人間誰しもが自分が主人公の物語を生きている、とは誰の言葉だったか。櫻華自身小耳に挟んだ程度でその言葉の詳細についてはよく知らないが、彼の考えにおいてはそれは紛れもない妄言であった。
確かに常に自らを自分自身の人生の主人公であると自認できる人間はいるのだろう。だが、それは限られたごく一握りの人間だけだ。意志を強く持つだけではいけない。周囲の人間を動かし、他人に流されず、己の道に他者を巻き込むことができる者だけがそう言い放つことができる。
人間は経験からでしか物を語ることができない、とはよく言ったものだ。きっと前向きな言葉を何の躊躇いもなく信じることができる人間と櫻華は真に分かり合うことはできない。何故なら、そのように育ってきたから。
駿河櫻華という人間には並外れた意志力や集中力はあっても他者に干渉する力はなかった。今でこそ知り合いが増えて趣味を共有できるようになったものの、以前は紗夜や日菜、そして商店街に住むか常連の幼馴染くらいしか趣味の話ができなかった。決してぼっちという訳ではないが。
故に櫻華は人生の主人公ではない。そもそも人生の主人公と物語の主人公は違う。それらを一緒くたにするには間違っているのかも知れないが、しかし櫻華にはひとつだけ己が自らの人生の中心にいるのだと強く実感できる時間があった。
それがライブ。日々積み重ねた修練を一気に解放し、集った人々を己の情炎で覆いつくす。もうひとつの趣味である花と向き合っている時のように裡を無にして外と溶け合うのではなく、全てを取り込み、飲み干してしまうかのような感覚。それが櫻華に『己』を実感させる。
それは最早歓喜などはとうに追い越した感覚だ。ライブハウスに集う人々を櫻華が呑み込み、その興奮全てを味わっているかのような、一種の全能感。ベクトルを間違えれば絶頂してしまいそうな程の快楽。それが櫻華の全身を満たしている。
普段の飄々としていながら厭世的な櫻華は鳴りを潜め、まるで人格そのものが変わったかのように苛烈に、大胆に、しかし繊細にギターの音色で熱に狂ったライブハウスを更なる狂熱に沈めていく。
そう。自分が立つステージでは自分こそが主役。自分こそがこの世界の中心。そう言って憚らない演奏に反感を持つ者はこの場にはひとりもいない。何故なら客は既に熱に呑まれ、ステージに立つ櫻華を中心とする巨大な生き物の一部となっている。
自らの感情を音に乗せ、周囲に伝播させながらも不快にさせずに呑み込む力。それこそが櫻華が音楽において持つ唯一の才能であった。その才能のための実力。音が内包する力に音そのものが負けないだけの努力を櫻華は重ねた。
無論、櫻華自身がその才能を自覚している訳ではない。そもそもそれは努力を重ね、実力を上げたからこそ開花したものだ。そういう意味では才能というよりは
だが、まだだ。櫻華はさらにボルテージを上げ、貪欲に観客を自らの裡に取り込んでいく。それでも足りない。その感覚を渇きと言うのなら、櫻華はまだ渇いていた。その渇きは更なる貪欲さに変わり、際限なくボルテージは上がっていく。
それでもまだ足りない。櫻華の脳裏を過るのはいつかの日のRoselia、そしてその曲である〝Neo-Aspect〟。渇きの原因はそれだ。その時の演奏が櫻華の脳裏に焼き付いて離れない。Roselia5人が共鳴するかのような音が、心に、魂に突き刺さって抜けなくなっている。
その感情を人は憧れというのだろう。だが櫻華はバンドを組むことはしない。以前の彼ならともかく、今の彼がバンドを組んだとして、それはきっとRoseliaの劣化コピーにしかなれないだろう。それではいけない。そんなものは櫻華が求めるものではない。
あの演奏がRoselia5人で至る境地のひとつであるのなら、きっと
身体の奥から、魂の裡から湧き上がってくる衝動のままギターを掻き鳴らし続ける。1曲終わる度に汗を拭うことすらも忘れてトップギアで己の情動を奔らせ続ける。自らを『主人公』として周囲を巻き込み、熱狂を吐き出す。
