白花曼珠沙華の如く   作:かってぃー

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The trunk of the kaleidoscope
The confession to blue rose


 その日の目覚めは、櫻華が思っていたよりもすっきりとしたものであった。既に決意したからか、それとも昨日はまともに眠ることができていなかったためなのかは分からない。それでも昨日はあった靄のようなものがなくなっているのは確かだった。

 それでも全てが快調という訳ではない。登校している間は自分が今までどんな歩き方をしていたのかさえも分からないような気がしたし、既に予習した内容を聴いている筈の授業もまるで知らない内容を聴いているような気さえした。

 だが、それも仕方のないことであろう。何せ今までの人生でしたこともないような決断をした後なのだから、感覚がおかしくなっているのだ。或いは彼の中にある世界を見るフィルターが変わったのか。

 櫻華にとってはどちらでも良かった。そんなことを気にしている余裕などなかった。いくらもう決断したとはいえ、まだそれを受け入れようとしない自分がいることも確かなのだ。女々しいとは思う。だが人間とはそういうものなのだろう。決意決断で過去を割り切ることなど不可能なのである。

 そもそも過去を割り切るのではなく乗り越えてその先に進むのが人間だ。であれば未だ愚図る自分がいることもいずれ乗り越えていくことができるのだろう。そんなことを考えながら、櫻華は斜陽の中にいた。

 彼の他に教室には誰もいない。校舎の外から聞こえてくるのは運動部の掛け声だろうか。だがそれらは櫻華の意識に届くことはない。彼はそれほどまでに集中している。自らの想いを言葉に変えて、ノートの上に吐き出していく。やがてその手も止まり、シャーペンが机の上に投げ出された。

 

「……出来た」

 

 櫻華の目の前に広がるノートに書かれているのは新曲の歌詞。無論、件のラブソングの歌詞である。長く櫻華を悩ませ続けたそれはようやく、櫻華の手の内に収まった。それはつまり、既に櫻華が答えを出したということである。

 そう。その曲は今の櫻華が己の全てを込めて完成させた曲。言い換えれば櫻華そのものだ。まだ作曲は終わっていないが、歌詞だけを見れば完成度は今までのものと比べて間違いなく高い。

 そして、こうして目に見える形にしてしまったのだからもう言い逃れはできない。櫻華は筆記用具を纏めてノートと共に鞄に放り込むと、それを背に席を立った。教室の戸締りを確認してから出て行く。

 そうして階段まで来ると櫻華は昇降口のある1階ではなく、上階に向かっていく。その足取りは3階に辿り着いても止まることはなく、更に上へ。示し合わせた訳ではない。けれど不思議と自分の感覚に櫻華は疑いを持たなかった。

 その先に現れたのは屋上に続く扉。それを、櫻華は一切躊躇うことなく、間を置かずに開け放つ。差し込んでくる夕陽。世界を悉く橙色に染め上げるかのような光の中に、やはり千聖は立っていた。

 まさか櫻華が来るとは思っていなかったらしく、一瞬だけ驚愕に目を丸くする千聖。だがすぐに何かを悟ったように力の抜けた笑みを見せる。その姿に、胸が抉られるかのように痛む。だが、それで良い。それが櫻華の責任なのだから。

 近すぎず、遠すぎず、数メートルの距離を空けて櫻華は立ち止まる。その瞬間、屋上を風が撫でた。千聖の長い金髪と、櫻華の黒髪が風にはためく。それを合図とするかのように、千聖が口を開いた。

 

「そう……それが、貴方の答え?」

「……あぁ、そうだ」

 

 感情を押し殺した千聖の声が心を軋ませる。千聖も分かったのだからもう良いじゃないか、と心の中で弱い自分が言う。これ以上悲しそうな千聖を見ていたくない、と卑怯な自分が慟哭する。

 だがそれら全てを櫻華は封殺した。逃避をしようとする自分を決意で圧殺した。目を逸らそうとする自分を決断で鏖殺した。そうして千聖の目を真っ向から見据えて、言葉を紡ぐ。

 

「これが自己満足だってのは分かってる。千聖を傷つけることも。……でも、俺は逃げたくなかった。何も言わないことを答えの代わりにするのは、もっと嫌だったから」

「……」

 

