なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
フィリップは夜の散歩が好きだ。
月の明るい、春先や秋の涼やかな、静かな夜ならいっとう好きだ。
では、隣──ではなく、一歩先を手を引いて歩く女神の存在は、要素としては加点だろうか。それとも減点だろうか。
無言裡に暫し考え、減点だな、と結論を出す。
これでは「月夜の散歩」ではなく、「マザーとの散歩」になってしまう。儚い三日月も、寂寥ある半月も、華やかな満月だって、彼女の前では添え物だ。
まあフィリップはステーキは単品ではなくショボいクリンクルポテトが付いていた方が嬉しいタイプ、何ならソースを舐めるためのパンまで欲しいタチなので、「マザーとの散歩」に「オマケの綺麗な月」があるのは大歓迎だが。
「どうして──」
思わず、声が途切れる。
それほどに美しいものを見た。
闇夜に浮かび上がる、僅かに身を捻って振り返る女性の肢体。
月の光を浴びた漆黒の喪服は、漆黒の布地をキャンバスに、精緻なレースの装飾を波のように照らし出す。
肌が粟立つほど淫靡なのに、美術品めいて無機質で、宗教画のように荘厳だった。
ヴェールの向こうから向けられる微笑は穏やかで、それでいて冷たい。
包み込むように柔らかく、小動物に対する愛玩と劣等種に向ける無自覚な冷笑とが混ざり合ったそれは、妖艶でありながらもフィリップには親近感を覚えさせる。
今の彼女を、ただの美人だと思う者はいないだろう。
造形としては間違いなく人間であるのに、脳は、人間以上の美を纏う眼前のそれを人間として認識できない。
魔性、と。そう呼ばれるモノを見た。
「──どうしたの?」
「──っ、あ」
蕩けるほどの愛情が籠められた声に応えようとして、フィリップは呼吸が止まっていたことに気が付いた。
少しだけ息を整えて、寸前まで考えていたことを思い出す。
その作業を必要としたことで、フィリップは一瞬だが思考さえ飛ばしていたことを自覚した。
「……どうして、貴女が? ハスターにでも頼めばいいと……いや、まあ、アレに頼り過ぎな気はしますけど」
「?」
穏やかな微笑を湛えたまま、しかし、マザーはヴェールを揺らして首を傾げる。
何を言っているのか全く分からないと言いたげなその仕草に、フィリップは自身の考え違いを悟った。
どうして、なんて、考えるまでもないことだ。
理由など無い。
少なくとも理性と合理に照らして納得できる思索、或いは凡人には理解できない遠大な策謀の類は。
ただ、彼女がやりたいから。
そう思ったから、そうしている。それ以上の理由も無ければ、それに関する勘案もない。
何か問題が生じたら、とか。より良いやり方は、とか。フィリップやミナでさえ──少なくとも平時なら──考えるというのに。
誰よりも完成している、誰にも左右できない化け物。
その在り方に、フィリップはほんの僅かな嫌悪感さえも抱かなかった。
「はは……。なんでもないです。そろそろ着きますけど、ちゃんと素材を残してくださいね」
「ええ、勿論よ。貴方の望むことは、全て叶えてあげる」
愛おしげに細められた月光色の双眸から目を逸らし、月が照らす道の先に向ける。
巨大な陥没跡と、遠い中心にある灰色の点。
数時間前に人類最強の小隊を片手間にあしらい、追い返した1000年規模のドラゴン──王龍“グスタフ”が、微睡みを払って身を起こした。
夜闇のなかで縦長の瞳孔が光を求めて開き、こちらを向いたのが分かる。
フィリップの視力では到底見て取れない距離だが、強大な生き物の意識が向いたことを、人体に刻まれた本能は鋭敏に感じ取って慄いていた。
そして──灰色の点が膨れ上がり、地上を離れた。
「──!」
遠く、雷鳴のように咆哮が轟く。
直線距離でも三キロは離れていたというのに、超越的な肉体を持つ神秘の生物は、絶対的な脅威と恐怖を感じ取って動いていた。
シルエットすら判然としない距離と暗さだが、王龍が1キロ上で滞空し、鼻先をこちらに向けているのは辛うじて判別できる。
フィリップが見たどの瞬間よりも、人間程度ではどうあっても経験できない本気度を以て、王龍は女を見据えていた。
ならばあとは、脅威にどう対処するかだ。
近づいてきたそれを、自分から動いていた遠ざかる──逃亡する?