CiRCLEで行われているこのライブにおいて、まず間違いなく最も注目を集めているのは櫻華だ。それは実力によるものであり、彼の力によるものであり、場の空気によるものでもある。しかしそれら一切合切を置き去りにして、櫻華は叫ぶ。
「まだだ。まだ足りねぇ!! もっと滾らせろッ!!」
熱狂は止まらない。もっと、もっと――少年は咆哮する。
「ふぃー……疲れた……」
CiRCLEでのライブが終了してから数時間後、櫻華の姿は商店街のとある店にあった。その店の名前は〝羽沢珈琲店〟。この商店街唯一の喫茶店であり、昔から何かと櫻華はこの店を利用していた。ライブの後は専らこの店に来ていることが多い。
先のライブでのロックな姿とは打って変わって店の机に突っ伏して唸る櫻華。そこにライブで見せたような情炎はなく、彼が一時的にせよ機能停止状態となっているのは誰の目にも明らかであった。
最早疲れすぎてこの場にはない筈の仏具の音さえも聞こえてきそうな櫻華。突っ伏したまままんじりとも動かないでいると、その机にコーヒーと異常な盛り方が成されたパフェが運ばれてきた。同時に頭上から声が降ってくる。
「大丈夫? さく兄」
「あぁ……大丈夫、大丈夫」
櫻華を〝さく兄〟と呼ぶその少女の名前は〝羽沢つぐみ〟。この羽沢珈琲店の看板娘であり、〝Afterglow〟というガールズバンドでキーボードを担当している。学年は櫻華のひとつ下だが、幼馴染のひとりである。櫻華は昔からよく商店街の人々と交流を持っていたため、幼馴染と言える人間が非常に多いのだ。
櫻華の許に運ばれてきた〝特盛〟や〝ドカ盛〟とでも言うべきパフェは通常のメニューには載っていないもので、ある意味では彼専用のメニューである。ライブの後には必ずこの店に寄ってそれを食べるのが彼の習慣であった。
余談だが。普段は動画投稿サイトなどのユーザーネームでさっくんという渾名を使っている櫻華だが、彼の渾名はそれだけではない。それがさく兄というものである。どちらも櫻華の名乗りが由来だ。
パフェの過剰なまでの糖分がエネルギーの足りなくなった全身に染み渡る。それでも流石にくどくなった時にはブラックコーヒーの苦みで甘みを忘れさせてから再びパフェを口の中に放り込んでいく。
「今日のライブはどうだったの? 私、お店の手伝いで見に行けなかったんだ」
「ん。まぁ、いつも通りかな」
「……そっか」
『いつも通り』。その発言の真意を知らない人間にとっては聊か投げやりのようにも聞こえるが、ことつぐみ相手にはその言葉だけで十分に伝わる。それは長年の付き合い故ではなく、その言葉の元ネタとでも言うべき少女の存在故だ。
しかし櫻華の〝いつも通り〟にはポジティブな意味だけではなく、ネガティブな意味合いも含まれている。櫻華のいつも通りとはつまり未だ彼が心に焼き付いた演奏に縛られ続けているということなのだから。
過ぎたる才能が周囲を焼き焦がしてしまうように、完成され過ぎた技術が人間の領域を食いつぶしてしまうように、完成された旋律は人の心を掴んで離さない。まるで遅効性の毒のように。櫻華はその毒にずっと犯されたまま。
自らの音に感じている
それでは駄目だ。それではいけない。けれど脱することができない。解決の糸口が見えない。黙々と、しかし味わいながらパフェを食べる櫻華だが、その内心はパフェのように甘くはない。それが櫻華のいつも通り。つぐみはそれを知っている。
「……ねぇ。さく兄は紗夜さんのこと――」
その言葉の続きは果たしてどのようなものであったのか。つぐみが発するより先に店の扉が開き、反射的に意識がそちらに向いてしまう。次いで櫻華の耳朶に触れたのは二人分の足音。それらはよく似ていながらも、明確に性格の違いが表れていた。
「やっほー! さっくん! つぐちゃん!」
「こんにちは、羽沢さん、櫻華」
果たして店に入ってきたのは紗夜とその双子の妹である〝氷川日菜〟であった。紗夜よりは付き合いが短いものの、櫻華が幼い頃から付き合いのある友人のひとりであり――櫻華に自覚はないが――
