なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
日が沈むまで待ってみても、結局、駅宿の管理人は帰って来なかった。
雪と風はどんどん強くなり、
閉めた雨戸が時折軋み、屋根に積もった雪が落ちると建物が僅かに揺れる。
放置されていたものをカノンが仕上げた食事を摂り、取り敢えず、三人一部屋で寝ることにした。
当初の予定通り、フィリップとカノンとアンテノーラの三人。カイナは廊下を挟んで向かいの別部屋だ。
長旅やサイサロス絡みのあれこれで疲労は溜まっていたし、お化けに怯えながらでも目を閉じれば眠りに落ちた。
しかし不安が眠りを浅くしたのか、ふと目が覚めた。
外はまだ吹雪いているようで、カタカタと鳴る雨戸の向こうに風の唸りが聞こえる。
月や星の明かりも無い完全な暗闇の中、魔術で灯した指先サイズの火を頼りに、枕元に置いた懐中時計を確認する。
二時三十分。当然に午前。真夜中も真夜中だ。
「……起きてる人」
暗闇の中に囁くように問う。
吹雪の唸りに掻き消される程度の小声だったが、反応はあった。
「人魚さんはスヤスヤです。ちなみに私は今のお声で目が覚めました。フィリップ様じゃなきゃ永遠に眠らせてるところですよ」
足元側にあるソファから返事がくる。
言葉の通り、隣のベッドは無反応だ。頼りない光源では寝顔までは見えないが、答えが無い以上は寝ているのだろう。
「……お化けって斬ったら死ぬかな? 銃は効くと思う?」
「あの、不毛な妄想で寝られなくなるぐらいなら、もう目を閉じて黒山羊でも数えててください」
「今度は悪夢で跳ね起きそ、う……」
軽口が尻すぼみに消える。
風の音と、建物が揺れて軋む音、二人の話し声──それら雑音の合間を縫うようにして、なにか硬い音がした。
寝惚けて幻聴がしたとか、聞き間違えたわけではない。一度きりではなく今もまだ、確かに聞こえている。
こつ、こつ、と。
一階から階段を上がり、フィリップたちの部屋のある二階に至る足音。
ゆっくりと廊下を進み、徐々に近づいてくる。
「えっ出た?」
フィリップは毛布に包まったままもぞもぞと動き、ベッドの傍に置いてあった剣を取った。
「宿の人かお隣の商人かエルフか、雪の中なんとか辿り着いた旅人か──じゃなきゃお化けですね。っていうかお化けって足音するんですか?」
欠伸混じりに言いながら、カノンはソファから体を起こす。
彼女は緩慢な動きで部屋の中を巡り、ドアの側とベッドサイドにあるランタンに火を付けた。
ぼう、とオレンジ色の光が広がり、家具の配置とお互いの姿が認識できる程度には暗闇が払われる。
足音はもう殆ど部屋の前に迫っており──扉の前を通り過ぎて行った。
「……真面目な話、あの自称商人の方が警戒すべきですよ。フィリップ様一人を孤立させようとするのは怪しすぎます」
「僕の持ち物なり命なりが狙いだったとしても、理由が「お化け」っていうのは──、……」
フィリップは途中で言葉を切る。
再び足音が近づいてきた。
一度は廊下の突き当りにあるイザベラの部屋に向かったようだが、扉の開閉音はしなかった。
どうやら、部屋には入らずに廊下を引き返してきたらしい。
「……宿の人ですかね? 見回りとか?」
「どうだろう……」
足音からして、底の硬い、恐らくはヒールのある靴だ。
それに、足音を殺そうという気が微塵も感じられない、適当な歩き方。
夜襲を目論んでいるとは思えない適当さだが、寝ている客を起こさないようにという気遣いもない。丁稚がやったら女将の拳骨が飛んで来るような無作法だ。
「……血の臭いがします」
「じゃあ賊かお化けの二択じゃん……」
フィリップも気合を入れて毛布を脱ぎ、シャツの袖や裾から這い上がってくるような冷気に身を震わせながら、慌ててジャケットを羽織る。
そして剣を抜き、カノンと共に扉の横へ身を潜めた。
賊だろうがお化けだろうが、ほぼ確実に先制奇襲できる位置取りだ。まあお化けに剣が効くかはともかく。
そんな中で、規則正しい寝息に毛布を上下させるばかりで、一向に起きて来ないのが一人。
「……アンテノーラ?」
「声かけたくらいじゃ起きませんよ。強めに揺すらないと」
「えぇ……? まあ、いいか……」
相手が本職の戦士や魔術師でもない限り、対人戦闘で“歌”は過剰だ。
