なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「元宮廷楽団員、元作曲家、元皇帝付音楽家、元皇帝付楽団指揮者、元ソロ演奏家、元聖歌隊まで。よくもまあ、ここまで集めたものだ」
愉快そうに呟いたのは、開演までの手持ち無沙汰な時間をプログラムを読んで潰していたステラだ。
ルキアにオペラグラスを借りてホールの内装や階下の観客を眺めていたフィリップは、その声に興味を惹かれて貴賓席内に視線を戻す。
狭い空間ではないが、護衛も含めて十人もいると圧迫感があり、なるべく入り口側を見たくないのだが。
「殿下、知り合いとかいますか?」
階下の客席も殆ど埋まり、舞台に降りた幕の向こうからは人の気配が消え、フィリップは開演の空気を感じて席に戻る。気付けばマリーも含む一部の護衛は居なくなっており、いつの間にか警備配置に就いていたらしい。
席順は一番舞台側にステラ、そしてフィリップを挟んでルキアだ。
問われた彼女はプログラムに書かれている楽団員のリストを目で追いながら、フィリップでも知っていそうな名前を探す。
とはいえ魔術学院の授業で教わった名前は、大抵が過去の偉人、故人だ。
そもそも管弦楽が上流階級向けの文化だし、興味のないフィリップは殆ど触れてこなかった。音楽界では有名な人物とか、現代音楽を語る上では外せない才人と言ってもいい名前もあるが、フィリップは知らないだろう。
「……一度挨拶された、程度の相手は何人か。あとは小さい頃に器楽を教わった先生が居るな」
自分たちに絡めてみても、フィリップは「へぇ」と相変わらず興味薄な反応をする。
もっと特殊な──死人の名前とか、聞いたことも無いような名前が混ざっている可能性を検討しての問いだったので、あながち責められたものでもない。
ステラも何となく察し、フィリップ越しにルキアを見遣る。
「覚えているか、ルキア。マクシマ先生」
「えぇ。いつも貴女と比べてきて、上手く乗せられたのをね。今にして思えば、子供相手に教えるのが上手な人なのでしょうけれど」
ステラと同じく、中年の婦人の温和な顔を思い出し、ルキアは照れと苦みの綯い交ぜになった微妙な笑みを作った。
血統に見合った教養を身に付けるのは貴種たる者の義務として、ルキアは高いモチベーションを維持していた。練習不足が露骨に音に出る──というか、練習不足を音で見抜いてくるプロ相手でなくとも、サボったりはしなかっただろう。
それでも妙にやる気が出ない日というものは、人間である以上存在する。
そういう時に、王室付の音楽教師でもあった彼女は、「ちなみに王女殿下はここまで進みましたよ」とか、聞いてもいない情報を語って対抗心をくすぐってきた。
それは別にいい。
恥ずかしいのは、そんな見え透いた誘導に乗ってやる気を出していた自分だ。今なら、先生に見抜かれるほど気が抜けている自分自身を恥じてモチベーションを高めるのだが。
「……そうだな」
「何?」
何故かステラまでもが遠い目をしており、ルキアは怪訝そうに目を細めた。
どういうわけか、ステラの表情には妙に腹が立つ揶揄の色が濃いように思える。
「今にして思えば、あの頃のお前は可愛げがあったな……」
揶揄い半分に、ステラはしみじみと呟いた。
ルキアの眦がぴくりと不快げに震えるが、感情の揺れは溜息一つで霧散する。
実際、彼女自身にもその自覚はあったからだ。可愛げがなくなったというか、大人になったと。
「引っかかる言い方だけど……いえ、詳しくは聞かないでおくわ。子供の頃より自制心は付いたはずだけど、一応ね」
「いや、相変わらず手は早いが……まあ、落ち着いては来たか? むしろ、これから怖いのはカーターか」
ルキアの「可愛げエピソード」の一つでも語られるのかと、ちょっと期待して待っていたフィリップは、話題が自分のことに流れて困惑する。
これから怖い、というステラの言葉も意味不明だった。
「え? どうしてですか?」
「手が早くなる……というか、感情の抑えが利かなくなったり、情緒のアップダウンが激しくなったりする時期だろう。あれは自覚があっても制御が難しい。私やルキアも大概危なっかしい部類だったが、お前はそれ以上だからな」
