なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「グリードトラップ? って、具体的にはどういうものなんですか? これは……幻覚、なんですか?」
様変わりした景色のなか、一点──ウォードたちの方を見つめるイライザが問う。
宛先はない。フィリップ相手でも、ノア相手でも、普段のイライザなら戦闘中でもない限りは目を見て話す。
ぼんやりと誰にともなく投げた言葉を、本人が自覚している様子はない。
既知の二人は周囲に何があるのか、他に人影などはないかと一応は観察していたのだが、イライザにはその素振りもない。
亡き兄との不意の再会に意識を奪われているのか、或いは、幻覚が映したこの場所を知っているのか。
きっと両方だ。
「……簡単に言えば、引っかかった人間の願望を映し出す罠だよ」
「そ、そんな
冒険者コースで名前と特性だけは習ったフィリップが答える。
だが体験するのはこれが初めてだし、ここまで強い幻覚だとは思わなかった。
「そ。幻視、幻聴、五感全てを欺く。でも──動くな!」
「っ!」
二人の説明を聞いているのかいないのか、イライザはふらふらとウォードたちの方に歩き出す。
しかし直後、鋭く飛んだ声が足を止める。
「感覚が塗り替えられるだけで、元居た環境まで変わるわけじゃない。周囲には木があり藪がある。触覚も痛覚もマスキングされている以上、迂闊に動くのは愚行だよ。自殺行為と言ってもいい」
授業の内容を思い出す。
冒険者コース担当のジョンソン教授の不機嫌そうな顔は、もはやぼんやりとしか思い出せないが──座学の知識は残っている。
曰く、グリードトラップの幻覚は完璧で、予備知識と事前の警戒無しに看破することは極めて難しい。
例えばこの場合、ウォードや先代はそこには居ない。当然ながら。
しかし「ウォードの姿」の情報はそこに在る。だからフィリップとイライザだけでなく、面識のないノアにも同じものが見える。
「ウォードの声」の情報が再生され、三人は同じものを聞く。
「ウォードの肉体」の情報が在り、触れれば実物同様の感触が得られる。硬さも重さもイライザが覚えている通りに再現され、殴れば相応の手応えがある。
映像情報があり、音声情報があり、感触情報がある。
鼻を寄せれば臭いを感じ、舐めれば味もするだろう。
そうなれば、大抵の人間にとっては“有る”のと変わらない。
現実を五感で知覚し認識する人間の五感全てが欺かれたら、それはもはや新しい現実だ。それこそ死人が蘇りでもしない限り、虚構と疑うのは難しいだろう。
しかも、触覚と痛覚は、元の現実に上塗りされたこちらが優先。
実際、腐葉土混じりの柔らかな地面の感触は、荒野の硬い地面と乾いた砂の感触に変わっている。
「今、あたしたちは魂と肉体を切り離されているに等しい。目に枝が刺さったまま平然と笑い、壁に向かって歩き続け、虚空と戯れながら、飢えにも渇きにも流血にも気付かずじわじわと死ぬ」
「……抜け出すには、どうしたら?」
淡々と恐ろしいことを言うノアだが、おかげでイライザの足が僅かに開き、ふらつかないよう地面を踏みしめる。万が一にもウォードの方に駆け出すことは無いだろう。
「別に、そう難しくはないよ。自分の中にある願望を強く否定するか、ダンジョンを破壊するか。……まあ現状だと前者一択かな。流石に大掛かりになるし、天使に捕捉されそう」
ダンジョンを破壊できると、聖痕者は誇りもせず言外に示す。
まあ、そこに関して驚きはない。
ルキアはもっと大きく頑健なダンジョンを跡形もなく消し飛ばした。聖痕者で最大の攻撃範囲を持つというノアなら、この程度の規模は小さい部類だろう。
今は第一選択にはならないが、いざという時の保険があるのは嬉しい。邪神召喚が保険内優先度を下げるという意味でも。
「願望の否定、ですか?」
「願望の虚像を破壊すればいいって教わりましたけど、その必要もないんですか?」
学院で教わったこととは違うが、授業では確実性の高い方法だけを教えているとか、フィリップでも理由に察しは付く。