室内戦では拍奪も龍貶しも万全の威力を発揮できないが、カノンもいるし、ペッパーボックス・ピストルもある。生半な相手には負けない。
フィリップはジャケットの内に手を入れ、慌てて付けたホルスターの具合を確かめる。
直後、ばん! と大きな音を立てて、部屋の扉が叩かれた。
「びっくりした……」
暴発したのかと思った。タイミング的に。
扉は断続的に叩かれ、ばんばんと喧しい。
それほど強い力ではないが、寝ている人間を叩き起こすには十分な音がしている。手首を使ったノックなんかではない、腕や体を使って打ち付けているような音だ。
「ブチ殺しましょうか」
「待て待て開けないで」
鍵に伸びたカノンの手を叩き落とす。
ぺちりという小さな音か、はたまた二人の囁き声が切っ掛けか、扉への度重なる暴行がぴたりと止まった。
「…………」
音が止んだかと思えば、今度はかりかりと引っ掻く音がする。
どう考えても管理人のすることではない。
かと言って賊の仕業かと言うと、そんな感じでもない。
元は貴族の別邸だったというだけあって、部屋の鍵は扉と一体型の高価なやつだが、物理的に頑健なわけではない。
扉も高価な木材だが、特に補強されているわけでもなく、斧や槌を持ち出されても中の人間を守れるような強さはない。
本気で悪意を持った賊なら、容易にとは言わずとも早々にブチ破れる程度の強さだ。
となると、やはり。
「か、怪奇現象!? ホントにお化け!?」
「見てみればいいじゃないですか。案外、誰もいなかった──みたいなオチかもしれませんよ」
再びドアノブに手を伸ばすカノン。
フィリップも再び、「血の臭いがします」と自分で言っていた間抜けの手をぺちりと払い除ける。
「無いないない。開けるって選択肢は絶対ない。絶対なんか居るって。ぜーったい」
「じゃあどうするんですか?」
「うーん……十字架も銀の弾丸も邪悪特攻武器もないし……」
あったとて、そもそも効くのかどうか。
まあ銀の弾丸に関しては、弾頭重量と炸薬性能次第ではいい感じの威力を持ちそうではあるけれど。とはいえ、それも物理攻撃が効かないのなら意味がない。
十字架とかいう根拠不明のオカルト的対抗策まで含めて、手持ちのカードは何もない。
そう悟ったフィリップは小さく溜息を吐き、徐に左手を伸ばした。
「……ふんぐるい むぐるうなふ──」
「きゃぁぁ!? ちょ、待って! 待ってください! そんな精神状態でクトゥグア召喚なんか使って
悲鳴と共に飛びつくように口を押さえ、カノンは無理矢理に詠唱を中断させる。
暴発というかヤマンソの介入……乱入は、従者云々を抜きにしたミ=ゴの兵器としても十分に恐怖の対象だ。
なにより今のフィリップは「ヤマンソか。まあお化けは殺せるな」みたいな、ぶっ飛んだ受け入れ方をしかねないのが怖い。
地球、いや太陽系を救ったカノンだったが、その悲鳴は正体不明の訪問者の気に障ったらしい。
再び、扉をばんばんと叩く音がし始めた。
今度は扉が僅かに揺れるくらいに力が籠っている。
「じゃあどうするのさ! シュブ=ニグラス? ナイアーラトテップ? ヨグ=ソトース? 真なる闇? マイノグーラ? グロース? ウボ=サスラ? 誰ならいい?」
「外神の名前を列挙するのやめてください。そして私に聞かないでください。私が挙げなかった外神が私を殺したら責任取れるんですか」
本当に嫌そうな声色だった。
外神の怒りに触れることへの恐怖と、「その死に方はちょっと」という苦笑も混じっている。
フィリップにしてみれば知ったことではないというか、それどころではない。
扉を叩く音は強くなったり弱くなったりするが、まだ続いている。木材を割るとか蝶番を壊すとか、破壊突入が可能な強さではないが。
「ねぇホントにどうするの? 滅茶苦茶扉叩かれてるけど。これブチ破られたら死ぬタイプ? それとも死ぬより怖い目に遭うタイプ?」
「……どっちでも大丈夫じゃないですか? フィリップ様なら」
安心させるような言葉だが、投げやりな口ぶりだ。
アザトース以下全外神真体を目にした人間を恐怖で殺せるものなら殺してみて欲しいところだし、物理的に殺しに来るようなら邪神を呼ぶ隙さえ作れば勝ち。
何を恐れる必要があるのかと、カノンは首を傾げる。
「大丈夫とかじゃないの! 怖いのが嫌なの! ゴキブリが顔にくっついたって死にはしないけど死ぬほど嫌なのと一緒!」