 きっと櫻華には何も言わない選択肢だってあった筈だ。何も言わず、ただ態度だけで答えを示すこともできた。むしろ選択としてはそちらの方が楽だっただろう。自分の選択が何を齎すのか直視せずに済んだのだから。

 だが、櫻華はそれをしなかった。自らの決断が、言葉が、何を齎すのかをその眼に焼き付けるために。積み上げてきた今までを無かったことに、有耶無耶になんてしないために。

 考えて、考えて、考え抜いて、自分はこうするべきなのだと思った。正しいのかどうかなどまるで分からない。もしかしたら間違えているのかも知れないとは思っている。それでもこれが、櫻華が選んだ道だから。もう後戻りはできないし、する気もない。

 

「だから俺は千聖を傷つけるよ。たとえ千聖が嫌だと言っても、止めない。それが俺の責任だから」

「嫌だなんて言わないわ。だって、答えを求めたのは私だもの」

 

 既に櫻華の答えなんて分かっているだろうに気丈に振る舞う千聖。その姿に、櫻華の胸がひどく痛む。自分がしようとしていることに吐き気さえしてくる。それでも櫻華は全てを呑み下した。

 まるで全身に針を突き立てられたかのように身体の至る所が痛む。それが幻であることは解っていても、櫻華にとっては現実の痛みよりもひどく強く感じられた。だが櫻華はそれを顔に出さない。今本当に痛いのは、辛いのは、櫻華ではないから。

 心拍が煩い。その勢いは告白された時の比ではなく、今にも張り裂けそうな程だ。大きく息を吐いてから胸に手を当て、それを黙らせた。もう決断したのだから静かにしていろ、と。

 心拍を鎮めた。緊張のあまり渇いた口内を放っておいた。全身に突き刺さった幻想の針をそのままに捨て置いた。それはきっとこれから櫻華が犯す罪に対する罰なのだ。ならば櫻華は受け入れなければならない。受け入れたうえで、それでも前に進まねばならない。鉛のような空気を肺の中に取り入れて、そして、言葉と共に吐き出す。

 

「俺は……」

「……」

「俺は、紗夜が好きだ」

 

 あぁ、言ってしまった。櫻華の心の中でそんな声が聞こえる。僅かに残されていたかも知れない退路は、今完全に消え去った。それを惜しいとは思わない。元よりそんな退路など、彼は望んでいなかったのだから。

 櫻華の言葉を千聖は何も言わず、ただ聞いていた。櫻華の黒い瞳と千聖の薄紫の瞳は見つめ合ったまま、しかし決してそれ以上近づくことはない。近づくことは許されないし、近づかないのだと決めてきたのだから。

 心臓がナイフでも突き立てられたかのように痛む。だが同時に未だに自らの裡に蟠っていたものが無くなっていくような気もした。それの正体は恐らく、この期に及んで運命の相手だとか、ふたりとも幸せにする未来だとか、そういうありもしないものを夢想していた自分。

 

「貴方の気持ちは、変わらないのね?」

「そうだな。変わらないよ」

 

 改めて口に出して、それを自分自身で嚥下する。そうやって自分の選択を思い知る。心臓に突き刺さった幻想のナイフをゆっくりと引き抜いていく。抜き切れば血が出るだろうが、いずれは止まる。そうして傷口は元に戻るのだ。消えない傷跡を残しながら。

 それで良い、と櫻華は思う。この傷跡はなかったことにできない。して良い筈がない。自傷であり他傷でもあるこの傷は、櫻華が千聖を傷つけた証拠として向き合っていかなければならない。

 櫻華が千聖に付けた傷の深さがどれほどのものであるかは、櫻華自身には分からない。分かった気がするとしたら、きっとそれは自分の罪から逃れたいがための妄想に過ぎない。その傷はきっと櫻華には分からないままだ。彼はそれを塞ぐ役目を選ばなかったのだから。

 

「……もしもその先に辛いことが待っていても?」

「あぁ」

「誰かが紗夜ちゃんを奪おうとしても?」

「その時は俺の方が好きだって証明するだけだ」

「……もし世界が違っても、貴方は同じ選択をしたのかしら」

「それは分からねぇな。だが、今ここにいる駿河櫻華(オレ)は俺だ」

 

