白花曼珠沙華の如く   作:かってぃー

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第10話 forget-me-not

「――ん。もう、朝か……」

 

 そう言って櫻華が目を覚ました場所は自分のベッドではなく、机の上であった。長く机の上に突っ伏したまま眠っていたためか全身の筋肉が凝り固まっており、少し伸びをしただけで至る所から音が鳴った。同時に、掛けた覚えのない毛布が床に落ちる。

 未だ寝ぼけたままの意識の中で、櫻華は昨夜の自分の行動を反芻する。そうして真っ先に思い出されたのは紗夜からの告白。急に思い出したそれに櫻華が顔を紅くして、けれどすぐにその顔から照れが消えた。

 紗夜からの告白に櫻華はまだ明確な返事を返していない。それは櫻華が容赦を頼んだのではなく、紗夜がそうしたのだ。理由は櫻華も聞いていないが、しかしそれが解らない程櫻華はもう鈍感ではない。

 櫻華はまだ己が果たすべき責任を果たしていない。未だ自覚し得ぬ自分の思いと向き合っていない。それを果たすこともないまま返事をしては、それこそ失礼というものであろう。

 それでも告白されたことによる妙な興奮はそう簡単には冷めないもので、深夜までずっと机に向かっていたのだ。視線を落とした先にあるのは作詞用のノート。先日まで白紙だった頁には、少しだけ歌詞が書いてあった。

 昨日紗夜に告白されたそのあの瞬間に櫻華が自分自身で蓋をしていた領域は、もう抑えている意味を失った。けれど長く目を逸らして押し留めていたものを一気に解放するのは怖くて、作詞というフィルターを通すことにしたのだがどうやらその途中で眠ってしまったらしい。

 椅子から立ち上がって床に落ちた布団を持ち上げる。恐らくは何も掛けないまま机に突っ伏して眠る櫻華を心配して母親が掛けたのだろうが、できることならば起こしてほしかったと櫻華が苦笑する。

 それでも母親なりに気を遣ってくれたことは櫻華にも分かる。昨日の一件は店先での出来事なのだから、母、或いはタイミングによっては父までも見ていたのかも知れないが、彼らは何も言わなかった。無関心だったのではない。彼の内心を慮ってのことだ。

 恐らく、櫻華の両親は彼の内心を分かっていたのだろう。分かったうえで、何も言わなかった。言ってしまうのは簡単だが、それでは息子の為にならないと考えたのだ。その気遣いが、今は有難かった。

 ラブソングの歌詞は全く進んでいなかった以前と比べるとかなり進んだが、それでもまだ完成はできそうもない。この状況において、それはある種櫻華の内心そのものだ。であれば未だ自分の全容を把握していない櫻華に完成させることができる筈もない。

 早く完成させなければならないという思いはある。だが、同時に櫻華は恐怖もしていた。自分がずっと自分自身にすら秘していた思いを自覚したその時、自分が信じていたものは崩壊する。まるで砂上の楼閣のように。そんな予感があった。

 それでも、もう逃げないと決めたのだ。ならば向き合わねばなるまい。最早変わらないということはできない。変わりゆくものは、変わり切るまで変化を止めない。けれど、どう変わるかは本人次第だ。

 退路はない。そんなものは昨日紗夜から告白された時に、いや、それ以前になくなってしまった。後戻りなどしようものなら、その瞬間に全てのものが壊れてしまうことであろう。

 寝間着を脱いで畳み、制服に着替える。そうして机の上に広がっていた筆記用具を片付けて筆箱と作詞用ノートを鞄に放り込んだ瞬間、何故か枕元に放り投げられていたスマホが鳴動した。

 

「……ん?」

 

 現在時刻は午前5時30分程。櫻華は花の世話や店番で幼い頃から早起きの習慣が身に付いているが、そうでなければ眠っているような人もいる時刻である。そんな時間にメッセージが送られてくることを訝しく思うも、その送り主を見た瞬間にそも疑問は氷解した。

 そのメッセージの送り主は千聖であった。成る程千聖ならば幼い頃から芸能界にいるのだからこの時刻に起きていても何も不思議はあるまい。

 千聖から送られてきたメッセージに了解の旨を返すと、すぐに返事は返ってきた。ふたりの遣り取りはそこで終わり、櫻華は特に用がなくなったスマホを鞄の中に放り込んでしまう。同時に、櫻華が大きくため息を吐く。

