なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「──う。──師匠! 起きてください!」
「……んあ?」
乱雑に揺り起こされ、フィリップの口からはやや不機嫌そうな、しかし緊張感の欠片も無い声が漏れた。
目を開けると、顔を濡らしたイライザと視線が交わった。
汗と涙と鼻水でべちゃべちゃになった顔は、怒りと安堵と心配と困惑が混ざり合って混沌さを増している。
「師匠! 何があったんですか!? お怪我は──痛いところはありませんか!? 意識は鮮明ですか!?」
「ふぁ……。血相変えてどうしたの?」
意識? とフィリップは眉根を寄せる。
寝起き、それも自発的に起きたのではなく叩き起こされたのだから、意識がクリアなわけがない。
傾いだ太陽は梢と木立の間から差し込み、光に敏感な目を晦ませる。
眩しくて目を瞑ると、再び眠りに落ちてしまいそうだ。
「どうしたの、じゃありませんよ! 戻ってきたらお二人が血塗れで倒れていて、なのに傷は見当たらないし、辺りはこんなだし! 天使を撃退したんですか!? 」
「えぇ……? ……えっ?」
寝ぼけ眼を擦り、西日に手を翳して漸く、フィリップは周囲の異常に気が付いた。
茨とスライムの性質を併せ持つ下草。黒く染まり歪んで捻じれた木々。
どれも見覚えのある、シュブ=ニグラスが降臨したことを示す痕跡だ。ただ現れただけで環境を作り変える邪神によって、進化させられた生命たち。
姿は見えずとも歌声は届き、ダンジョン内に居なかったはずの鳥や虫の存在も分かる。
その姿をイライザやノアに見せても良いものなのか。そんな懸念が脳裏を過った。
「んん……」
フィリップが体を起こしたせいで胸元からずり落ち、膝、というか股間辺りに頭を乗せていたノアが呻き、目を覚ます。
彼女も失神から睡眠状態にシフトしていたらしく、身を起こしてから大きな欠伸をした。
「……あれ? 生きてる?」
刃物で切り裂いたように開けられたシャツの下、貫通痕、いや致命傷があるはずの場所を撫でる。
小さな傷に構っていられなかった頃の古傷は幾つかあるが、一番新しい、シャツを赤く染める血の源が無い。
撃たれた痛み、失策の後悔、命が流れ出ていく感覚。どれも鮮明に思い出せるのに。
「あんたも生きてたの? それとも二人して……なんで前、全開なの?」
「貴女もですよ」
自分と同じく血塗れのフィリップを見て、ノアは何が何だか分からないという顔だ。
撃たれて、死を確信して、目が覚めたら周囲の景色が様変わりしている上に傷が無くなっているのだから、無理もない話だが。
「二人して死んだの?」と言おうとしたのに、別の疑問が口を衝くくらいには動揺している。
「……襲ったの? 死ぬの?」
「いま一番気にすべきは本当にそれですか……?」
冗談なのだろうが、冗談を言っている場合でも無いだろうに。
呆れ笑いを浮かべたフィリップに、ノアは「ウケないか」とでも言うように肩を竦めた。
「ち、違います! すみません、私が開けました! お二人とも血塗れだったので手当をと思ったのですが、傷が見当たらなくて……でも、返り血でもないですよね?」
師匠が不名誉を被りそうになり、実は一番動揺しているイライザが声を上げた。
二人のシャツやジャケットには明らかに撃たれた跡があり、血汚れも外から浴びたものではなく、内側から染み出したものだ。
注意深く観察すれば、或いは応急手当の経験などがあれば、負傷していることは分かる。
それも死んでいてもおかしくない出血量。即死も有り得る負傷位置だ。
しかしシャツを開けてみれば、その下には傷一つ無い。
それで混乱して、推定重傷者を揺り起こすなんて乱暴なことをしたのだった。
「これは……。……そうだ、あたしたちが撃たれた後、まだ誰か居たよね? あんたが喋ってるの、ちょっとだけ聞こえた」
「っ……!」