「はあ。全く共感も理解も出来ないんですけど、そうなんですか? いえ、フィリップ様の感覚とか絶対に共感も理解もしたくないんですけど」
アンテノーラが起きていたらまあまあ強めにシメられそうな暴言だったが、フィリップに関しては聞いてはいても理解は出来ていなかった。
興味関心の100パーセントが扉の外に向けられていて、カノンの言葉は左耳から入って頭蓋を滑り、右耳から出て行くような有様だ。
「入れて……入れてよぉ……」
そこに、新たな声がした。
扉の外から、吹雪の唸りに掻き消されそうにか細く、虚ろな声が。
「ねぇ喋った! 喋ってる! これ擬態かな!? 言葉の意味じゃなく音を真似てるだけのやつかな!?」
もはやドアの横に潜伏している意味もないという判断──ではなく、混乱するあまり正常な判断力を失ったフィリップは普通に叫んでいる。
言葉の内容にも声量にも、カノンは胡乱な目を向けた。
「……なんか、妙に怪奇現象に詳しいですね? 苦手なくせに」
「未知を踏み越えるには勇気より知識が重要なんだよ」
剣を両手で握り締めて震えながらも、したり顔で言うフィリップ。
友達と怪談だの都市伝説だのの噂話をする性質ではない、というか、友達の母数が少なすぎてそんな友人がいない以上、情報源は書籍の類だろう。
つまり「無理矢理聞かされて」とか「世間話かと思って聞いてたら」とかではなく、意図的に情報を集めている。
まあ児童書や冒険譚の類でホラーやオカルトがテーマの物語もあるだろうが、本気で避けたければ予兆があった時点で本を閉じればいいだけの話。
不可避の謁見とも、与えられた智慧とも違う。
自分から求めて、手を伸ばした知識だ。それが自分を苛もうと自己責任というか、自業自得というか。
「怖いもの見たさでしょう。高尚な言い方をしたとて、間抜けは間抜けですよ」
ホラーものを読んだ日は心なしか暗闇に恐怖を感じていた
「中に……入れてよお……」
再びの声。
扉に阻まれているというだけではなく、不自然に反響しているように判然としないが、どうやら女性のものだ。恐らく、年若い妙齢の。
「これはアレだ!扉を開けたら「身体の中に入れてよお」とか言って、身体を乗っ取られるやつだ!」
「余計な知識ですねえ」
カノンはガスマスクの下で重い溜息を吐いた。
どんな物語を読んだのかは知らないが、正常な判断が出来なくなるのはやめてほしい。
従者の切実な思いを余所に、フィリップは左手に銃を、右手に剣を握り締めて震えている。
「身体の記憶を読み取ってその人に成り代わるんだ……それで誰も気付かないまま……」
「……どうしたんですか?」
ふと言葉が途切れ、カノンは億劫そうに尋ねた。
不毛な妄想で恐怖の自家中毒に陥るのは、想像力を有する知的生物にありがちな欠陥だ。
かと言って、正常な判断と思考を取り戻させるためにぶん殴ったりすれば、次の瞬間にはカノン自身の首が飛ぶ。物理的に。剣とか蹴りとかではなく、それこそオカルトじみた不思議な力で。
幸いにして、フィリップは怪談話の記憶と想像力から恐怖心を増幅させていたわけではなく、むしろ理性的な思考をしていた。
「仮に僕の身体を乗っ取ったとして、そのまま王都に戻ったら、それこそ死ぬより悲惨な目に遭うんじゃないの」
「まあ、そりゃあそうでしょうね。というか、たぶん乗っ取った時点でアウトですけど」
逃げ場を探すように頼りなく揺れていた青い瞳が、今度は思考の海を漂うようにゆっくりと流れる。
「っていうかそれって精神干渉? どういう類の存在かは知らないけど、三次元世界に収まってる時点で程度が知れるし、シュブ=ニグラスの防護を貫けるとは思えないけど」
「そんな視点を持てる奴は、「おばけこわい」とか言っちゃダメだと思うんですよね」
カノンはもはや半笑いだった。随分と苦い笑いではあるが。
この後どうなるかはフィリップの心次第だが、ハスターが呼ばれようが、クトゥグアが呼ばれようが、その“対お化け要員”すら「三次元に収まっている時点で程度が知れる」と言っているのだ。
これで自分を棚上げしているなら可愛げもあるが、自分も含めた全てを嗤っているのだから性質が悪い。
お化け退治に邪神を使うことに関しては、もうこの際、目を瞑るとして。
「入れなさい……中に……」