 彼の脳裏を過るのはこれまでの思い出。変化がなく、停滞していたが故に甘美だった昔日。もう戻れない日々。それでも櫻華はそれらに背を向けるようなことはしない。何故ならその日々(かこ)があったからこそ今があるのだから、背を向けることができる筈もない。

 鞄を背負う。今日も学校だ。けれどそれがいつも通りである筈もない。もう一度大きく息を吐いて弱気な自分を追い出すと、櫻華は部屋を出て行った。

 


 

「ああ、くそ……全く頭に入らなかった」

 

 放課後。天気予報が大外れして雨天となった昨日と違って天気は晴れのままで、窓からは青空と黄昏の中間めいた曖昧な色合いの陽光が差し込んで教室を満たしている。一日の授業から解放された生徒達は皆めいめいに教室から出て行く。

 その中で櫻華はひとり沈鬱な雰囲気を纏っていた。というのも今日一日、ずっと頭の中でもやもやとしたものが渦巻いていて碌に授業に集中できなかったのである。入学以来ずっと学年成績1位を維持している櫻華が授業に集中していないのは教師にも珍しく思われていたらしく、奇異の目で見られたこともあった。

 学生としては不心得も甚だしいが、しかし今日に限ってはそれも仕方のないことであろう。夜の間は妙な体勢で寝ていたうえに昨日のことや今朝の千聖からのメッセージなど、櫻華の周りでは色々なことが起こりすぎているのだから。仮にこれが櫻華でなくとも同じことだっただろう。幸いだったのは、今日の授業内容は既に予習済みだったことくらいか。

 鞄からスマホを取り出して電源を吐ける。パスワードを入力して画面を立ち上げると、櫻華は迷いなくメッセージアプリを起動し、その一番上に表示されている〝白鷺千聖〟の欄をタップした。そうして表示されたのは、今朝の遣り取り。

 

――今日の放課後、3階の空き教室に来てくれない?

 

 たった1文だけの短いメッセージ。3階の空き教室というのは少子化による入学者減少に伴って使われなくなった教室であり、教室の並びが最も奥であるため時折千聖が演技の練習をしている場所だ。櫻華も何度か練習に付き合ったことがある。

 故に今までであればまた練習に付き合うのだろうとしか思わなかった。けれど、今回は違う。ただの友人というものから変わりつつある彼らの関係において、いつも通りというものはありはしない。

 どれほどそうしていたのか櫻華は再びスマホを鞄の中に仕舞い、それを背負って教室の戸締りを確認してから廊下に出た。そうして隣の教室である2-Aの前を通ろうとした時、2-Bの教室から出てくる生徒とぶつかりそうになる。

 

「っ!? ごめ……紗夜!?」

「櫻華!?」

 

 唐突な遭遇。しかし同じ学校の、それも隣のクラスなのだからそういうこともあるだろう。しかし昨日あのようなことがあったためかふたり共に過剰な反応をしてしまった。櫻華に至っては無意識に手の甲で唇を隠している。

 周囲の生徒はいつもと違う雰囲気を放つふたりに訝し気な、或いは何か察したらしい視線を向ける。何せ生真面目で名の通っているふたり、それも幼馴染同士が()()()()気配を放っているのである。そういう話題に飢えている中高生の目は誤魔化せない。

 しかしすぐにふたりの間から皆が夢見るような甘酸っぱい気配は立ち消えてしまう。それで興味を失ったのか、生徒たちの視線がふたりから逸れた。だがふたりはそんなことは関係ないとばかりの様子である。

 

「白鷺さんに呼ばれたのかしら?」

「……何で分かった?」

「顔にそう書いてあるわ。貴方、分かりやすいもの」

 

 つい先日までの櫻華ならば無理にでも笑って誤魔化そうとしていただろう。しかし昨日の出来事で紗夜との間にあった誤解を解消させた今となっては、もう独りでいようとする理由もない。それは一種の心境の変化であった。

 櫻華は千聖から向けられている感情に完全に気づいている訳ではない。ただ漠然と、ただの友人に対するそれではないことは解っている。けれど紗夜はそうではない。彼女は千聖が自分と同じように櫻華に好意を抱いていることを知っている。

 正直な所、千聖が櫻華を呼んだと聞いて紗夜は心穏やかでいられる程強くもなければ自信過剰でもない。それでも紗夜が櫻華に返事を急かさなかったのは、櫻華にその場の流れで答えを決めて欲しくなかったからだ。