数か月前までは紗夜と日菜の関係は物理的ではなく精神的な距離で疎遠になっていたが、櫻華は特にそのようなことはなかった。紗夜とはバンドやギターの話をしていたし、日菜には物理的に振り回されていたのだ。ごく普通の友人関係である。
それは誰に対してもそうだ。氷川姉妹だけではない。つぐみも、宇田川姉妹も、沙綾も、はぐみも、櫻華が気づいた頃には既に問題を乗り越えていて、彼の関知する所はどこにもない。
ライブの時以外、駿河櫻華という人間は可憐に咲き誇る花々を俯瞰する
ごく自然に櫻華が座っている席の対面に並んで座る氷川姉妹。少し前までは絶対に有り得なかったその光景に、安心感と同時に一抹の寂しさを覚えてしまうのは傲慢というものだろうか。
「さっくんのライブ、凄かったね!! お客さんもあたしもるるるんってしてた!」
「そりゃどうも。楽しんでもらえたなら何よりだが……他の連中にも凄いのはいただろ」
「それでも、一番盛り上がっていたのは貴方の番だったじゃない」
紗夜のその言葉に櫻華は何も返さずにブラックコーヒーを一気に呷った。それでも口の中に残った甘みは消えない。大人しくお代わりを注文し、少し赤くなった顔を隠すように明後日の方を向く。
紗夜の言う通り、先のライブで最も盛り上がっていたのは櫻華の演奏だった。その盛況ぶりは後続の相手に妙な緊張感を与え、プライドの高そうな人間から嫉妬の視線を投げられる程である。
才能はともかく、櫻華の腕前は万能の天才である日菜と比しても遜色ないほどにはなっている。だがその関係性は謂わばRPGにおける勇者と雑魚敵のようなものだ。魔王の城にいる敵は強いが、レベルを上げた勇者には敵わない。それが櫻華と日菜の間にあるもの。この価値観で言えば、間違いなく紗夜も勇者側の存在だ。
そんな後ろ向きな思考をコーヒーと一緒に胃の中に押し流す。後ろ向きな思考は櫻華の癖だが、紗夜と日菜は嫌味ではなく素直に櫻華を褒めただけなのだから、それを素直に受け取らないのは失礼というものであろう。
「それにしても、そのパフェ美味しそうだねぇ。あたしも食べようかな?」
「おいおい、良いのか人気アイドルさん? 太るぜ?」
「女の子に体重の話はノーだよ、さっくん!」
軽いノリでそう言いながら日菜は櫻華と同じパフェを注文する。紗夜も何か言おうとするが、日菜の笑顔の前ではただ苦笑するだけであった。
櫻華の幼馴染は全員女性、それも美少女ばかりという世の男子全員からいつ刺されてもおかしくない状態だが、櫻華は女性というものが一向に理解できそうもない。恐らく妙に近い距離感の反動だろうと彼は考えている。
少しして日菜が注文したパフェが運ばれてくる。それを食べる日菜の顔は非常に幸せそうで、グルメ番組であれば映えるだろう、と櫻華は場違いなことを考えた。紗夜の方を見れば、物欲しそうな表情でちらちらと櫻華や日菜を見ている。その様子に悪戯心が湧いてきて、櫻華はパフェを掬ったスプーンを紗夜に向けて差し出した。
「ホラ。食うか、紗夜?」
「えっ。いや、それは……」
櫻華の行動を予測していなかったのか、紗夜はスプーンの上に乗ったパフェと櫻華を交互に見て顔を赤くしている。その理由が分からない程、櫻華は馬鹿ではない。そもそも彼はその反応を狙っていたのだから。
意を決したような様子を見せてから、櫻華の差し出したスプーンに口を着けようとする紗夜。しかし櫻華はその直前に少しだけスプーンを引き、紗夜の決意は空を切る結果となった。抗議の視線を向ける紗夜と、悪戯が成功した悪童のような笑みを浮かべる櫻華。
しかし、櫻華はそれを仕掛ける相手を間違った。何せ相手はあの氷川紗夜である。紗夜は満足げな笑みのままパフェを食べようとする櫻華の手を掴んで無理矢理固定すると、パフェを食べてしまった。思ってもいなかった紗夜の行動に、櫻華が顔を赤くする。
「ちょ、おま……かっ、かかかっ……」
「かかかって何よ……仕掛けてきたのは貴方じゃない……」
そのやり取りを最後にふたりは耳まで赤くして黙り込んでしまう。それを至近距離で見ていた日菜が、呟く。
「仲良いねぇ」
「あ、あはは……」