白鷺千聖が抱いた駿河櫻華への第一印象は〝変わった人〟というものであった。
彼らが出会ったのは花咲川学園が共学化した最初の年、つまりふたりが中等部1年の時分であった。より詳しく言えば直接的な関わりを持ったのは2学期半ばに席替えをして席が隣同士になった時である。
その当時でも千聖は有名であった。物心も付かないような年の頃から数多くの映画やドラマに出演し、成長してからもその美貌と高い演技力からより多くのファンを獲得し、順調に芸能界での地位を確立してきた。その知名度は国民に知らない者がいないと言っても過言ではなかろう。
だがその反面、千聖は学校では浮いた存在だった。何せどこに行っても〝あの〟白鷺千聖という風に遠慮される。加えて仕事で休みがちなのもあって、中高生がよく形成する所謂〝仲良しグループ〟とやらも気づいた頃にはできていた。千聖を排除する形で。
白鷺千聖には関わらない。関わるものではない。千聖が気づいた時にはそういう〝空気〟ができあがっていた。空気と言うと精々雰囲気程度のものであるが、中高生にとってそれは強い拘束力を持つ。無二の親友となる花音と出会うのはクラス替えがあった後だ。
それでも視線は向けられる。女子からは好奇や嫉妬、ごく少数の男子からは嘗め回すような、到底言葉にしたくもない視線を。故に席替えで櫻華が隣になった時、千聖はこの男子もそういう類なのだろう、程度にしか思っていなかった。
或いは櫻華への第一印象はそういう先入観があったが故のものなのかも知れない。初め櫻華から千聖に向けられた視線を一言で言い表すならば無関心。周囲の人間が向けてくる関心を押し殺した無関心ではなく、どうでも良いとでも言いたげな視線だ。
千聖が元子役の白鷺千聖であると知らなかった訳ではなかったのだろう。周囲の空気感に気づいていなかった訳ではなかったのだろう。
ペアワークやグループワークでやり取りすることはあるし、事務連絡をすることもある。ただ、それだけ。千聖と櫻華の関係性は特に親しくもない同級生という至極一般的なものだった。
それが少しずつ変わり始めた、その契機となったのは席が隣同士になってから1か月と少しが経った頃。期末テストの前。その時、千聖はドラマの撮影等で長く学校を休んでいて、その多忙さ故に学習内容が授業に追い付いていなかった。とはいえ千聖は要領が良く地頭も良いため急いで勉強すれば間に合う。そんな朝のことであった。
『白鷺、長いこと休んでたよな。俺ので良ければ、ノート貸すか?』
『えっ……?』
あまりに唐突なことであったためか対応が遅れる千聖。だがそれも仕方のないことであろう。何せそれまでふたりの間に碌な会話などなかったのだから。しかし櫻華は何でもないことのようにあくまでも無表情である。
実際、それは櫻華にとって何でもないことであった。ただ状況的に隣の生徒が困っていそうだったから訊いてみた。気分でなく、よくあるただの小さな善意。言うなれば老人の荷物を代わりに持つような、迷子の親を一緒に探してやるような、その程度のものだ。
詰まる所、駿河櫻華という男は性格が少々変わっていることを除けばよくいる善人だった。他人が困っていそうならば取りあえず手を差し伸べる。そういうことができる人間だった。
『あ、ありがとう。お言葉に甘えさせていただくわ』
戸惑いを滲ませた千聖の言葉に頓着することもなく櫻華は千聖にノートを渡すと机の上に広げた問題集に向き直った。それを横目に千聖はノートを広げ、成る程と勝手に納得する。
入学してからその時点まで行われていた3回の定期テストと数回の学力テストにおいて、櫻華は常に1位とかなりの好成績を出していたのだが、そのノートはその結果が間違いではないと証明するかのように分かりやすく整然と纏められていた。それは同時に櫻華が最初から何でもできる天才ではなく努力家だとも物語っている。
それが千聖が初めて櫻華に強く興味を持った瞬間だった。普段は千聖どころか他のクラスメイトに対しても無関心でわざと空気を読まないようなひねくれた人間でありながら、困っている人を見かけたら放っておかない人間。少なくとも千聖はプライベートにおいてそういう人間と関わったことがなかった。
故に話しかけた。初めこそ櫻華は素っ気なかったものの、話しかけているうちに少しずつ心を開いてくる様子に千聖は手応えを覚えたものだ。だが千聖は忘れていた、今は出る杭は打たれるどころか出ていない杭でも引き抜いて捨ててしまおうとする人間がいる時代だということを。
