白花曼珠沙華の如く   作:かってぃー

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The former digression of the kaleidoscope
The observations of alternative future


 ――それは、本来ならば在り得ない世界。ふたりの少女に好意を持ってしまった駿河櫻華はしかし、苦悩の果てに青薔薇の少女へのそれが愛に発展していることを悟った。鷺草の少女は彼に傷をつけなかったが故に好意が愛となることはなかった。

 それは何も櫻華がマゾヒストだったとか、そういう事ではない。別に彼にはそのような特殊な趣味はない。それは謂わば鉄が()てば鍛つだけ強くなるようなものだ。好敵手が共に困難を乗り越えて友情を築くようなものだ。綺麗なだけのもの、綺麗なまま残ってしまったものに、先へ行く余地は生まれない。

 故にそれは有り得なかった筈の結果だ。彼らが辿った可能性に非常に酷似していながら、どこかで何かが違った世界。別の世界にて櫻華が可能性を選択する時に夢想した、在り得たかも知れない、しかし起こらなかった在り方。並行世界論とやらの上でのみ存在が許されるものだ。

 だが、それは何も奇跡が起きなければ櫻華は千聖と結ばれないだとか、そういうことではない。それは単純にどこかで別の世界では起こったことが起こらず、起こらなかったことが起こった。それだけの話だ。

 これはそんな世界の話。ほんの些細な違いから他の世界と同じ道筋を辿らず、異なる可能性に行き着いたもの。白き彼岸花の少年が鷺草の少女の手を取った、そんな世界の未来、その観測結果である。

 


 

 この国の国民であれば知らない人はいないとまで言われる程の伝説的アイドルバンド〝Pastel*Palettes〟。そのリーダー兼ボーカルである丸山彩は今、今までに類を見ない程に困惑していた。その困惑の程ときたら、デビューイベントの際にアクシデントが起きた時に匹敵するかも知れない。

 しかし実際に害がある訳でもなく余人からすれば非常にどうでも良い困惑であるだけ件の事件よりは良いと言えるだろう。或いは元々実害があったが今ではなくなっているというべきか。

 彩がそれほどまでに困惑している原因は今都内のカフェで彼女の対面に座っている女性。パスパレのベーシストにしてかれこれ()()程の付き合いにある親友たる白鷺千聖にあった。

 少しずつ温くなり始めた紅茶に口を付け、一息を吐く。そうして彩は困惑をどうにかしようとして、しかしできずにため息を吐いた。7年間のアイドル生活を経ても、丸山彩の丸山彩たる由縁は失われていないのである。

 

「ごめん、千聖ちゃん。もう一回言って……?」

「だから……私がどれだけ誘っても、カレが乗ってくれないのよ」

 

 どうしたら良いと思う? と本気で考えている様子の千聖に彩は苦笑いを返しつつ、横目だけで周囲を見渡す。普通アイドルが下世話な話をしていれば少なからず炎上するか何か反応があるのが常であろうが、他の客の反応はまるでまたか、とでも言いたげな表情だけであった。

 それもその筈で、千聖が元シンガーソングライターで現大人気バンドのリーダーである駿河櫻華と付き合っているという話はかなり前から人々の知る所なのである。千聖と櫻華のぞっこんぶりもだ。

 確かにそれが公表された時こそ多少炎上したもののその時は既に櫻華の存在が世間的に受け入れられていたことや理央の根回しもあって、さして問題になることもなく世間に受け入れられたということがあった。

 パスパレとしてデビューしたばかりの千聖がその時の千聖を見れば顔を青ざめさせて卒倒するか激怒するだろう、という確信が彩にはあった。らしくないとはいえ、彩も芸能人である。どのようなことを過去の千聖が避けていたかは考えるまでもない。

 しかしその変化を彩は良いことだと思う。確かにそれは芸能人としては危うい橋を渡るようなものだが、千聖が幸せであるのなら彩は何も言う気はなかった。言う事が思いつかないということでもある。

 そして、それは千聖の相談に対しても同じことである。下世話云々の理由ではない。そもそも丸山彩約24年の人生において恋人ができたことなどは一度もない訳で。しかし千聖が求めている意見がそういうことではないことも彼女には分かっている。

