なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
息を吸って、吐く。
脳に酸素を回し、高速戦闘による即時判断の連続と酸欠に、なるべく長く耐えられるように。
必要なのは速度。そして精度。ヴォイドキャリアを持つ限り、攻撃能力に筋力は殆ど寄与しない。
深呼吸を繰り返し、意識を研ぎ澄ます。
あからさまに「今から全身全霊の攻撃をするぞ」という風情ではあるが、龍はそんなもの気にしない。
ルキアたちの魔術砲撃はまだ続いていたが、魔力を温存しながらの上級魔術
“グスタフ”の意識は四割ほどが地上の聖痕者三人に、三割が謎の臭い虫に、三割が同族の加護を受けた人魚に向けられているが、どれに対しても敵意と呼ぶほどのものはない。
人間に準えるのなら、羽虫を軽く手で払う程度のもの。それも椅子に座ったまま、顔も動かさず。
そいつが立ち上がって殺虫剤を手にするその前に、決着をつける必要がある。
幸いにして、フィリップはうるさいだけの羽虫ではなく、強力な毒針を持った蜂だ。
叩き潰されたらそれまでなことに変わりはないが、レンジ次第では痛手を与えることもできる。
目標は100メートルよりもう少し遠くてもいいが、それでも斬撃線の正しいサイズを把握するにはなるべく近い方がいい。
かと言って、近付きすぎると“グスタフ”は外神の残り香を嫌って飛んでしまうだろう。
飛ぶ寸前にヴォイドキャリアを起動、翼を斬り落として飛行能力を奪うのがベストだ。
──やれるだろうか。
落ち着いて考えてみると、ここまで抱く余裕もなかった弱音が鎌首をもたげる。
──やれるんじゃない?
頭の中のポジティブな部分が楽観する。
──いや死ぬだろう。
頭の中のネガティブな部分、いや
ここまで既に、かなりの幸運が重なっている。
かなりの幸運が重なって漸く、王龍から500メートルのところまで来られた。それは分かっている。
ではその幸運は、この後も続くだろうか?
龍は飛ばず、ブレスも撃たず、聖痕者の防御が間に合わない攻撃も、アンテノーラの“歌”による治癒が出来ない即死攻撃もしてこない状況が、ずっと続く?
三年前に人生の不運を全て使い切ったような気もするが、幸運や不幸というのは縄目のように交互に訪れるとも言うし、そもそも運だけでどうにかなる相手でもない。
卓越した実力と類稀な幸運があってなお、ぷちっと潰されるのが普通。それだけの格差がある。
なんやかんやと考えて──結局、フィリップはそれらを全部放り投げた。
やることは決まっているのだ。
だったら頭を空っぽにして、そのまま駆け抜ければいい。
「アンテノーラ、“歌”はどのくらいまで届く?」
「ご配慮感謝いたします。ですが所有者様、貴方様が私の音楽を望まれる限り、私の身命と、喉への心配は御無用ですわ」
「そう? じゃあいいや」
それはそれで気色の悪い話ではあるが、まあ、とうに諦めはついている。
アンテノーラ──“生きた楽器”は
「──、」
竪琴がかき鳴らされ、天上の美声が溢れ出す。
500メートル先にある龍の眼の見据える先、巨躯に沿うように畳まれた翼の動き、舞い上がって落ちる砂粒の一つまでもを見分けるほどに意識が加速する。
最上級の肉体強化。
500メートル駆け抜けるのに4秒かかるかどうかという強化値だ。
しかし、これはそう長く維持できるものではない。
このレベルの強化を、フィリップの運動神経は扱いきれない。動きは大雑把になり、精彩を欠く。
ただ駆け抜けるだけなら問題ないが、ヴォイドキャリアの性質を思うと十分なネックだ。
接近し、“歌”を魔力欠乏の症状緩和に切り替え、可能な限りの精密さで翼を落とす。
ビジョンは見える。
まあ、後から「聖剣が先! 魔剣が後! 簡単なルールだったでしょ!?」とノア辺りにキレられそうなビジョンも見えるけれど、それはそれ。きっとステラがフォローしてくれる。
「ふぅ──ッ!」
腹を括って踏み出せば、人外の脚力が身体を一気に押し進める。
景色が凄まじい速度で後ろへ流れていくが、代わり映えのしない土と砂の色だ。ときどき火の玉とレーザーが瞬き、より大きな火球やエネルギーの塊のような光の束と激突して爆発したり相殺したりしているが、閃光も爆音もすぐに視界から出て行った。
あと数歩で龍まで200メートルというところで、聖痕者に向いていた龍の首が弾かれたような速度でこちらを向く。
縦長の瞳孔がきゅっと細くなり、視線が合ったのが分かった。
「無刃にて無尽を──」
──いやいや待てよ、とフィリップは目を眇める。
どうして僕は予め、詠唱なんて時間を取られることをやっておかなかったんだ、と。