なんだその時期、怖い……と冗談半分に受け取ったのも束の間、フィリップの脳裏に魔術学院の授業風景が過る。
確かにそんなようなことは習った気がする。成長期には自律神経や内分泌系の働きが乱れ、心身共に不安定になるので云々と。
四つか五つ年上の生徒に向けた注意喚起じみた講義を、フィリップは「僕には関係ないですよね」みたいな顔をして聞いていたのだった。
だが勿論、肉体が正常に成長していけば、フィリップにもその時期が訪れる。
というか現時点で、その気配がある。
自分の行動を客観視し、人間性を省みる機会が有意に減っている。咄嗟の判断だけでなく、考える時間があったとしても感情的に動くことが多くなった。
外神の視座に身を委ね、思考が地に足を着かなくなることも増えた。
良くない兆候だ。
だがどうしようもない。理性的であろうとしても、自律神経や内分泌系の乱れによって、感情も思考も暴走する。
時間が経てば──数年もすれば落ち着くだろうが、それまでは慎重に慎重を重ねなくては。
「……まあ、そうですね」
気を付けてどうにかなるものだろうか、とか。別にどうでもいいじゃないか、どうせ泡沫だ、とか。そんな内心の嘲笑を、フィリップは困り笑いの内に隠した。
そんな話をしていると、背後からノックの音がした。
護衛の一人が対応に向かい、ず、と重い音を立てて貴賓席の扉を開ける。分厚い防音扉は少し開いていても十分に遮音性を発揮し、会話は護衛の声しか聞こえなかった。
彼は相手と用件を確認して戻ってくると、ステラの視界に入らない位置で跪いた。
「──王女殿下、楽団の者が挨拶をしたいとのことですが、如何いたしましょう」
「あぁ、通せ」
振り返りもせず、ステラは淡々と応じる。
ややあって貴賓席内に通されたのは、タキシードではなく燕尾服姿の──ホスト側、つまり楽団に属することが分かる、老年の紳士だった。
彼は流麗な所作でステラの傍へ歩み寄ると、素早く膝を折り、跪いた。
その一挙手一投足は高度に洗練されており、ステラのような特権階級の前に立つことだけでなく、そういった場でも振る舞いの美しさを魅せることに慣れているようだ。
「お初にお目にかかります、ステラ王女殿下、サークリス聖下。スグルオ・フィルハーモニー交響楽団にて指揮者をしております、セルジュ・フォン・マーラーです。王国の建立を記念した輝かしい祭日に、お二人に私共の演奏をお届けできること、心より感謝いたします」
落ち着きのある、ゆったりとした声を聞きながら、フィリップはプログラムを捲って名前を探す。
どうやら彼は帝国の皇帝付音楽隊で指揮者を務めていた──現役だったにも拘わらず、スグルオ・フィルに加入してその職を辞したらしい。皇帝は素晴らしい才能を讃え、一代爵位まで与えたそうだが。
何がそこまでさせるのか、気になるところではあるが──彼らは全員が人間であると確認が取れている。洗脳や狂気の気配もないし、魔術に敏感なステラもルキアも無反応だ。
「……私も、これほどの顔ぶれの演奏を聴くのは初めてだ。期待している」
プログラムを示して言ったステラに、老紳士は嘆くように頭を振った。
「あぁ……いけません殿下。それは目を閉ざせていない見習い連中が作ったものでして。称号だの経歴だのが長々と書かれた駄作です」
「目を閉ざす?」
「えぇ。観客は勿論、我々奏者でさえ、高名な演奏家だからいい演奏に違いない、優れた作曲家だからいい曲に違いないと、自らの感性を麻痺させてしまうことがあります。ですがそれでは、音楽の神髄になど触れようもないのです。目を閉じひたむきに、ひたすらに真摯に音楽と向き合わなくては」
目を閉じる、という表現に、三人は揃って内心苦笑する。
フィリップが無知であることを指して、偶に「盲目」という喩えを使うことがあるし、三人とも程度の差こそあれ、目を開き蒙を啓き、この世の真理の一端を垣間見た者だ。
というか、全員自分の意思ではなく、事故で“目を開けてしまった”みたいなもの。
それだけに、逆に目を閉じることで道を究めるという表現が少しだけ引っ掛かり、愉快に感じた。
「ほう。では今日は、その“目を閉ざした”演奏家が音楽の神髄を見せてくれると?」
ステラはどこか挑発的に、試すように尋ねる。
