ライブハウス〝CiRCLE〟の貸しスタジオ。その一室にギターの音色が響く。それを奏でているのは櫻華だ。けれど彼が愛用する白いギターが謳う音はいつものように明るいものではなく、思いつめたかのような重い音色。
事実、櫻華は思いつめていた。自分自身で作詞作曲した楽曲のギターパートを弾いているのも半ば無意識の行動である。その心の裡に住み着いたものを一時的にせよ忘れるために櫻華はここに来たというのに、全く意味を成していない。それどころか心此処に在らずといった様子である。いや、それは少し違うか。櫻華の心はどこまでも現実にあった。
櫻華は夢見がちな
連日でふたりの少女から告白されるなど、まるで何かの冗談か夢のような話だ。櫻華も千聖から告白されてから少し経つまでは変に現実感が欠けたかのような感覚だった。しかし今はもうその感覚は消え、疑い様のない現実感が彼の意識を支配している。
そう、全て現実なのだ。紗夜から告白されたことも、千聖から告白されたことも、自分の裡に存在する矛盾したふたつの感情を自覚したことも櫻華にとっては紛れもない現実で、だからこそこうしてギターを手に思案している。
けれどギターを弾いていても櫻華の中から思いは消えてはくれなくて、それどころか紗夜がギターを弾いている姿や千聖がベースを弾いている姿が脳裏を掠めて行って櫻華の胸を締めあげてくる。
分かっている。それが異常であることくらいは。けれど異常ではあってもそれが櫻華の現実で、それが彼の心であることに違いはない。決して逃れることはできない。それは彼を好きだと言ってくれたふたりに背を向ける行為だから。
自分の曲を弾いた。Roseliaの曲を弾いた。パスパレの曲を弾いた。けれども何も見えてはこない。当然だ。それで答えが出るくらいなら、最初から櫻華は悩んではいなかっただろう。それで解決する程、櫻華の思いは単純ではない。
結局答えは出ないまま、スタジオの予約時間は終了に近づいてきていた。仕方なく櫻華は荷物を纏めてギターケースを背負い、スタジオを出て行く。そうしてまりなに使用終了の旨を告げてからCiRCLEを出た時、櫻華は見知った人物と目が合った。
「やぁ」
「お引き取り下さい」
まるで櫻華がCiRCLEから出てくるのを待っていたかのようなタイミングで声を掛けてきた理央に対し櫻華は冷酷なまでに迷いなくそう即答し、理央の前から去ろうとする。けれど理央は櫻華を逃がそうとはしない。
腕時計を見れば、時刻は午後8時程であった。このような時間に訪ねてくるとは暇なのかとも思ったが、恐らく仕事などでこの時間しか空いていなかったのだろう。千聖が有能と評する通りその全てを捌いてみせるのが理央なのであるが。
いつもは平気で流すことができるその超然とした態度が、今は気に食わない。それがたとえどんな理不尽な感情であるのだとしても、今の櫻華にとっては不快だった。まるで、全てを見透かされているようで。
そんな櫻華の内心を知ってか知らずか、理央は櫻華を引き留めようとしてその様子がいつものそれではないことに気が付いた。けれどオトナとしていつもの態度を崩さないまま、櫻華に言う。
「随分とひどい顔をしている。なんだ、白鷺にでも告白されたか?」
「……ッ!?」
「……驚いたな。まさか図星とは」
理央としては完全に冗談のつもりの問いであった。人一倍観察眼に優れる理央は千聖から言われずとも彼女が櫻華に好意を向けていることは知っていたが、よもやこのタイミングで告白するとは思っていなかった。
現状を言い当てられたことに対して櫻華は文句のひとつでも言ってやろうとしたものの、理央自身が本気で言った訳ではないと分かるとその文句もどこかへ行ってしまった。代わりに大きくため息を吐く。
櫻華が千聖に告白されたことは間違いない。けれど、それだけではない。理央は櫻華の様子からそう悟ると、胸ポケットから煙草を取り出してジッポライターで火を点けた。溢れてくる煙に、明らかに櫻華が嫌そうな顔をする。