 

「……それじゃあ、俺、行くよ」

「えぇ」

 

 本心を言えば引き留めたい。引き留めて、その口から答えを聞いてしまいたい。けれど真実の一部を知らないまま、或いは隠したまま出した答えなど本物ではない。故に、紗夜は櫻華を引き留めなかった。

 紗夜の横を通り過ぎて櫻華は3階に向かっていく。降りてくる3年生は櫻華に不思議そうな視線を向けるも、ひとりも声を掛けてくることはなかった。何故なら櫻華が何をしようと自分には関係がないからである。

 家路に着く、或いは自習のためにそれぞれの目的地に向かおうとする3年生の流れに逆行するようにして櫻華は歩く。1歩ずつ歩を進める度、櫻華は自分の胸中で何か予感めいたものが膨れ上がってくるのを自覚していた。けれど足を止めることは許されない。そのまま櫻華は空き教室の前まで辿り着くと、躊躇いなくその扉を開け放った。

 ――果たして、千聖はそこにいた。黄昏の中で金の髪を輝かせながら、櫻華を待っていた。その姿はまるで一枚の絵画のようで、櫻華が思わず息を呑む。けれど千聖が振り返った時には櫻華は忘我から復帰していた。

 

「来てくれたのね」

「呼ばれたから、そりゃな。それで、何の用だ? 差し詰め、演技の練習とかだろうけど」

「……えぇ。貴方、筋が良いもの」

 

 冗談めかしてそう言いながら、千聖はホチキスで留められた紙の束を櫻華に差し出した。それを受け取り、丁寧に始めから読んでいく櫻華。台詞と台詞の間に書き込まれたメモも並行して読み込み、脳内に叩き込んでいく。

 櫻華の予想通り、千聖から渡されたそれは先日羽沢珈琲店で出会った際に読んでいた映画の台本のコピーであった。普通こういうものは門外不出なのだろうが、千聖曰く『貴方ならバレないようにしてくれるでしょう?』とのことである。

 渡された台本の場面は千聖演じるヒロインが主人公である男性キャラクターに想いを告げる場面であった。場所は空き教室ではなく学校の屋上だが、夕陽に照らされているという点は共通している。その台本を一通り読んで、櫻華が言う。

 

「それで、主人公(こいつ)を俺に演じろ、と。……本気で?」

「本気よ。第一、貴方以外に頼める相手がいると思って?」

 

 千聖の返答にため息を吐く櫻華。しかし彼の脳裏には断るという選択肢は最初からなかった。それは誰かから頼られることを望む彼の性格故であり、尊敬している千聖の力になりたいという思いもある。

 もう一度息を吐いて、意識を登場人物のそれにできる限り近づける。何度か千聖に練習に付き合わされたことがある櫻華はその内にそれなりの演技力を身に着けていた。尤も、彼はつい先日まで自分自身に対してすら演じていたのだから、上手くなるのも当然なのかも知れないが。

 しかし櫻華が予想していた以上にそれは簡単であった。わざわざ主人公の気持ちを類推するまでもなく、櫻華は本当に物語の主人公になってしまったかのような感覚に包まれる。渡された台本は主人公(おうか)の台詞から始まっている。幕を落とすのは、彼の役目だ。

 

「――『話があるって聞いたけど……どうしたの? それに、わざわざ屋上に呼び出したりして。話だったら帰り道にでも聞くのに』」

 

 そう言う櫻華の声音は明らかに平時のそれとは違っているものの、そこに素人特有の演技臭さはなかった。それは単純に櫻華が慣れているからでもあるが、その話の原作である小説を一度読んでみたことも要因としてあろう。

 この話の原作である小説の主人公は少し内気な少年で、ヒロインの少女とは幼馴染である。序盤はよくある互いに好意に気づかない両片思いから始まるのだが、本番は中盤に少女の告白でふたりが付き合い出した後だ。ふたりが互いの夢や思い故にすれ違ってしまったり、少年の妹から少年への道ならぬ恋が発覚したりと多くの困難を乗り越えてふたりは恋人になっていくのだ。

 今、ふたりが演じているのは物語の中盤。なかなか想いに気づかない主人公にヒロインが告白する場面。千聖は当然だが櫻華の演技もまた様になっていて、余人がそこにいれば雰囲気に呑まれてしまっていただろう。