あり得ない。
地上最強の生物種たる龍種に、1000年間の君臨に、その選択肢を生む経験は存在しない。
故に、一択。
王龍は翼をはためかせ、フィリップたちから一キロ程度の位置にまで
攻撃による排除──排撃こそ、龍が敵対者に取る唯一の解。
絶対強者として生まれ、永遠に成長し続ける怪物の、避けようのない陥穽だった。
「──!」
灰色の龍が天を仰ぐ。
月と星に照らされた威容が雲もないのに翳り、フィリップは目を瞠った。
大きく開いた龍の口。
剣のような牙が並ぶその中に、影の中で煌々と輝く球体があった。周囲の光を奪い、集めたようなそれを、フィリップは誰に言われるまでもなく看破した。
「『明けの明星』……!」
疑似質量を付与した光を収束し、莫大なエネルギーとして解き放つ魔術。
ほんの僅かな質量を付与した光を小指の先ほど集めるだけで、他のどんな攻撃魔術でも及びもつかない高火力を発揮する。
ならばあれは、龍の顎に収められた人間大の光球は、果たしてどれほどの威力になるのか。
「あれ撃たれたら死んでたなあ、僕たち」
いや或いは、クレーターを作ったあの一撃こそが、まさにあれだったのかもしれない。
どちらにしても、
昼間のテストであれを撃たれたら終わっていた。色々と。
しかし今は──今の相手は外神の化身である。
警戒すべきは、彼女がそれを
「……?」
いつの間にか。いや初めからか。
マザーの隣に、なんだかよく分からない生き物の顔があった。
ドラゴン或いは蛇や蜥蜴に近い爬虫類のように縦長で、しかし人間のような目が三対あって、三つに裂けて開いた口には雑食動物の乱杭歯。
首から下は無く、三メートルくらいの頭部だけが、空気からずるりと生え出でている。
負の時間をかけて現れたそれは、気付けば初めからそこに在った。
なんだあれ、と思った刹那、王龍の光が瞬き──純エネルギーのブレスが地上を、フィリップたちを目掛けて撃ち出された。
光速のそれを迎え撃つのは、全く同時に奇妙な頭蓋が吐き出した闇の奔流だ。
闇──というか、黒い靄のようなもの。
嵐の雲よりも暗く、夜空よりもっと悍ましい色をしたそれは、光の槍と激突し、拮抗しつつも呑み込んでいく。
音はしない。
風の音も、炎の音も、激突音やスパークもない。
大量の「なにか」は、まるで存在していないかのように静かだった。
余波や爆発の気配もなく、夜風だけがマザーの月光のような髪を揺らしている。
高エネルギーと高エネルギーの激突という風情ではない。ないが、間違いなく、闇のブレスが光のブレスを消し去った。
そうはならんやろ、とフィリップは思ったが、実際にそうなっているので何も言えない。
マイナスのエネルギーとしか思えない──そんなものは存在しないはずなのだが──エネルギーを消失させるなにかを吐き出したものは、マザーにひと撫でされると霞のように消え失せる。
かなり自信のある手札だったのだろう一撃を完璧に相殺されて、王龍は空中でぐるりと身を翻した。
──逃げる。
王龍が。
1000年間の常勝不敗、敗北も逃走も無かった最強種が、ここに来て──いや、それを可能とする優れた種
経験に裏打ちされた自信、強者の矜持、最強種の誇り。
1000年抱いてきたそれを、恐怖と脅威により綺麗さっぱり捨て、背を向けて逃げる。
その選択が出来る知性。瞬間的で、それでいて的確な──成長!
フィリップは思わず目を瞠った。
「素材──」
「大丈夫よ」
ぞる、と聞くに堪えない音を立てて、喪服の背中から漆黒の翼が生え出でる。
蠕動する触手で編まれたそれは、波濤のような勢いで空へと伸び、逃げ去ろうとする王龍へ襲い掛かった。
何十トンもの体躯を空へ持ち上げるのは、巨大な翼と併用される魔術。
翼が生む揚力と、風や重力の操作による浮力は莫大だ。人間一匹分の荷重が増えたところで、錨にはなり得ない。
そのはずなのに、灰色の龍は空中で身を捩って藻掻いている。
前にも上にも飛べず、動けば動くほどに絡みつく触手に纏わりつかれ、蜘蛛の巣に絡めとられた蝶のように儚く見えた。
喪服の女は悠然と立っている。
体内から現れたにしては有り得ない量の触手を自在に操り、自らの数百倍はあろう重量を半歩と動くことなく押さえつけて。
体重が──というか、サイズが合っていない。なにもかも。
ヒール込みでそこそこ長身とはいえミナには及ばない、精々160センチ程度のマザー。その背から生える、何千ガロンもの触手。囚われ逃れようと恐慌する全長50メートルのドラゴン。
サイズ比から言っても質量比から言っても、全く直感にそぐわない光景だった。
羽搏く余地を失った王龍は、ゆっくりと墜落する。
その最中、どうにか翼を動かして体勢を変え、鼻先をこちらに向けた。
再び月光が翳り、牙の並ぶ口に光球が形成される。
