なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「勇者ちゃん、悪いけど、ちょっと先行して森の外までの安全確保と、外の確認してきて。何かあったら魔術信号弾を撃ってね」
「了解です!」
気持ちのいい返事をしたイライザは三人分の荷物をその場に置き、すぐ木立の中に消えた。
「……」
「……」
後に残ったのは物言わぬリュックと、殴った男と殴られた女。
大変気まずい沈黙は、女の方が破った。
「……ちなみに言うと」
「言わなくていいです。まだギミック範囲内、僕の魔術耐性で弾けるわけがない。でしょう?」
「ま、そりゃ自覚はあるか。……手ぇ放して。もう立てる」
言われて、フィリップは女性の身体を気遣いながら地面に下ろす。
締め落したのも殴ったのも必要性あってのことだし、咎められたら「呑まれた方が悪いよ」と咎め返す所存ではあるが、彼女が「締め落させてくれた」「殴らせてくれた」ことも分かっている。
尻を打たないようにゆっくり下ろすくらいの気遣いは、普段の生活でも、吸血鬼の古城でも学んでいた。
「正直あたしは、そこまでとは思ってなかった。というか、そこまで──そこが壊れた人間は長くは保たない。良くて、刺激に反応して動くだけの虫みたいな生態になる。最悪、というか大抵のケースじゃ、刺激に対して反応を返さないレベルの廃人だね」
立ち上がり、下半身についた土を払いながら言うノア。
口ぶりに怒りの色はなく、むしろ、先ほどまでは確かに胸中で燻ぶっていた炎がすっかり消えたようだ。
「グリードトラップは単純だ。一番強い願望を狙って幻覚を引き起こす。自覚の有無に関係なくね。ちなみに、あたしは前回、地下迷宮ダンジョンの中でふかふかのベッドと沢山の猫が出てきた」
フィリップは声を上げて笑った。
想像した
「あとうちの部隊だと、美味しそうで豪勢な料理とか、沢山のナイスバディな美女とかが多かったかな。あと、奥さんと子供のいる家とか──こいつは寮住まいの独り身なんだけど。あと面白い例だと、先の見えない扉が出てきて、中を覗いたら水洗トイレだった、とか」
「ははは……」
フィリップは、今度は残り滓のように乾いた笑いを絞り出した。
基本的に複数人の部隊で動く兵士だから当然と言えば当然だが、彼女のグリードトラップに対する知見は思った以上だ。
それだけのサンプルがあれば、今回の異常性にも簡単に気付いただろう。
「食欲でも性欲でも睡眠欲でも物欲でも、排泄欲ですら反映される。なのに、あんたの願望を映した幻覚は現れない。何故か──」
居心地悪そうに視線を彷徨わせたフィリップを、ノアは真っ直ぐに見つめる。
心の中を探るような目──ではない。既に探り終え、荒れ果てた廃墟に対する物悲しさを覚えたような、憐憫の籠った目だ。
「あんたはギミックをクリアしてるんだ。あんたは既に、全ての欲求を
フィリップは何も言わない。
ただ、小さな溜息だけを返す。
それは、ノアにとって十分な肯定だった。
「端から無いのも気色悪いけど、あんたはそうじゃない。欲も感情もあるし、何なら好奇心とか、快不快、好悪で動くタイプだ。……感情から発生した欲求が動機になり、行動になる。知りたいから問う、気色悪いから殺す、嫌いだから痛めつける、って具合にね」
カルトが嫌い。だから殺す。
嫌いなカルトを殺すため、マフィアの拠点に乗り込んで情報を強請る。
感情で目的を定め、感情で動く。
そこには“欲”がある。行動に繋がる願望が。
「それは普通だ。そこまでは、単細胞気味だけど珍しくもない人間だよ」
大抵の人間は“欲”に対して、理性が歯止めをかける。
常識、法律、品格、自らの行動を規定する要素は沢山ある。
だが、そういう枷を全く無視して動く人間や、場合によっては無視できる人間は、大多数ではないが珍しくはない。
だからノアにとって、フィリップの逸脱度合いはその程度だった。
今この瞬間までは、そう思っていた。
