なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「……?」
教会に向かう途中、フィリップはふと、背後に気配を感じた。
足音はしない。息遣いや話し声も無い。だが、付かず離れずの距離に“何か”が居る。
未だ空も白まぬ時刻。偶々出歩いている人間がいたとは考えにくい。
夜歩きを危ぶんだ衛士団が護衛を付けてくれた? いや、それもない。それならコソコソせず普通についてくるだろうし、秘密護衛ならフィリップが気付くほどヌルい隠形ではないだろう。
それに、フィリップは首の後ろがひりつくような、じりじりとした危機感を覚えている。
敵意を感じる。
つまり恐らく、追跡者は人間ではない。人間相手に危機感を覚えられるほど、便利な身体ではないのだから。
グールかとも思ったが、あれは程度で言えば人間と変わらない。やはり、あれを恐れることはない。
僅かに違和感や、威圧感に近いものも感じる。
それはフィリップにとってはもはや馴染み深い、しかし慣れ親しんだものより希薄で薄味な、神の気配──神威だ。
「……」
振り返るが、そこには誰もいない。
夜闇に満たされた無人の道が続き、すぐに暗闇に飲まれて見えなくなるばかりだ。
「……」
迂闊にも背後を確認してしまったことを、フィリップは溜息と共に後悔する。
こういう時は、もう一度振り返ると目の前にお化けが立っているのが鉄板だ。
嫌な予感を通り越して、嫌な確信を持って身体の向きを戻す。
結論から言うと、そこには確かに
だが、お化けではなかった。
そこに立っていたのは、雲のような不定形の塊だ。
冷たい空気を振りまき、死と暗闇が凝固したような影。死の匂いを纏った巨大な蛆虫、或いは蛇か触手のような、鎌首をもたげて蠢くもの。周囲の光と影を呑み込むそれは、明らかに三次元の存在なのに平面的に見えた。
高さは二メートルくらいだが、曲がり、うねり、鎌首をもたげた格好でそれだ。直立──という言葉が正しいのかは不明だが──すれば、四メートルくらいにはなるだろうか。
「……
神威を感じる。薄味だが、間違いなく。
だが智慧に無い。揶揄も嘲弄も抜きにして尋ねるフィリップは、本当に眼前の神格に心当たりがなかった。
初対面──ということは“玉座の間”に居なかったのだから、外神ではない。分かるのはそのくらいだ。
ショゴスより下等ということはないだろうし、不必要と判断されたわけではないだろう。なんせ神格持ちだ。となると、偶々シュブ=ニグラスの目に留まらなかった土着の旧神だろうか。
耳も口もない雲のような相手に、フィリップは当たり前のように問いかけた。
そして“影”も、当然のように答える。
「我が名はモルディギアン。納骨堂の神であり、墓守の神。──魔王の寵児よ、此度は其方に忠告に来た」
おどろおどろしい、地の底から響くような声だった。
が、フィリップはむしろ、流暢な人語、それも大陸共通語であることが気になった。
ハスターのようにフィリップに合わせてくれたのか、或いは、かなり人間に近しいのか──存在格が、という意味ではなく、距離感的な意味で。信仰されていたり、庇護していたりするのか。
或いはナイアーラトテップのような、劣等種を弄ぶタイプの邪神なのか。
邪神相手にしては注意深く、フィリップは相手の動きを見つつ言葉の先を待つ。
モルディギアンから直接的な殺意や害意は感じられないものの、敵意や隔意のようなものはある。
迂闊なことをして殺されたら、シュブ=ニグラスはフィリップを害する神の情報を伝えなかったことになるので、明確なミスだ。それはそれで面白いし見てみたくはあるが、そんな理由で死ぬわけにはいかない。
モルディギアンとフィリップは暫し見つめ合い──まあ、片や目のない影、片や睥睨と観察の中間のような冷たい目つきではあったけれど──とにかく会話が成立する。
「全ての死者は我が所有物であり、死体、そして魂の簒奪は何者であれ許されぬ。たとえ生前に親族であろうとも。たとえ外なる神々に愛される子であっても」