対して、老紳士も応じるように口角を吊り上げた。
「そのために、今日まで練習公演を繰り返して参りました。楽団員のモチベーションも緊張も最高潮。あとは楽器たちがへそを曲げなければ、必ずやご期待に添えましょう」
「楽器が?」
「……」
さも生き物かのよう──意志を持っているかのような物言いに、ステラは意図を測りかねて、フィリップはそれ以上の興味と警戒心を持って視線を向ける。
そのどちらも、首を垂れたままの老紳士には見えないのだが。
「はい。特に木製の管楽器や弦楽器は気温や湿気で狂いやすく、その土地の環境に馴染ませるか、徹底した管理をするしかないのですが、如何せん長旅だったもので環境がころころ変わりまして、楽器にも負担が。勿論、管理も調整も徹底しておりますが、演奏中にチューニングがいきなり狂う、なんてこともあります」
「ふむ」
なるほど、とステラは知識に照らして軽く頷く。
その隣で、フィリップは小さく安堵の息を吐いた。
方々から集まった天才音楽家たちの半分が“楽器”に加工され、残りの半分が「おーい、そうヘソを曲げないでくれよー」とか話しかけながらメンテナンスする光景を想像したのだが、そんなことはなさそうで一安心だ。
「ですが、私共も言うなれば歴戦の兵。どのようなアクシデントに見舞われようと、必ずやご満足いただける演奏をお届けいたします。それでは、私も準備がありますので、御前失礼致します、王女殿下、サークリス聖下」
「あぁ、期待している。……お前には無反応だったな」
老紳士が退席するのを待って、ステラはフィリップに囁いた。
「ですね。まあ、されても困るんですけど」
「もしかして龍狩りの英雄ですか?」みたいな反応でも困るが、「お会いできて光栄です、魔王の寵児」とか言われたらもっと困る。なんせここにはルキアとステラだけでなく、王宮が派遣した護衛が居るのだから。
そんな話をしていると、眼下、まだ幕の下りている舞台から音が聞こえてきた。
複数の楽器が単音や和音を無造作に鳴らしているだけの、曲の体を為していない音の羅列。楽器の最終調音、チューニング。
つまり、間もなく開演という合図だ。
流石のフィリップも更に会話を続けるほど無作法ではなく、黙って舞台の方に視線を向けた。
ややあって幕が上がり、100人のオーケストラが姿を見せると、ホール内は期待に満ちた盛大な拍手で一杯になった。
指揮者の合図で奏者たちが一礼し、拍手が止む。
一曲目は、フィリップでも聞いたことがある──魔術学院が授業の中で聞かせるくらい有名な交響曲だった。
……音楽に然して興味のないフィリップが抱いた感想は、その程度。上手いとか下手とか、表現がどうとか抑揚がどうとか、今一つピンと来ない。
四つの楽章が全て終わり、階下からは盛大な拍手と称賛の声が上がる。
フィリップも義務的に手を叩いてはいたが、特に感動は無かった。
「なんか、普通ですね?」
授業で聞いた宮廷楽団の生演奏と、ほぼ同じ。
ホールの広さや構造が違うから音の響き方なんかにも差があるし、人数が増えた分、音量も音の圧も増えているが、そのくらい。
……そのくらいしか、フィリップには聞き分けられなかった。
「……おいルキフェリア。この耳だけ肥えた素人に教授してやれ」
ステラは呆れ半分、揶揄い半分の笑みを向ける。
「私も別に、音楽の専門家ではないのだけれど……。フィリップ、今回は何人編成のオーケストラか知ってる?」
問われて、フィリップはプログラムを捲る。
「えっと……104人ですね。あ、いえ、指揮者と歌手を抜いて102人でした」
舞台上に並んだ楽器のうち幾つかは空席で、今の曲では使われていないが、それでも100人弱による演奏だった。
「102人がそれぞれ別の楽器を演奏しているだけあって、音の量も厚みも凄いでしょう? けれどその上で、それぞれの楽器がきちんと個性を立たせて、それでいて突出せず全体が調和している。誰が何をしているか、何をしたいのかが明瞭なのに、誰も浮いていない。一片の遅れも走りもないし、全員の高い技術が窺える演奏だったわ」
凄いのか? なんて考えるド素人。
全員が譜面通りに演奏し、楽器同士が食い合わないように音量を合わせる。それだけでもまあまあ難しいことだが、それは“調和”とは言わない。精々が“調整”くらい。