周囲の目から見ても櫻華が千聖に心を許し始めた頃、心ない連中が空気に従おうとしない櫻華の陰口を言うようになったのである。曰く、千聖の身体が目当て。曰く、調子に乗っている。曰く、ちょっと見た目が良いからと千聖を利用して芸能界入りをしようとしている。曰く、曰く、曰く――。
しかしそれらの陰口に櫻華は一切何の反応も示さなかった。いや、示そうとしなかったと言うのが正しかろう。それが不思議で、千聖はある日櫻華に問うた。皆がいる教室の中で。
『ねぇ。どうして貴方は自分を悪く言う人達に抵抗しないの?』
それほど大きな声ではなかった。しかしその瞬間、千聖は周囲の視線の一部が自分たちに集中したのを感じた。櫻華を快く思わない奴ら、或いは櫻華に自分たちへの同化を強要していた奴らの視線だ。
当時の千聖が感じていたのは罪悪感だった。自分が興味を持って積極的に関わってしまったばかりに、空気から逸脱した行動を櫻華に取らせてしまったばかりに、櫻華に悪意が向けられてしまった、と。
千聖に問いをぶつけられたその一瞬、櫻華が面食らったような表情を見せた。しかしすぐに笑みがそれに取って代わる。困ったような薄い笑みでありながら、どこか空気への嘲笑を滲ませた、そんな笑み。
『俺が誰と仲良くしようが俺の勝手だろ? それにな、みんな一緒がいい! みんなに含まれない奴はどうしても良い! とか思ってる頭ん中お花畑みたいな連中には興味もないし、一生かけても仲良くできる気がしないからな。てか、そんな連中のために時間を使う程暇じゃねぇよ』
だから反応しなかった。櫻華がそう言った瞬間、悪意の視線が霧散した。恐らく櫻華には何を言っても無駄だと思ったのだろう。そういう人間は得てして陰口を叩かれる人間の困っている姿が見たいのだろうが、櫻華は困るどころか彼らを嘲ったのだから。
平気だから、と自己犠牲に奔るでもなく、自己陶酔に耽るでもなく。興味がない、という冷徹なまでの拒絶。拒絶された奴らが舌打ちをする。クラスに数人いる、櫻華と仲の良い男友達がサムズアップをしている。そんな中で、千聖は笑っていた。
千聖は安心していたのだ。だってそうだろう。自分のせいで傷ついたかも知れない人が、そんなことないと言って笑っているのだから。拒絶された悪童達は気の毒だが、自業自得、いや、それ以前の問題だろう。陰口など人としてするべき行いではない。
それ以前に、千聖は恐れていた。中学に入学してから初めて得た友人が離れてしまうのではないかと。未だ花音に出会っていない頃の千聖にとって、まともに友人と言える者など櫻華しかなかったのだから。
――本当に、それだけ?
千聖がそう自問するようになったのはそれから少し先のことであった。櫻華が千聖を少し苦手に思っていても決して交流を止める気がないと知った時の安心感は、ただの友人へのそれと言うにはあまりに過剰だった。
そう、まるで、自分よりももう少し年上の役者が演じている青春モノの登場人物のような。千聖の中でその解答が出るのは彼女の予想よりも早く、そして思いのほかしっくりときた。
元々子役として名を馳せた有名女優が、学校で出会ったただの男子生徒に恋をする――何とも聞き覚えのある文言、小説や映画の
だが現実は話のようにうまくいくものではない。千聖には捨てられないものがある。今まで積み上げてきた
幸い、千聖の演技は完璧だった。流石は若くして将来を期待されているだけあって、未だ育ち切っていないその感情を櫻華から隠すだけならば〝ただの友人〟という
結局は千聖は期待していたのだ。櫻華ならばいつかは気づいてくれるだろうと。何故なら彼は人の変化にすぐに気づくことができる人間だったから。尤も、その期待と櫻華は逆の方向に行ってしまったのだが。
敏感から鈍感へ。櫻華が周囲を省みずにたった独りで走り続けるようになってしまった原因は千聖には分からない。ただその頃には櫻華が抱える人間関係の一端を千聖は知っていて、心当たり程度ならばあったが。
そうして千聖と櫻華の関係性は何も変わらないまま、時は高等部1年まで過ぎる。それは櫻華にとっては何でもないことであり、千聖にとっては大きな意味を持つ言葉だった。
『昨日のライブの後、スカウトされたよ。多分、白鷺の所属事務所じゃないかな。……まぁ、すぐには決められないし、一旦断ったんだけどさ』
東京某所に建つライブハウス〝CiRCLE〟はその設立理念こそ『ガールズバンドを応援する』というものだが、嘗てこの街にあったSPACEというライブハウスと違って利用者を女性のみに限定している訳ではない。