蜘蛛の網を破れずとも巣の主人さえいなくなれば一先ずは安全──その判断が出来るのは中々だ。
逃避や防衛に慣れていない、常に強者の側だっただろう龍種が、一つの行動に拘泥することなく逃走手段を次々に繰り出せるとは思わなかった。
まあ、選ばれたのが敵排除という攻性防御なのは“らしい”ことだが、それにしたって恐ろしい成長性である。
「……ん、あ、え?」
それはもう対処されただろう。
数秒前と同じ光景になることを予期したフィリップの視線に興味の色は薄く、それ故に、実際の光景に対する反応──困惑は大きかった。
ちょん、とつまむような仕草で、マザーは光の球を摘み取った。
何百メートルも離れた龍の口先、フィリップの傍らから、一歩と動かないまま。
人間の頭部か、下手をすれば人間が丸ごと入るサイズだったはずのそれは、今や拳より小さなボールだった。
フィリップには遠近法による錯視で自然なことのように見えて、一瞬、平然と受け入れそうになってしまう。
「はい、フィリップくん。あげるわ」
「な、んですか……これ?」
差し出され、反射的に手を出したフィリップの脳裏に「いやちょっと待てよ」と警戒が過る。
触ったら蒸発したりしないかな、僕が。
いや普通に差し出してくるなら大丈夫か。いやしかし、シュブ=ニグラスの人体理解度に信を置きすぎるのは危険かもしれない。
そんな躊躇いを無視して、白銀に輝く球体はレースの手袋を離れ、素手の掌へと落とされた。
ひんやりと硬く──手は無事だ。全身が周囲一帯ごと消し飛んではいない。
「? 見ての通り、月の光を集めたものよ。いつも月を見ているから、好きなんでしょう?」
「……」
人外の美貌に浮かぶのは、揶揄など一片もない、慈愛がたっぷりと込められた微笑だ。
フィリップは柄にもなく、恥ずかしくなって黙り込んだ。
確かに月は好きだが、その理由と、そう認めたくない理由が目の前に立っている。
「私はあまり詳しくないけれど、要は何にも転化されていないエネルギーの塊だから、剣に組み込めば剪断力に、銃に組み込めば貫通力に、爆弾に組み込めば熱量になるはずだし、持て余すことは無いと思うわ」
いやあ、とフィリップは小さく鳴いた。
持て余す。めちゃくちゃ持て余す。掌でころころと転がる球体は軽く、しかし明確に質量がある。
流石に精密に何グラムとまでは分からないが、光に1グラムの質量を付与した場合、都市一個を焼け野原に出来るという。
そしてフィリップの手中には、はっきりと分かる重みがある。1グラムとか2グラムとかではなく──体感だと水入りのグラスよりは軽いので、だいたい300グラム以下のはず。
そんなオーダーだ。
100以上、200前後、300以下。
落っことしたらクレーターがもう一個出来そうだった。
「……まあいいや。龍の素材は何が必要になるか分からないので、殺して氷漬けにして──、ん?」
待てよ? とフィリップは顎に手を遣って首を傾げる。
王龍をブチ殺すのはいい。全長50メートルの巨体を丸ごと氷漬けにするのも簡単だろう。
というか、既に王龍はその巨体の霜を降らし、ぴくりとも動かなくなっている。
辺りには低温の空気が白く立ち込め、底冷えするほどだ。
けれど、その何トンあるかも分からない氷の塊は、果たして誰がどうやって王都まで持っていくのか。
マザーは駄目だ、目立ち過ぎる。ナイ神父でも同じく。
というか人間型である時点で、限りなくダメだ。
超重量物を運搬可能で、かつ他の人間に見られても「王龍を殺した」という勘違いが新たな問題を生まない人物でなければ。
マイノグーラ、もとい、あのけばけばしい黄金の騎士ならどうにかなるだろうか。
聖国王レイアール・バルドル卿、人呼んで“人類最後の防壁”であるが。
いやしかし、そうすると今度は同行者三人に「なんでここに?」「なんでお前に協力してるの?」という疑問を投げられることは必至。
「荷運びのことは心配しなくても平気よ。ナイアーラトテップが用意しているから」
「ナイアーラトテップ“が”? ナイアーラトテップ“を”じゃなくてですか?」
「? なにか違うの?」
「まあ言葉上は……」
確かに厳密に指摘するほど重要なことではないけれど。
些事はともかく、ナイアーラトテップが用意する運び屋と聞いて、思い当たるものは幾つかある。来るのはたぶんシャンタク鳥とかだろう。
それはちょっと困る。それならレイアール卿の方がちょっとだけマシだ。
一見して人間だと相当ダメだが、あからさまな異形はもっとダメ。一目で発狂するようなのは論外である。
フィリップは暫しなんやかんやと考えて、マザーの微笑に目を留め、まあなんでもいいか、という気分になった。
「アレに頼るのが嫌なら、私が移動させてあげる。宛先は貴方の部屋でいいかしら?」
「いや、流石によくないですね。その辺はナイアーラトテップに回してください」