「未成年者の前で堂々と吸わないで下さい。臭いです」
「それでも吸いたくなってしまったものは仕方がないだろう。……それで、何があった? 相談くらいは乗ってやろう」
そう言う理央を櫻華は数秒の間睨みつけていたものの、そこに櫻華を揶揄うような気配がないと分かると再び大きく息を吐いてCiRCLEの壁に背中を預けた。ふと頭上を見れば、墨で染め上げたかのような黒い空に星が輝いている。
理央に相談しても何が解決するのかは分からない。それでも櫻華は誰かに自分の内心を吐き出したいと思っているのも確かで、故に彼は理央に話すことにさして躊躇いを覚えなかった。
紗夜や千聖に告白されたことだけではない。自分の裡に重複してはならないふたつの感情があることも櫻華は話していた。その声音は平坦ではあるものの、内側には隠しきれない懊悩がある。
櫻華の告解を理央は最後まで黙って聞いていた。時折体内に溜まった紫煙を吐き出し、放出された紫煙は空気と混ざって大気の中に霧散していく。その紫煙を目で追いながら、理央が言葉を返した。
「ふたりから告白され、ふたりとも好きな気持ちがある……か。つくづく君は女の敵だな、色男」
「言わないでくださいよ。……てか、色男って何ですか、色男って」
「言葉通りの意味だ。その歳でふたりから好意を向けられるなど、色男以外に何がある。女誑しか?」
茶化すようにそう言いつつも、理央は櫻華の苦悩の程を殆ど正確に把握していた。確かに生真面目な櫻華の性格を考えれば、同時にふたりに好意を持つなどというのは到底受け入れ難いだろう。
それは生物的に見れば何ら疑問のない状態だ。どんな生物であれ、雄とはそういうものである。けれど人間には他の動物にはない理性や倫理がある。その観点から見れば、櫻華のそれは問題しかない。
それでも櫻華はそれと向き合って乗り越えようとしている。自分の気持ちと彼女らの気持ち、それら全てが本気なのだと、嘘ではないのだと分かっているから。櫻華は今、オトナになろうとしている。なればこそ、理央は先にオトナになった者として問わねばなるまい。その覚悟を。
「……駿河。ひとつだけ教えてやろう。キミがすぐにでも楽になれる方法だ」
「そんなの、あるんですか?」
「ある。
悪びれることもないまま放たれた理央の言葉に櫻華が息を詰まらせ、目を丸くする。あからさまなその反応に少しだけ理央の胸が痛むが、それをニコチンによる高揚感で掻き消した。
どちらかの好意を気のせいだと断じて、無かったことにする。言葉にすれば非常に狡く最低の好意ではあるが、しかしそれは同時に〝出来るオトナ〟とやら、つまり理央の最も嫌いなものの常套手段でもある。
出来るオトナ、賢いオトナというのはそうやって自分の気持ちに目隠しをして、自分を傷つけるものを排除してしまう。そうすれば少なくとも傷つくことはないから。心が痛むことはないから。
それを櫻華は理解している。できることならそうしてしまいたいと思う自分がいることも否定はできない。それでも、納得はできなかった。それでは駄目なのだと、眼を背けてはならないのだと、叫ぶ自分がいる。
「そんなの、無理ですよ。できるワケないじゃないですか」
「何故だ?」
「だって俺のこの思いは今まで紗夜や千聖と一緒にいた時間がくれたもので、絶対に気のせいなんかじゃない。気のせいなんかにしちまったら、俺たちの今までを全部ドブに捨てる羽目になる。……そんなの、できませんよ。できて良い筈がない」
自分たちの今までを、大切な思い出を全て黒く染め上げたくない。だからこそ自分の想いを気の迷いなどとはせずに真っ向から向き合って、どれだけ傷ついても答えを出す。――なんと青臭い綺麗事だろうか。いかにも青春とやらを生きている人間らしい、非効率的な考え方だ。
だが、それでこそだ。理央がニヒルに笑う。彼女も薄々分かっていたことだが、どうやら櫻華は彼女と同じ側――馬鹿正直に全てと向き合っていこうとする〝出来損ないのオトナ〟になるべくして生まれた人間であったらしい。