 何せ千聖ほど親しくはなくとも――同等であればそれはそれで問題なのだが――彩もそれなりに櫻華との付き合いは長い。加えて最近では歌番組やバラエティー番組でも共演している。だがそれでも、彩には自分が適任であるようには思えなかった。

 

「日菜ちゃんにはもう訊いたの?」

「もちろん。でも、あれは流石に……」

 

 そう答えながら千聖は恥ずかしそうに、しかしまんざらでもなさそうに顔を紅くする。その表情だけで、彩は日菜が千聖の問いに対してどのように返したのかをおおよそ悟って紅茶を啜った。

 何もパスパレの中で恋人がいるのは千聖だけという訳ではない。日菜にも高校時代に知り合ったひとつ年下の制御役の苦労人――もとい恋人がいる。それに日菜は櫻華とは幼馴染の自他共に認める親友であるからそちらの方が適任かとも思ったのだが、どうやらかなり斜め上の解決案を提案されたらしい。

 直接的な単語は何ひとつとして出てきてはいないが、オブラートに包んでいなければとてもお子様には聞かせられない会話である。それが許容されているのは、ひとえにそれが別に人間としては何も問題はない会話だからか。或いは同情されているのか。

 

「多分、櫻華君も千聖ちゃんとそういうコトをしたくないワケじゃないと思うんだけどなぁ……」

 

 櫻華は普段は飄々としているが、その実彼は尽くす男である。彼自身多忙の身でありながら千聖の仕事に支障がないように自分にできることは全てやるし、それ以上のこともしようとする。

 それは何も櫻華がそうしなければ千聖の気持ちが離れてしまうと思っている訳ではなく、自然な流れとしてそうなっているのである。傍から見れば尽くしているように見えても、櫻華本人としては当たり前のことをしているつもりなのだ。

 それは誰かと共に生きるうえにおいては最適の精神性であろう。何せ共同生活をする中で発生し得る不満は殆ど発生しない。だがその気配りが果たして周囲の人間の望みと合致するかは別の話であって、どうやらこの場合は合致しなかったようである。少しして、千聖が口を開いた。

 

「それは……分かってるわ。櫻華も『俺のせいで千聖の仕事に支障が出るのは、嫌だから』と言っていたもの。でも……」

 

 言葉を途中で区切り、窓の外を見遣る千聖。その千聖の様子を見ながら、彩はいかにも櫻華らしい理由だと思った。櫻華は他人から頼られるのが好きだというが、それは転じて自分よりも他人を優先しようとするということでもある。

 きっと櫻華も内心では何も思っていない訳ではないのだろう。けれど愛しているが故にそれがブレーキとなっているのだ。愛しているからこそ、邪魔するようなことはしたくない、と。

 自分ひとりの愛で走ってしまうことがない辺り、やはり櫻華は優しいのだろうと彩は思う。けれど、同時に狡い人だとも。愛を理由にどこまでも我慢強くなれてしまうのなら、それは時に損しか生み出さない。

 これは私が千聖ちゃんのためになんとかしなくちゃ! と内心で発起する彩だが、しかし彼女では櫻華本人を何とかすることはできない。彼女にできるのは千聖に言葉をかけてやるか、妙案を出すことだけ。尤もそんなアドリブ力は彩にはまだ身に付きそうにないのだが。

 

「千聖ちゃんは、櫻華君のことが好きなんだよね」

「当然よ。愛しているわ。なんなら外で宣言できるくらい」

 

 きっぱりと千聖がそう言い切った直後、彩の視界の中に何人かの客がエスプレッソやブラックコーヒーを注文している姿が映った。やはりと言うべきか何と言うべきか、本人がどんな思いでも惚気話は惚気話でしかない。

 千聖は自分の愛に確信があるし、櫻華からの愛も疑っていない。疑っていないからこそ、むしろ気になってしまうのだ。何故櫻華がそういう態度を取っているのかも、全て分かったうえで。

 詰まる所、言い方こそ悪かったものの千聖は確かな証拠が欲しいのだろう。有形であるか無形であるかは問わないが、自らの確信に対してそれを支えるものが欲しいのだ。それに気づいた彩の顔に薄く笑みが浮かぶ。可愛いなぁ、とそんな言葉を口にしながら。首を傾げた千聖に、彩が言う。