 千聖の言う通り、もしかしたらどこかの世界には別な可能性の自分たちがいるのかも知れない。並行世界論とやらによれば、世界というものは無数に存在しているらしい。或いはその世界には千聖を選んだ櫻華や全く別の相手と結ばれた櫻華、一生独りのままの櫻華がいるのかも知れない。

 それでもこの世界にいる駿河櫻華は間違いなく彼だ。ギターと歌と花が趣味で、誰かに頼られることが好きで、自分の手が握られることがないからと空回って、紗夜を選んだ駿河櫻華は、紛れもなく彼なのだ。

 ならば別の世界での可能性など論じても意味はあるまい。今この世界にいる彼はひとりだけで、その本人は既に可能性を(えら)した(んだ)。別な可能性を語ることは、それ自体が御法度だ。ほう、と小さく千聖が息を吐く。

 

「あぁ――振られてしまったわね」

「……」

 

 独り言めいたその呟きに、櫻華は何かを返す術もなければ資格もない。何を言った所で、それは意味を為さないと知っている。故に何も言わず、ただ黙って次の言葉を待った。

 

「もっと夢を見せてくれても、良かったのに」

「夢なんて、最初から見て無かっただろ?」

 

 アイドルがひとりの少年に恋をする。確かに夢のような話だ。だが千聖がそんな夢の中で生きてはいないということは櫻華が一番よく知っている。千聖が恋に恋していたのなら、櫻華が惹かれることもなかっただろう。

 千聖は本気だった。夢など、そんな胡乱なもののために日々を過ごしてはいなかった。彼女の心はどこまでも現実に在って、いつだって全力で櫻華にぶつかってきていた。それは紗夜もそうだ。

 だからこそ櫻華も本気で考えて、答えを出した。その出した答えを千聖に伝えた。言葉にすればそれだけだ。だがその内には言葉では語れないような懊悩があって、それを越えたから今がある。未来に向けて自分の足で歩きだそうとしている。

 千聖のアメジスト色の瞳には今にも零れそうな程の涙が溜まり、けれど決して落ちずにいる。それどころか千聖は一度茜色の空を仰ぐと、櫻華に向かって微笑んでみせた。この上なく気丈に、けれど悲しく。

 

「早く紗夜ちゃんの所に行ってあげて。でないと私……泣けないわ」

「ッ……あぁ、分かった」

 

 千聖の言葉を受けて、櫻華は踵を返して元来た道を歩き始めた。振り返ってからは、もうその目が千聖を捉えることはない。今もう一度千聖を見てしまえば、千聖の決意に水を差す羽目になる。

 身体を縛り付けようとする見えない力を無理矢理に引きはがしながら、櫻華は歩く。そうして櫻華の姿が屋上から消えると、千聖は屋上の柵に背中を預けて座り込んだ。次いで千聖以外誰もいない屋上に彼女の嗚咽が響く。

 振られた。数年に及んだ千聖の恋は今、終わった。そうしてひどく傷ついた筈なのに、千聖は櫻華を好きな気持ちを捨てられなかった。捨てられる筈もない。何故なら千聖は本気だったから。本気だったからこそこうして傷ついて、それでもいずれその傷を受け入れていくのだろう。

 抑えようとしても滂沱の如く流れてくる涙。それを流したまま千聖が立ち上がる。その視線の先にあるのは茜色の空だ。涙で滲む空を見上げながら、千聖が悲し気に笑みを見せる。

 

「だから、その時までは……好きでいさせてね? 櫻華」

 


 

 始まりは、ただの偶然だった。10年以上も前のあの日、紗夜と櫻華は出会ったのだ。紗夜は母親に連れられてきたただの客で、櫻華は花屋のひとり息子。暇をしていた櫻華はただの興味で紗夜に話しかけた。

 ただそれだけであればすぐに終わってしまいそうなものだが、ふたりの関係性は不思議と終わらなかった。その後も紗夜と櫻華は出会い、いつの間にか親しくなっていった。思えば、商店街青年部のメンバー以外で幼い頃から親しかったのは紗夜と日菜だけなのだから、その付き合いの程が分かるだろう。