それは勿論、高速移動や即時判断が要求される接近行動中に、魔力欠乏というハンデを負わないためだが──今まさに魔力欠乏に陥ったフィリップは、強烈な倦怠感を呼び水として思考を鈍らせてしまった。
感触も何も無くなった剣を振り抜く。
横一文字、刃を立て続けて真っ直ぐに。一切の力み無く剣の鋭利さに任せきり、しかし遠心力を完璧に制御して。
動作は完璧だった。
魔力欠乏による脱力や倦怠感を、“歌”が上手く補ってくれていた。
遠く、赤い飛沫が見える。
だが。
「クソっ──!?」
当たった。斬れた。
だが、
狙いが正確過ぎたのだ。
人間に可能な斬撃しか再現できなかった。そしてそれは、龍の翼を落とすには深さも大きさも足りない。
王龍の巨躯を浮かすだけの、強靭でしなやかな筋肉を持つ翼。
相応に太くがっしりとした骨格は、人間の振るう剣の刃渡りでは──フィリップが咄嗟に思い描ける“剣”の破壊範囲では、全然まったく及ばない。
──十分だ。
「──、ッ! ルキアっ!」
フィリップが叫ぶと同時、遠くに見える火力本隊の周囲が俄かに暗くなる。まるで厚い雲がかかったように。
そして光が瞬き──着弾と破壊に、空気が焼け付くほどの熱風と爆音が遅れてやって来る。
疑似的な質量を付与された光が、畏怖を振りまく翼膜に大穴を開けた。
一番大きな傷はそれだ。
さらに十以上の光の槍が龍の全身に突き立てられ、身体の至る所で鱗が沸騰して蒸発し、肉が焼け焦げている。
どこか驚愕の念を感じさせる唸り声と共に、巨体は小さくよろめいた。
手応えを感じたフィリップは「おぉ」なんて感嘆の声を漏らしながら、次はどんな魔術が飛んで来るのかと──最高火力がある程度の効果を発揮したのだから、今度は下限を調べるのだろうと──思って振り返ったが、火力本隊は黒い繭に隠れて見えなかった。
あれ? と首を捻る間もなく、漆黒の球体に大量の魔術が突き刺さる。
光弾、雷撃、火球、氷柱、岩塊。
怒り任せの反射なのだろう雑多な、しかし一撃で家屋を薙ぎ払うサイズと威力の攻撃を、重力子の壁は微動だにせず受け止めているが、反撃を挟む隙は見当たらないようだ。
上空ではヘレナとイライザが何事か相談しているのが見えるが、そちらも弾幕の怒涛を前にして迂闊に動けない様子。
もはや一切介入する余地のないフィリップは、「すごいなあ」と口を半開きにしていた。
と、間抜けな観戦者を横目に、王龍の身体がきらきらと輝き始める。
「あー……、正直想定してなかった、けど、納得は出来るなあ」
『明けの明星』でボロボロになった翼膜が、ヴォイドキャリアで切り裂いた翼の根元が、明らかに自然治癒の域を逸脱した速度で回復していく。
治癒魔術だ。
万能な魔術ではないが、魔力規模と体格が人間レベルなら、腕前次第では人体の骨亀裂くらいまでの怪我を数分で治癒できる。
龍の魔力規模なら龍の肉体を、同じく軽度から中程度の負傷までなら癒せるのだろう。
瞬時にとは行かないまでも、フィリップの見立てが正しければ翼は三分くらいで完治しそうだ。
「『明けの明星』が直撃して軽傷だったってこと? 化け物過ぎない?」
「いえ、所有者様。直撃ではありませんわ。防御魔術が多重展開されていましたから」
あの一瞬で、とフィリップは戦慄し──かけて、一体だれに対してそうすべきなのか分からなくなった。
『明けの明星』の弾速は光速だ。これを見切るとか、撃たれてから防ぐなんてことは物理的に在り得ない。
展開から発射までにラグはあるが、それだって一秒前後。
特徴的な予兆を目にして「あ、撃たれるな」と思った時には死が確定している。
それだけの時間で魔術の脅威度を測って防御した王龍が凄いのか、王龍の目測を上回る火力を押し付けたルキアが凄いのか、一瞬の攻防を把握したアンテノーラが凄いのか。
魔力欠乏で今一つ回転の悪い頭でぼんやりと考えていると、背後の人魚がくすくすと上品な笑い声を上げた。
「容喙を承知で申し上げますが、今なさるべきは、もっと物理的な逃避──退避かと存じますわ」
「そりゃそうだ……!」
“歌”で多少は耐久力も盛れているとはいえ、流石に『明けの明星』に巻き込まれたらお陀仏だ。
あれは全力──かどうかは定かではないが、とにかく火力を上げればもっと広範囲に破壊を撒き散らすようになる。それこそ、クレーターが出来るくらいに。
フィリップはまだ王龍から200メートル以上離れているが、ここから絨毯爆撃のフェーズと考えれば、一刻も早く聖痕者たちの火力圏から逃げ出さないと巻き添えを喰らう。
いやルキアとステラがフィリップを巻き添えにすることはない以上、そもそも最大火力の展開自体が為されない。
龍が翼を修復し終える前に離脱しなければ。
フィリップは踵を返し、どの虫から殺すべきか悩むように長い首を彷徨わせる龍に背を向けて、全力で走り出した。