 

「大丈夫だよ、千聖ちゃん。多分このままってことはないんじゃないかな。もしも何もないなら……」

 

 そこで彩は一旦言葉を区切り、千聖に耳打ちをする。別に内容を考えれば先程の会話よりもかなり軽い、耳打ちする必要性もないようなものだ。故に耳打ちしたのは単なる気分である。

 彩からの耳打ちの内容を受けて千聖が見せたのは微妙な表情。今まで何をしても強力な自制心で抑えきってしまった櫻華がそれで動くのかと疑っているのである。しかし千聖には案らしき案がないのも確かであった。

 櫻華は基本的に言わずとも相手が求めているものを察し、互いに多忙だからこそ率先して互いの負担を減らそうと動くことができる男だ。故に千聖には殆ど不満がなく、ひとつだけの不満が目立ってしまう。

 暫しの逡巡の後、千聖は彩に頷きを返した。

 


 

「ところで、千聖さんとは最近どうなんだい?」

 

 新曲レコーディングの帰りに唐突に櫻華にそう問うたのは櫻華がリーダーを務めるPetal of dreamsというバンドのキーボード担当にして花咲川学園中等部から付き合いのある親友たる〝戸賀咲也〟であった。

 場所は既に現在暮らしている家の近く。ベース担当とドラム担当は途中までは帰り道が一緒なのだが、咲也は最も家が近いが故に自宅周辺まで共に帰るのである。

 先程までは仕事の話や共通してプレイしているゲーム――咲也の趣味はネットゲームである――の話をしていた筈が、その話題がひと段落した途端にこれである。しかし咲也の色素が薄い亜麻色の瞳に冗談の色合いはない。

 

「どう……とは?」

「え? ホラ、君たち7年も付き合ってるじゃない? そろそろその先に進んだりしないのかなって」

 

 そう言う咲也の声音はあくまでも純粋で、櫻華を揶揄するような意図はないことはすぐに分かった。そもそも咲也は距離の近い相手には気安い対応をするものの、下手に揶揄うような性格はしていない。彼はどちらかと言えば内気な性格をしているのだ。

 しかし内気であることと臆病であることは必ずしも同義ではない。櫻華が少し視線を落とすと、咲也の左薬指に嵌められている銀色の輪が見えた。櫻華の手にはまだないものだ。

 咲也の言わんとする所が何であるのかは言われずとも分かっている。なにせ付き合いは櫻華の知人の中でも相当に長い方であるのだから、咲也の性格は完全に把握していると言っても過言ではない。櫻華が視線を明後日の方に飛ばす。

 

「特にこれといったことはねぇよ。わざわざ話すようなことは、何も」

「まだ何もないのかい? ホント、君はヘタレ……いや、違うか。考えすぎなんだよ、君は」

 

 これ以上ない程の呆れを内包したその言葉に、櫻華は言い返すための言葉を持たない。櫻華が咲也の性格を把握しているように、咲也もまた櫻華の性格や思考の傾向を把握している。考えていることを悟られないようにする方が至難の業だ。

 情けない話であるとは彼自身分かっている。この先の人生でどれだけ傷ついても前に進んでいくのだと7年前に決意したというのに、今になって前に進んでいくことに恐怖している。

 だが、それも少しは致し方ないことではあろう。以前のそれは櫻華ひとりが前に進めば良かったところが、今回のそれは櫻華だけではないのだから。果たしてふたりで前に進んで、そこに求めるものがあるか分からない。自分は幸せでも、千聖が幸せであるのか分からない。独白するように櫻華が漏らした言葉に、咲也がため息を吐く。

 

「心配し過ぎだよ。君は君の幸せだけを考えていれば良いんだ」

「でも、それは……」

「だって、君の幸せは千聖さんが幸せであることだろう? なら何も問題ないじゃないか」

「――――」

 

 特に諭す訳でもなく、至極当たり前のように放たれた咲也の言葉。しかしそれは何の衒いもないが故に真っ直ぐに櫻華の胸に届き、そこに巣食っていたものを射抜いていった。

 櫻華の幸せは千聖が幸せであること。最早特に難しく考えるまでもなく、彼の思考回路はそのようになっている。矯正されたとかそういう訳ではなく、自然とそのようになったのである。