それは安寧とは程遠い茨の道だ。一度その方法で困難を乗り越えてしまえば過去の自分に顔向けできるように人生は茨に囚われ、それ以外の方法で生きられなくなる。それは辛いだろう。一生傷つきながら生きていくのだから。けれど櫻華の目にはそれを受け入れるだけの覚悟の色があった。
「……く、はは。やはりキミは馬鹿だな。大馬鹿だ」
「なんですか、ソレ。バカにしてます?」
「いいや、褒めているのさ。賢しいだけのオトナなど、つまらんからな」
或いは櫻華の場合、馬鹿にならざるを得なかったのかも知れない。わざわざ問うまでもなく、彼の性格上ふたりからの想いや積み上げた思い出に背を向けることなどできる筈もなかったのだ。
だとしても理央は櫻華が賢しいだけのオトナにならないことを歓迎する。出来損ないのオトナへの道を歩み始めたことを賛美する。傷つくことのない人生は確かに楽だが、面白くない。何よりそうなってしまえば櫻華が大切にしているものを失くしてしまう。
それにそうやって茨の道にでも自ら踏み込んでいくような性格をした男だからこそ、紗夜や千聖は櫻華のことを好きになったのだろう。そう理央が言うと、照れたように櫻華が顔を紅くした。純粋な賛辞には慣れていないのだろう。
「駿河。もうキミならば言われずとも分かっているだろうが……運命の相手などという都合の良いモノはこの世には存在しないんだ。人間、そんなものを確信できる程完璧にはできていない。だからキミの気持ちも別におかしなことではない。キミがふたりとも好きになったのはキミが不純だからではなく、ただ彼女らがそれだけ魅力ある少女だったからなんだよ」
「――」
理央の言葉が櫻華に届いた瞬間、櫻華の裡に蟠っていた仄暗いものが霧散した。まるで暗闇に光が差すかのように。咎人が赦しを得たかのように。余人にとっては何ということはない一言であっても、櫻華にとってそれはそれだけの意味を持つ言葉だった。
運命の相手などというものが存在しないということは、とうに分かっている。それでも心のどこかでは思っていたのだ。ふたりと好きになってしまった自分は壊れているのではないか、と。狂っているのではないか、と。
だが、そうではないのだ。櫻華がふたりを好きになってしまったのはそれだけふたりが魅力ある少女で、そんなふたりから『好き』をぶつけられて何とも思わない筈がない。開き直りと言われれば、そうかも知れない。だが事実そうである以上、それ以外に言いようがない。
櫻華の気持ちは紛れもなく間違いなどではない本物で、それは紗夜や千聖と過ごした時間がくれたもの。だからこそ、眼を背けることはできない。思い上がりだなどと、誰にも言わせない。事ここに至り、櫻華の覚悟はようやく十全なものとなった。
「……ようやく、か。ならばキミがやらねばならないことは解るな?」
「はい。……どれだけ悩んで、迷って、苦しんでも必ず答えを出す。決めたら、もう迷わない」
「そう。だが、どれだけ血迷ってもふたりともなどとは言うなよ? そんなことをすれば、彼女らより先に私がキミを殺してしまうかも知れん」
冗談めかしてそう言う理央に、櫻華はそんなことしませんよ、と言って笑った。そんな答えを出す気は櫻華には初めから毛頭ない。そんな答えは自分の答えを待っていてくれているふたりに対して不誠実であるし、何より誰も幸せにならない。
確かにふたりの手をどちらも取るのも解答のひとつではあるのかも知れない。けれどそれで幸せなのは始めだけだ。人間に平等などという概念は実現できない。始めは幸せだった二股生活は、いずれ破綻してしまうのがオチだ。少なくとも櫻華にそれを維持するようなキャパシティはない。
そもそもそんな都合の良い未来があるというのなら、櫻華は最初から悩んでいなかっただろう。それが在り得ない選択肢だと分かっているから、櫻華は悩んでいるのだ。何より、それでは櫻華の答えを待っていてくれているふたりを裏切ることになる。