ふむ、とフィリップは小さく頷く。
外神のことを知っている。多少なりとも智慧があり、フィリップのことも知っている。
だったら僕に敵対することはないはずだ、と、フィリップはごく自然に警戒を解いた。
その思考の飛躍、不自然さ、そして危うさを自覚しないまま。
「我は我が財を略取した愚者を膺懲する。先刻、貴様が鏖殺したグールは我が信奉者であり、我が手指だった。その件は、愚かにも貴様を害した個体の詫びとして受け入れよう。しかし、これ以上の介入は認められない」
「“認める”? 面白い言い分だね。シュブ=ニグラスの目に留まりさえしなかった劣等存在が──いや待って、今のナシ。ちゃんと会話しよう」
へらりと笑い、数秒前の自分の言葉を簡単に撤回する。
ただ、フィリップは神格相手に劣等存在と吐き捨てたことまで撤回する気はなかったし、謝罪する気も無い。
顔も何もないモルディギアンの内心など読み取りようもないが、ハスターなどと接した経験からすると、それほど不快感を覚えているようには思われなかった。
フィリップが何を言うのか、ただ無言で待っているような感じだ。
「お前がグールを王都内に入れたのか。で、狙いはレオンハルト先輩……お爺さんの死体の一部を持ち帰った女の人だよね。……うん、彼女を殺されるのは嫌だな。だから、取引をしよう」
「……取引?」
影が揺らぐ。
首を傾げたのか、不快げに顎を上げたのかは分からないが、とにかく感情に連動して動くらしい。
そんなことに気付いたフィリップは、整然と列をなすアリを見るような目をして、ぱたりと興味を失った。
「うん、取引。そうだな……、僕が帝国で殺したウン十人と交換っていうのはどう? 彼らの死体と魂を君に捧げたことにしよう。君は死人を一人失い、代わりに数十人を手に入れた。悪くない取引だと思うけど」
実際に何人殺したのかは覚えていないし数えてもいないが、カルト一つにマフィア一つだ。
まあマフィアを殺したのはシュブ=ニグラスの一撃で、カルトの大部分はハスターが殺したので、フィリップが自分の手で殺したのは本当に数十人の範疇のはず。
対して、フィリップが要求するのはフレデリカ一人に、後は彼女の祖父の死体。二人分だ。
破格も破格、モルディギアンが大いに有利な取引と言える。
しかし、影は奇妙に蠢き、声は僅かながら嘲笑じみた気配を滲ませた。
「笑止。全ての死者は既に我が物だ。所有物同士で交換など、成立するはずも無い」
「なるほどね。じゃあ……仕方ない、僕が今から何人か殺してこよう。それならどう? 生者は、君の所有物じゃないはずだけど」
手っ取り早く目に付いた人間を殺す……とは行かない。流石に。
王都でそんなことをしたら衛士団がすっ飛んでくるので、適当にカルト狩りか盗賊退治の依頼を受けるという形にはなる。
だがフィリップにとって、他人の命の価値なんかゼロだ。「ルキアやステラが悲しむから」という付加価値によって漸く大切に出来るようになった自分の命より、なお価値がない。
感情よりも下だ。まあ突き詰めれば自分の感情だって無価値なのだが、それ故に、フィリップは直情的に動く。
「……三人。取引とは等価であるべきだろう」
そんな思考が琴線に触れたのか、影はまた奇妙に揺れる。その声は愉快そうにも、無感動にも思える不思議なものだった。
フィリップはモルディギアンの反応に対して興味を見せず、言葉の方に思考を傾ける。
「三人? 別に構わないけど、等価って何? 先輩の助命、お爺さんの死体の所有権、もう一つは?」
「交渉代とでも思え。本来、斯様な取引が成立するはずはないのだから」
「……なるほど?」
それはまあ、道理かもしれない。
機能を持ち機能に従うタイプの神格なのか、ナイアーラトテップのように自由意思と性癖に基づいた選択なのかは知らないが、神の決定を覆そうというのだから、そこにも代償が伴うのは分かる。
