なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
思ったより大きな音がした。
金属的に無機質で、悲鳴のように痛々しく、耳を劈く甲高さで、内臓を震わせる重厚さだった。
そして、思ったより綺麗に斬れなかった。
切創の縁が、キャンバスの布のようにぺろりと捲れ、ほつれている。糸が飛び出しているというより、絵の具が罅割れているような感じだ。
裂けた空の向こうには、極彩色の漆黒が広がっている。
なにもないのか、埋まっているのかは判然としない。平面なのか奥行きがあるのかも分からない。真っ暗なそこが、水に浮いた油のようなマーブル模様に波打っている。
その中を泳ぐものには、どろりと垂れた粘液のような触腕があった。
いや、或いは本当に粘液で、腕のように見えているだけかもしれない。背景と同じ漆黒のせいで、裂け目が溶け落ちたようにも見える。
裂け目に手を掛けたそいつは、三つの瞳がある七つの眼球でこちらを観察し、にたりと笑ったように目を細めた。
かと思えば、次の瞬間には山羊のような横長の瞳孔を持つ目になり、揺らぐように昆虫の複眼に変化する。
確固たる形を持ち合わせないのか、はたまた人間の脳では見ているものを正確に理解して解釈できないのか。
しかし一貫して、無数の目には邪な輝きがあった。
切り裂かれた世界の表層、その向こう側にいるそいつは、しばらく指先で王龍を弄んでいた。
しかし力加減を誤ったのか、矮小な生き物はぶちゅりと聞き汚い音を立てて潰れる。
怯えたように乱射された魔術、半狂乱で吐き出されたブレス、戦慄く巨躯を駆動させる高密度高出力の筋肉や硬い鱗や鋭い爪牙──そんなものは、それの前では蜂の一刺しにも満たない。
嘲るように光を揺らした視線は、次なる玩具を探して彷徨い──大きく見開かれる。
その視線は、真っ直ぐフィリップに向いていた。
目が合うことはない。
フィリップは失敗──いや成功かもしれない──を悟った瞬間に剣を放り出すと、背後にいたルキアとステラの目を覆い、呂律も怪しいほど慌てて叫んでいた。
「対爆防御!」
王龍をダンゴムシのように弄ぶ
さしものルキアとステラも、初見の、そして
まだ驚愕と衝撃が大きく恐怖に至らない、目の前の光景を噛み砕いて理解する段階にすら至っていないのは幸運だった。
「僕はいい、四人だけで!」
自分まで隔離の内に囚われては困ると、フィリップは少し落ち着いて──いや慌ててはいたが、最も大切な二人の目を塞いだことで多少余裕が出た──付け足す。
四人が黒い繭に包まれたのを見届けて、フィリップは尻もちを搗くようにへたり込んだ。
安堵──ではない。作戦通りなら“歌”で誤魔化すべき、魔力欠乏の症状だ。視界がぐにゃりと歪み、頭痛と吐き気が込み上げる。
「所有者様?」
「大丈夫。歌も要らない」
心配そうな顔をしつつも手を差し伸べはせず、むしろ目の奥に僅かな期待感を滲ませて竪琴を抱えるアンテノーラは、相変わらず自分の存在意義に忠実だった。
軽く手を振って自力で立ち上がれば、彼女は静かに頭を下げて背後に控えた。
「さて、バグ=シャース……バグ=シャース!? うわ、なんか変なとこ斬ったかも……」
今一つ回転の悪い頭で漸く事態を把握したフィリップは、崩れ落ちる次元の壁の向こうを見て、壁の向こうに広がる異形を二度見した。
旧支配者バグ=シャース。
ルーツは定かではないが、所謂三次元とは異なる場所に囚われた、この星に縛られた神格だ。
ふ、と視界が暗転する。
しかし意識は明瞭、思考もクリアだ。立っている感覚やアンテノーラの気配も分かるし、智慧から情報を引き出すのにも支障はない。
これはバグ=シャースの習性だ──あれは光を喰らう。
降り注ぐ太陽の光が、届いた側から消えているのだ。周囲が物理的に暗い。辺りは瞬時に夜へと落ちたようだった。
「アンテノーラ、暗視の歌とかない?」
「申し訳ございません。私たちは目が見えずとも音で周囲を把握出来ますので……一か月、いえ二か月以内には必ず、完璧なものをご用意致しますわ」
ない、ではなく、あるが歌うつもりはない、という答えに苦笑する。
そこまで忠実だと、もはや一周回って反抗的だ。
苦笑を浮かべて視線を正面へ戻すと、暗闇の中に浮かぶ暗闇が蠢いた。
液体のように不規則で、それでいて生物的機序を持ち、数式のように整然と──光を呑み込む塊は二次元的なのに立体だった。
フィリップは不可解な動きを気色悪そうに見遣る。
自分に向かってくるように思えるそれを──直撃すれば死に、至近弾でも吹き飛び、そもそもクレーター並みに大きく見える存在の一部が迫ることの意味を理解して、それでも。