眠る直前のことを思い出そうとするように目を瞑り、ノアはどうにか記憶を捻り出した。
第三者か、或いは襲撃者か。
どちらにしても無警戒ではいられない。
イライザは慌てて立ち上がって聖剣を現し、様相の変わった森の中に警戒を向けた。
「……それこそ幻聴でしょう。僕だって撃たれて失神してたんですから、寝言だって言えやしません」
「……そっか」
ノアは何か言いたげだったが、それほど記憶に自信があるわけでも無いらしく、小さく頷いて追及を重ねることは無かった。
「イライザは無事? 怪我は?」
「ありません。でも、天使に攻撃されて気を失っていて……ほんの数分です。失神からの自己覚醒は師匠に叩き込まれていますし。狙いは明らかに師匠……フィリップさんだったので、慌てて戻ってきたら……」
動揺が収まってきたのか、イライザは二人の師匠が同時に話に上がったことに気付き、呼び方を変える余裕まであった。
彼女に失神からの自己覚醒を教えたのは、当然、先代の方だ。
「戻ってみれば僕らが血塗れで倒れてた、か。そりゃびっくりだね」
納得を装いつつ、フィリップの顔は険しかった。
数分──そんなはずはない。
いや意識を失っている間の体感時間なんか何の参考にもならないが、それでも一時間くらいは寝たような感覚だし、後頭部には温かさと柔らかさが残っているような気もする。
そこまで考えて漸く、フィリップの顔から緊張感が無くなった。
「どちらかの体感がおかしいか、或いは時間がズレている?」なんて大真面目に考えたが、
本当に時間がズレていても、落ち着いて眠気を払って考えてみれば、「まあそういうこともあるよね」程度のことだった。
「はい。天使の気配はしませんが……正直、それより遥かに恐ろしい気配が残っています。お二人とも身体に問題がないのなら、とにかく今すぐにこの場を離れましょう」
「……そうだね」
恐ろしい気配というか、むしろフィリップには心地良いのだが、とはいえ外神の気配の残滓だ。
獣は恐れ、逃げ出す。吸血鬼には好ましく感じられることもあるが、濃度が高ければ悪臭となる。人間の精神にも、あまり良いものではないだろう。
手早く荷物を纏めて森を出ると、日は傾ぎ、空は朱に染まり始めていた。
「うわ、もう夕方じゃん。早く野営地決めて準備しないと! っていうか寒いね!」
「僕ら、前、全開ですからね……」
じき真冬だ。
夕方の風は殊に肌寒く、血に濡れた服のせいで体感温度は更に下がる。せめて先に着替えればよかったと思うも、リュックを背負って森を出たのだから、
「さっさと野営地……っていうか、結局どっちに逃げるか決めてなかったね」
「キャンプを作ってからにしましょう」
「だね。取り敢えず街道を目指そっか。運が良ければ、警邏中の帝国軍に会えるでしょ」
三人の中で唯一土地勘のあるノアが先に立って先導する。
後ろをトコトコついていく二人は森の中で地図を見ていたが、「これは軍事的価値の高い、あんまり見ない方がいい代物だな」と察して、なるべく覚えないようにしていた。
その辺りの真面目さは、師弟でよく似ていた。
「会ったとして、僕が
「その時はあたしと勇者ちゃんが説得するよ」
頼りがいよりは、むしろ気楽さを感じさせる口ぶりのノア。
イライザも「お任せください!」とやる気を見せると、フィリップは「その時はよろしくね」と穏当な答えを返した。
いざそうなったら分からないが、今のところ、「面倒臭いし全部殺せばいいんだよ」という思いはない。
最高の枕でひと眠りして、今のフィリップは上機嫌……とまでは言わずとも、先ほどまでのストレスは吹き飛んでいた。
「でも、天使は神の意思を代行するもの。その言葉を否定するってことは、神の言葉を否定するってことですよ?」
「師匠。やっぱり、そういう言い方が駄目なんだと思います!」
嘲笑の滲む師の軽口を、弟子は困り顔で諫める。