 思い返せばすぐにでもその約10年のことは思い出すことができる。今ではふたりともギターを弾いているが、始めたのは櫻華の方が数年早かった。始めたての頃は下手で、それでも続けたのはそれが楽しかったからでもあるが、同時に紗夜や日菜が喜んでくれたからでもある。

 それだけではない。この10年で櫻華は様々なことを知り、成長してきた。同じように紗夜も成長して、櫻華と同じようにギターを始めて、Roseliaに加入して、今に至る。ふたりとも順風満帆とはいかなかったけれど。

 紗夜は双子の妹である日菜との差に悩んで己の殻に閉じこもり、櫻華はそんな紗夜に手を伸ばそうとして、けれど些細なすれ違いのためにふたりが手を繋ぐことはなかった。結果櫻華は独りで走るようになり、紗夜はそんな櫻華に戸惑った。

 けれどふたりはその間に横たわっていた誤解を解消させて、今ここにいる。互いに気持ちを知って今まで通りではいられないと分かっていても、それでも尚先に進むことを選んだのだ。

 いつから好きだったのかなんて分からない。いつから好きでいてくれたのかなんて知らない。ずっと昔から好きだったような気もするし、つい先日からのような気もする。結局それについては考えても答えは出ないのだろう、と櫻華は思う。回り道ばかりしてきても、櫻華はそこに辿り着いたのだから。

 屋上から戻った櫻華が辿り着いたのは生徒会室の前。そこに至るまでの道のりは短いようでもあり、長いようでもあった。まるで彼がこれまで辿ってきた道程を表すかのように。

 例によって櫻華が生徒会室に来たのはただの勘だ。ただそこに紗夜がいると思ったから来た。それ以上の理由はない。必要ない。他に生徒がいるかも知れないとは考えなかった。いたとしても、関係ない。

 それでも櫻華は一応の言い訳として扉をノックした。すると返ってきたのは「どうぞ」という紗夜の声。それを聞くだけで跳ねた心臓を無理矢理に抑えつけた。そうして何度か深呼吸をしてから、扉を開く。

 ――果たして、紗夜はそこにいた。ただひとりで生徒会室の窓から差す夕陽を浴びて、立っていた。このタイミングで櫻華が来るとは思っていなかったのか、その表情には明らかな驚愕があった。そんな紗夜の姿に少しだけ笑みを覗かせ、櫻華は生徒会室に踏み入る。

 

「――随分、遠回りをした気もする」

 

 自然と言葉が口を突いて出てくる。自分で意識して喋ろうとしている訳ではないのに、どうしてか抑える気すらも起きない。何故ならそれは紛れもなく櫻華の本心だから、抑える必要性もない。

 

「きっと俺は紗夜を傷つけた。何度も、数えきれないくらい」

「そうね。……でも、私も貴方を傷つけたわ」

 

 分かってる、とでも言うかのように櫻華が頷く。もしも彼らの心の形が可視化できるのならば、ふたりの心は間違いなく傷跡だらけだろう。もしかしたら今も血を流しているかも知れない。

 それでも彼らがそれを嘆くことはない。されど勲章だと誇ることもない。そもそも人が人と関わる以上、傷つかないなどということは不可能。それが互いにより近づこうとしているのならば猶更だ。

 それはこれからも同じだろう。特に櫻華など積極的にそうなる道を選んでしまったのだから。恐らくこれからも櫻華は傷つくし、傷つける。だがもうその覚悟をしている彼に恐怖はなかった。

 互いの醜い部分を晒し合って、傷つけあって、それでもなお好きならばそれは恋ではなく愛なのだと理央は言った。ならば櫻華のそれは間違いなく愛なのであろう。他でもない、氷川紗夜という名前を持つ青薔薇の少女への純粋な愛だ。

 それきり何も言わないまま、櫻華は紗夜との距離を詰めていく。対する紗夜はそんな櫻華を迎えるように、真っ直ぐに櫻華を見つめている。やがて櫻華は千聖との間に取っていた距離を越えて、遂にふたりの距離は零になった。

 櫻華よりも頭ひとつ分だけ小さい紗夜の身体は簡単に櫻華の腕の中に納まってしまう。あの秋雨の日、櫻華は紗夜に抱擁を返せなかった。それが今は自ら紗夜を抱きしめている。その熱を求めている。

