なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
ぺち、と頬を叩く。
その手は震え、血流が失われたかのように冷えていたが、思考は至って平常だった。
「あぁ⋯⋯。やっぱり面倒なんだよなあ、これ」
遺伝子に刻まれた本能で恐怖したような反応を呈する肉体と、今更三次元存在なんかに怯えることはない精神の乖離。
空腹や尿意のように不随意の反応に、フィリップは鬱陶しそうに溜息を吐き──そんなことをしている場合ではないと、慌ててルキアとステラの様子を確認する。
二人とも狂乱に陥って逃げ出すような性質ではないが、龍の殺気に慣れているとは思えない。
流石に距離があって詳しい様子までは分からないが、ルキアたち三人の前に魔術防護は展開されていない。
もうあと数秒とせず、王龍の魔術が撃ち出されるというのに。
「……」
息を吸い、止める。
叫ぶために取り入れた酸素が頭を回し、「声が届くだろうか」という懸念を脳裏に過らせた。
一瞬以下の逡巡の後、フィリップは魔剣を捨てて右手をジャケットの内に滑り込ませる。
内ポケットよりさらに奥、脇腹に据えたホルスターへと。
きん、と小さな金属音と共に銃身をブレークオープンし、ベルトから薬莢を取って装填する。
ちゃき、という音で完全閉鎖を確認しつつベルトポーチからパーカッションキャップを取り、撃鉄を起こしてセット。
狙いは大雑把に、2キロ先にある50メートルの巨体──見掛け上は3センチ程度の的。
頭とか心臓とか言っていられないし、ましてや眼球など狙える距離ではない。そもそも射程が足りていない。
故に、これは効力射でもなければテストにもなりはしない、ただの警告だ。
それも、龍ではなく味方への。
「記念すべき実戦の第一射が、こんな音の出るクラッカーみたいな運用とはね!」
愚痴混じりのトリガープルに、道具は素直に応じた。
撃鉄が火薬を叩き、銃身内の紙薬莢から炸薬へと火を繋ぐ。
赤色の紙薬莢に包まれた、ペッパーボックス・ピストルとは桁違いの膨張力を持つ特殊火薬。
その爆発が響かせる重厚な炸裂音は、放心状態の人間を叩き起こすほどに鮮明だった。
「っ!」
間一髪、龍のブレスが漆黒の球体に阻まれ、幾筋かに分かれて逸れていく。
分化して威力を落として猶、地面を抉っているが──壁は無傷だ。
「……音の出ない
「いや、ない。焦って変なこと言っただけ……」
のんびりした楽器にも自分自身にも苦笑しつつ、フィリップは適当に捨てた魔剣を拾い上げ、改めて龍を見遣る。
まだ意識は向けて来ない。
大音響に反応して一瞥を呉れたのは、“歌”によって強化された視覚で辛うじて判別できたが、その程度だ。
いや、まあ、口がこっちに向いたら終わりではあるので、全然構わないけれど。
「所有者様。勇者が仕掛けるようですわ」
アンテノーラの視線の先では、六翼をはためかせる少女が、今まさに手にした直剣を炎の柱に変えたところだった。
殺気に怯んでふらふらしていたが、銃声で我に返ったらしい。
まだ龍との距離は開いているが、突撃を敢行するつもりか。
「うん。……僕らももう少し距離を詰めようか。正直、この距離からあのサイズのモノを斬るイメージがつかない」
ということは、つまり、ヴォイドキャリアの能力解放をしても、斬線の設定が出来ないということだ。
下級吸血鬼レベルに引き上げられた脚力を全開に駆け出せば、彼我の距離はぐんぐんと縮まり、指先大だったトカゲの正しい大きさが露になっていく。
1.5キロ。龍は依然としてルキアたちと戯れている。
1キロ。聖痕者の魔術が苛烈さを増すも、耐性に阻まれて鱗に届くことすらない。
500メートル。
ぎゅん、と。
龍がこちらを向いた。
収縮した縦長の瞳孔が驚愕に揺れ、嫌悪感を滲ませて眇められる。
「ッ──!」
人間以上の速度とはいえ、言ってしまえばトコトコ近寄って行っただけの現段階で、魔剣の能力解放すら使っていない時点での反応としては予想外に大きい。
巨龍は暫し矮小な生き物を見つめたあと、どこかうんざりしたような空気を漂わせ──のそりと緩慢な動きで立ち上がった。
やる気も殺る気も感じられない、巨体に相応しい鈍重な動作。
翼を震わせ、四肢が地面を踏みしめて巨躯を持ち上げると、フィリップたちの足元まで振動が伝わる。
これは、とフィリップは目を瞠った。
これは恐らく、ヤバいやつだ。多分、“
かったるそうな動きで四足歩行状態になった龍は、完全にフィリップと正対していた。