普段は基本的に自宅である花屋の店先や自室でギターや歌の練習をしている櫻華だが、近隣への迷惑なども考えると本気で練習できる訳ではない。故に櫻華は店番を任されていない時はCiRCLEのスタジオを借りて練習したり、歌の収録をするのであった。
余談だが、幼い頃からギターと共に歌も続けてきた櫻華の歌の腕前はかなり高い。それは歌い手人口の多いネット界隈でもかなり高い地位を確立していることからも分かるだろう。今や櫻華の歌声は本業の歌手にも劣らない程であり、そのせいかあまり友人からカラオケに誘われなくなってしまっている。花咲川学園において、櫻華がさっくんであるのは有名な話だ。正直な所、所謂〝リアル割れ〟は時間の問題であろう。
スタジオに満ちる櫻華の歌声とギターの音色。練習しているのは〝さっくん〟ではなく〝駿河櫻華〟としてのオリジナル曲、それも新曲である。しかしその手は一切の迷いなく正確に譜面をなぞり、歌声は空間を震わせる。
さっくんとしての曲はともかく、櫻華が彼自身として歌っている曲はロック調のものが多い。それはひとえに彼の趣味だ。よく考えずに自分の裡にあるものを一気に吐き出していると、どうしてもそうなってしまう。
曲を最後まで弾き終え、櫻華が壁に掛けられた時計と確認すると、予約していた時間が終わる数分前であった。彼の感覚ではさして時間が経っていないような気がしていたのだが、夢中になっていると時間は思っている以上に速く進むものだ。流れる汗をタオルで拭い、櫻華は手早く片付けを済ませてスタジオを出る。
ガールズバンドパーティーの5グループの影響か、最近ではガールズバンドの数がかなり増え始めている。そのためCiRCLEの利用者数も少しずつ増えており、それに反比例するかのように肩身が狭くなった男性客は減っていった。今では櫻華以外に男性客を見つける方が難しい。いない訳ではないけれど。
これで櫻華が完全に無名であるのなら影のように息を潜めて出て行くこともできるのだが、櫻華は控えめに見積もってもこの周辺ではかなりの有名人である。その知名度はRoseliaと比しても見劣りすまい。
注がれる様々な視線を半ば無視するようにして潜り抜けて受付まで辿り着き、そこにいた店員――〝月島まりな〟に使用終了の旨を告げる櫻華。その櫻華に、まりながおずおずといった様子で言う。
「櫻華君、お客さん来てるよ」
「ハァ……
心底嫌そうな表情でそう返す櫻華にまりなは言葉を返さず、苦笑いを浮かべた。櫻華にとってはそれは言葉よりもなお雄弁に知りたくもなかった真実を彼に伝え、更に渋面を深くする。
まりなが言う客人とやらの正体を櫻華は知っていた。そもそもライブの後だけでなく練習の間にも櫻華を訪ねてくるような人間を櫻華はひとりしか知らない。自宅には訪ねてこないだけ節度は守っていると言えるかも知れないが。
CiRCLEを出てカフェスペースに視線を遣ると、櫻華のことを呼び出した人物は思いのほかすぐにも使った。レディースのスーツを着こなした、長身で長い黒髪の女性である。明らかに櫻華の存在に気づいているというのにあえて気づいていないふりをして煙草を取り出そうとするその女性に、櫻華は苦言を投げる。
「自分で俺を呼びだしておいて、平然と煙草を吸おうとしないで下さいよ、伊勢さん。受動喫煙って、知りません?」
「もちろん知っているとも。君ならきっとそう言うと思ってね。ついやってしまった」
そう男性的な口調で笑いつつ愛用の煙草をスーツの胸ポケットに仕舞う女性の名前は〝伊勢理央〟。櫻華の推測では年齢は
有能であるのならパスパレのデビュー時に起きたあのアクシデントを起こさなくても済んだのではと一度は思った櫻華だが、残念ながら理央がパスパレのマネージャーになったのはあの一件の後であり彼女にはどうにもならなかったのだと櫻華は千聖から聞かされていた。
嫌々ながらも櫻華は理央の正面に座り、ブラックコーヒーを注文する。そうしてすぐにウェイトレスが運んできたそれで渇いた喉を潤すと、口を開いた。
「で、今日は何で来たんですか? パスパレ、今日はバラエティーか何かの撮影だったんでしょう? 白鷺と丸山、今日は休みでしたし」
「それは先程終わったよ。私が来たのはただの気まぐれさ」