求められる場面では自分の楽器が持つ特徴や自身の技量を最大限に引き出して演奏しつつ、時に主役に、時に脇役に、時には背景に変じる。
そのオーダーは指揮者がするのだろうが、ワンテンポの遅れも無く、過不足のない表現が出来るのは卓越した技量の証だ。
交響曲とはメロディーだけで完成するものではない。
確かにピアノやヴァイオリンのような中核をなす楽器だけでも、「あ、あの曲だな」と分かる程度には演奏できる。
しかし、曲が完成するのは、そこに管楽器や打楽器が数多く加わり、作曲家が意図した通りの編成で、意図した通りの演奏をしてから。
そこから一歩進んで、楽団や指揮者それぞれの解釈を交えた“表現”が始まるのだ。
「プロなら誰しもが出来る演奏ではなかったし、賞賛に値するわ。……でも、確かに“天才集団”なのだから、素人でも感動できるくらいの演奏をして欲しいわね」
「おい甘やかすな。耳が貧乏なのだと率直に教えてやれ」
厳しい、というかストレートな物言いに、ルキアがむっと眉根を寄せる。
とはいえ、彼女もフィリップの耳が駄目な肥え方をしている──良いものしか知らず、それが普通だと思い込んでいるという点では同意見だった。
ルキアが擁護の言葉を探し終える前に、楽器の入れ替えが終わる。
ステラはプログラムの曲目に目を落とし、
「次は……オペラか?」
「私も知らない曲ね。『歌唱:アンナ』とあるし、確かにオペラからの抜粋かもしれないけれど」
フィリップも手元の冊子に目を落とすが、二人が知らない曲を知っているはずもなく、目線はすぐに舞台へ戻る。
この手の格式高いコンサートで歌曲が演目に並ぶことは、実のところ稀だ。
歌劇と管弦楽は切っても切れない関係ではあるが、それでも別物として扱われる。
歌劇に於けるオーケストラは、あくまで舞台装置。必要不可欠だし、その巧拙で劇自体の優劣が決まるほど重要な要素だが、主役ではない。
そして、スグルオ・フィルは天才を集めた管弦楽団。
歌の伴奏に使うなど、贅沢を通り越して無駄遣いとさえ言えるほどの人間が集まっている。
その上で、歌は合唱曲でさえないソロ。ただ一人の歌い手のために、それほどの人間を背景に使う。
さて、どれほどのものか。
そんな値踏みするような空気が観客席に漂う中、舞台袖から“歌姫”が姿を見せた。
プログラムのメンバーリストにそう書かれているのだ。
帝国皇帝より“歌姫”の二つ名を賜った、スグルオ・フィル発足メンバーの一人だと。
目を引くインディゴブルーの長い髪に、遠目にも整っていることが分かる顔立ち。マーメイドラインの真っ白なドレスは、さながらウェディングドレスのように煌びやかだ。
その下には女性的な起伏に富んだ肢体があり、しなやかな腰の曲線や長い脚を、着衣の上からでもはっきりと明示している。
「……ん?」
遠目からでは今一つ判然としないが、フィリップはその姿に奇妙な既視感を覚えた。
いや──違和感、だろうか。何がどうとは具体的に明言できない程度の、すぐに忘れる程度の、僅かなものだ。
ルキアとステラの様子を見るも、二人とも特に反応していないし、魔術的な要因ではない。つまり──気のせい。
フィリップは一人、勝手に訝しんで、勝手に納得した。
客席からの拍手に“歌姫”が一礼し、前奏を挟んで歌が始まる。
その声は、フィリップが直前まで抱いていた疑問や違和感を全て吹き飛ばした。
筆舌に尽くし難い、美しい音だった。
歌声が広いホールに響き渡り、音が全身を包み込むと、大きな泡に包み込まれ守られているような感覚になる。
耳から入った歌声が脳を侵し、とろとろに溶かして、ぽかんと開いた口と鼻から垂れ流されていくような錯覚すらあった。
フィリップは思わず、舞台をもっとよく見ようと椅子の上で身体を傾ける。
鳥肌が立っていることを自覚できないくらい、舞台に、そして歌と演奏に気を取られていた。
「ルキア、さっきのオペラグラス──」
囁きに、両隣から咎めるような鋭い視線が飛ぶ。
射殺すかのように鋭い視線に、未だ怒られの気配に敏感なフィリップは、怯みつつ「すみません」と唇の形だけで謝り──その後頭部へ、背後から短剣が振り下ろされた。