真っ直ぐにこちらを見つめている、と500メートル離れたフィリップにも分かる。“歌”による視力強化が無かったとしても、恐らく。
「カーター君、それ以上近寄らないで! 防御魔術が乱される!」
上空から降ってきた警告に応じるまでもなく、フィリップはじりじりと後退って距離を取ろうと試みていた。
幸いにして、王龍の反応は苛烈ではなかった。
ただフィリップをじっと見つめているだけだ。とはいえ安全だとは感じない。
先刻まで寝転がっていた王龍は、今は立ち上がっているのだ。
坂の下、クレーターの中心から動かないものの、こちらを注視している。
見つけた害虫が、近くに飛んで来たら叩き落せるよう観察している。そんな印象を受けた。
「……」
フィリップは後退を続けながら、龍から視線を切って顔を動かし、視野を広く取った。
全員健在だ。
ルキアの防御は王龍の魔術を完璧に遮断し、ステラとノアを守っている。イライザとヘレナは上空にいるからか、王龍の意識外──目も留められていない。
完全な敵対状態になっていない今のうちに「すみません間違えました」とばかり撤退するのは、フィリップの中では結構アリな選択肢だった。
ターゲットピストル、というか、対王龍弾の試験がまだ出来ていないのは心残りだが、王龍をブチ殺して素材を持ち帰れば、鱗や筋肉への貫通性能は算出できるだろう。
存在格ガードをブチ抜けるかどうかは調べられないが、今はヴォイドキャリアの能力解放で、その最初にして最大の関門は突破できることが分かっている。
視線を動かして空を確認したフィリップは、ふむ、と一つ頷いた。
魔術信号弾は打ち上がっていない。
つまり、戦闘は継続だ。ステラはまだそう判断している──我らが司令塔はその必要性を感じている。
なら、今のところ末端戦闘員でしかないフィリップは従うだけだ。
いや、まあ、勇者のバックアップと思えば末端は言い過ぎにしても。パーティーの意思決定権を持たないという意味では。
「……、……ヴォイドキャリアを撃つべきかな?」
警告をくれたヘレナに尋ねようとして、宛先が思った数倍は高所に居たのでやめる。
さっきはあちらから普通の大声──喉に特別大きな負荷を掛けた風でもない、ただ張り上げただけの声が届いていたが、あれは魔術で増幅か後押ししたものだろう。
代わりに付き従うアンテノーラに訊いてみれば、適当に肩を竦められた。
知るか、というよりは、ご随意に、といったところか。どちらにしろアドバイスはナシ。
「先に銃のテストをするとしたら、一旦射程距離まで近づきたいんだけど、行けると思う?」
「具体的には如何ほどでしょう?」
「100メートルくらい」
「もっと強度の高い“歌”を解禁していただけるのであれば」
催促するような言葉に、ふむ、とフィリップは思案する。
つまり現状だと回避か治癒のどちらかが、或いは両方が間に合わなくなるということか。
一応の取り決めとして、フィリップの感覚や思考が人間のそれから逸脱し過ぎないよう、“歌”の効果量と効果時間には制限を付けている。
下位吸血鬼レベルを上回る強化は、必要な時に必要な分だけ使うピンポイント運用だ。
「アンテノーラ」
一言。
それ以上何を言うまでもなく、歌と曲が変調する。
ふう、と息を整えて駆け出せば、周囲の景色は平時の数十倍の速度で流れ去った。
その全てが把握できる。
足元の土が蹴立てられ、飛び散り、どこに落ちるのか。鬱陶しそうに魔術を展開した龍の、撃ち出した火球がどんな射線で飛来するのか。
見て、理解して、計算まで出来る。単純な脚力だけでなく、動体視力や思考速度までもが完璧に調整されている。
その端で、あぁ不味い、と他人事のように思った。
一歩で五メートル、或いはそれ以上を駆け抜ける人外の脚力。
走るというより跳んでいるような感覚は、或いは身体が逆風で持ち上げられている──本当に飛んでいるからこそかもしれない。
素晴らしい爽快感だ。
恐らく上位吸血鬼レベル。ミナの住む世界。そんな場合ではないのに、口の端が吊り上がるほどに気持ちがいい。
本気で跳べば、恐らく一歩で十メートル以上を刻むことも可能かもしれないが、流石にそれでは小回りが利かないからと自制する。
いや、制御しなければ勝手にそうなってしまいそうなほど、“歌”の強化幅が大きい。
普段訓練している領域からは完全に逸脱し、感覚と実際の挙動を確かめながら動いているような状態だ。
転倒するだけで簡単に死ねる速度帯。
飛来する数百の火球は、相対速度によって不可避となる。