理央が咥えている煙草が燃え尽きる。その残骸を携帯灰皿に突っ込み、再びケースから煙草を取り出した。流れるようなその動作に櫻華が呆れ顔を浮かべるが、特に何も言わなかった。ジッポライターの火が、煙草を撫でる。
「ついでに言っておくとな、もう自分を卑下するのもナシにした方が良い。キミはRoselia……ひいては氷川
悪戯っぽく言う理央に、櫻華が苦笑いをする。理央の言葉はつまり〝さっさとウチの事務所からデビューしろ〟というものだ。しかしいつもならばにべもなくそれを切って捨てる櫻華は、今回に限ってそれをしなかった。
櫻華がずっとデビューの話を断ってきた理由にRoseliaの存在があるのは紛れもない事実だ。彼はずっとRoselia、ひいは紗夜の努力を自分の手が届かない所にあると思っていた。彼が長くたった独りで走り続けてきたが故に。彼女より先に行ってしまえば、もうその手を掴めないと錯覚していたが故に。
だが、そうではないのだ。たとえ櫻華が先に行ってもその手が掴めなくなることはない。そもそも櫻華が今まで歌とギターを続けてきたのはそれが好きだからで、紗夜との誤解がなくなった今、その先に行くことを阻むものはない。加えて、もう自分を卑下するのは許されないときている。であればもう答えなど決まっていよう。しかしその前に櫻華には訊きたいことがあった。
「……何故今その話を?」
「む。私なりに場を和ませようとしたのだが……駄目だったか? まぁ良い。兎に角だ、キミはふたりを好きになった自分を卑下するのかも知れんが、それは不要な感傷だ。それは分かるな?」
「……そうですね」
夜空の星を見上げながら、櫻華が返す。日菜と違って碌に星の知識がない櫻華には、どの星とどの星を繋げばどのような星座になるのかてんで分からない。それでも星空を美しいと思うのには十分だった。その空に紫煙が溶けていく。それを目で追い、理央もまた空を見る。
名も知らない誰か曰く、星の光とは過去の光であるらしい。いかな光とはいえ瞬間移動などできる筈もない。光が地球に届くまでにかかった時間の分だけ過去の光を、櫻華は今として認識している。そこに彼はどうしてか、自分と同じものを感じた。
星の光が宇宙を貫く過去を積み上げて今の地球に出現するように、人間もまあ積み上げた過去の上に今を見る。過去があるからこそ今があり、今があるからこそ未来がある。それはいつどんな場所でも変わらない真理だ。それは分かっている筈なのにどうしてか、櫻華は少しだけ泣けてきた。パーカーの袖でその涙を拭う。今泣いてはならない。本当に泣きたいのは、櫻華ではないのだから。
「なぁ、氷川姉はどこが好きなんだ?」
「紗夜は……すげぇ真面目で、努力家で、ギターを弾いてる時も仏頂面なのに内心すげぇ楽しんでて……あと、好物のポテト食ってる時の顔、幸せそうなんです。見てるこっちも幸せになるくらいで……」
胸の裡にあるものを吐露している内に、自覚する。きっと櫻華が紗夜を好きな気持ちは、ずっと以前から彼の裡にあったのだ。だからこそ紗夜が苦しんでいるのを見過ごせなかった。
だがその手を取られなかったが故に自らを力不足と断じて独りで走るようになった時にその思いもまた諸共に認識外の領域に沈めてしまった。それが今になって櫻華が独りでいる必要がなくなったことで再び顔を出したのだ。もうひとつ押し遣っていた思いと共に。
その思いがいつからそこにあったのかは分からない。何せ紗夜へのそれと違って自分でも分かったのがつい先日で、けれどまるで昔からあったものででもあるかのように、櫻華の胸中にある。
「白鷺は?」
「千聖は……いつも一生懸命に自分のやるべきことに向き合ってて、でも他の奴には見せない弱い顔を俺には見せてくれて……あぁ、いつも俺を揶揄ってくるのに、自分が仕掛けられるとすぐに顔を紅くするんです。それが……」
言っているうちに、気づく。そのふたつの想いは抱えてきた年月に差はあれど、その質量に差はないのだと。やはりと言うべきか、だからこそ櫻華はここまで悩んでいる。