扉を叩く音は引っ掻く音に変わり、声はおどろおどろしくトーンを下げる。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえたが、どちらも不自然な反響による錯覚かもしれない。
「こっちの言葉が通じてないのかな……?」
「言葉を理解できることと内容を理解できることは別ですからねぇ……。答える能力があるかどうかも」
あー、と思い出したように零したフィリップは、銃をホルスターに戻し、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは、
ぷにぷにと弄んでいると力が入ったのか「ぷぴ」と鳴いた。
思い出したのはそれ──ではなく、サイサロスだ。
あれは人語を解する解さない、フィリップの命令に従う背く以前に、そもそも声を聴くという機能を持っていなかった。
なんとも言えない間抜けな表情のアヒルと気の抜ける鳴き声に、フィリップは小さく笑った。
「ふふっ。……怪談噺のパターンで言うと、こういうタイプのお化けって「誰の悪戯だ!」とか言って扉を開けたら終わりだけど、耳を塞いでガタガタ震えてる分には無事で済むんだよね」
「終わりってつまり、「その後彼の姿を見たものはいない」で完結って意味ね」と、なんだか余裕そうな補足をするフィリップ。
実際、勝ち筋──ではないにしろ、無事に終わるパターンの展開を思い出したことで、ちょっと余裕が出来ていた。
恐怖で纏まっていなかった思考も、論理性を持った興味と思索に染まり始めている。
それはそれで、今度は「ちょっと捕まえて
「パターン……。フィリップ様、傾向分析できるくらいホラーもの読んでるんですか? それが駄目なんじゃないですか? 恐怖は想像から、想像は知識からですよ」
まだ呆れ混じりではあるが、フィリップの調子が戻ってきたことで、カノンの表情にも揶揄うような悪戯っぽさが戻り始める。
すると今度は、その普段通りの表情がフィリップの気持ちを落ち着かせた。
「でも未知の暗闇を払うのも知識だけじゃん……。いや、それは今はいいんだよ。とにかく、寝たら勝ちなんじゃない?」
「……眠れるんですか? こんな状態で?」
扉が叩かれ、引っかかれ、恨み言のような声がする。
外は吹雪で、時折雨戸が音を立てたり、建物が軋む。
とても安眠できる状態ではない。
まあ横になって目を瞑っていれば、正常な睡眠の八割程度まで効率が落ちるとはいえ休息にはなるけれども。
「じゃあお化けを殺してその首を持ってこい」と言われれば、給仕としては喜んで従う所存だが、どうも命令を下すつもりもなさそうだ。
首を傾げたカノンに、フィリップはぐっと親指を立てた。
「大丈夫。シルヴァを抱いて、トルネンブラに子守歌を歌ってもらう」
「トルネンブラに子守歌を……? 盲目白痴の魔王の無聊を慰める生きた音に……? ホントになんでお化けなんかが怖いんですか?」
怖いものは怖いんだよ、と反論になっているのかいないのか自分でも分かっていない反駁を、フィリップが口にしようとした、その時だった。
白いなにかと、赤いなにか──いや、一部が赤色に染まった白いなにかが、扉も壁も存在しないかのように現れた。
木材をすり抜けたのか、木材の表面から煙のように現れたのか。
「──、っ!?」
純白のウエディングドレスに身を包んだ、細身の女。
ヒールを足して、フィリップより拳一つほど背が高い。殆ど同じ高さにある顔は薄いレースのヴェールに隠され、ランタンの小さな明かりだけでは全く判別できない。
ヴェールを飾るレース──いや、違う。よく見れば、それは飛び散って固まった血液だ。
顔と、胸元と、腹と、腰のあたりまでがべったりと汚れている。
だらりと垂れ下がる、編みレースのウエディンググローブが飾る細腕。その先には、血に濡れた無骨な短剣が一振り。
全身を彩る赤色を認識した直後、鼻の奥に鉄錆のような臭いがツンと刺さった。
返り血、にしては多い気がする。
敢えて首や心臓を狙わず苦しめて殺すことの多いフィリップをして、いや、だからこそ分かる。
一人二人の血液量ではない。
もしも一人や二人でここまで汚れたのだとしたら、血が飛び散る殺し方をしたうえで、意図的に浴びたのだろう。
故に、たった一瞥。
それだけで、フィリップにも覚えのある強烈な動機──深い憎悪が見て取れた。