「──!」
龍が低く唸り、数百の火球が波のように打ち寄せる。
悪臭を放つカメムシを払い除ける乱雑さで、眼前の空間は即死領域へと変貌した。
蒸発した土や鉱物の刺激臭が熱気と共に肌を打ち、目に刺さる。
しかし眩しいとか臭いとか熱いとか、弱音を吐いている場合ではない。
あと二十メートルも進めば、フィリップはそこに突っ込むことになる。地面を蒸発させ残留物をガラス化させる焼却炉の中に。
三歩か四歩。二秒と掛からないうちに。
フィリップは一瞬も躊躇わなかった。
僅かにも歩調を鈍らせず、一呼吸で肺を焼く灼熱空間に滑り込む。
その寸前で、空間に満ちていた炎と熱は完全に消失した。
海をひっくり返したかのような大瀑布が虚空から降り注ぎ、何もかもを消火したのだ。そして大量の水──蒸発しないどころか、お湯にもならないほどの水量だった──も、霞のように消え失せる。
道は依然として拓けている。
示し合わせてなどいない。
連携訓練も──
ノアの状況判断能力が只管に高い。流石は聖痕者と、フィリップは加速した意識の数パーセントを賞賛に割いた。
それが死に繋がった……なんてことはない。
ほんの僅かな余所事があろうと無かろうと、結果は変わらなかった。
「──、」
龍は小さく、しかしはっきりと不快感を滲ませて唸ると、全長50メートルにもなる両翼を広げ。
──飛んだ。
それはもう素早く、しかし悠然と。巨大な翼をはためかせ、長い尾でバランスを取りながら、舞い上がるような優雅さで。
ごろごろと雷鳴が響き、青天の霹靂が威容へと降り注ぐが、感電した様子もなく平然としている。
湖一つを凍てつかせたような氷柱、極高温のプラズマ球、全てを呑み込んでバラバラにする真空の渦も、龍を地面に縫い留めるどころか、爪の先程の傷も与えずに消えていった。
「おおっとぉ?」
ここまで詰めてきた距離が一気に広がる。
頑張ってというほどの労力は、歌のお陰で消費していないにしても──全長50メートルの巨体が、青空を背景にした黒い点になってしまった。
間抜けにも、フィリップは飛ばれることを想定していなかった。
というか、飛ばれたら終わりだと分かり切っているが故に、その先のことを詰めていなかった。
「ど、うしようか……?」
アンテノーラを振り返ってみるも、また小さく肩を竦められて終わる。
では、と司令塔の方を仰いでみても、信号弾は上がらない。
竜巻も斯くやという突風が吹いたはずだが、フィリップとアンテノーラの周囲は完全に無風だ。
二メートルほど離れた場所の地面がめくれあがって吹き飛んでいくのを横目に確認すると、もっと遠くにいるルキアたちは、姿勢を低くしてどうにか吹き飛ばされずに耐えているという有様なのに。
ヘレナとイライザの飛行チームは地上が無事であることを確認すると、猛然と追撃に転じた。
突風を纏った二人の速度は凄まじく、二つの黒い点がみるみるうちに小さくなり、殆ど見えなくなる。
縦方向の測距に自信はないフィリップではあるが、王龍のサイズと距離ごとの見掛け上のサイズ比からして、とにかく射程外であることだけははっきりしていた。
「うーん……。……?」
剣師龍相手に同じ状況になったものの、未だ対策の立てられていない展開だ。
打開策とまではいかずとも、せめてぽかんと空を見上げる以外のことが出来はしないかと首を捻ること数分。
背後から小さな音がして、フィリップは何とはなしにそちらを見遣る。
誰か──ルキアかステラが来たのかと思ったが、三つの人影は変わらず遠くにある。フィリップのいる位置より更に高所、まだまだクレーターの中心からも遠い位置だ。
気のせいかと再び空を見上げると、ぱん、と小さな炸裂音がした。
今度は間違いなく、はっきりとだ。
音のした方向──ルキアたちのいる方に目を向けると、空に視線が吸い寄せられる。
ドラゴンよりはもっと低い位置、見上げるのに苦の無い高さに、ぱらぱらと色の付いた火花が待っていた。
赤い花火──魔術信号弾。
黒なら
何があったのかと目を細めるフィリップは、頬にぽつりと雨垂れを感じて反射的に拭う。
その指先は赤く汚れていた。
「──、」
湧き上がる嫌な予感と諦観に促されるまま空を見上げると、ざあ、と雨のように色とりどりのものが降ってくる。
赤かったり、白かったり、肌色だったり、金色だったり。
サイズもまちまちだ。
雨粒のように土に吸い込まれる水滴もあれば、べちゃ、と汚い音を立てる破片もある。
更にその後に降ってきたのは、人間をバラバラにするには十分な攻撃だった。