けれど、取ることができる手はひとつだけだ。全てを笑顔にする魔法なんて、櫻華には使えない。彼が直接笑顔にできるのはたったひとりだけ。その事実だけは何がどうなろうと変わることはない。
だからこそ、彼は選ばねばならない。最初からその権利があるなどとは思っていない。ただ彼は彼女らからその義務を与えられた。ならばそれに背を向けて逃げることなど、どうしてできようか。
もう甘美な思い出の裡に引きこもることはできない。彼らは否が応でも前に進むしかないのだ。ならば流されるのではなく、自分の意志で進んでいこう。それがどれだけ辛い道であったのだとしても。
夜空から視線を落とし、理央と目を合わせる。そうして理央は櫻華の目から何かを感じ取ったのか、僅かに笑んだ。未だ全てを吸いきっていない煙草を携帯灰皿に突っ込む。
「覚悟はできたか?」
「……はい。俺はきっとどちらかを……いや、両方を傷つけるかも知れない。俺自身も傷つくかも知れない。でも、それを乗り越えて前に進みます」
「それで良い。互いの醜い部分を晒し合って、傷つけあって、それでもなお好きでいられたのならそれは本物だろうさ」
そう言って手をひらひらとさせて理央は去っていく。その後ろ姿を見ながら、櫻華は思う。理央の言う通り、誰かを好きになるということはその人の醜い部分や弱い部分までもを好きになるということなのだろう。そうやって、恋はようやく愛になるのだ。
けれど櫻華はまだそこまで至っていない。その前に乗り越えなければならないものがある。向き合わねばならないものがある。ならば櫻華はそれを全て乗り越えて、その先にあるものを掴むだけだ。
誰も傷つかない世界はきっと美しいのだろう。そこにいる人々は誰もが笑っていて、けれどそこに本物の笑顔はない。痛みを知らないままの笑顔なんて存在しないのだ。誰かの笑顔の裏には誰かの涙がある。全てを笑顔にする魔法を使えない者にとって、それは紛れもない真理だ。
だから考えて、考えて、考え抜く。理屈で説明できるものは排除し、思いを純化させる。そうしているうち、櫻華は自宅の前まで着いていた。そうして家に入ろうとした時、スマホが鳴動する。ディスプレイを見れば、そこにあったのは〝氷川日菜〟という表示。すぐに通話ボタンをタップする。
「もしもし、日――」
『さっくん、おねーちゃんと千聖ちゃんに告白されたってホント!?』
前置きさえない単刀直入極まる言葉であった。日菜は相当に驚いていると見えて、凄まじい音量である。思わず櫻華はスマホから距離を離し、けれど今まで日菜が立たされてきた立場に気づいて申し訳なくなる。
きっと日菜は紗夜と千聖の想いを知っていたのだろう。知っていながら何もしなかったのではない。知っているからこそ、何もしなかったのだ。彼女にとっては紗夜も千聖も大切な人で、どちらかに肩入れすることができなかった。
分からないことが面白いとは思っていても、日菜は全て分からない訳ではない。そもそも日菜をそんな立場にしたのは櫻華であって、今、櫻華に言えることはたったひとつだった。日菜が何か言う前に、言葉を割り込ませる。
「大丈夫。もう、決めたから」
『――』
「あぁ――決めたんだ」
それは果たして誰に向けての言葉だったのか。日菜に対する解答であるような気もするし、自分自身に言い聞かせている言葉であるような気もする。それとも、そのどちらでもあるのだろうか。
櫻華にとってはどれでも良かった。ただ言葉にした瞬間、胸の奥でつっかえていたものが霧散していく。もう自分は決めたのだと、はっきりと自覚する。後戻りはできないのだと、思い知る。
たとえ、その答えが彼女らをひどく傷つけるのだとしても。
どれだけ苦しくても。
その先の未来に、何の保障もないのだとしても。
もう、決めたのだ。
『……そっか』
「あぁ、そうだ」
もう一度、夜空を見上げる。その視線の先では、月が櫻華を見守るように輝いていた。