 それはある意味で強欲な考え方だ。自分だけの幸せで満足せず、自分でない人間までも幸せでないと満足できないのだから。本来は自分自身の幸せを追い求めるだけで手一杯な人間がその領分を逸脱したことを望んでいる。それが強欲ではない筈がない。

 妙な話である。人間は誰かと一緒でなければ生きていけないというのに、十全に実現できるのは自分ひとりの幸せだけで、しかし自分ひとりの幸せでは決して満足できないなどと。

 しかしそれが人間というものなのであろう。矛盾した性質と思いを抱えていながら、決してあきらめきれずに足掻いている。足掻かなければならない。そうしなければ自分も幸せでいられなくなってしまったから。

 

「……良いのかな。我慢しなくても」

「良いんじゃないかな。君のことだ、どうせ準備はしているんだろう? 月収3か月分のアレ。……それに、世間様というのも案外寛容らしいね」

 

 そう言いつつ咲也が櫻華に見せたのは咲也のスマートフォン。その液晶に表示されているのはインターネットのまとめサイトとやらだ。咲也がスクロールしていく画面を目で追う。

 そこに書いてあったのは人気アイドルと付き合う櫻華への批判――ではなく、いつまで経っても先へ進もうとしない櫻華に発破を掛けるようなものであった。中には俗に言うガチ恋勢の批判的な意見もあるが、それは他利用者の反対意見で叩かれている。

 櫻華は知らないことだが、千聖のファンには櫻華のファンである者も多い。というのも彼がデビューしてからの7年間で見せた千聖を想う様子が千聖のファンにも受け入れられたのである。その結果たるウェブページを見て、櫻華が思わず笑う。

 

「これは……後戻りできねぇな。する気もないけどさ」

「する気があってもさせないよ。僕たちがね」

「頼もしいことだな」

 

 そう言うと同時にふたりが足を止める。そこは何の変哲もない交差点。櫻華と咲也がいつも別れる場所であった。そこでふたりは会話を切り上げて別れの挨拶を交わし、それぞれの家路に着く。

 少しずつ離れていく咲也の気配を背後に感じながら、櫻華は思う。自分は良い仲間を持った、と。Petal of dreams結成から7年が経つが喧嘩や騒動はむしろ結束を強め、数年前からはFUTERE WORLD FES.に出場することもできている。

 それだけでも十分幸せだというのに、櫻華は未だ満足できないでいる。だがきっとそのくらいで丁度良いのだろうとも思う。満足していないからこそ、彼はまだ前に進もうとする。いずれ生命が終わるその時に幸せだったと満足するために。そんなことを考えながら、櫻華は自宅の扉を開けた。

 


 

 唐突に無言のまま千聖が櫻華に背後から抱き着いてきたのは、彼が夕食を作っている最中のことであった。いつもならば決してしないであろう行動に櫻華は一瞬面食らうも、その驚愕はすぐに決意で押し流されていく。

 余談だが、ふたりの共同生活において家事は当番制であった。ふたりとも大人気バンドのメンバーであり多忙の身である彼らだが、同じ事務所であるため幾らか時間の都合が合い基本的に夕食は共にしている。

 背後から回された千聖の腕はその細腕の何処からそんな力を出しているのか不思議な程強く櫻華を拘束し、彼に逃げることを許さない。服越しい千聖の体温が伝わり、心拍が伝播してくる。どくんどくん、とそれだけでも櫻華には千聖が緊張していることが分かった。ガスではないから危険性はないと分かっていても、反射的に出力を低くしてしまう。

 

「どうかしたか、千聖?」

「……」

 

 櫻華の問いに、千聖は何も言葉を返さない。代わりに何かを訴えるように彼の胸に回された腕に込められた力が更に強くなり、俯いた千聖の額が背中に押し付けられる。千聖のその行動を、櫻華は黙って受け入れていた。

 その感覚を覚えていろ、と冷静な彼が言う。これが自分が迷い続けた結果、長すぎる手探りの果てに生み出してしまったもの。共に傷つくならばそうしてしまえば良かったものを、大切にしようとし過ぎた結果だ。