 

「『うん……でも、ムードって大事でしょ? だから……ね?』」

「『ムード? まぁ確かに大切だとは思うけど……急に、なんで?』」

「『えっと、それは……それは、ね』」

 

 千聖の演技に、櫻華が息を呑む。千聖が次に言う台詞は台本に書いてある。それに、原作も読んだ。それなのに緊張して仕方がない。口腔内が渇いて、全身の汗腺が開く。心拍が煩い。

 或いはそれもその場に充満する空気に当てられたが故のものなのかも知れない、と櫻華は考えたがすぐにそれを否定した。なにせ告白される直前まで両想いであることに気づかなかったような主人公である。

 そんな動揺を演技の仮面に隠す櫻華。対する千聖は目を潤ませ、完全に役に入り込んでいた。流石競争激しい芸能界で実力派として名を馳せるだけはある、と妙な部分で感心してしまう。

 

「『ずっと……貴方に言いたかったことがあるの』」

「『言いたかったこと……?』」

 

 よし、声は震えていないな、と櫻華が内心で小さくガッツポーズをする。しかしそれだけではいけない。ここから主人公の少年は少しずつヒロインの気持ちに気づいていくのだから。

 台本のメモの通り、千聖が少しずつ近づいてくる。その気配は完全に物語のヒロインのそれだ。その雰囲気に呑まれてか、それとも完全に素でか、櫻華の心拍が更に速くなる。この先の展開は、分かっている筈なのに。

 殆ど密着と言っても過言ではない距離。千聖の手が制服越しに胸板に触れる。心拍を悟られたかも知れない、という思いが櫻華の背を撫でるも、千聖はお構いなしである。アメジストのような瞳を櫻華に向けている。

 

「『私ね、ずっと……ずっと……』」

「『……』」

「『ずっと貴方のことが好きだったの。大好きです』」

 

 ヒロインの告白。あとは櫻華演じる主人公が『僕も同じだよ。ずっと君のことが好きだった』と言うだけで一連の場面は終わる。だというのに、櫻華の口は言う事を聞いてくれなかった。頭が沸騰して思考がうまく纏まらない。

 

「『ぼっ、ぼぼぼ、ぼ……』って、言えるか! 恥ずかしいわ!」

「何よ、大袈裟ね。それに、そんな反応されるとこっちまで恥ずかしくなってくるじゃない……」

「あぁ、悪い。……リトライして良いか? 俺もこのままじゃ悔しい」

「ふふ。そう言うと思ってたわ」

 

 全てお見通しとでも言うかのように千聖が微笑み、元の立ち位置に戻っていく。その内に櫻華は何度か大きく深呼吸をすると、自分の頬を叩いて気合を入れなおした。無論、彼は自分たちの関係性を忘れている訳ではない。それでも練習に付き合うこととそれとは話が別だ。

 けれど、櫻華がそう思っていても()()()()()()()()()()()()()()。だが櫻華がそれに気づいたのはリトライを始めた後。あまりに遅すぎた認識であった。それでも不思議と動揺はしない。初めから覚悟はできていたのだから。

 先程の映像を再生するかのように、ふたりの演技は進んでいく。

 

「『ずっと……貴方に言いたかったことがあるの』」

「『言いたかったこと……?』」

 

 その台詞を合図とするかのように千聖が歩み寄ってくる。そのアメジストの瞳は櫻華だけを捉え、彼が目を逸らすことを許さない。その一挙手一投足が、櫻華の視線を捕らえて離さない。

 恐らく学校にはまだ生徒がいるのだろう。3階にもまだ3年生がいる筈で。だというのに櫻華にはその事実がどこか遠い世界のことであるように思えた。それどころか、世界そのものさえ遠い。

 千聖の台詞は、聞く人が聞けば先のそれと全く違いがないようにも感じられるだろう。けれど少なくとも櫻華にとっては先のそれと全く異なるものであった。まるで千聖の言葉が、全身に浸透してくるかのようですらある。

 

「『私ね、ずっと……ずっと……』」

「『……』」

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 その言葉を受けた瞬間、櫻華の心臓が大きく跳ねた。心拍の速度は先の比ではない。汗腺が異常に開き、汗が噴き出してくる。神経そのものが機能を失ったかのように、全身の感覚が遠い。

 足が震えている。足裏は確かに地面に接している筈なのに、足の感覚がないせいかまるで水中に放り込まれたかのようであった。それなのに、どうしてか自分の心音だけが近くから聞こえる。