少なくともフィリップは「なるほど」と思ったし、理解と納得こそあれ、疑問はない。
ただ──それはそれとして、というか。
「で、僕が旧神だか旧支配者だかを尊重することに対して、お前はどんな対価を支払うんだ? ……僕がお前をブチ殺さない理由に、お前は何を提示する?」
外神の視座が、価値観が嗤う。
蛆虫に目を留め、言葉に耳を傾け、叩き潰すこともなく尊重する。──全く、どんな遊びなのかと。
ダンゴムシを丸めて爪弾き、ナメクジに塩をかけて甚振る子供のようなことをしていると、フィリップは自覚していた。
「……二人。神の在り方を捻じ曲げ交渉に応じさせたことと、神一柱の存続。これを相殺とする」
ふむ、とフィリップは一瞬の思考を挟む。
そして、にっこりと笑った。
「ディール。取引成立だ」
二人。
それなら王都内で済むし、心当たりもある。居場所だって知っている。
折よく殺す予定もあった。ちょうどいい、とても都合のいい命がそこにある。
今から殺しに行こうと足を向け、フィリップはふと思いついて足を止めた。
「……墓守の神だって言ってたね。追加で幾つか申し入れたい取引がある」
フィリップは振り返り、靄のような神に正対する。
その顔に先ほどまでの嘲笑は無く、至って真面目な、真剣な顔つきだった。
人間の表情を読めるのか、モルディギアンの纏う空気もまた張り詰める。
先ほどまでのフィリップなら、それに気付いて「低劣だなあ。それとも合わせてくれてるのかな?」なんて興味を惹かれていたところだが、今は違う。
興味や好奇心ではブレない意思が、強い意志があった。
「……聞こう」
「今すぐどうこうってわけじゃない。将来的に、その死をあらゆる全てから守り通して欲しい人がいる。今回みたいに墓を暴かれて死体を盗まれてからじゃなく、その死を冒そうとする何もかもを払い除け、永遠の安寧を約束してほしい」
モルディギアンは暫し黙考した。
うごうごと奇妙に蠢いたのは、顎に手を遣るようなものだろうか。
「対価は?」
「そうだなあ……あっ?」
今更殺人に忌避感を覚えるような性質でもなし、何人か殺すだけ──そう考えて、フィリップは漸く、自分の思考が不味いものであると気付いた。
「……ごめん、今のはナシだ。全部ナシ。ははは……殆ど寝てないから」
フィリップは身体を揺らして笑う。全く酷い冗談を口にしたものだと。
張り詰めた空気は霧散し、夜の涼やかな空気を、本当に可笑しそうな笑い声が震わせる。
モルディギアンは内心を計りかねたように、ただじっと待っていた。
それすらもフィリップには可笑しく、笑いのギアが一段上がる。
一頻り笑ったあと、フィリップは笑いすぎて痛む頬を揉みながら言った。
「恩恵を享受するため、邪神に代価を捧げる……。よく考えたら、メチャクチャ気色悪いじゃん」
よく考えてみたら、というか、冷静になればすぐ気付けることだが、この状況はカルティックすぎる。
要求、願望のため、邪神に他人の命を──生贄を捧げるなど。物凄く気持ち悪いことをしかかっていた。
そもそも、どうして邪神なんぞに代価を支払わなければならないのか。それも旧支配者だか旧神だか分からない劣等存在に。
いつものフィリップなら、「取引は等価であるべき」なんて言われた時点で、「僕とお前が対等みたいな言い方だ」なんて笑っていたところだろうに。
フィリップは「三時間くらいしか寝てないからなぁ」なんて、呆れたように自嘲する。なんとも馬鹿なことを考えたものだと。
「二人の死は僕が守ろう。お前は
「──それは何よりです。あの二体はもう処分してしまいましたので」
哄笑するフィリップの傍ら、侍るかのように控えた長身の神父が丁重に一礼する。
一体いつから居たのか、神たるモルディギアンにも分からない。それほど一瞬で現れたのか、負の時間で現れたのか、はたまたずっと居たのか。
ジャンプスケアに弱いフィリップは飛び退き、それを見たナイ神父が嘲笑を浮かべるが、そんな弛緩した空気は、モルディギアンの末路とは何ら関係が無かった。