「なのにあんたは、その全部を諦めている。自分の感情、快不快にさえ価値を感じてないみたいに。気色が悪い。これなら全裸の先輩たちとデカいベッドの幻覚でも出てきた方がまだマシだった」
複雑な声色だった。
嫌悪感が強く滲み、しかし決して突き放すようではなく。血と泥に塗れた死体を抱き上げ、高級な棺へ丁重に納めるような。
下品な冗談は軍人の性か、重い空気をせめて少しだけでも和らげようという心遣いか。
「……」
フィリップは未だノアと視線を合わせることなく、きまり悪そうに、しかし反論することも出来ずに黙って聞いている。
「ルキアとステラよりは、マザーの方が出てきそうだな」なんて懸念を、現実逃避気味に考えながら。
現実逃避──二重の逃避だ。
図らずも精神の異常性がノアにバレたのもそうだし、自分の精神性を改めて自覚したことからも、どうにか意識を逸らしたかった。
戦闘特化、他の聖痕者より研究方面に疎い軍人。
彼女が人間の精神病理や狂気について、そこまで詳しいとは思っていなかった。
──正解だ。
フィリップの心の中心には、この世全てへの絶望と諦観が根付いている。
なにもかもが泡であり、なにもかもが些事。低次元で低劣で、無意味で無価値。
そこには当然、自分自身も含まれる。
だが、欲求は持っているつもりだった。
カルトを惨殺したいとか、ナイ神父を蹴っ飛ばしたいとか、マザーに甘えたいとか。今この時に限っても、「帰って寝たい」とか「王都のご飯が食べたい」とか、ぱっと思いつくものはある。
だが、まあ、確かに。
言われてみれば、それも些事だ。
フィリップの感情にも、欲求にも、この世全てと同じく価値が無い。この世全てから「自分」が独立して、並べて語るくらいに自我は強いが、それでもゼロだ。
「さっきも言ったけど、そのレベルで壊れた人間は早々に破綻する。人間らしい振る舞いなんか出来なくなる。どうやって自我を保ってるのか知らないし、なんでそんなことになったのかは知りたくもないけど……」
ノアは静かに語り、頭を振った。
一回り下の少年の精神が、想像を遥かに超えた異常性を孕んでいることに、恐ろしさと不安感はある。
それでも──恐怖よりも、年下の友人に対する憐憫が勝った。
「あたしはあんたのこと、友達だと思ってるから。致命的にぶっ壊れる前に言いなよ。一緒にカジノ行ったりとか、酒を飲んだりとか、そのぐらいのケアしか出来ないけどさ」
僅かに頬を赤らめて、しかし水色の眼差しには確たる意思を込めて、ノアは友情を口にした。
「は……」
瞠目と、放心の吐息。それは笑ったようでもあり、泣き出すのを堪えたようでもあった。
諦観で淀んだ瞳に羨望と憧憬の光が宿る。
だが、その輝きはほんの一瞬で疑念に眇められた。
「それは……ありがたいですけど、何故です? 天使の言葉、冒涜者の謗り、友情を捨てるには十分な理由だと思いますけど」
精神に異常を抱えた相手なら尚更だと、フィリップは客観的にそう判断する。
ついでに言えば、そいつは自分を締め落したり、ぶん殴ったりした奴だ。仕方なかったと理性で分かってはいても、苦しみや痛みはまだ鮮明に思い出せるだろう。
ノアの性格からして、報復の対象ではあっても、抱擁を交わす対象ではないはず。
「……僕を殺さない理由は、さっき聞きました。僕が冒涜者だろうと何だろうと、貴女の保護下で死ねば、ルキアと殿下の報復対象に貴女も含まれるからだと。でも、それは僕を守る理由であって、僕に友情を感じる理由じゃない」
フィリップは生存権と交換するチケットだ。
そりゃあ相手がミミズだろうが天使だろうが、敵なら殺して守り通すだろう。
だから、彼女が味方であること、味方になる理由については疑っていない。
しかし友情を語られると、一時間ばかり前に抱いた疑問が再燃する。
──頭がおかしくなっちゃったのかな、と。
慣用句でなく大真面目に、狂気の介在を検討しなくてはならない。
懐疑的な視線を受けて、ノアは小さく肩を竦めた。
言いたいことは分かっていると言わんばかりに。
「あぁ、うん。戦友の絆ってのも、あながち冗談じゃないんだけど……まあ、それだけじゃないのも確かだね」