 最早疑うまでもなかった。よもやここまで来て彼をナルシストと嘲る者も、自意識過剰と嗤う者もいまい。台本通りの告白。けれど千聖の目は物語のヒロインのそれではなく、昨日の紗夜のそれと同じであった。それでも訊かずにはいられない。問わずにはいられない。

 

「それは……演技? それとも……」

「分かっていてそんなことを聞くなんて、意地悪な人ね。――私は貴方が好きよ。他でもない、駿河櫻華という男の子が……大好き」

 

 今度こそ台本通りの台詞ではない、千聖の本気の告白だった。それは真っ向から櫻華の胸を貫いて、櫻華はそんな千聖から視線を外すことができない。千聖がそれを許さない。

 あぁ、言ってしまったわね、と言って千聖が微笑む。対する櫻華は胸中に驚きはあれど、それは彼が思っていた程ではなかった。彼も心のどこかでは分かっていたのだ。或いはそうなのではないか、と。

 

「貴方のことが好きなのが私だけじゃないことは分かってる。貴方が誰を好きなのかも、分かってるつもりよ」

「……」

「でも……ここにもひとり、貴方のことが好きな女の子がいること、忘れないで」

 

 作られたものではない、純粋な悲愴ささえ滲ませる千聖の言葉。それに櫻華が無言で頷くと、千聖は薄く微笑んだ。そう、忘れない。忘れられる筈がない。櫻華に身に余る覚悟を伴って受け取った告白を、どうして忘れることができるだろうか。

 櫻華の返事に千聖もまた頷きを返すと、机の上に置いていた鞄を持って空き教室から出て行った。千聖もまた紗夜と同じく、櫻華によく考えてから答えを出して欲しいのだろう。たとえ櫻華がどちらを選んでも後悔しないように。

 たった独り教室に残された櫻華。そのままどれ程そうしていたのか、教室の壁に背中を預けて座り込んだ。膝が笑っている。心拍は未だ速くて、呼吸も荒い。けれどそれはきっと告白されたことによる妙な興奮によるものだけではあるまい。櫻華の口から、乾いた声が漏れる。

 

「はは……これは、ヤバいな」

 

 覚悟は決めてきた筈だった。きちんと全てと向き合って、その結果自分が信じているものが崩壊したとしても、それを受け入れるのだと。けれど覚悟はしていても、いざ現実として現れるとその覚悟を簡単に上回ってくる。

 古来、ラブコメなどではよく〝運命の相手〟という言葉を使う。自分にとってはこの相手しかいないのだと、心底から確信できる相手のことだ。けれどそんなものは嘘っぱちだ。運命の相手などという都合の良いものは、この世には存在しない。

 或いは櫻華は真面目過ぎたのかも知れない。真面目過ぎたが故に馬鹿正直に全てを受け止め、自分ですら自覚し得ない領域に感情を溜め込んでしまった。そして今、またも全てを正面から受け入れようとしている。

 最早都合の良い玉手箱(ブラックボックス)は存在しない。厳重に封がされていた筈のそれは、ふたりの少女たちによって開けられてしまった。溢れ出してきた感情は奔流となって櫻華に押し寄せてきて、櫻華はどうすれば良いか分からなくなっている。

 人間は生涯でたったひとりしか愛せない、などと言ったのはいったい誰だっただろうか。仮にその人物が目の前にいれば、櫻華は我を忘れて殴りかかっていたかも知れない。だったら自分のこれは何なのか、おまえはきっと誰も好きになったことなどないのだろう、と。それがどうしようもない八つ当たりなのだと、分かってはいるけれど。

 

「なんだってんだよ、本当に……」

 

 昨日は紗夜から告白されて、今日は千聖から告白された。余人からすれば羨ましいことこの上ない境遇であろう。しかし櫻華は無邪気に舞い上がることはできなかった。いっそそうできたのなら、どれだけ楽だっただろうか。

 ふたりからの告白に、櫻華はどちらも〝嬉しい〟と思ってしまった。何のしがらみもなくただ純粋にそう思ってしまった。それが示すところはひとつだ。つまり、駿河櫻華という男は――

 

 ――どうしようもなく、氷川紗夜と白鷺千聖という、ふたりの少女に惹かれている。

 

 その事実が、櫻華の背に重く圧し掛かっていた。

 

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