ただ、見遣る。
それが明確な攻撃であることは、傍目に見ているアンテノーラには瞭然だった。
フィリップの人間の部分は、なんとなくそうかもな、と薄ぼんやり思っている。
そして──魔力欠乏によって睡魔の吐息を浴びたような意識の表層に浮かんだ外神の視座は、何も思わなかった。
足元に蟻を見つけて、「蟻だな」と思う以上の感慨を、何も抱かなかった。
嘲笑も無く、困惑もない。
蟻の動きをよく見ていれば、「こいつは威嚇しているな」とか「僕の靴に登ろうとしているぞ」と思うことはあるかもしれない。
だが、そこまでではなかった。
見てはいるが、見ているだけだった。視界に入ってはいるが、殆ど認識の埒外にあった。
そして、クレーターを埋め尽くすほどの暗闇の波濤はフィリップを呑み込み──その直前で、激しい火花を散らして跳ね返った。
闇は堤防にぶつかった波のようにうねり、引いていく。
バチバチとスパークが弾ける黒い靄が渦巻いたかと思うと、瞬きの後に、フィリップの眼前には巨大なヒトガタが立っていた。
「何故牢を開けた!!」
銀灰色の霞と、星々の間を満たす黒色とが像を結んだ曖昧なヒトガタ。
目のように思える緑色の炎が揺らめき、足元の人間を忌々し気に見下ろしている。怒声を吐き出したはずの口は見当たらなかった。
暗闇の中に浮き上がる輪郭は、円や球、曲線や錐体といった幾何学的図形の集合にも思われる。有機的、生物的な生々しさや生命の気配が感じられない。
旧支配者の看守、ヴォルヴァドスだ。
「すみません! 事故です!」
怒られた、と認識したときにはもう、フィリップは反射的に謝っていた。
「ミスをしたら報告と謝罪」は子供の頃からの習慣であり、今では
“魔王の寵児”が旧支配者の看守なんぞに謝るのかと、ヴォルヴァドスはひっくり返りそうに見えたが、フィリップにしてみれば
「……そうらしい。どうやら仲間とは思われていないようだからな」
ヴォルヴァドスは苦々しく、しかし僅かに安堵したように呟く。
外神と旧支配者が手を組んでいないことに安堵したのか、単に外神が敵に回っていないことにか──まあ、前者は後者を前提としているみたいなものだが。
「ん? まあそりゃあ──」
再びヘドロがうねり、暗闇の中に波が起こった。
フィリップの言葉を遮ったのは全く無音の内に行われたその攻撃ではなく、大きく腕を広げてそれを消し去った暗雲から迸った稲妻の轟音だ。
人間の鼓膜を破るには十分な爆音は、しかしフィリップの耳には多少不快な大音響程度にまで軽減されて届く。
守られた。それだけはフィリップも直感的に理解できた。
「今のって僕狙い?」
「そうだ」
そりゃそうだろうと言いたげに呆れを含んだ声だった。
思ったより人間らしい感情が見えて、フィリップの人間的でない部分が少しだけ親近感を薄める。人間の部分は勿論、親近感を強くしたが。
「……僕の知識って外神由来だから大雑把なんだけど、バグ=シャースって知性がないの?」
ヒトガタを象った黒い星雲が奇妙に蠢き、「いいや?」と冷たい声で否定する。
しかし明確に否定されてなお、フィリップは疑いを捨てきれなかった。というか、態々答えたヴォルヴァドスと、その答えを疑っていた。
知性を持つ存在のやることじゃあないだろう。命令や契約なしに、自発的に敵対してくるなんて──と、ごく自然に。
陸と空の狭間にぱかりと開いた裂け目の向こう、真っ黒なヘドロが蠢き溢れ、闇の中で何かを咀嚼しているのが聞こえる。
光か、龍か、地表か。別にどれでもいいけれど。
「縄張りを荒らされたとでも思っているのかな……。もしくはびっくりして錯乱中とか? いやまあ、どうでもいいんだけど──」
適当にクトゥグアでも呼んで吹き飛ばせばいいだろう、とフィリップは左手を伸ばす。
陽光が呑み込まれ冷え冷えとした暗闇に、光源はヴォルヴァドスの内で瞬く小さな星とプラズマだけだ。普通なら狙いも何もあったものではないが、それは暗闇の中ならばの話。
暗闇の中でもなお浮き上がるほどの黒、極彩色の漆黒、光を食む闇の奥──罅割れて崩れた空間の向こう側を指し示す。
あちら側──ここではない空間。ヴォルヴァドスの守る監獄、バグ=シャースを収める監房を。
そこならば、最悪“ハズレ”が出ても問題ないし。
いや、何ならハズレが出た方が、余計なゴミも一緒に焼却できていいかもしれない。
ぼんやりとした計算の下、適当に考えて口を開いたフィリップだったが、祝詞はその一節目すら音には乗らなかった。
「知性が無いという認識でも問題ありませんよ」
不意に横から降ってきた、耳触りの良い耳障りな声。
