニアの鉢があるよね?」
テラコッタの鉢から濃いピンクの花が、噴水のようにこぼれて咲いている。おなじようにミニバラ、ポピー、スノーボールにクレマチスが花ぶりもみごとに並んでいる。騙されたばかりの飛鳥はペチュニアの鉢の水受け皿を爪先でこづき、“ああ”の二音にありったけの不満を詰めて返した。
「それをドアノブの五センチ下まで持ち上げてー」
「持ち上げるとどうなるんだ」
「底にNFCタグいれてるの。きょうはそれで開く日~」
セキュリティがしっかりしているのかガバガバなのかまるでわからない。眉をひそめて鉢植えを持ち上げ、たしかに鍵の開いたことを確かめると飛鳥は大きく溜息をついた。……だが、それは少しだけ性急なおこないである。
「まー上がってよ、あたしいなくてもよければ」
「……いいかげんにしてくれないか……?」
化け猫志希は自宅に併設されたガレージに潜んでいた。半開きのシャッターをこじ開け、飛鳥は藪睨みにそこへ踏みこむ。ドラフトチャンバーにココア色の髪のうねった化け猫が座って、なにやら薬品を混ぜている。飛鳥を振り向きもせず、鼻を少しひくつかせて、“てきとうに座っていいよ”といった。……“いらっしゃい”などの形式ばった会話を省いて、彼女なりの歓迎の言葉である。
「コーヒー飲む?」
「いただくよ」
「じゃあそのビーカーの飲んでいいよ。空いてるカップは探して」
またも気が早く飛鳥は眉根を軽く寄せ、大切なのかそうでないのかまるで判断のつかない無秩序な陳列をされている物品のなかから、比較的マシと思った一つを取り上げた。ビーカーばさみで持ち上げたビーカーは暗褐色の液体を揺らす。
「ああ、角砂糖は?」
「あたしストレートで飲むから」
「……どこにある?」
気が早いといったのはこのことではない。これは飛鳥の訊きかたが悪かった。ないと答えられて引き下がることもできず、まあいいさとビーカーをカップへ傾けた。黒い液体は落ちてこない。その表面を大きく傾けてはいるが、ビーカーの内壁にしがみついて、ひとしずくとして落ちようとはしない。
「なんだいこれは」
「ホットスライム~」
表情を険しくするべきときはようやく来た。舌打ちをこらえて飛鳥は、わけのわからないビーカーをセラミックつき金網に叩き置いた。
「志希、コーヒーだといっていたよな?」
「乱暴にしないでよー、九〇度でその粘度を維持する配合をさぐるのは大変だったんだからさー」
「コーヒーだといっていたよな?」
「飲みたがりさんめ……。ダイニング行けばインスタントもお湯も砂糖もあるよ」
イタリアンローストの豆を二、三粒奥歯で噛み砕いたような顔をして、しかし素直に、飛鳥はそのようにした。幸いにしてかそこが良心の咎めるラインだったのか、飛鳥はブラック微糖のコーヒーを無事、口にできた。志希のぶんはないのが、彼女なりの抗議である。
「まったく、あれだけ花の世話はできるくせにどうして人間を粗末にするんだ」
「あの花すごいよね。お隣がマメなひとだと助かるよにゃー」
「……」
「ちなみに水やりだけだよ? ちゃんとあたしが配合した栄養剤刺してるよ」
「あー……まあ、いいさ。そろそろこっちを向いてくれないか。用があって来たといっただろう」
志希の手が止まった。ドラフトチャンバーの吸気音のなかに鼻から息を吸いこむ音を飛鳥の耳は聞きわける。だがそれも三秒ばかりのことで、志希はチャンバーでの作業を再開した。
「なにしに来たの?」
口許だけは振り返ろうとしたらしい。手許を見ていたい目玉のほうが、それより優位だったのだ。
「台本を届けに来たんだ。読み合わせの約束をしていたろう?」
「ライオン?」
チャンバーの吸気音のせいで聞こえづらかったのだろう。飛鳥は好意的に解釈することにした。
「だ・い・ほ・ん・だ!」
「だっふんだ?」
飛鳥の、若干の軽蔑にもとづいた好意的解釈は正しかった。志希の青い目が純粋な“なにいってるんだコイツ”の色に染まってようやく飛鳥を振り仰いだ。迎え撃つ飛鳥の目も苛立ちを含んだ同様の色に染まっている。飛鳥が胸の前に立ててみせた薄黄色の表紙の台本を見て、志希は合点がいったようである。口を半開きにして何度かゆっくりと、肩越しに頷いた。
「これ終わったらね」
「手伝おう。早く終わってほしいからね」
上に乗っているものがいちばん少ない椅子を飛鳥は探した。座面のものを平面の少ないテーブルへそっと積み替え、志希のとなりに座る。なにを作っているのか、なにを手伝うべきか。志希は後者の質問にばかり答えた。最後の指示は“てきとうな香水瓶を持ってきて”で、それが果たされると志希は満足げに二つのフラスコを持ち上げた。
「これを混ぜれば完成」
「このブースのおかげでぜんぜんわからないんだが、どんな香水ができるんだい」
「雨が降ったあとの目黒川のニオイ」
飛鳥はかつてない速さで記憶をたどった。春先。咲き並んだサクラを見に行ったとき。不安定な春の気候はその前日に大雨を降らせ、川は見事な花筏だった。そして生臭かった。川といえば清流か濁流かとばかり思っていた故郷静岡の日々を、東京の有名な川がなにくわぬ顔で殴りに来たような気がした。……目を丸く見開くまでの一秒弱にフラッシュバックしたそんな記憶が口を突き動かす。
「いますぐやめろ」
「きこえません」
「やめろ!」
あんなニオイを振りまかれてはたまらない。飛鳥は志希の片腕をつかみ、二つのフラスコを引き離さんとする。
「下手に邪魔すると綾瀬川のニオイになっちゃうぞう」
「どこだよ」
綾瀬川は水質ワーストの座を大和川と幾年も争いつづける由緒ある一級河川だ。東京都足立区でやはりワースト上位常連の中川に注ぐ。水質は年々良くなってきていてなおワーストを争っているということで、埼玉県民や東京都民にはおなじみである。しかしそんな口さがない噂話は、幸いにして飛鳥のところへはまだ漂着していないのであった。
「上手に邪魔すればいいのか」
「やりかたわかるの?」
わかるわけがない。
「しょーがないな、じゃあ蘭子ちゃんのマネしながらそのコーヒー飲んだら読み合わせしてあげてもいいよ」
志希の腕を引く力が強まる。その意外さこそ志希の楽しみである。我が身のことにさしたる興味もなかった。
「ボクに蘭子を愚弄しろっていうのかい」
「おっとマジトーンだ」
自由なほうの腕のフラスコを、志希は排水溝へひっくり返した。少しの驚きと強めの訝しみを混ぜた視線で、飛鳥が手を離す。そちらの腕に握られていたフラスコも中身を捨てられ、チャンバーはそのスイッチを切られる。
「……ちなみにしきちゃんは気が散りやすいです」
秋晴れの空の色の目を静かにして、志希はテーブルから台本を取り上げた。乱雑に積まれていた器具類が床になだれ落ちる。そのにぎやかな音を飛鳥は少しのけぞって見ていた。志希はとくにどれを惜しむでもなく、目を丸くしているだけだ。ビーカーが転がって机の脚に小さい音を立てる。飛鳥が台本のページをめくる音がする。志希もそれを真似した。
「……そうみたいだね」
(了)
※pixivにも同じものを投稿しています。