 今までそんなことはしたことはないからひどく不格好で不器用な、けれど櫻華が内包するもの全てを紗夜に伝えようとする抱擁。何もかも手探りな彼の腕の中で、紗夜が小さく動く。

 

「ん……苦しいわ」

「ごめん、力加減が分からなくてさ」

「ふふ。責めているワケじゃないわ。だって、こんなにも貴方を近くに感じられるのだもの」

 

 そう言うと、紗夜は櫻華に抱擁を返した。櫻華の背中に紗夜の手が回され、強く抱きしめ返してくる。密着した身体から、互いの拍動が伝わってくる。どくん、どくん、と。互いが確かに此処にいるのだと、叫んでいる。

 それでも紗夜が抱いていた不安はそう簡単には消えてくれないようで、彼女の身体が小さく震えていた。それを掻き消そうとして、櫻華はその華奢な細い身体を更に強く、けれど繊細に抱きしめる。

 紗夜の全身から伝わる熱が櫻華に染み渡っていく。未だ罪悪感で凍り付いていた部分を溶かしていく。そうして代わりに彼らの身体を満たしていくそれは、恐らく愛しさなのだろう。だからこそ、彼は何の憂いもなくその言葉を紡ぐことができた。

 

「俺は紗夜が好きだ」

「……」

「大好きだ」

 

 何の捻りもない馬鹿正直な言葉だ。おおよそ自分自身で作詞した歌を歌う人間の告白とは思えない、愚直極まるロマンチックさの欠片もない告白だ。けれどそれは紛れもなく変に着飾ることのない櫻華の本心だった。

 腕の中にいる紗夜を見れば、櫻華の告白を受けて耳まで紅くなっているのを彼の胸板に顔を押し付けることで隠そうとしていた。けれど隠しきれていない。それが少しだけおかしくて、笑ってしまう。

 満たされている。心底から櫻華はそう思う。歌を歌っている時やギターを弾いている時でもずっと巣食っていた渇きが消えていくのが分かる。元々その渇きは櫻華が他人の手を求めていたが故のものだったのだから、当然と言えば当然なのかも知れないが。

 嘗ては掴めなかった手を、今度こそ掴んだ。互いに手を伸ばして、その手を繋いだ。言葉にしてしまえばたったそれだけのことだが、櫻華と紗夜にとってはこの上なく重要なことであった。

 

「私も……」

「ん?」

「私も、貴方が好きよ。愛しているわ」

 

 櫻華に対する仕返しででもあるかのように放たれた言葉が、真っ直ぐに彼の胸を貫いていく。一切の飾り立てがないが故に、それが嘘ではないのだとはっきりと分かる。元より嘘などと疑うことは絶対にないのだが。

 改めて自分たちがしていることを認識して櫻華が顔を紅くする。けれど嫌ではなかった。嫌である筈がない。ただ顔が紅くなっていることを悟られなければ良いな、と思いつつ紗夜を見つめ返す。

 拍動する心臓から送り出されてくるかのような温かい感情は、きっと愛だ。もう紗夜と櫻華は十分に傷つけ合って、弱く醜い部分を晒し合って、この先も傷つけあうと分かっていながら好きでいられるのだから。故にもうそれは恋ではない。恋などという範疇には、ない。

 

「お、俺も……愛してるよ」

「ふふっ。……ねぇ、櫻華?」

 

 その言葉の先を、紗夜は口にしなかった。代わりに行動で示す。目を閉じて、少しだけ唇を突き出すように。その瞼が少しだけ震えているのは恥ずかしさからだろうか。それを見せられて紗夜が求めているものが分からない程、櫻華は鈍くはない。

 口の中に溜まった唾液を、恥ずかしさと共に呑み下す。そうして櫻華は自分の唇を紗夜のそれに重ねた。緊張のせいか、どんな味だとか、どんな感触だとかは全く分からない。けれど触れ合った部分を通じて互いの想いを交感したことは、確かに分かった。どちらからともなく唇を離し、ふたりが見つめ合う。

 

「今はまだ不十分かも知れないけど……でも俺は、これから先もっと紗夜のことを好きになるよ」

「えぇ。――私もよ。櫻華」

 

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