しかしテストに出るだけならいざ知らず、実際に突破しなければならないとなると、「多分そうだろうな」とふんわりした理解で動くのは得策ではない。
子供たちに続けて問われて、物知りな大人は小さく肩を竦めた。
「まあ、方法は任せるよ。虚像の破壊っていうのは、もっと閉鎖的で障害物のない、迷宮型ダンジョンのトラップルームとかを想定した突破案だね。……要は、破壊を通しても通さなくても、心の裡に強い否定を抱けばいい。人間って単純だからね。破壊するために体や脳を動かせば、心も勝手に付いてくる」
なるほど、と頷いたのはフィリップだけで、イライザは怪訝そうな顔だ。
病的精神の行動活性だの表情フィードバック仮説だの、心理学や精神病理学に触れて学ばなければ知る機会も無いだろう。
「そうなんですか」と、疑問よりは確認の意が強い視線を向けられて、フィリップはただ頷きを返した。
グリードトラップは致死の罠ではないが、心理学の講義をするほどの余裕はない。
「この手のトラップに引っかかるのは大抵が冒険者、ダンジョン内。願望ってのは往々にして金銭、強さ、名誉欲、希少なオーパーツ。見える幻影は即物的、俗物的、替えが利くし、破壊という否定にも効果が見込める」
財宝などを壊すことで、「自分はそれを求めていない」と自分に言い聞かせて錯覚を引き起こす。
同時に、壊れた残骸を見ることで「壊れてしまったし仕方ない」という納得も出来る。
所詮は幻覚。
五感による認知下では実体を有するように思えても、実態としては違う。所詮は幻、頭の中にしかないモノだ。
壊すこと、破壊自体に意味はない。
重要なのは破壊行為を通じて得られる心理的効果。
だが──それは一般的な冒険者の、一般的な例に則った話。
「でも、これはどうだろうね。破壊することで、願望がより強固になっちゃいそうな気もしない? 勇者ちゃんの性格とか、心の在り方次第だけどさ」
即物的な願望なら、破壊によるアプローチは十分に効果を発揮するだろう。
だがこのケースで期待通りに行くかは微妙だ。
壊して終わりの物なら、壊すことには意味がある。
だが、この願望の肝は、『既に壊れている』ことにある。
壊れた過去の修復──死者の蘇生。有り得ない再会。
「……お父さん」
イライザの声は虚ろだった。
刃のない模擬剣で打ち合う師と父親、見取り稽古をしている兄を見つめる眼差しも、同じくらい不確かだ。
彼女の父は先代と何合か交わしたあと、首を狙った一撃を腕で防がれ、その隙を切っ掛けに主導権を取られて地面に転がった。
「こういうとこ見ると、やっぱ幻覚だって分かるんだけどね」
支離滅裂な夢を見たように、ノアは目の前の光景に苦笑を向ける。
しかし、フィリップは全く逆の意見だった。
「いえ、先代はああいうことしますよ。ちゃんとリアルです」
「……は? 防具もなんもない腕で、模擬剣思いっきり受け止めてたけど?」
しかも伸筋群で覆われた甲部ではなく、筋肉の薄い
イライザの父親も相当に鍛えられた身体をしているし、そうでなくても模擬剣は鉄の塊だ。防具も無しに受けられるようなものではない。
愕然とするノアに、フィリップは静かに頭を振った。
目の前の光景は間違いなく
先代とイライザの父は暫し何事か話し、ひと段落するとイライザを手招いた。
『ほら、次は僕らの番だよ、イライザ』
「う、うん……」
イライザはふらふらと覚束ない足取りで、自分を呼ぶ兄の下に歩き出す。
「かなり不味いですね。先代の動きや強さを再現してるなら、そもそも破壊できるかっていう……イライザ? 迂闊に動いちゃ駄目だよ? イライザ?」
声を掛けても、幽鬼のような歩みは止まらない。
フィリップが腕を掴んで制止すると、足捌きと体幹を使った体術の動きで振り払われた。
彼女ははっとしたようにフィリップを見つめるが、目に宿った理性の輝きは瞬き一つで暗く淀む。
「っと……」
「ま、そうだよね。他人の願望に対する思い入れなんか傍目で分かるもんじゃないし」
「……ああもう。流石に気絶したらギミックも止まりますよね?」
握った拳をぺちぺちと叩きながらの問いに、ノアは愉快そうに肩で笑った。
「こらこら、平手にしなさい平手に。拳を確認するな骨を揃えるな」