尊敬する英雄が『冒涜者』などと呼ばれ攻撃されることは認められない。が、咎められる理由を態々自分から作るのもどうなのかと。
「えー、いいじゃん、別に。このぐらいでブチ切れて殺しにかかってくるほど狭量じゃないでしょ、神の使いなんだからさ」
「もう一発撃たれてるんですけどね。先生が防いでくれたやつも含めると二発、いやもっとか」
二人の先を歩くノアが、楽しそうに笑いながら軽口を重ねる。或いは軽蔑を。
フィリップは血が乾き始めたシャツとジャケットを不愉快そうに摘まんで答えた。
「でも失敗した。あんたは殺せなかった。或いは殺さなかったって可能性もあるけど、同じことでしょ」
ノアは振り返り、後ろ向きに歩きながら不敵な笑みを浮かべる。
「勿論、全能の神は失敗なんてしない。だから、あれはただの試練だったんだよ。突破されることも想定の内、神の掌の上ってね」
「な、なるほど……?」
そういうこともあるのか、と納得しかけているイライザの邪魔をしないよう、フィリップは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
とても都合のいい解釈だ。
フィリップにとっても、一神教にとっても、唯一神にとっても。誰にとっても。
魔王討伐に赴く人間を試したのだと言われたら、今回の件を聞いた誰も強くは否定できないだろう。必要性と正当性すら感じるかもしれない。
フィリップが死んだり重傷を負っていれば話は別だが、こうして無傷なのだから──そして「何故無傷なのか」が明らかではないから、「初めから殺す気はなかった。天使が試した後で治療したのだ」と言われても反論材料が無い。
フィリップは冒涜者の謗りを否定する必要もなく、「そういう名目の試練だったのだ」という言い訳を手に入れられる。
何も知らない一神教は「試練を乗り越えるなんて素晴らしい。おめでとう」としか言えない。
「試練などではない、お前は冒涜者だ」と言えば、それは天使の失敗を意味する。ついでに、聖痕者二人が教皇領に裁きの光と焼けた硫黄を降らせることになる。
唯一神は信仰の体を──神は無謬であり全能であるという体裁を守ることが出来る。
失敗を認めて再び、或いはより強力な天使を送り込んで来たら、まあ、その時はその時だ。
外神が介入してもなお突っかかって来るほどの馬鹿では、流石に笑えない。
「全知全能万歳、だね」
揶揄に満ちた言葉と共に飛んできたウインクに、フィリップは声を上げて笑った。
◇
結局、一行は日が暮れる前に駅宿まで辿り着けなかった。
街道の側で野営の準備を終え、魔術で火を起こして見張り順を決めると、“昼寝”をしていないイライザはすぐに眠った。
逆に“昼寝”のせいで眠気が来ないフィリップは、最初の見張り番になったノアと焚火を囲んでいた。
星も月も見えない曇りの夜。
炎に照らされる範囲だけが世界で、この世には二人だけ──そんな錯覚をしてしまうほどのコントラスト。
オレンジ色の光のなか、ノアは徐に口を開いた。
「……それで? どうして天使が居なくなったのか。どうしてあたしたちの傷が治っているのか。あの森の変化は何事なのか。それを知らない、聞きたくてウズウズしてるあたしを可哀そうには思わないわけ?」
「はは……」
遠回しな催促は、気遣いと確認を多分に含んでいる。
何の説明もないことへの嫌味もあるが、それ以上にはっきりと伝わる。
言いたくないなら言わなくていいし、教えるべきでないと思うのなら教えなくていい、と。
友人への気遣いと自己保身。
ルキアともステラとも違う理由だが、ずっと自然で、ずっと──拒絶するのに罪悪感が無い。
「……えぇ、思いませんね」
フィリップは至極当然のように、何ら気負わずに言った。
吐き捨てず、突き放さず。しかし気遣わず、寄り添いもせず。1+1が2であることを告げるように、淡々と。
或いは、気の置けない友人同士の距離感で。
「何も知らないまま、無知の安寧の中で平穏無事に死んでください」