 ふたりの間に会話はない。キッチンを満たすのは櫻華が作るシチューが沸騰する音だけだ。その中で櫻華はエプロンのポケットに手を突っ込むと、そこに忍ばせていたソレに触れた。そうして、深呼吸を都合三度。最後の覚悟を決める。

 

「ごめんな、千聖。不安にさせちまったよな」

 

 千聖が頷く。それを背後に感じながら、櫻華は努めて冷静であろうとした。しかし身体は正直なもので口内は渇き、手からは妙な汗が出ている。それでもそれを悟られまいと、声だけは抑えた。

 

「そっか。じゃあさ――結婚するか?」

「えぇ。……えっ!?」

 

 櫻華自身ですら意外な程に容易に出てきた言葉に、千聖が素っ頓狂な声を漏らした。まさかこのタイミングで櫻華がそんなことを言い出すとは思っていなかったのであろう。その様子に思わず櫻華が笑う。

 実際、櫻華も元はこのタイミングで言い出すつもいはなかった。けれど千聖が抱き着いてきた時、今しかないと思ったのだ。それでも少し覚悟は必要だったが、既にある程度覚悟はできていた。

 千聖は顔を上げて信じられないものを見るかのような目で櫻華を見ている。櫻華はそんな千聖の左手を取ると、ポケットの中から取り出した指輪を通した。その中央に嵌め込まれているのはイエローダイヤモンド。永遠の愛を意味する宝石だ。

 

「それで、返事は?」

「……嘘じゃ、ないのね?」

「嘘でわざわざこんなコトするワケねぇだろ? ……待たせて、悪かった」

 

 櫻華の言葉を受けて、再び千聖が櫻華に抱き着く。それは感極まったからか、或いは別の何かか。櫻華は少し千聖の身体を離して顔を上げさせると、指でその涙を拭った。しかし、それでも涙は止まらない。

 状況だけを見れば情緒やロマンチックさの欠片もないプロポーズだ。けれど櫻華はそんなものは求めていなかった。ただ流される訳ではなく、自らの意志で前に進めたのであれば、それで良い。

 千聖の涙の源泉は歓喜。それだけで櫻華にとっては返事にも同義であったが、しかし彼は何も言わなかった。ただ千聖の涙が止まるまで待って、そして、千聖が返事を返す。その顔に心底からの笑顔を咲かせて。

 

「――不束者ですが、末永くよろしくお願いします」

 


 

「――そっか。そんな未来も、あるんだな」

 

 目を覚ます。続けて身体を起こすと、櫻華はそんなことを呟いた。寝起き、それも昨日FUTURE WORLD FES.という一大イベントを終えて疲れ切っているというのに意識は不思議と鮮明だった。先程まで見ていたビジョンのせいだろう。

 それは俗に言う夢オチなどではない。奇妙なことだが、櫻華にはその確信があった。聊か今よりも先の未来ではあったが、それは紛れもなく本物だった。如何なる理由かは知る由もないが、櫻華は別な世界の自分を見ていたのだ。紗夜ではなく千聖を選んだ世界の自分を。

 その世界の櫻華はきっと辿った道が違うのだろう。この世界の彼が辿った道では、彼は紗夜以外を選ぶことはなかった。何故なら恋が愛になったのは千聖ではなく紗夜だったのだから。

 それでも櫻華は櫻華だ。異なる可能性を生きた櫻華は迷いながらも己の足で前に踏み出し、幸せを掴んだ。それを見てしまった以上、櫻華の思いはひとつだった。元から決意はしていたが、その決意がより強固になったと言うべきか。

 ベッドから出て寝間着から私服に着替える。そうして櫻華は鍵のかかった引き出しを開けると、そこに仕舞われていたものを取り出した。櫻華の掌よりも小さな、けれど確かな重みのある青い箱。

 異なる可能性の自分が幸せになったというのなら、自分はそれに負けないくらい幸せにならなければならない。しなければならない。自分が、自分たちが選んだ道は決して間違ってはいなかったのだと証明するために。そんな思いを以て、櫻華は寝室を出た。そうして、寝坊した自分に代わって朝食の準備をする最愛の女性に言葉を投げた。

 

 

 

「――紗夜」

 

 

 さぁ、一度は離してしまった手を取り合って、幸せ(みらい)へと進もう。

 

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