叩き上げの軍人として格闘術も修めているノアには分かる。
ちょっと殴って正気に戻そう、というか、ちゃんと殴り倒すときの拳の作り方だった。
「殴ること自体は止めないんですね」
「なんでか知らないけど、人間同士の接触や干渉は誤魔化されないからね。今みたいに互いの姿も見えるし声も聞こえる。勿論ビンタも通る。呑まれた人間は刺激を与えて助け出すしかない」
ほう、と頷くフィリップ。
殴って正気付かせるとか気絶させてギミックの無効化とか、半ばヤケクソの脳筋解決だったが、どうやら正解だし、想定解でもあるらしい。
それなら気後れせず、思いっきりやれそうだ。
……まあ、フィリップが誰かを正気に戻すために殴ることに気後れするかというと、そんなことはないけれど。デフォルトが「発狂したんだ、残念、せめて綺麗に殺してあげるね!」なのだし。
「でも、これは勇者ちゃんの夢、願望だ。幸せな夢から叩き起こされたら誰だってブチ切れる。気を付けなよ」
「うわ……」
イライザの性格的に、
さっきのように、ちょっと振り払う程度の動作にも“理”が滲む。
「多分大丈夫だろう」と適当なことをして、手痛い反撃を喰らうのは面倒だ。
一発は一発と殴り返すくらいならまだしも、「もういいや」と思ってしまったら、今度はシルヴァが止めることもない。
「聖下、代わりにやってください」
「それってあたしが強いから? 単純に面倒なこと押し付けてるだけ?」
「……やだなあ、前者に決まってるじゃないですか。あっはっは!」
大仰な作り笑いに愉快そうな笑みを返し、ノアはぱちりと指を弾く。
何もない虚空から現れた浴槽一杯分程度の水は、熱に浮かされたように再び歩き始めたイライザに降り注いだ。
いきなり水を浴びたことによる反射的な硬直と、総量300リットル近い水の重さと衝撃は、歩を止めさせるには十分。
体重の軽いイライザは、押し流されるようにして転倒した。
いい仕事ぶり、と言える。
近くに居たフィリップまで、その水を頭から被っていなければ。
「……ごめん。ホントにわざとじゃない。幻覚のせいで視覚照準が狂っただけ」
「──、──」
ずぶ濡れになったフィリップは大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
漁村で『
まあ普通に生活している分には中々無いシチュエーションだし、それほど不便は感じないのだが。
だが今は不味い。
一瞬だが思考が飛びかけた。
ただでさえ死人を──亡き友人を愚弄するかのような幻覚を見せられてイラついているところに、不意に水を浴びせられて、「やっぱり面倒だし全部吹っ飛ばすか」という気持ちが湧き上がった。
「……」
イライザが泥水の中で立ち上がり、手中に聖剣を顕す。
繰り返し妨害され、いよいよ怒りが募り始めたか。或いは300キロの水に叩き伏せられて、意識が混濁しているのか。
妹が全身を泥で汚していることにも、聖剣を抜き戦闘態勢を取ったことにも、幻覚の中の家族や師匠は全く無頓着だった。
幻覚の中のウォードは肩を竦め、フィリップに困ったような笑みを向ける。
『イライザ? もう、仕方ないな。フィリップ君、僕たちでお手本を見せてあげよう』
見覚えのある笑顔。
しかし、フィリップは懐かしさも違和感も覚えることはない。
亡き、賢く勇敢だった友。愛すべき馬鹿野郎。
彼が生き返ったとしたら──その答えを、フィリップはもう知っている。蘇った死者ならどんな行動をするのか、どういう振る舞いを見せるのか、既に見た。
眼前の光景に抱くのは「似ているが違う気がする」という違和感ではなく、もっと単純で断定的な否定だ。
「……は」
小さな嘲笑が零れる。
火に油を注ぐとは。
全く以て──ウォードらしからぬ愚行だ。
所詮は幻覚。
いつぞやの、行動を再現しただけの複製品にすら劣る。どういう仕組みで見せている幻覚かは知らないが、クオリティが低すぎる。
フレデリカの作品が死人の
お陰で、切り刻んでも心が痛まない。
まあ尤も、たとえ墓から這い上がった本人であろうと、死の安寧を妨げられたのであれば、フィリップは慈悲を以て再び土の中に蹴り戻すわけだが。