なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
その人口100人に満たない小さな町は、帝国領の片隅にあった。
狭義での“帝国領”。つまり隷下の小規模国家や少数民族の土地ではなく、何世代にも亘って帝国貴族が治めてきた、帝国の正当な領地であり、そこに住む人々はみな
町は二つの小規模国家が「支配権を主張する領域」の、およそ真ん中あたりに位置する。
大国にとっては何の変哲もない土地。だが小国にとっては緩衝地帯だ。
巨人は小人が何を囀ろうと気に留めない。
だが小人が足の小指を蹴っ飛ばせば、巨人は身の程を弁えない虫けらを踏み潰すだろう。
ある時、小国同士で小競り合いが起こった。
と言っても、互いに軍隊を並べて威嚇するような、何かの間違いで戦争に転がり落ちてしまうようなものではない。
敵国に向かう行商人に重めの税を掛けたり、関所で長々と引き留めたりとか、その程度。政治的・経済的に小突き合って終わりの、軍事的衝突にはなり得ない程度のもの。そのはずだった。
どちらかの国の馬鹿が、ふと思いついた。
帝国の飛び地を焼き、それを敵国の仕業に偽装すれば、帝国が相手を滅ぼしてくれるんじゃないか?
馬鹿は国の中でそこそこの地位があり、100人にも満たない集落を焼くだけの兵士は簡単に用意できた。
国としての謀略なら、帝国は間諜を通じて事前に把握出来ただろう。だが、それは馬鹿一人の独断だった。
帝国が気付いたのは、馬鹿の用意した兵士が領地に近付いてからだった。
帝国は迅速に動いた。──だが、武装した騎兵が村人80人を虐殺する方が早かった。
「生き残ったのは子供が四人。木の上とか屋根裏とか地下室とか、大人たちが必死に隠した中で、運のいい四人だけが見つからなかった」
ノアはそう結び、身の上話を終えた。
イライザは痛ましげな表情で顔を伏せる。
十二歳の少女には、年上の女性の悲惨な過去に掛けるべき言葉が思いつかなかった。
「戦争だし、なんて言わないでよ? 帝国隷下のカス共が、カス同士で見栄を張るために喧嘩を始めて、あたしたちは巻き込まれただけだったんだ」
「……それで軍人に?」
イライザは小さな、震えを抑え込んだ声で尋ねる。
僅かに湿り気も帯びていたが、ノアの涙は語るうちにすっかり乾き、凄惨な過去を語っても再び溢れることは無かった。ここで無関係な人間が泣くのは、当事者に失礼な気がした。
「まあね。魔術適性のある戦災孤児なんか原石でしかないし、思想誘導があったんだろうけど覚えてない。思想教育、他人の言葉や教育なんか、憎悪の炎の前では薪にもならない。でしょ?」
同意を求めるように、いや同意を確信して、水色の双眸は年下の友人へと向いた。
話を聞いて、フィリップが思うことは二つ。
一つ──彼女の言うことは正しい。憎悪を理由に動く人間に、他の動機なんか要らない。
もう一つ──。
なんで一刻も早く幻覚を突破して森を抜け、天使から逃げなければならないこの状況で、長々と昔語りを始めたのか。
「はは……。まあ、この景色の由来は分かりましたけど、貴女が一生ここで過ごすってのは困る。せめて僕らが脱出してから、一人で帰ってきて一人で死んでください」
ノアはそこそこ賢い人だと、フィリップは思っていた。
冷静さと明朗さ、冷徹と豪胆さを併せ持つ軍人。軍務に忠実な兵士でありながら、自ら思考する指揮官の才覚を有する。
その場その場を楽しむ感情発散。
皇帝の剣として無慈悲に敵を斬る感情制御。
本能と理性、生まれ持った性格と持つべき性質を使いこなす、優れた人間だと。
だが下方修正が必要らしい。
彼女の冷徹な軍人精神は、亡き故郷の幻影を前にしては発揮されないようだ。
「……ノア聖下?」
軽口ではあったが、そこそこキツいことを言った自覚のあったフィリップは、ノアが何も言い返してこないことに不安感を抱く。
だが、ノアは怒ってもいなければ、傷ついてもいなかった。
「あは。……それだよ、それ。それが駄目なんだ」
湿っぽさのない、軽口や冗談のトーン。
フィリップと交わす日常会話のように、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「あたしと同じ生き残りだった子たちも、みんな兵士になった。そんで、みんな死んだ。兵士なんだから死ぬこともあるって分かってたけど、
その言葉に、イライザは息を呑んだ。
辺りに広がる温かな光景は、彼女の願望。
今は亡き彼女の故郷。
家族、友人、同じ集落の同胞。彼らの生存を、彼女は心の奥底で望んでいる。
それなのに、“願望”は彼女に無関心だった。
幻の中でイライザの兄がそうしたように、呼びかけてくる人が一人もいない。
亡き故郷に帰還した、彼らがどうにか隠し通した生存者を歓迎し、成長を言祝ぎ、再会を喜ぶ──そんな光景に、なって然るべきなのに。