耳朶を打つ蕩けるような囁き声に飛び退くと、漆黒の髪と、ぽっかりと穴の開いた顔があった。
すらりとした長身は漆黒のカソックに覆われ、頭部の空洞には無数の星々が瞬いている。
眼前のヴォルヴァドスが星雲を宿した身体であるのに対して、無貌は一つの宇宙だった。
「ニャルラトテップ!?」
「うわびっくりした!」
驚愕と警戒を露に、星の看守が身構えて叫ぶ。
フィリップもフィリップで、突然現れていきなり声を掛けられたことに対する驚きから、猫のように飛び退いた。
「ははは。全く愚かしいですね」
星空の顔は揺らぐことなく、しかし明確に嘲笑を含んだ声がする。
目の前のヒトガタの喉から出ているようにも、もっと遥かに遠い場所から届いているようにも、天上や地底から響いているようにも聞こえる、けれど聞き慣れたいつもの声だ。
あ? とフィリップはいつになくガラの悪い顔と声で聞き返す。
ナイアーラトテップにしては直球の嘲弄と悪口だったことに、いつもなら疑問が浮かんだだろうが、今は魔力欠乏の倦怠感もあって機嫌が悪かった。
ドスの効いた声に、ナイ神父はむしろ嘲笑を深める。
尤も、星空の顔に表情などなく、フィリップがなんとなくそう思っただけだが。
「自らのルーツを知らない蒙昧も、自らが産み落としたモノすら認知できない盲目も。せめて自分の
ん? とフィリップは今度は首を傾げる。
嘲笑の宛先は、どうやら自分ではないらしいと察して。
ふと視線を感じて空を仰ぐと、眩く輝く漆黒の太陽が三つ、嘲笑うように歪んでいた。
煌々と降り注ぐ黒い光に目を刺され、ぱちぱちと瞬きを繰り返して残像を振り払う。
「旧支配者の牢に囚われるような駄作ですよ、あれは。ここで嬲り殺すことには何の意味もないのですが……」
爆音がした。
いや、音は全くしなかった。
いつの間にか第三の巨大な存在が現れ、魂を震わせるような金切声を、或いは大地を揺らすような低い唸り声を、月まで届くような遠吠えを上げていた。
それは黒い肉の塊であり、渦を巻いてうねる触手の塔だった。
三本の脚が大地を踏みしめ、血の色をした舌のような触手が伸びている。
ありもしない顔は悪意と憎悪を譫言のように垂れ流しながら吠え立てているが、邪悪言語を理解するフィリップには、それが聞くに堪えない罵倒にも、そもそも聞く価値のない三文芝居の科白のようにも聞こえた。
次元の裂け目から現れた粘液のような闇よりも、星雲を宿した曖昧模糊とした巨人よりも更に巨大で、更に見るに堪えない異形。
構成要素は生物的な肉と触手なのに、およそどの生物とも近縁しないだろうことがはっきりと分かる。
「駄作。駄作ね……」
ふうん、とフィリップは口を開かないまま怪訝さを音で示した。
ナイアーラトテップが化身を三つ、同時に顕現させている。それは勿論、無数の姿を持つ無貌の邪神にとって、何ら特別なことではない。
しかし、過剰ではある。
眼前の劣等種を蹴っ飛ばすのに過剰、という意味ではない。いやそれもあるけれども、そういうことではない。
外神が何かをするのに、態々化身を通じて行う必要は無いのだから。
敵を排除する必要などない。敵など居なかったことにすればいい。
低劣な生き物を踏み潰すのは、少なくともその排除を目的とした最短最速の方法ではない。
そこまで考えて、フィリップはすとんと落ちるように納得した。
人間を殺すのに、身体の内側から炭化させたり、肺を海水で満たしたり、四肢をバラバラに切断する必要はない。
しかし場合によっては、それを必要とする。無意味な残虐性、無為な
何故か。
それが目的だからだ。それ自体が。
それを目的にさせる
何かをするのを仕損じた馬鹿ではない。馬鹿なことをするために馬鹿なことをしている。
何かまでの道程で無意味な一歩を踏んでいるのではない。無意味なことをするために歩いている。
暇なのかな、とフィリップは眉根を寄せた。
「では──無為なる一幕にて、ご不興と束の間の無聊をお慰めいたしましょう」
漆黒の神父は恭しく腰を折り、ソファを示す。
いつの間にか、龍の吐息によって薙ぎ払われた不毛の荒れ地に似つかわしくない、高級感のあるソファがあった。
フィリップは魔剣を楽器に預け、飛び込むように腰を下ろす。
眼前では、暴力を目的とした暴力が振るわれ、惨劇を目的とした惨劇が始まっていた。
三つの太陽から降り注ぐ黒い光に眩く照らされ、明るい暗闇の中で黒が飛び散り、黒に消える、つまらない演目が。
「何も考えずに取り敢えず斬るって、よく考えたら剣師龍に止められたやり方なのかな……?」
至極退屈な光景をぼんやりと眺めながら、フィリップはぼんやりと思った。