気まぐれでキミをまたスカウトに来た、理央が言いたいのはつまりそういうことなのだろう。1年程前、理央が初めて櫻華に声を掛けた時も、彼女曰くただの気まぐれだったらしい。その割に、理央はこの1年熱心に不定期で櫻華をスカウトに来ているのだが。
櫻華としては理央からの
櫻華がさっくんであると世間的に露見するのは時間の問題。仮に露見したとすれば、櫻華のスカウトに参入する事務所はより多くなるだろう。理央はせめてその前にせめてデビューするときは彼女らの事務所から、という契約だけでも取り付けたいのだろう。
「君が首を縦に振った暁には、面倒だが君の面倒も私が見よう。何、5人も6人もそう変わらない。安心したまえ、君を無能な同僚の食い物にさせたりはしない。悪い話ではないと思うが?」
「1年前から変わりませんね、その態度。……だから俺の答えも変わりません。というか、前から訊きたかったんですけどなんだって俺みたいな凡人をこんな熱心にスカウトするんです?」
「凡人だなんて、とんでもない! 君は紛れもない天才さ! 氷川とは少し違うが、それに届き得る、ね」
氷川日菜は文字通り万能の天才であり、駿河櫻華は氷川紗夜と同じく天才とは言えない才能を努力で磨く人間である。それが周囲の、ひいては本人の認識だ。だが理央はその認識に声高に否を叩き付ける。駿河櫻華は天才の類だ、と。
理央曰く、櫻華は努力の天才である。それは彩のように〝努力することに全力を注ぐことができる〟というものではなく、〝努力すればその分だけすぐに返ってくる〟という意味においてである。つまり、努力から実力への変換効率が限りなく十割に近い、或いはそれ以上なのだ。
例えば音感。櫻華は絶対音感こそ持たないが、非常に高性能な相対音感は持っている。それこそ絶対音感に限りなく近いレベルのものだ。他にもギターや歌、花の知識もそれに当て嵌る。
「氷川のような生まれついての天才は才能というリソースが初めから全ての方向に分配されているが、君はそうではない。君は努力という過程を経て自らの持つリソースを分配する。その効率が非常に良いんだ。そういう意味では、最初は凡人と変わらない。それどころか凡人以下の可能性もある後発型の天才と言えるだろう」
「そんなこと……」
「あるさ。現に君は努力だけで、音楽で人の心を掴む才能を開花させたじゃないか」
己の演奏で人の心を掴み、感情を伝播させる力。それは努力によって開花した力だが、結局のところは最初から櫻華の裡にあったものだと理央は言う。それだけではない。ギターや歌の実力もそれと同じだと。
その過程は余人から見れば努力家がその積み上げた努力によって少しずつ力をつけた結果に見えるだろう。だが理央はそうではなく、最初からそうあるべくしてあったものだと言う。
普通は褒められたのなら誰であれ少しは喜ぶものであろう。だが理央にその才を賞賛された櫻華の顔に喜色はなく、彼女の言葉をどう受け止めれば良いか分かっていないとでも言いたげな表情があった。
「努力を実力に変える効率は過ぎればそれだけで才能だ。君の持つ才能の大本はそれなんだよ。私はそこに注目した。孤高の歌姫風に言えば、頂点に狂い咲く可能性を見たんだ。……これが私が君に執着するワケだ。解ってくれたかな?」
「買い被りですよ、それは」
「君がそう言うのならそれでも良いさ。だが私はキミが明確な答えを出すまで何度でも来よう」
そう言い、理央は空になったコーヒーカップをソーサーに戻してその場から立ち去った。その立ち去った方向から匂ってくる独特な匂いは紫煙のものか。相変わらずよく煙草を吸う人だ、と櫻華が笑う。
理央の言葉を受けても、櫻華は不思議と後ろ向きな思考にはならなかった。ただ理央は正しくオトナで、櫻華は悲しくなる程年相応のコドモでしかない。ただそれだけであり、それ以上の意味はない。
ギターケースを手に席を立ち、カフェスペースから立ち去る。どうやら金は理央が払っていたらしく、そのまま帰路に着いた。そうして帰路に着いて少しして、背中に衝撃が奔る。見れば、そこにいたのは日菜であった。
「痛ぇよ、日菜。もうちょっと加減してくれ」
「あはは、ごめんごめん! さっくん、さっき理央ちゃんと話してたよね? 何話してたの?」
日菜に関係のある人間で理央という名前を持つ人物などひとりしかいない。それに気づいた途端、櫻華が苦笑いを浮かべる。何でもないよ、と。その返答に一瞬息を詰まらせ、日菜が呟く。
「ふぅん、そっか。……何でもないんだ」
そんな顔してないじゃん。その呟きは言葉となることなく、日菜の喉につっかえたままであった。