死者たちは誰一人としてノアに見向きもしない。
それは──その点に関しては願望を持っていないからだと、少女は想像力頼りで正解に辿り着いた。いや、正解に近いところまで、だ。
帝国最強の部隊を束ねる長。信頼篤き女軍人。
彼女は夢にも見ないほど、孤独というものに慣れ切っていたのだと。
「まあ別に慣れてたし、ウサギじゃあるまいし寂しくて死ぬなんてこともないけど、適当な軽い会話が出来る友達ってのを求めてはいたんだろうね」
声のトーンが落ちる。
取り繕っていた明朗さが剥がれ、触れれば痛む真皮が露になったかのように。
「ね。久々に出来た友達と、今はもうない故郷と失くした家族と昔の友達。その全部がここにある。……こんなの、否定できるわけないでしょ」
「わけないでしょ、じゃ困るんですよ。天使が追ってきてるかどうかはともかく、移動は絶対にしなくちゃいけない。周囲100メートル程度の安全は確保したけど、魔物が現れる可能性もある。この状況で、貴女の感傷に付き合っている余裕はないんです」
即答だった。
静かでセンチメンタルな語り口は、冷たい苛立ちを感じさせる批判に撃墜された。
フィリップの声にあるのは噴火寸前の火山のように苛烈な怒りではなく、むしろ外部からの刺激に極めて寛容な泰然とした凍土のようだ。
そこそこ切迫した状況であるにも拘らず感情で動く相手に、いい加減にしろと怒鳴ることはない。
友人の語った同情に値する過去に、心を寄り添わせることもない。
「うわ冷た。あたしが蛇だったら寒さで死んでるよ? ちょっとぐらい慰めてくれてもいいじゃん」
「……まあ、理由は色々あるにしても、僕と天使とを比べて僕の側に付いてくれたわけですからね。感謝するべきなのかもしれません」
するべき、というか、本当に感謝の念はある。
彼女が天使の側についていたら、初めの遭遇時点で逃げ切れなかった。
シルヴァの掌中である森まで走ることも出来ず、ノアがヘレナを押さえているうち、天使がフィリップを殺していただろう。
全員死んでいた。
「だったら──」
「だから、ちょっとぐらいは協力してあげます。そこに座ってください」
だったら、何なのか。
ノアは自分が何を言おうとしていたのか、何を望んでいたのかも判然としていなかった。
しかし彼女が言い淀むよりも先に、フィリップが口を開いた。
「……え?」
「そこに座ってください。イライザ、ちょっとこっち来て」
「? はい、分かりました」
弟子は師匠の言葉に素直に従い、トコトコと無防備に寄ってくる。
雛鳥や仔犬を思わせる少女に、ノアは微笑ましそうな目を向け、振り向く。
「なんなの?」と聞きたかった相手、フィリップは、ノアの視線がイライザに向いた一瞬の隙に背後に回り込んでいた。
敵意も無く、悪意も無く、害意も無く。故に兵士が張り巡らせた危機感知センサーに捉えられずに。
「──ッ!」
それでも、軍人の反応は素早かった。
蛇のようなしなやかさと静かさで首筋に纏わりついた腕を掴み、身体の捻りで投げ飛ばす。
しかし寸前で膝裏を蹴られ、脚から力が抜けた。
首に回された腕はそのままもう一本の腕でロックされ、後頭部を押さえ込まれる。
「ぐ、っ……!」
苦悶の声を漏らしながら、ノアの口元は獰猛な笑みの形に歪んでいた。
腕力、体重、体幹、どれに於いてもノアはフィリップに勝っている。
だが、背後からの裸締めは完璧に入っていた。
首を絞める腕は、腕力では外せない。
腕力同士の対決ならいざ知らず、フィリップは腕を固定し、ノアの後頭部に添えた自分の手に額を当て、腹筋を使ってノアの頭を押し込んでいる。
腕で頸動脈を圧迫しているのではなく、腕という壁に向けて、腹筋を使って頸動脈を押し込む形だ。
「師匠!?」
イライザが驚愕の声を上げるが、動かない。
どちらにも加勢せず、状況が全く呑み込めていない顔で硬直しているだけだ。
「っ……!」
ノアの身体から力が抜ける。
数秒だけ様子を見て、フィリップは拘束を解いた。意識を失ったフリでないことは、周囲の景色が元の静かな森に戻ったことで分かる。
体重を支えることさえ放棄した女性の身体が傾ぎ、見掛け以上の重量感をフィリップに預けた。つい地面に放り出したくなるが、それでは気絶させた意味が無い。
フィリップはノアの脇に手を通し、長い脚を引きずるようにして運び始める。
「し、師匠! 聖痕者相手に素手で挑むなんて、いくら師匠でも自殺行為です! 今はどうにかなりましたが──」
「どうにかなったんじゃない。彼女が
投げ飛ばされることは防いだ。
だが背中から倒れ込んでフィリップを地面に打ち付けるとか、目を狙って反撃するとか、単純に魔術を使うとか、ノアには反撃の手札がまだまだあった。
「感情では幻覚の中に留まることを望んでいても、理性はきちんと残っていた。そういう目をしてた……狂気に沈んだ目をしていなかった。……っていうか足の方持ってくれる?」
細身とはいえ大人の女性、それも訓練を受けた軍人の身体は重い。5、60キロ、下半身が地面に擦れるせいで、体感的にはもっとだ。
フィリップが手助けを求めた直後、その身体がぴくりと震え、小さな呻き声が上がった。
「おっと」
軽い感嘆符。
机の端に転がっていったペンを押さえて止めたような、気楽なものだ。
それと同時に、硬く鈍い音が上がった。
骨と骨のぶつかる、思わず身を竦めてしまうような打撃音が。
「痛ぁ!? ちょ、待っ──」
「師匠!?」
制止とそれ未満の悲鳴に構わず、フィリップは女性の顔面下部、顎に向けてもう一度拳を振り下ろす。
素手で熊を殴り殺すエルフ仕込みの格闘術は、クリーンヒット二発で、訓練された軍人を再び沈黙させた。
「師匠!? 何をしているんですか!?」
「え、だって気絶させないと、またトラップが発動するじゃん。気絶させたままダンジョン外へ運び出すか、願望を諦めるまで殴り続けるって話じゃなかった?」
「案として出ただけで、確定まではしていませんでした!」
心なしか怒ったような、少なくとも安らかとは言えない寝顔を見て、イライザはあわあわと慌てふためく。
しかし殴ってしまったものは仕方ないし、何より。
「……じゃあ代案は?」
殴るしかなかった。或いはもう一度締め落すか。
それが分からないイライザではないだろう。
いや、それが分からないとか、「仲間を殴るのは」みたいな感情的理由での反対なら、フィリップは弟子を諫め、教えなくてはならない。
幸い、彼女はそこまで愚かではなかった。
「いえ、案としては良いと思います。でも、先に本人の同意を得るべきでは? そこまで切羽詰まった状況でもないですし、理性的に受け入れて下さるようですし」
「……そうだね。次はそうするよ」
代案どころか賛成が返ってきた。
まあ「事前に同意を」なんて、あの状況では甘すぎる考えと言えなくも無いが、実際、ノアとは無言の同意が交わされていたようなものだ。でなければフィリップは死んでいる。
ノアはフィリップを、フィリップはノアを信用していなければ成立しない、成功し得ない作戦だった。
そう考えると、確かに一言くらい確認を挟んでおいた方が良かったかもしれない。
「ともかく、今のうちに森の外に出よう。……あ、荷物」
大きな荷物を引き摺っていて忘れていたが、本来の荷物──非常食などを詰めた登山セットを置いてきてしまった。
「私が取ってきます。……あの、今度は殴らないであげてくださいね。繰り返し顎を殴られると、しばらく流動食で過ごすことになるので……」
「え、そうなの? 分かった。先に同意を取ってから締め落すね」
それはまずい。
フィリップとノアの性格が近しいことから考えて、彼女もそこまで根に持つタイプではない。特に一瞬の痛みに対する報復心は大きく苛烈で、そして短期的だ。
炎が大きく激しく燃え盛れば、焚べられた薪がすぐ尽きるように。
しかし後遺症があるなら、その症状に苦しめられているうちは報復心が萎むことはないだろう。
「いや……さっき幻覚が再発動しなかった時点で、もうギミックは突破できてるから……」
フィリップの腕の中から呻くような声が上がる。
イライザはそれを聞いて安心したように顔を綻ばせ、三人分の荷物を取りに行った。
「あ、起きた。……じゃあ締め落す必要はないってことですか?」
「顎いった……。そうだよ。っていうか次あんたの番でしょ。マジ覚えてなよ」
刺々しい声。
冗談めかした中に本気が混じっているのか、本気ではあるが辛うじて冗談めかしているのか。どちらか分からないくらい、言葉の本気度合いは大きかった。
フィリップは溜息を吐き、まだ力が入らないらしい女性の身体を引き摺る。
聖痕者ともなれば、幻覚に呑み込まれた人間を無傷で気絶させるような魔術制御もお手の物だろうが、どうやらそんな“優しさ”は期待できそうにない。
自力でグリードトラップを突破すればいいだけの話、と言えばその通りだが、前例二人がまるで抵抗できていなかった辺り、心の中にある願望の中で、一番否定しづらいものが選ばれるのだろう。
内心には「がんばるぞ」という決意が半分、「無理だろうなあ」という覚悟が半分あった。
そもそもフィリップは欲望に忠実なほうだ。
どうにかなるといいなあ、と諦観混じりに思う。
……しかし、三人分の荷物を持ったイライザが合流しても、まだなにも起こらない。
「……何も出てきませんね?」
「……くそ、ギミック範囲外かあ。殴り返すチャンスだったのになあ」
「もう殴ることが目的になってる……」
危なかった。
たぶん幻覚に呑まれていたら、向こう三日くらい流動食だった。
──なんて。
イライザの手前、フィリップとノアは暗黙の了解の下、いつも通りの軽口を交わしてみせた。